2008年02月14日

◆ 反利己的な遺伝子 1


 利己的遺伝子説における「遺伝子」とは、実は、遺伝子ではない。名前だけは「遺伝子」なので、誰もがそれを遺伝子のことだと思っているが、実はそれは遺伝子ではないのだ。
 また、「利己的」という言葉には、二重の意味が込められている。
 要するに、ドーキンスの言葉遣いは、おかしい。また、言葉遣いがおかしいせいで、概念や発想までがおかしくなってしまっている。

 ( ※ 本項は問題提起のみ。計4回のシリーズ。) ──

 まず、問題の核心を示そう。
 利己的遺伝子説では、こう言われる。
 「個体は遺伝子の乗り物だ」

 と。これについては、「比喩だ」というふうに説明されることが多い。しかしそれは、問題点をゴマ化しているだけにすぎない。実はそこには、重大な問題がひそんでいるのだが。

 わかりやすく言おう。
 「個体は遺伝子の乗り物だ」
 というのは、比喩だろう。つまり、「〜〜〜というふうに見える」というわけだ。
 なるほど、それはそうだろう。では、なぜ、そういうふうに見えるのか? そういう見かけがあるとしたら、見かけの底には、どんなものがひそんでいるのか?

 これはつまり、「その比喩はいったい何を意味しているのか?」ということだ。このことが問題となる。
 この問題に対して、「遺伝子淘汰を述べているだけだよ」というふうに済ませる人も多い。
 しかし、それは馬鹿げた説明だ。ドーキンスのなしたことには、何らかの業績がある。それは、ただの遺伝子淘汰だけでなく、もっと別の何かを成し遂げた業績だ。その何かゆえに、個体行動の説明もできるようになっている。実際、遺伝子淘汰の概念だけでは、個体行動の説明はできない。

 としたら、ドーキンスの説には、遺伝子淘汰の概念を越えた、何ものかがあるはずだ。そして、その何ものかが、
 「個体は遺伝子の乗り物だ」
 という比喩で示されている。では、その比喩は、いったい何を意味しているのか? もちろん、遺伝子淘汰のことだけではないが、それは何か?

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 (1) 利己的

 とりあえず、普通の解釈にしたがって、言葉を書き換えることにしよう。
 「個体は遺伝子の乗り物だ」
 ということは、言葉を書き換えると、次のようになる。
 「個体は遺伝子の増加に奉仕する」(そのために行動する)


 これが、比喩をはずした形の、利己的遺伝子説だ。たとえば、こうだ。
 「ミツバチの働きバチは、妹育てという個体行動をなす。その個体行動は、それをなす個体にとっては利益にならないが、それをなす個体の遺伝子にとっては利益になる。『遺伝子の増加』という利益に。だから個体は、『遺伝子の増加』という利益のために、妹育てという個体行動を取る」

 こういうふうにして、
 「個体は遺伝子の増加に奉仕する」(そのために行動する)
 ということが説明された。
 ( ※ なお、その理由は、ハミルトンやドーキンスによれば血縁度を高めることであり、本サイトによればハチの一刺しによってコロニー全体の生存を守ることである。利益の意味は違うが、ともあれ、個体行動の意味合いはだいたい同様である。)

 ──

 さて。こうして、
 「個体は遺伝子の増加に奉仕する」(そのために行動する)
 ということは説明された。そして、このことを、ドーキンスは「利己的」という言葉で表現した。では、なぜそれが「利己的」と呼ばれるのか?

 まず、次の前提があった。
 「遺伝子の利益とは、遺伝子の増加である」

 この前提の上で、次のように発想した。
  ・ 遺伝子(の利益)が個体(の利益)に優先する。
  ・ 遺伝子は、自己の増加(= 利益アップ)をめざす。

 
 この二つは、次のように説明される。
 (a) 遺伝子が個体を操作する。 ( 遺伝子 → 個体 )
 (b) 遺伝子が自己複製をする。 (∵ 自己複製 = 利益 )


 ──

 上の(a)(b) について、さらに説明しよう。

 (a) については、先に論じたとおりだ。少し修正すればいい。つまり、「遺伝子が個体を操作する」というのを、「遺伝子が個体に影響する」というふうに修正すればいい。
 ( ※ 二段階から三段階に直す。間に「本能」を挟む。)

 (b) については、特に修正する必要もない。つまり、「自己複製をすることゆえ、自己の利益を拡大しようとしている」(その意味で利己的だ)と見なせる。このまま受け入れていい。
 ( ※ 小進化については何ら問題ない。拡大解釈は駄目だが。)

 結局、「利己的」という言葉については、若干の注意点(修正点・範囲についての注意)はあるのだが、それにさえ注意すれば、話の根幹はさして問題ない。「利己的」という言葉については、問題はない。

 ──

 ただし、注意するべきことがある。「利己的」という言葉は、上記の(a)(b) のように、二通りの意味があるということだ。「影響」(≒ 操作)という意味、および、「自己複製」(≒ 増加)という意味。
 「利己的」という一語には、二通りの意味が込められている。そのせいで、概念が曖昧化している。このことから問題が生じる。(次項で説明する。)
 だから、とりあえずは、「利己的」という言葉には二重の意味が込められている、ということに留意しておこう。

( ※ なぜこの留意が必要か? 専門家の多くは、(b) ばかりに着目して、(a) に着目しないからだ。たとえば「ドーキンスの説は遺伝子淘汰を比喩で述べただけだ」と述べる。その解釈では、(a) を見落としている。すると、遺伝子の増減は説明できるが、個体行動を説明できなくなる。だからこそ、(b) だけでなく、(a) にも留意することが必要だ。(a) があるからこそ、ドーキンスの説は、動物行動学の学説となり得た。)

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  (2) 遺伝子

 次に、「遺伝子」という言葉について考えよう。「利己的な遺伝子」という用語のうち、「利己的」という言葉にはあまり問題がないが、「遺伝子」という言葉はどうだろうか?
 実は、「遺伝子」という言葉には、まったく問題がある。
 ドーキンスの言う「遺伝子」というものは、われわれが普通に「遺伝子」と呼ぶものとは、まったく異なるのだ。つまり、彼の言う遺伝子とは、遺伝子ではない。彼は、遺伝子ではないものを、勝手に「遺伝子」と呼んでしまっている。

 ──

 この問題が典型的に現れるのは、「自分の遺伝子」という概念を使うときだ。
 一般に、「個体は自分の遺伝子を増やすために行動する」と説明されるが、そもそも、「自分の遺伝子」とは、いったい何なのか?

 たとえば、あなたが何らかの繁殖活動(たとえば浮気?)をするとき、あなたが増やそうとしている「自分の遺伝子」とは、いったい何なのか?
 また、ミツバチが妹育てをするときの「自分の遺伝子」とは、いったい何なのか? 
( ※ 「血縁度」という概念で説明されることもある。たとえば、働きバチにとって、子は「自分の遺伝子」を 50%もつだけだが、妹は「自分の遺伝子」を 75%もつ、というふうに。)

 とにかく、ここで言う「自分の遺伝子」とは、いったい何のことか? よく考えてみよう。

 第1に、原子・分子レベルで考えよう。
 自分の遺伝子と、子や妹の遺伝子とは、同一の原子・分子をもっているわけではない。たとえば、アイソトープでたがいに区別できる。だからここでは、「同じ遺伝子」といっても、「完全に同一の遺伝子」ではない。あくまで「同種の遺伝子」であるにすぎない。

 第2に、「同種」ということを考えよう。
 「同種の遺伝子」ということであれば、「同種の遺伝子をもつ個体」は、他にいくらでもいる。たとえば、人間では、「血液型がA型である」というとき、「同じA型の遺伝子をもつ個体」は、赤の他人を探しても、他にいくらでもいる。だから親は、A型遺伝子を増やしたいのであれば、ことさら子のA型遺伝子だけを増やそうとする必要はないのだ。他の個体のA型遺伝子を増やしても、同じことである。

 ──

 すぐ前の文章に対しては、専門家あたりからさっそく文句が来そうだ。
 「それはドーキンスへの反論にはなっていない」
 というふうに。そこで、文句が来る前に、話を先に進めよう。

 上記の説明は、ドーキンスへの反論ではない。「ドーキンスの説が間違っている」というふうに語ろうとしているのではない。では、何を語ろうとしているのか? 「ドーキンスの語り方が曖昧だ」と語ろうとしている。ドーキンスは、間違っているわけではないのだが、語り方が曖昧なのだ。

 では、曖昧さをなくせば? 文句を言われないように、専門家の解釈に従って曖昧さをなくせば、ドーキンスの言葉は次のように修正される。
 「ドーキンスの言う『遺伝子』というのは、個々の遺伝子のことではなくて、遺伝子淘汰の統計項目としての『遺伝子』のことである。たとえば、遺伝子の増減を考えるとき、『A型遺伝子』という統計項目を考える。その統計項目のことだ」


 これをわかりやすく言い換えれば、次のようになる。
 「ドーキンスの言う『遺伝子』とは、個々の遺伝子のことではなくて、『遺伝子全体』つまり『遺伝子集合』のことである」

 
 たとえば、A型遺伝子で言えば、個々の個体に備わっているA型遺伝子のことではなく、種全体における遺伝子集合としてのA型遺伝子のことだ。(こういう集団ならば、統計的に増減を調べる対象となる。)

 というわけで、ドーキンスの言う「遺伝子」とは、われわれが普通に使う意味の「遺伝子」とは違っており、集団遺伝学的な意味での「(同種の)遺伝子全体」つまり「遺伝子集合」のことなのだ。
 そして、このことは、いちいち専門家の言葉を借りるまでもない。実を言うと、ドーキンス自身が、自分の著書でそのことを強調している。
 「私の言う遺伝子とは、個々の遺伝子のことではなくて、遺伝子全体のことですよ。それは、個体とともに滅びる一回限りのものではなくて、個体全体のなかで生き延びる永遠不滅のものですよ」
 というふうに。(この通りの言葉ではないが、ほぼ同趣旨。)

 ──

 ここまでは、実はよく知られた話である。問題は、このあとだ。
 ドーキンスの言う「遺伝子」は、個々の遺伝子ではなくて、「遺伝子集合」だ。そして、そうだとすると、困ったことになる。

 第1に、「自分の遺伝子」というのは、実は、「自分のもの」ではない。たとえば、「A型遺伝子」というのは、「自分のもの」ではない。(自分もまたその一員として含まれるような)「全体のもの」のことだ。
 ここでは、全体のものについて、「自分の」という言葉を当てはめている。これはおかしい。(比喩的に言えば、日本人全体の国有財産を「おれのもの」と称するようなものだ。たまたま自分のものと同種であるからといって、そんな呼び方をするのはおかしい。)

 第2に、(働きバチの)突然変異について言えば、「自分の」と言えるかどうかも怪しい。たとえば、働きバチ W に突然変異が生じたとしよう。その突然変異の遺伝子は、働きバチ W の固有のものだ。もし働きバチ W が子を産めば、その突然変異は自分の子に伝わるから、その遺伝子は「自分のもの」と言える。しかし、もし働きバチ W が妹を育てれば、その突然変異の遺伝子は妹には伝わらない。ここでは、自分の遺伝子は伝わらず、自分の母親の遺伝子が伝わるだけだ。とすれば、働きバチが増やそうとしているのは、「自分の遺伝子」ではなく、「自分の母親の遺伝子」であったことになる。
 つまりここでは、「自分の」と呼びながら、「自分の」という属性が全くないことになる。妹にある遺伝子は、本当は他者のもの(母親のもの)であるのだが、たまたま自分も同じ遺伝子をもつというだけで、それを「自分のもの」と呼んでいることになる。

 ──

 こうして、「自分の遺伝子」という概念は、あやふやになる。
 しかも、「自分の遺伝子」という概念があやふやになると、その先のこともあやふやになる。
 「自分の遺伝子を増やすため」
 という行動は、いったい、何を意味するのか? 働きバチはたしかに、妹育てという行動をしているのだが、それはどうも「自分の遺伝子」を増やすためではなくて、「種全体における同種の遺伝子全体」(同種の遺伝子集合)を増やすためであるらしい。とすると、ここでは、
 「自分の遺伝子を増やすため」
 という表現がおかしいことになる。少なくとも、それは、「利己的」とは見なしがたい。なぜなら、「自分の遺伝子」と呼ばれたものは、「自分のもの」ではないからだ。

 比喩的に説明しよう。
 もしあなたが、「日本人全体の富を増やそう」として、何らかの奉仕活動をしたら、それは、「自分のもの」を増やそうとする行動ではなくて、「全体のもの」を増やそうとする行動だ。それは「利己的」ではない。
 遺伝子でも同様だ。自分の遺伝子と同種の遺伝子全体を増やそうとする行動は、その個体にとって「利己的」とは言えない。たとえば、誰かが浮気をして「自分の遺伝子」を増やそうとしても、そこで増やそうとしているのは、「自分の遺伝子」ではなくて、「自分の遺伝子と同じ種類の遺伝子集合」であるにすぎない。
 なるほど、そのことで、その遺伝子集合は増えるだろう。その意味で、ドーキンスの利己的遺伝子説そのものは、間違ったことを言っていない。彼の学説は、たしかに成立する。そのことを否定するつもりはない。
 しかし、なぜ、ちっとも利己的ではないことを、わざわざ「利己的」と呼ぶのか? 言葉の使い方がおかしいのではないか? 

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 以上、本項では、疑問を呈示した。
 「言葉の使い方がおかしいぞ」
 というふうに。つまり、こうだ。
 「ドーキンスの言う『遺伝子』というものは、普通に言う『遺伝子』のことではなくて、『遺伝子集合』のことである。そして、その意味で解釈すると、『利己的』というのは、『自分のため』というよりは『全体のため』である。それは、普通に言う『利己的』とは意味が逆である」
 と。(「全体に奉仕すること」を「利己的」と呼ぶ、という、おかしなことになっている。「利己的な」ことを「利己的」と呼んでいるわけだ。)

 本項では、ドーキンスの利己的遺伝子説の論旨を批判しているのではない。「ドーキンスの言葉遣いがおかしいぞ」と問題提起しているだけだ。
 本項は、問題提起だ。この問題に対する解決編は、次項で与えられる。つまり、真相は、次項で示される。

 ( 次項に続く。)



 ( ※ 本項は、ドーキンスの悪口を言うために書いているのではない。次項を読むとわかるだろうが、本項の問題提起をきっかけとして、次項では重要な真実に到達する。次項で示される真実こそが、大切なことだ。)

 ( ※ 本項に対しては、反論が予想されるが、反論は次項を読んでからにしてください。どうせその反論は想定済みなので。)
posted by 管理人 at 20:37| Comment(1) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本項ではドーキンスを批判していない。ドーキンスを、批判しているというよりは、踏み台として利用させてもらった。
 これは、どの学問分野でも、起こることだ。先人の業績に基づいて、それを踏み台として、その上に新たな業績を構築する。……どの分野でも、同じことがなされている。
Posted by 管理人 at 2008年02月14日 21:34
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