有性生物と多細胞生物は、どちらが先だったか? この問題を考えると、生物としての本質がわかってくる。
複雑な組織をもつ個体としての多細胞生物。そこにこそ生物の本質があるのだ。とすれば、単細胞の無性生物は、「生物」よりも「半生物」と言える。 ──
すぐ上に述べたことは、本項全体の要旨である。
見通しをよくするために、もう少し詳しく示そう。列挙する形では、こうなる。
《 問題 》 有性生物と多細胞生物は、どちらが先か?
《 解答 》 有性生物が先である。(真の)多細胞生物はそのあとだ。
《 発展 》 (真の)多細胞生物こそ、生物らしい生物である。
《 結論 》 単細胞生物は、生物らしさがなく、半生物と言える。
最後の結論からは、「単細胞生物は、生物ではない」というふうになる。これは、従来の見解と矛盾するように見える。ただし、正確に言えば、「生物」という言葉が定義し直されているだけだ。
従来は、単細胞生物こそ「生物らしい生物」と見なされてきた。
本項では、単細胞生物は「生物らしい生物」と見なされず、「生物になりかけている途中段階のもの」というふうに見なされる。そして新たに「半生物」という用語で定義される。
すると、最終的には、次のことが言える。
「生物の本質は、半生物でないことにある」
以上が話の流れだ。特に覚えておく必要はないが、これを�の隅に置いておいて、以後の話を読んでほしい。
──────────────────────
先に述べたように、生物の歴史で最も重要なのは、無性生物と有性生物の境界である。( → 有性生物と無性生物 )
無性生物と有性生物の境界では、性が誕生した。ここで、一つの疑問が浮かぶ。
「性の誕生は、いつだったのか?」
その解答は、おおまかにはわかっている。カンブリア爆発のあった時期よりも少し前のころだ。(約6億年前。この時期には大量の有性生物が誕生した。)
さて。もう一つの疑問もある。
「多細胞生物の誕生は、いつだったのか?」
これも、おおまかにはわかっている。約 10億年前だ。
( → Wikipedia「多細胞生物] )
ここで、あらためて問題を考え直そう。
「性の誕生と、多細胞生物の誕生は、どちらが先だったのか? その前後関係は、本質的にはどういう意味があるのか?」
この問題を、化石的でなく論理的に考えてみたい。
──
まず、問題はこうだ。
「性の誕生と、多細胞生物の誕生は、どちらが先だったのか?」
解答は、二通り考えられる。次のように。
・ 性の誕生が先だ (有性生物 → 多細胞生物)
・ 性の誕生が後だ (多細胞生物 → 有性生物)
(i) 性の誕生が先だ
「有性生物 → 多細胞生物」という順を考える。これは別に問題ない。
まずは単細胞の無性生物があり、次に単細胞の有性生物が登場する。たぶん「接合」の延長で「性」ができたのだろう。いったん「性」ができれば、減数分裂や生殖細胞を通じて、「多細胞生物」としての個体ができるだろう。これは不思議でも何でもない。今でも有性生物に普通に見られることだ。
(ii) 性の誕生が後だ
「多細胞生物 → 有性生物」という順を考える。これは問題がある。というのは、無性生物は、(真の)「多細胞生物」として、複雑な個体組織をつくることはできないからだ。
無性生殖をする「多細胞生物」というのは、あることはあるが、ごく限られたものだ。たとえば、細胞が糸状につながったものがある(藍藻など)。また、単細胞生物が群体状に集積したものもある(ボルボックスなど)。
これらのものは、幾何学的に形状が著しく制約されている。それは、
「細胞分裂が可能な形状」
ということだ。このことに注意しよう。(以下で説明する。)
──
無性生殖の生物は、細胞分裂の形で増殖する。その場合、一つのものが二つに分かれる。次のように。
■
↓
■ ■
しかし、このような増殖が可能な形状は、限られる。
まず、糸状の形ならば、可能だ。一本の糸が二本の糸になればいいからだ。(DNAの分裂と同様。)
また、群体状のものも可能だ。わかりやすく言うと、肝臓がどんどん細胞分裂して、大きな肝臓になるようなものだ。
ただし、この二通り以外の形状では、細胞分裂の形で増えることはできない。幾何学的に不可能なのだ。
たとえば、人間がいきなり二つの人間に分裂する、ということはありえない。(シャム双生児のようなものだ。後述の[ 補足4 ]を参照。)
もっと単純な形で示そう。先の ■ の図にならって、次のことは起こるだろうか?
■▲●
↓
■▲● ■▲●
もちろん、これは起こらない。なぜなら、真ん中の ▲ は、両側の ■ と ● に挟まれていて、その外に出ることができないからだ。
( ※ なお、上下方向には、別の細胞が糸状につながっているので、上下方向にも動けない。)
同様にして、普通の生物(たとえば人間)もまた、一つのものが二つに増殖することはない。(仮に DNA のように、半分に裂けてから、Y 状になって増殖するとしたら、半分に裂けたところで、人間は死んでしまう。頭の方が Y 状に裂けた人間を想像してみてください。気持ち悪いけど。)
というわけで、多細胞生物は、単細胞生物のように、一つの個体が二つに増殖することはありえないのだ。
──
以上のことから、こう結論できる。
「無性生物の多細胞生物は、糸状または群体状に限られる」
これを裏返して言えば、次のようになる。
「複雑な組織をもつ多細胞生物であるためには、(無性生物でなく)有性生物であることが必要だ」
これはとても重要なことだ。
無性生物である限り、(多細胞生物といっても)名ばかりの多細胞生物であるにすぎない。それは単に「単細胞生物がつながっている」というだけのものだ。多細胞生物というよりは、「くっついた単細胞生物たち」とでも言うべきものだ。
一方、有性生殖の場合は、根本的に異なる。有性生殖では、もはや無性生物の制約がない。空間内において二つに分裂する必要はないのだから、(一応)どのような形状にでもなれる。そしてまた、細胞が分化して特定の組織を形成する、ということも可能になる。
そして、このような多細胞生物こそ、(群体でなく)1個の「個体」となれるので、「生物らしい生物」と呼べるだろう。これは「真の多細胞生物」とも言える。
──
ここで、話が逸れるが、有性生殖の特徴について述べておこう。
有性生殖の特徴は、(細胞分裂ではなく)「減数分裂」という形で生殖がなされることだ。この件は、簡単には説明できないので、高校の生物教科書を読んで、しっかり理解してほしい。
有性生殖では、受精卵から個体が形成されていく。その個体発生の途中で分化もなされる。当然ながら、無性生殖の場合のような制約はない。糸状である必要もなく、群体状である必要もない。
有性生殖では、オスとメスの区別がある。つまり生殖細胞に、精子と卵子の区別がある。
卵子は、卵細胞を持っていて、ここから個体発生が起こる。精子は、卵細胞を持たず、ただのDNAだけのようなものだ。(ま、泳ぐための鞭毛などはあるが、その程度だ。)……こうして、オスとメスの非対称性が生じる。
さて。単に「交配」が起こるだけならば、オスとメスの区別はなくてもいいはずだ。たとえば、全部がメスであって、二つの卵子が合体してから新たな卵細胞を形成する、というふうな。……しかし、それだと、卵細胞が二つあって、無駄であり、合理的でない。というわけで、「卵細胞のある方」と「卵細胞のない方」とで、非対称的に区別される方が合理的だ。こうして、オスとメスの区別がなされるようになる。
初期の有性生殖では、「接合」のような形で、オスとメスの区別がなかったのだろう。その後、進化の歴史で、オスとメスの区別がなされるようになったのだろう。
──
さて。話を戻そう。
有性生殖では、受精卵から、個体発生の過程を経て、個体が形成される。この過程を通じて、分化がなされて、生物は複雑な組織をもてるようになる。そして、その結果として生じたのが、さまざまな有性生物だ。
たとえば、犬、カラス、魚、トカゲ、ミツバチなど。また、草や花や木々もそうだ。これらはいずれも、複雑な組織をもつ個体であり、生物らしい生物である。
一方、無性生物には、このような特徴がない。無性生物は、増殖することはできるが、複雑な組織をもつ個体ではない。無性生物はあくまで、「単細胞生物」もしくは「つながった単細胞生物」でしかない。しかも、そのことは、必然的なのだ。(「細胞分裂」という制約から来るので。)
こうして、有性生物と無性生物とは、まったく別々のものであることがわかる。有性生物はいずれも生物らしさがあるが、無性生物は生物らしさがほとんどない。
そこで、新たに次のように定義し直す。
・ 半生物 …… 無性生物
・ 生物 …… 有性生物
このように両者を区別した上で、「生物の本質とは何か?」をあらためて探ることにしよう。
──
(1) 半生物
無性生物は、半生物と言える。それは、「自己複製する」という点だけ見れば、生物らしさがあるように見える。しかし、「自己複製する」という点だけなら、他の非生物にも見られる。次のように。
・ ウィルス
・ DNA
・ パソコン内のウィルス(ただのプログラム)
・ ロボットをつくるロボット
・ 核分裂における中性子の増殖
というわけで、「自己複製する」という点だけでは、「生物らしい」とは言えない。
実際、無性生物は、これらのもの(ウィルスやDNAなど)に近い存在だ、とさえ言える。単に増殖するだけで、まともな生物とは見なしがたいのだ。
(2) 生物(個体としての)
有性生物は、生物らしい生物と言える。それは多細胞生物になるのも容易だ。また、多細胞生物と言っても、群体や糸状の多細胞生物とは異なり、分化した組織をもつ個体となれる。つまり、真の多細胞生物となれる。
たとえば、動物ならば、分化した目や脳や神経組織や足などをもてる。植物ならば、分化した葉や茎や根などをもてる。こういうふうに、分化した組織をもち、まともな個体となる。有性生物は、まさしく生物らしい生物だ。
有性生物の特徴を言うなら、「複雑な組織をもつ個体として生きるもの」とも言える。
──
ここで、「自己複製」という点に着目しよう。「自己複製」は、何を意味するか? それは、(個体の)生と死に関係する。次のように。
半生物(無性生物)は、自己複製をする。すなわち、親細胞から二つの娘細胞が誕生する。親細胞は二つの娘細胞に生まれ変わる。親細胞は、生まれ変わるだけで、死ぬことはない。その意味で、半生物は不死である。
生物(有性生物)は、自己複製をしない。すなわち、「半分ずつの自己複製を二つ組み合わせる」という形の「交配」をなす。すると、親の体外に、親とはまったく別個に子が誕生する。その後、親はいつか寿命ゆえに死ぬ。その意味で、生物(有性生物)は死ぬべきものである。
半生物(無性生物)には、「死」がない。もちろん、押しつぶせば死ぬ(破壊される)が、寿命ゆえに死ぬことはない。半生物は本質的に不死である。それというのも、「自己複製」をなすからだ。(生まれ変わることができるからだ。)
生物(有性生物)は、「死」がある。たとえ健康でも、それ自身のうちに寿命が織り込まれているので、いつか死ぬ。それというのも、「自己複製」をなさないからだ。(生まれ変わることができないからだ。)
以上のことをまとめて、次のように言える。
「生物(有性生物)の本質とは、誕生と死があることだ。それはつまり、自己複製をしないということだ」
これは重要なことだ。なぜなら、「生物の本質とは自己複製をすることだ」という俗説に反するからだ。
その俗説は、正しくない。仮にその俗説が正しいとするならば、われわれ人間を含めて、あらゆる有性生物は生物でなくなってしまうからだ。というのは、あらゆる有性生物は自己複製をしないからだ。(この件はすぐあとで説明する。)
とにかく、俗説との違いを理解しよう。「生物の本質とは自己複製をすることだ」という俗説は間違いである。真実は、その逆だ。「生物の本質とは自己複製をしないことだ」というのが正しい。
( ※ ただしここで言う「生物」には「半生物」は含まれない。)
──
あらゆる有性生物は自己複製をしない。このことを説明しよう。
まず、DNAを見よう。DNAは自己複製をする。その意味で、DNAの自己複製はある。しかしながら、DNAの自己複製は、個体の自己複製ではない。(両者を混同しないこと。)
また、細胞の自己複製もある。たとえば、皮膚細胞の培養では、培養された細胞が増殖する。ここではまさしく自己複製はある。ただしそれは、細胞の増殖であって、個体の増殖ではない。
典型的なのは、癌細胞だ。癌細胞は増殖する。これもまた、細胞の増殖であって、個体の増殖ではない。
以上のような自己複製(DNA,皮膚細胞,癌細胞の自己複製)は、半生物の自己複製と同様である。
一方、細胞レベルでなく個体レベルでは、個体としての有性生物が自己複製をすることはありえない。
たとえば、あなたの自己複製が誕生することはない。もちろん、特殊な操作をすれば、あなたのクローンをつくることはできる。羊のドリーから、クローンのドリーをつくることもできる。とはいえ、それは人為的なことだ。自然発生的にあなたの自己複製が誕生することはない。(クローンについて詳しくは[ 補足4 ]を参照。)
なお、親が子を産むというのは、「半分だけの自己複製を二つ組み合わせること」であるが、それは「自己複製」とはまったく異なる。ここで、遺伝子だけに着目すると、「遺伝子が自己複製をした」と見なすことはできる。ただし、自己複製をしたのは遺伝子であって、個体としての生物ではない。だから、「遺伝子の本質は自己複製だ」ということは可能だとしても、「生物の本質は自己複製だ」ということはできない。
結局、有性生物は自己複製をしない。
──
以上のことを踏まえて、生物の本質を新たに探ろう。(「生物の本質は自己複製だ」という従来の発想は駄目なので。)
まず、生物の性質(本質の一部)を、いくつか列挙すると、次のようになる。
・ 分化した組織をもつ多細胞生物である
・ 複雑な組織をもつ個体である
・ 減数分裂
・ 性がある (オス・メスの区別)
・ 交配する (生殖細胞の存在)
・ 誕生と死 (寿命がある)
・ 世代交代 (寿命を越えて続く)
これらのうち、どれが本質だろうか?
最も目立つのは「性がある」ということだ。だから、これが本質だと思えるかもしれない。しかし、ちょっと違う。
実は、これらはすべて同じことである!
これらは、たがいに別々のことではない。箇条書きされたとしても、たがいに独立した原理ではない。ここにあるのは実は、ただ一つの原理だ。そして、そのただ一つの原理が、さまざまの場面でさまざまな形で現れるだけだ。
そのなかでも、根源的なのは、「性がある」ということだろう。このことから、他のいくつかのことが結果的に導かれる。とはいえ、「性がある」ということだけで、他のすべてが演繹的に導かれるわけではない。これらの性質は、全体として融合しているのだ。いわば一つの統一体をなすように。そして、その全体を簡単に言えば、こうなる。
「生物の本質は、生きていることである」
ここで言う生物とは、有性生物だ。有性生物は、誕生と死との間で、生きている。その「生きている」ということのうちには、誕生することも、分化することも、成長することも、子を産むことも、老いることも、やがて寿命で死ぬべきことも、すべて含まれる。そのすべてが、「生きている」ということであり、有性生物の本質なのだ。
ひるがえって、半生物(無性生物)には、それらの性質がろくにない。誕生することだけはある。しかしそのあと、分化することも、成長することも、老いることも、寿命で死ぬことも、そのどれもがない。(「子を産むこと」の代わりに「自己複製」はある。)
半生物は、「生物」というよりは、「生物になりつつある途中段階のもの」と言える。それは生物とははっきり区別されるべきだ。半生物は、普通の生物とはまったく異なるカテゴリーに属する。どちらかと言えば、半生物は、生物よりは非生物に近い。たとえば、ウィルスやDNAに近い。これらはいずれも、物理的に破壊されることはあるが、寿命で死ぬことはない。誕生はあっても、死はない。
こうして、生物と半生物の区別をなすことで、生物の真の本質を理解できる。── 生物の本質は、「自己複製」ではなく、「生きていること」と「寿命があること」だ、と。
──
では、「生きていること」と「寿命があること」というのは、どういう意味があるのか? それについて説明しておこう。
まず、「生きている」とは、どういうことか? それは、単に存在しているということを越えて、充実した生涯を享受するということだ。
DNAであれ、ウィルスであれ、単細胞生物であれ、そこにあるのは、自己複製によって数を増やすことだけだ。同じものが同じまま単に数を増やすことだけだ。しかるに、有性生物には、生物としての営みがある。小さな受精卵から、個体発生を経て誕生し、成長し、やがて親として子を産み、ついには寿命ゆえに死ぬ、という営みが。それがつまり、「生きている」ということだ。
次に、「寿命があること」というのは、どういうことか? 半生物には寿命がないのに、生物には寿命がある。その意味を考えよう。
人は不老不死に憧れる。では、不老不死は、すばらしいことか? いや、実は、寿命があるということの方が、すばらしいことだ。つまり、永遠の生命をもたないということの方が、すばらしいことだ。
仮に、永遠の生命をもつとしよう。その場合、生物はどんどん劣化していく。たとえ自己複製をするとしても、いったん遺伝子のエラーが起これば、遺伝子のエラーは修正することなく蓄積する。そのあとで一挙に滅亡しやすくなる。
しかし、有性生物は違う。個体に寿命がある。それぞれの個体は、寿命ゆえに死ぬが、死ぬ前に、子を残す。その際、たとえ遺伝子のエラーがあっても、自己の遺伝子のエラーを相手の正常な遺伝子で補正することができる。また、エラーを含む個体だけを滅亡させて、エラーを含まない個体だけを生き残らせることも可能だ。こうして、エラーが蓄積しない仕組みが、うまくできている。
では、その意味は? こうだ。
「個々の個体に寿命という限界を与えることによって、系統(祖先から子孫への系統)を安定的に継続させること」
ここでは、守られるべきは、個々の個体の生存ではない。系統の全体だ。系統を守るために、エラーのない優れた子を誕生させ、すでにエラーを蓄積している親は死ぬ。
ここには、「系統の新陳代謝」のようなものがある。── 古い皮膚細胞が死滅して新しい皮膚細胞が誕生することで、生物の皮膚は常に健全な状態に保たれる。それと同様に、系統のなかで、古い個体が死滅して新しい個体が誕生することで、系統は常に健全な状態に保たれる。
このことは大切だ。なぜなら、このことゆえに、次のことが可能になったからだ。
「一つ一つの個体は立派な生物として誕生できた」
ここでいう「立派な」というのは、「複雑な組織をもつほど高度な」というような意味合いだ。
わかりやすく言おう。無性生物と有性生物を対比して示す。
無性生物であれば、「系統の新陳代謝」がないので、エラーの蓄積が起こる。それでも生存できるためには、個体全体が簡単であること(ゲノムが小さいこと)が必要だ。その場合、複雑な組織を形成することができない。仮にゲノムが大きくて複雑な組織をもっているとしたら、多くのエラーが蓄積しているので、あるとき突然、全体が滅亡しやすい。実際、巨大なゲノムをもつ細菌は、これまで誕生したかもしれないが、いずれも、どんどん増えたあとで、あるとき突発的に滅亡していたはずだ。
有性生物であれば、「系統の新陳代謝」があるので、エラーの蓄積が起こらない。だから、個体全体が簡単であること(ゲノムが小さいこと)は必要ない。複雑な組織を形成することもできる。たとえ複雑な組織をもっていても、突発的に全体が滅亡するということはないからだ。
つまり、有性生物は、寿命をもつがゆえに、複雑な組織の個体となることができる。かくて、充実した生涯をもてる。寿命があることと、充実した生涯をもてることとは、トレードオフの関係にあるのだ。……(*)
──
結局、次のことはほぼ同一のことである。(一体化している。)
・ 性があること
・ 寿命があること
・ 世代交代をなすこと
・ 系統の新陳代謝をなすこと
・ エラーの生じた個体を消してエラーのない個体を誕生させること
・ 巨大なゲノムをもつこと (それでも滅亡しないこと)
・ 複雑な組織をもつこと (それでも滅亡しないこと)
すぐ前の(*)のことを思い出そう。
寿命があることと、充実した生涯をもてることとは、トレードオフの関係にある。つまり、有性生物が複雑な組織の個体となることができるのは、寿命があるからだ。有性生物は、生涯の時間を限られたものとすることで、その限られた生涯を十分に充実させることができる。つまり、生きていることの質を向上させることができる。
そして、その典型が、人間である。人間こそはまさしく、有性生物の特権を最高に享受しているものだ。なぜなら、寿命があるという点では他の有性生物と同様だが、生きていることの質を向上させるという点では最高だからだ。
人間はこの世界のどんな生物よりも高度な脳をもつ。人間はこの世界のどんな生物よりも充実した生涯を送れる。あなたも私も、人間として生まれたことの喜びを、存分に味わうことができる。
そして、それは、あなたも私も、寿命があるからなのだ。われわれは、やがていつかは死ぬべき運命であるがゆえに、今この瞬間を限りなく充実させることができる。何十年か先に「死」という闇があるからこそ、今現在の時間を「生」という光で輝かせることができる。
われわれは有性生物の特権を味わおう。そのために、この特権を持っていることを、はっきりと理解しよう。無性生物に憧れて、「数を増加させたい」「自己複製をしたい」「不死になりたい」などとは思ったりせずに、今この瞬間を有性生物として溌剌として生きていることの価値を、ありありと理解しよう。つまり、半生物でなく生物として生きていることの価値を、はっきり理解しよう。
それがつまり、生物の本質を知るということだ。
※ 以下は付随的な話。
[ 付記1 ]
冗談半分だが、半生物に生まれることを望む人もいるだろう。次のように。
「ああ、細菌が羨ましい! 細菌は 100%の自己複製が可能だ。しかも短時間のうちに、次々と増殖していけるから、遺伝子をたくさん残せる。何とすばらしいことだろう。僕も細菌になりたかった。僕は人間なんかに生まれて、本当に残念だ」
「ああ、細菌が羨ましい! 細菌は不死だ。自分は消えても、自分のクローンが二つ生き残れる。細菌は寿命がなく不死だ。僕も細菌になりたかった。僕は人間なんかに生まれて、本当に残念だ」
これは、冗談のようだが、あながち冗談ではない。もしあなたが利己的遺伝子説というものを信じているなら、あなたはこのようにして細菌になりたがるだろう。(さもなくば自己矛盾。あなたは遺伝子の乗り物として、細菌になって遺伝子を増やすことを望まなくてはならない。)
本当は、遺伝子の数を増やすことなどは、重要ではない。仮にそんなことを重視すれば、上記のように、「細菌になりたい」と望むようになってしまう。
つまり、数を増やすことにばかりとらわれてばかりいると、生物の本質である「生きること」の価値を見失ってしまう。
生物の本質を理解しよう。人間として生まれたことの喜びを理解しよう。人間であることを悔いたりしないようにしよう。「細菌になりたい」と望んだりしないようにしよう。そのためには、「数を増やすことこそすべて」というような、従来の固定観念から自由になろう。
生物とは文字通り、「生きる物」だ。その本質を理解するために、数や利益という概念を離れ、生きることのすばらしさを心によって感じ取ろう。量的ではなく質的なものとして。
( ※ 生命のすばらしさを数字なしに理解するということは、愛のすばらしさを数字なしに理解することに似ている。これらを数字で表現すれば、真実に近づくどころか、真実から遠ざかってしまう。)
[ 付記2 ]
実は、半生物(細菌などの単細胞生物)は、「生きている」とは言いがたい。半生物が不死であるのは、もともと生きていないからなのだ。生きていなければ、死ぬこともない。だから、人が「不死を望む」ということは、「生きないことを望む」というのと同じである。
では、半生物は、生きていないとしたら、何をしているのか? それは「活動する」という言葉で呼べる。
このことを理解するには、有性生物の「体細胞」と比較するといい。筋肉や内臓組織などの体細胞は、活動している。ただし、一個の生物として生きているわけではない。
細菌などの半生物も同様だ。半生物はたしかに活動している。しかし「一個の生物として生きている」とは言いがたい。単に「細胞が活動している」と見なす方が妥当だろう。
単細胞生物は、普通の生物よりも、体細胞に近いのだ。単細胞生物も体細胞も、「生きている」というよりは、「活動している」という言葉で表現するのがふさわしい。
( ※ 「活動している」というのは、「生きている」ということのうちの、半分ぐらい。だから「半生物」という用語ができる。)
( ※ なお、単細胞生物には「自己複製」という機能があるが、それを言うなら、癌細胞にだって「自己複製」という機能がある。癌細胞は生物か?)
[ 付記3A ]
「生物の目的は遺伝子の数を増やすことだ」 …… (#)
という発想を取ると、「性の誕生」を説明できなくなる。というのは、次のことがあるからだ。
「性をもつ生物は、遺伝子の増殖能力が劣るので、環境のなかで淘汰されてしまう。ゆえに、性をもつ生物など、ありえない」
この件は、次のサイトを参照。(メイナード・スミスの説。)
→ http://www.nagaitosiya.com/a/sex.html
こういう馬鹿げた結論が出るのは、(#)のことによる。これが根源的に間違っているのだ。
前にも示したとおり、性(有性生物であること)には、次の意味がある。
・ 産卵数の減少 (量の増加を抑制すること)
・ 質の向上 (進化すること)
この両者はトレード・オフ関係にある。だから、性があるということは、「数の増加を犠牲にして、進化する」ということだ。ここに真実がある。
しかるに、(#)の発想を取ると、「数の増加こそ大切だ」というふうに考えるので、「数の増加を犠牲にして、進化する」ということを理解できなくなる。
結局、最初の (#)が間違っている。前提が間違っていると、結論もおかしくなる、という見本。しかしながら、多くの人々は、おかしな結論を見ても、「前提が間違っている」とは考えないものだ。
かくて、人々はいつまでも、(#)という間違った前提を信じ続ける。
[ 付記3B ]
有性生殖と無性生殖の優劣を論じた解説がある。
→ Wikipedia 「有性生殖」
ここにある話は、それなりに有益ではあるし、本項に似た論旨もある。
ただし私としては、「これらの論旨はすべて成立しない」と考える。(基本的には。)
なぜか? 理由は、次の通り。
・ 有性生殖と無性生殖が競争するわけではない。
(両者の優劣を比べるのは根源的に無意味。)
・ 「数の増加」という点からすれば、明らかに有性生殖が劣る。
(たとえば人間の繁殖速度は、細菌や昆虫よりもはるかに劣る。)
要するに「数の増加」を基本として考える限り、有性生殖は無性生殖よりも劣る。これは厳然たる事実なのだ。だから「数の増加」を基本として考えるべきではない。
進化とは、「数の増加」によってもたらされるものではなく、「数の減少」を代償とする「質の向上」なのだ。そして、そのために取られた手段が「有性生殖」だ。これは、「数の増加」にとっては不利だが、「質の向上」をもたらす。
しかるに、Wikipedia で紹介された説は、いずれも「数の増加」を進化の原理としている。だから、「有性生殖は数の増加にとって不利だ」ということを知って、「不思議だ、パラドックスだ」と悩む。
しかし、ここではむしろ、「数の減少があるからこそ、質の向上があるのだ」と理解すればいい。そうすれば、そこにはパラドックスなどは何もない、とわかるはずだ。
有性生物は、数を増やすために性をもつのではない。(数の増加を犠牲にして)進化するために性をもつのだ。その本質を見失っては、議論は無意味になる。
( ※ 「数の増加」が役立つのは、小進化だけである。そこでは「優勝劣敗」の形で「数の増加」が「進化」をもたらす。しかし大進化では、そのことは成立しないのだ。この件は、後述の「増加の意味」を参照。)
[ 付記4 ]
人間が無性生殖をするとしたら、どうなるだろう?
ここでは、減数分裂ではなく、母体の胎内から産まれると考える。(そんなことはありえないのだが、仮想的にそう考える。いわばメスだけの世界。)
この場合、無性生殖で、同じ遺伝子が倍々ゲームで増えていく。すると、自然淘汰の効果はきわめて明白に出る。短期間に「優者だけの世界」が生じるだろう。つまり、最も優れた個体が圧倒的大多数を占めるようになるだろう。それはたぶん、知性もよく、体力もよく、健康もよく、容貌も抜群だろう。
しかしながら、そこでは、遺伝子が単一化されているので、病気には弱い。あるとき突然、病気のせいで、全滅する危険がある。
また、病気にかからなくても、「老化」が押し寄せる。この「老化」は、個体に仕組まれた老化ではなく、「遺伝子(生命子)のエラー」という形で発現する。個体の誕生後、50年ぐらいすると、皮膚のあちこちにシミができる。さらには、癌細胞があちこちに出現する。その後、新陳代謝が進まなくなる。皮膚が新しい皮膚に更新されなくなる。体中がどんどん腐っていく。
ま、それほどひどくならないうちに、自然淘汰で個体は淘汰されるだろう。だとしても、別の問題がある。それは「生殖細胞における遺伝子のエラー」だ。
無性生物の生殖細胞にも、遺伝子がある。これが長い時間のうちに、遺伝子エラーを蓄積する。すると、どうなるか? 新たに誕生する個体(クローン)には、「生殖細胞における遺伝子のエラー」が発現する。最初は「能力低下」が起こり、次いで「小さな遺伝病」が起こり、やがて「大きな遺伝病」が起こる。特に、「重要な器官の欠損」まで起こりそうだ。
もちろん、自然淘汰があるので、遺伝子エラーのある個体は淘汰され、遺伝子エラーのない個体が残りやすい。しかし、である。種全体に小さな遺伝子エラーがいろいろと蓄積していくうちに、やがてどれもが大小の遺伝子エラーをかかえるようになる。こうなると、小さな遺伝子エラーがあるという理由だけで淘汰されることはない。なぜなら、どの個体もが、小さな遺伝子エラーをもつからだ。
こうして、長期的には、集団全体にじわじわと遺伝子エラーが少しずつ蓄積していく。非常に長い時間がたてば、重大な遺伝子エラーがあちこちに蓄積するようになる。(遺伝子エラーを排除する仕組みがないので。)
まとめて言おう。人間が無性生殖をすれば、速やかに「優勝劣敗」が進んで、すべてが優秀な個体のクローンばかりになるだろう。全員が才色兼備になるだろう。しかし、そのあと、病気で全滅する危険がある。それを免れても、個体が遺伝子エラーで腫瘍だらけになりそうだ。そうならなくても、種全体が遺伝子エラーでだんだん奇形化していく。
その結果は? いずれにせよ、最終的には全滅するだろう。すなわち、「急激な増加のあとの、全滅」である。これは「ハイリスク・ハイリターン」のことだ。 ( → 前述の項目 。種全体が絶滅するときは、優者も劣者もいっしょに絶滅する。ここでは、「劣者を先に退場させる」という自然淘汰は、種全体を絶滅から防ぐためには役立たない。比喩的に言えば、「劣者から先にボートの外へ追い出す」という方法は、ボート全体が沈むときには役立たない。)
結局、「無性生殖は増加の点で有利だ」というような理屈は、成立しないのだ。小さなゲノムをもつ単細胞生物ならばともかく、巨大なゲノムをもつ多細胞生物では、「エラー補正」の仕組み(有性生殖)が必要不可欠なのだ。
( ※ そして、「エラー補正」の仕組みがあるおかげで、人間は巨大なゲノムを持つことができるようになる。つまり、複雑な組織をもつことができるようになる。ここに性の意義がある。)
( ※ 結局、性の意義は、「数の増加」ではなく「質の向上」なのだ。「数の増加」にとらわれる発想では、生物の真実を理解できない。)
( ※ ついでだが、「数の増加のためには、性は役立たずだ」という発想は、まったく正しい。実際、有性生物の個体数は、無性生物の個体数に比べて、圧倒的に少ない。単細胞の細菌の数は莫大だが、有性生物の個体数はずっと少ない。数を重視する限り、質の向上[= 進化]は無益なのである。)(……ただし、この点を根本的に勘違いしている学者が多い。「性があることは、数の増加にも役立つ」と信じて、必死になって証明しようとしている学者が多い。「地球は平らだ」と証明しようとする学者に似ている。)
[ 付記5 ]
「性をもつこと」と「寿命があること」とは、等価ではない。おそらく初期の有性生物は、寿命をもたなかっただろう。(接合の延長。)
ただし、その生物は、複雑な組織をもつことができなかった。また、ある程度まで複雑な組織をもつようになると、系統の新陳代謝がないので、老化した個体があふれるようになる。また、新規に誕生した赤ん坊が排除されがちだ。こうして、種全体の質が劣化するので、あるとき突然、全滅してしまうだろう。
一方、寿命のある種は、系統の新陳代謝があるのでどんどん進化していける。系統の新陳代謝がない方は、たとえ全滅しなくても、生存競争を生き抜けない。
結果的に、寿命のある方だけが、どんどん進化して、存続できる。(寿命のない方は、進化できずにいるか、全滅する。)
【 追記 】
福岡伸一「生物と無生物のあいだ」のサントリー学芸賞への選評(養老孟司)がある。一部抜粋すると、下記の通り。
「たった一つの部品が壊れたら使えない機械に、何億年の命が保てるはずがない。」 ……(¶)これは福岡流の「動的平衡」(遺伝子補償)を説明するための言葉だが、どちらかと言えば、本サイトにおける「有性生殖」を説明する言葉にふさわしい。
個体レベルで言えば、(¶) の通りにはならない。つまり、遺伝子補償が起こるとは言えない。むしろ、起こらないことの方が多い。実際、遺伝子欠損のせいで流産する例は多い。
一方、系統レベルで言えば、(¶) の通りになるだろう。たまたま遺伝子欠損のある個体が生じても、それが次世代に伝わるとは限らない。遺伝子欠損の方だけを切り捨てて(淘汰されるにようにして)、残りの方だけを生き残らせることができるからだ。……そして、それが、有性生物の特徴だ。
結局、福岡流の「動的平衡」(遺伝子補償)に似た仕組みは、個体には備わっていないとしても、系統には備わっていることになる。その仕組みが「性」であるわけだ。
福岡流の「生物とは何か?」という問いかけには、「性をもつもの」というふうに答えることもできる。そして、その答えは、「生物と無生物のあいだ」には見出されず、「生物と半生物のあいだ」に見出されるのだ。
1月10日以来続いたシリーズ「生命とは何か?」は、本項をもって一応、完結します。結論は、本項で示しました。
次項以降では、補充的な話を説明します。
(その意味では、シリーズの本体は終わっても、付録がまだ続きます。)
※ このあとは、本項についての補足的な情報です。
細かな話題なので、特に読む必要はありません。
(生理的に不快な話もあるので、医者以外にはお勧めしません。)
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[ 蛇足 ]
《 読まなくてもよい。 》
※ いちいち例外を探して、揚げ足取りをしたがる人向けの話。
(1) 胞子
例外的な場合を考えると、「無性生殖でありながら生殖細胞を備える」という場合がある。それは「胞子」というタイプだ。(「胞子」には、無性生殖タイプと有性生殖タイプがある。)
ただ、無性生殖である限り、有性生殖の長所をもつことはできない。その意味で、本項の話の趣旨は変わらない。ここでは単に「胞子」という生殖形態もある、と指摘しておくだけに留める。
(2) ボルボックス
ボルボックスは、有性生殖をする場合があるので、無性生殖の一種に含めることには無理があるかもしれない。その場合、ボルボックスを無性生殖には含めずに、無性生殖をする生物は「糸状のものだけ」というふうに制限されることになる。
ただ、ボルボックス以外にも、群体状の無性生物がいる可能性が十分にある。そこで本項では、群体状のものも含めた。ただし、ボルボックスという例示は、不適切だったかもしれない。もっと良い例があればいいのだが。
( これは、細かな話題。全体の論旨には影響しない。)
(3) 無性生殖をする有性生物
生涯の一時期に無性生殖をする有性生物、というものはある。この件は前にも述べたことがある(たぶんコメント欄で)。ただ、そのことは、話の論旨にはまったく影響しないので、いちいち言及はしなかった。
人間だって、癌にかかれば、癌細胞が無性生殖のように細胞分裂する。だからといって人間が無性生物だということにはならない。また、ミツバチだって、オスは単為生殖だが、だからといってミツバチが無性生殖で繁殖するということにはならない。……生涯の一部に無性生殖の過程を持つということは、その生物が性をもたないということにはならない。ここを混同しないでほしい。
(4) 出芽と挿し木
極端な例では、「ヒドラ」という生物がある。基本的には有性生物と見なしていいのだが(つまり性を備えるのだが)、有性生殖をするよりも無性生殖をすることの方が常態化しているらしい。(出芽という形式。)……しかしこの場合も、進化の過程では性を利用したはずで、その意味では有性生物に含まれるだろう。
もっと極端な例では、植物の「挿し木」がある。挿し木によって個体数をどんどん増やすことが可能だ。これもまた無性生殖の一種に含めることもできそうだ。
たとえば、日本中のソメイヨシノは、すべて挿し木によって増えたもので、遺伝的には同一のものである。ただし、それゆえ、遺伝的な単一性から、病気のせいで全滅する危険がある。この全滅の危険性については、先に[ 付記4 ] で述べたとおり。
(5) 無性生物と無性生殖
ヒドラの「出芽」であれ、ソメイヨシノの「挿し木」であれ、有性生物における無性生殖である。ここでは、多細胞の有性生物が先にあって、その一部に「無性生殖」が組み込まれているだけだ。基本的には有性生物である。
これは、無性生殖しかしない無性生物とは、根源的に異なる。無性生殖しかしない無性生物は、基本的には、体細胞分裂の形で生殖するだけだ。分化はない。一方、「出芽」や「挿し木」では、分化がある。その分化のための能力は、有性生殖によって得られた。
だから、生活環の一部に無性生殖という繁殖方法を取るかどうかは、あまり関係がない。進化の過程で有性生殖という方法を取った、ということだけが重要だ。有性生殖ゆえに、分化をなせるような進化を成し遂げ、複雑な構造体となった。そのことだけが重要だ。そして、いったん進化したあとで、生活環の一部に無性生殖をもつか否かは、たいして重要ではない。
無性生殖と無性生物は、イコール記号では結ばれない。その点に注意。
(6) 下等な有性生物
下等な有性生物だと、生活環の一部において、無性生殖をなすことがある。ではなぜ、有性生物が無性生殖をなすことがあるのか? これはなかなか興味深い話題となるだろう。
この件は、「増加の意味」の[ 付記3 ]で論じた。そちらを参照。
→ http://openblog.meblog.biz/article/361657.html#ps3
(7) 有性生物と多細胞生物
本項で述べたことは、「複雑な組織をもつ多細胞生物であるためには、性が必要だ」ということだ。
ただし、その逆は成立しない。つまり、「性があれば、複雑な組織をもつ多細胞生物になる」ということはない。
( ※ 論理的に言えば、「A ならば B」が成立するからといって、「B ならば A」が成立するとは言えない。当り前。ただし、ここを混同する人もいるので、念のため、注記しておくわけだ。…… 言わずもがなではあるが。)
たとえば、海綿動物がそうだ。これは、性をもつが、複雑な組織をもつ多細胞生物ではない。
そもそもの話、最初の有性生物は、単細胞生物だったろう。(接合よりもちょっとマシな性をもつだけだったかもしれないが。)
性をもつということは、「進化できる」ということであるが、「進化した」ということではない。似ているが、厳密には違うので、混同しないこと。
( ※ 以上で解説したのは、しきりに例外を探して揚げ足取りをした人向けの話。ま、例外的なことはちょっとは見出せるかもしれないが、いくら例外的なことがあっても、別に、話の本筋には関係しない。数学じゃないんだから、「例外が一つ見つかれば話の全体が崩壊する」ということにはならない。例外についてはついでに補注しておけば済むことだ。)
http://openblog.meblog.biz/article/355298.html#ps
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