2008年02月12日

◆ 増加の意味

 生物の目的は、生きること(生存)だ。(前出 〜 )
 では、増加には、何の意味もないのだろうか? いや、意味はある。ただし、その重要性は低い。
 つまり、「増加」を重視する従来の学説は、間違っているわけではないのだが、たいして重要なことを述べていないのだ。
( ※ 小進化には当てはまるが、大進化には当てはまらないので。) ──

 ここまで述べたことを振り返ろう。まずは、次の結論があった。
 「生物の目的は、生きることだ」

 一方、従来の発想では、こうだった。
 「生物の本質は、自己複製だ」
 「生物の目的は、増加だ」
 この発想のもとで、次のこと(自然淘汰説)が結論された。
 「増加したがるものがあれば、自然淘汰によって、有利なものだけが生き残る。かくて、進化が起こる」

 ──

 ここで問題が起こる。
 本サイトの見解では、「生きること」が最重要のものと見なされる。同時に、「増加」は最重要のものとは見なされなくなる。「増加」は生命の目的ではないものと見なされる。では、「増加」は、何の意味もないのか?
 いや、そんなことはない。「増加」は、「生きること」に比べれば小さな意味しかないが、三番目ぐらいの重要性はある。
( ※ この件は → 前述

 では、「生存」と「増加」とは、どのような関係にあるのか? その根源を探ろう。

 ( ※ 以上は、問題提起。以下は、解答。)

 ────────────────────────

 前に、「遺伝子と生命子」という話題を述べた。 ( → 該当項目
 そこで述べたように、遺伝子が決めるものは、ただの遺伝形質だけでなく、生命形質もある。肌の色や皮膚の色といったことだけでなく、手足や内臓の形成といったことがある。
 そして、生命形質に関係するのが、「生きる」ということだ。
 では、遺伝形質に関係するのは? 実は、それが「増加する」ということだ。

 ──

 具体的な例で言おう。
 メラニン色素の遺伝子の量を決める遺伝子がある。この遺伝子の違いにより、肌の色が濃くなったり薄くなったりする。そういう形質の違いが、環境において、有利または不利という度合いとなり、個体数または遺伝子数の増減となって現れる。
 一方、手の遺伝子がある。これがあれば、生きることができる。これがなければ、生きることができない。(通常、流産する。)

 まとめると、次の通り。
  ・ 遺伝形質の遺伝子 …… 増減に影響する。
  ・ 生命形質の遺伝子 …… 生死に影響する。

 ──

 すぐ上で述べた対比は、どちらのことも成立する。一方が正しくて他方が間違っている、ということはない。ただし、重要性が異なる。
 最重要なのは、生命形質の遺伝子だ。「生命の本質は何か?」ということを考えるときには、こちらだけを考えていればいい。増減のことは考えなくていいし、遺伝形質についても考えなくていい。なぜなら、有利不利はあっても、生死には影響しないからだ。

 たとえば、あなたを考えよう。あなたにとって大切なのは、何か? それは、手や足があって、心臓が動いて、呼吸して、生きているということだ。これこそが決定的に重要なことだ。
 一方、あなたの顔がハンサムでないとか、頭が秀才ではないとか、体力が一流選手並みではないとか、身長が 180センチに達していないとか、体が肥満体だとか、メタボ気味だとか、そういうことは、二の次である。たしかにあなたには人類において最優秀の形質が備わっているわけではないが、だからといって、あなたが淘汰されるべき存在だとは言えない。
( ※ ま、自然淘汰主義の人ならば、最優秀ではないあなたに向かって、「おまえなんか、さっさと淘汰されてしまえ。その方が人類のためだ」と言いそうだが。)
 ともあれ、私の見解は「生きていることが大切だ」ということだ。一方、個体ごとの優劣の差は、あまり重要ではないと考える。

 さて。ここで問題だ。
 遺伝子の増減をもたらすような形質の差が、あまり重要ではないのだとしたら、進化というものは、あまり重要ではないのか? いや、そんなことはない。
 としたら、それは、どういうことか? わけがわからなくなってきそうだが。

 ──
 
 実は、ここには、「進化」という概念の混同が見られる。正しくは、「進化」というものを、「小進化」と「大進化」の2タイプに区別するべきなのだ。

 従来の発想では、こうだった。
 「遺伝子の増減は、小進化をもたらす。小進化の蓄積が、大進化をもたらす。ゆえに、遺伝子の増減が、大進化をもたらす」

 ここでは、「小進化」と「大進化」は区別されない。

 しかし私の発想では、「小進化」と「大進化」の2タイプに区別される。次のように。
 「遺伝子の増減は、小進化をもたらす。しかし、小進化の蓄積は、大進化をもたらさない。ゆえに、遺伝子の増減は、大進化とは関係ない


 私の発想では、次のように対比的に示される。
  ・ 小進化 …… 遺伝子の増減によって起こる
  ・ 大進化 …… まったく別の原理によって起こる。

 これらについて説明しよう。

 小進化は、遺伝子の増減によって起こる。
 たとえば、肌の色がどうだとか、足が長いとか、爪が長いとか、個体の優劣に関わる形質差だ。これは、個体の生死には関わらない形質差である。ここでは「優勝劣敗」という自然淘汰が働いて、遺伝子の増減が起こる。すると、小進化が起こる。

 大進化は、まったく別の原理によって起こる。(それがどんな原理かはここでは記さない。膨大な分量を要するので。)
 たとえば、クロマニョン人特有の脳構造だ。ここで、そのための遺伝子が働かなくなったら、旧種であるネアンデルタール人に戻るわけではなく(ネアンデルタール人の遺伝子を持っているわけではないのだから当然だ)、脳構造そのものを失うので、生きることができなくなる。これは、個体の生死に関わる形質差である。これがなければ生きられないのだから、個体の優劣以前の問題となる。当然、ここでは「優勝劣敗」という自然淘汰が働かない。(生きていられないのだから、劣者となることすらできない。)

 ──

 以上のすべてをまとめると、次の対比がある。
  ・ 増減 ── 優劣 ── 遺伝形質 …… 小進化
  ・ 存否 ── 生死 ── 生命形質 …… 大進化


 遺伝子の「増減」は、個体の「優劣」によって決まる。その優劣は「遺伝形質」の優劣だ。そして結果的に「小進化」が起こる。(これを説明するのが「自然淘汰説」だ。)
 
 遺伝子の「存否」は、個体の「生死」によって決まる。その生死は「生命形質」の有無だ。それは「大進化」からもたらされる。(これを説明する原理はまだ示されていない。)

 以上の説明からわかるように、進化と形質との関係は、順序が逆である。
 小進化の場合は、先に突然変異があって、その突然変異が、自然淘汰によって増えていくことで、集団全体が変化していく。この過程が小進化だ。
 大進化の場合は、先に大進化がある。そのあと、自然淘汰は起こらない。たとえば、手のある個体と手のない個体が競争することはない。脳のある人間と脳のない人間が競争することはない。同じ種である限り、手の基本構造も脳の基本構造もまったく同じである。競争はまったく起こらないのだ。 (競争があるとしたら、手や脳における「ちょっとした違い」における競争だけであるが、それは、大進化には関係なく、小進化に関係するだけだ。)

 具体的な例で言おう。
 人間のなかには、頭のいい人間もいるし、頭の悪い人間もいる。体力のある人間もいるし、体力のない人間もいる。そういう人間同士の違いにより、遺伝子の増減は起こるだろう。ただし、それで起こる変化は、あくまで小進化に留まる。人間という種がまったく別の種になることはない。遺伝子の増減によって起こる違いは、あくまで個体変異か亜種レベルの違いに留まる。(実際、クロマニョン人は、20万年を経ても当初からほとんど違っていない。亜種レベルの違いしか生じていない。)
 一方、クロマニョン人の祖先種から、クロマニョン人への進化が起こったとき、ここでは大進化が起こった。それは、小進化とはまったく別の原理による進化だった。(詳しい説明は省略する。)
( ※ なお、クロマニョン人の祖先種というのは、ネアンデルタール人と言ってもいいのだが、若干の違いがある。話が面倒になるので、ここでは細かいことは省略する。)

 クロマニョン人の祖先種から、クロマニョン人へという進化は、「小進化の蓄積」ではない。つまり、「一つ一つの遺伝子が一つずつ優れた遺伝子に交替していった」というタイプの進化ではない。「たくさんの遺伝子を一挙に交替した」というタイプの進化だ。
( ※ トランプの 51 で言えば、カードを一枚ずつ有利なものに交替するタイプではなくて、カードを一挙に全取っ替えするタイプだ。……この二つのタイプは、まったく別のことである。)

 大進化というものは、一つまた一つというふうに遺伝子を変化させていく過程ではない。たくさんの遺伝子を一挙に変化させる過程である。そこには「途中段階」というものはない。だから「途中段階の中間種との競争」というものもない。
( ※ トランプの 51 で言えば、カードを一挙に全取っ替えするとき、それ以前とそれ以後の途中段階というものはない。)

 ──

 先の対比を再掲しよう。
  ・ 増減 ── 優劣 ── 遺伝形質 …… 小進化
  ・ 存否 ── 生死 ── 生命形質 …… 大進化


 遺伝子の「増減」は、「小進化」についてのみ当てはまる。それは、無意味なことではないが、あまり重要なことではない。もちろん、個体間の「優劣」というのも、あまり重要なことではない。
 たとえば、あなたの脳や体が人類で最高ではないとしても、そんなことはちっとも重要なことではない。また、あなたが病気だとしても、そのことはあなたの存在価値には影響しない。(せいぜい小進化に影響するだけだ。)

 遺伝子の「存否」(健全な存否)は、「大進化」と関連する。それは重要なことだ。なぜなら、それはあなたの生存そのものに影響するからだ。あなたの脳や体が優れているかどうかではなく、あなたの脳や体が健全に存在すること自体に影響するからだ。

 たとえば、手を形成する遺伝子がたくさんある。
 そのうちのあまり重要ではない遺伝子の塩基が一つだけ欠落しているとしたら、手は正常に形成されずに、ほんのちょっと短くなっていたかもしれない。その場合、個体は少し不利になるが、だからといって、個体の存在価値には影響しない。これは小進化のレベルの変異だ。
 一方、重要な遺伝子の基幹的な部分が変異していたら(たとえば魚類のヒレの遺伝子に置き換わってしまったら)、手の形成そのものが根源的に不可能になる。その場合、人間の体にヒレが備わるのではなく、何も備わらないで(または奇形の肉界が備わって)、不完全な奇形的な個体となって、流産する。(つまり、誕生できない。)

 ──

 結論を言おう。
 個体の優劣に関するような形質差をもたらす遺伝子は、優劣ゆえに増減がある。ただしそれは、小進化レベルの形質差に留まる。
 一方、大進化レベルの形質差もある。そのための遺伝子は、優劣ではなく生死の形で影響する。不完全なものは、「劣る」のではなく「もともと誕生しない」となる。したがって、増減も起こらない。

 遺伝子には、遺伝子としての性質もあり、生命子としての性質もある。
 遺伝子としての性質は、遺伝形質という、どうでもいい形質に影響する。そこでは「増減」もあるし、「自然淘汰」もある。
 生命子としての性質は、生命形質という、絶対的に重要な形質に影響する。そこでは「増減」はないし、「自然淘汰」もない。(生死はある。)

 「優勝劣敗によって増減が起こる」という「自然淘汰説」は、間違いではないのだが、あくまで「遺伝形質」や「小進化」についてのみ成立する概念だ。それは重要度が低い。
 一方、「生命形質」や「大進化」について成立するのは、「自然淘汰」とはまったく別の原理である。それを「自然淘汰」という原理(小進化のための原理)で説明すると、トンチンカンなことになる。

 そして、そのトンチンカンな説の例が、これまでさんざん批判してきた概念だ。すなわち、
 「生命の本質は自己複製だ」
 「生命の目的は増加することだ」
 というような説だ。ここからは、次の結論が出る。
 「生きていることよりも増加の方が大事だ」
 「質の向上よりも数の増加の方が大事だ」
 ここから、次の結論が出る。
 「人間よりも細菌の方が自己複製能力が高いので、細菌の方がすばらしい」
 こういうトンチンカンな結論を避けるために、本項で述べた二通りのタイプで区別することが必要となる。
( ※ 従来の発想は、この区別がない。つまり、小進化と大進化を原理的に区別しない。そこからおかしな結論が出る。)

 ──

 まとめ。
 「生物の目的は生きることだ」
 という前出の結論は変わらない。ただし、
 「生物の目的は増加だ」
 という俗説がまったく間違っているわけではない。それは、どうでもいい形質(遺伝形質)についてなら成立するし、そのことから小進化を説明することもできる。
 ただし、それだけだ。その重要度は低い。重要な形質(生命形質)については、「生物の目的は増加だ」という俗説は成立しない。(大進化の形質については、小進化の理論では説明できない。)
 その意味で、「生物の目的は生きることだ」という、前述の話は特に変わらない。ただ、本項では、副次的な事柄にもいくらか言及した。




 [ 付記1 ]
 本項に基づいて、自然淘汰説を評価すると、こうなる。
 「自然淘汰説とは、小進化を説明するための理論である。すなわち、種というものをあらかじめ固定した上で、種のなかの遺伝子の変動を、『優勝劣敗』という原理で説明したものである」
 たとえば、ウサギという種を固定した上で、そのなかで、色素をもつ個体群や色素をもたない(アルビノである)個体群を比較する。
 この発想では、種というものはあらかじめ固定されている。当然ながら、種そのものを変える変化(大進化)については言及されない。あくまで種のなかの変化(小進化)のみに言及する。

 [ 付記2 ]
 本項に基づいて、利己的遺伝子説を評価しよう。
 利己的遺伝子説は、個体行動を遺伝子淘汰の概念で説明する。これは、「自然淘汰」という発想に基づいて、小進化の枠組みで個体行動を説明したものだ。
 このこと自体は、別に間違っていない。というのは、個体行動というものは、小進化レベルのものであることが多いからだ。
 個体行動が、小進化レベルのものである限り、小進化の理論で説明しても、まったく問題はない。個体行動に関する限り、利己的遺伝子説の立場は間違っていない。
 実際、個体行動というものは、それをやろうがやるまいが、個体の生死には関係しないのが普通だ。手の有無ならば生死(流産)に関係するが、妹育ての有無は自己の生死に関係しない。その意味で、個体行動というものは、小進化レベルのものだ。
 動物行動学の分野では、小進化の概念で片付くことが多いので、ドーキンスの利己的遺伝子説は、かなり有効である。
( ※ ただし、小進化の話で成功したからといって、「生物の目的は増加だ」とまで話を拡張すると、トンチンカンになる。細かな遺伝形質に当てはまるだけの理論を、生命形質にまで当てはめようとするのは、自惚れすぎ。調子に乗って、勇み足。)

 [ 付記3 ]
 有性生物でも、下等な有性生物だと、生活環の一部において、無性生殖をなすことがある。(イソギンチャクなど。他にもいろいろある。詳しくは生物学の情報を参照。)
 ではなぜ、有性生物が無性生殖をなすことがあるのか? これはなかなか興味深い話題となるだろう。
 私の(あやふやな)推察を言えば、次の通り。
 ここでは「数を増やすには無性生殖の方が有利だ」という原理が、まさしく成立していることになる。たしかに数を増やすのであれば、精子と卵子を別々につくって混合するよりは、最初から精子と卵子とが結合した形のものをばらまいた方が、ずっと効率的である。
 そういうわけで、人間もまた、「数の増加」が目的であるのならば、生活環の一部として、無性生殖をなすべきだろう。(ドーキンスならばそう主張するかもしれない。)
 ただし、そもそもの話、「数の増加」が目的であるのは、下等生物に限られる。下等生物は、生存率がきわめて低いから、数を増やす必要があるだけだ。人間ならば、その必要はない。十分に生きられる能力をもつ個体を少数産むだけで、十分だ。
 ここでは、「生物の目的は、数を増やすことではなく、系統の存続だ」ということがある。この原理に従えば、人間が無性生殖をしないのは当然だ、という結論になる。(無性生殖をして、やたらと数を増やすとしたら、赤ん坊の大きさは非常に小さくなる。そういう難点がある。)
 有性生物が無性生殖をなすことはあるが、あくまで下等な有性生物に限られる。それは当然のことなのだろう。


 [ 付記4 ]
 「自己複製」や「増加」について、医学的な話は、前々項の「補足」で示した。(やや専門的な話。)
 → 性の誕生(半生物を越えて)[ 補足 ]




 [ 余談 ]

 本項を読んで、次の批判が出るだろう。
 「大進化の原理とは、何なんだ? ほのめかすだけで、ちっとも説明していないじゃないか。それを示さない限り、理屈として完結していないぞ」
 それはごもっとも。まったくその通りです。
 ただし、「大進化の原理とは何か」を説明するとなると、多大な分量を要するので、ここでは書ききれない。後日まで、待ってください。

 「それを書かなくちゃ、理屈にならないぞ」
 という批判については、その批判を甘受します。本項は、理屈にはなっていません。ただの「予告編」です。やがて登場する「大進化の理論」の予告編です。
 ただ、その予告編を知ることで、これまでに述べた「生命とは何か」という問題についても、見通しがよくなります。そのことが、本項の意図です。ただそれだけが。
( ※ 別に何かを論理的・学術的に主張したいわけではありません。あくまで予告編または案内地図として読んでください。)

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 【 予告 】
 「それでは正解は何か?」
 というと、その解答は、次の箇所(など)で記されます。
  → ミツバチの教訓 2 (生物の原理)
  → ミツバチの教訓 5 (生物の目的)

 ( ※ ただし、いきなりそこに飛ぶと、途中の話がはしょられてしまうので、なるべく、順々に読んでください。また、この項目で完結するわけではなく、そのあとにも延々と続きがあります。)
 


 【 関連項目 】

 後日の項目で、正解を書きました。
  → 数の増加(生命の本質)
posted by 管理人 at 20:19 | Comment(1) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
> 妹育ての有無は自己の生死に関係しない。

 という点([ 付記2 ])について補足しておこう。
 これは、一見、間違いのように思えるかもしれない。「妹育てをしないと、スズメバチに襲撃されて、全滅する」というふうに。(前に論じたことからは、そういう結論が得られる。)

 ただし、それは、ミツバチの集団全体における話だ。一匹ずつのミツバチについて言えば、妹育てをしない個体がいても、別に、その個体が死ぬわけじゃない。実際、そのような「怠け者のミツバチ」というものが少数ながら存在することが観察されている。

 ──

 小進化の形質については「どうでもいい」と述べたが、これは文字通りの意味で「まったくどうでもいい」というわけではない。ミツバチの妹育ての形質も「どうでもいい」とは言えない。また、白人の白い肌や、黒人の黒い肌も、必然的な理由があるのであって、「どうでもいい」というわけではない。
 本項でいう意味の「どうでもいい」というのは、「致命的ではない」という程度の意味だ。たとえば、黒人は寒帯に行っても生きることはできる。白人は熱帯に行っても生きることはできる。そういう意味で、肌の色は「どうでもいい」ことだ。ただし、集団レベルで見ると、ある程度の必然性はある。そのことまで否定しているわけではない。
 「どうでもいい」というのは、「致命的ではない」というぐらいの意味であって、「何の効用もないし必然性もないほど任意だ」という意味ではない。

──

 以上、揚げ足取りをしたがる人向けに、注釈しておいた。普通の人は、こんなことまでいちいち気にしないでよい。話の本筋だけを理解すればよく、「話の当てはまらない例外」というのをあえて探す必要はない。……ま、世の中には、そういう無駄なことをやりたがり人もいるのだが。
 肝心の点を見失って、「どうでもいいこと」ばかりにとらわれる人というのは、たしかにいる。
Posted by 管理人 at 2008年02月12日 22:57
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