《 目次 》
(6) 人間の目的
(7) 増加と進化
[ 付記1 ] 医者向けの話
[ 付記2 ] (医療体験記) ──
(6) 人間の目的
生命の本質は、誕生することと死ぬことだ。( → 利全主義と系統 (生命の本質))
あなたが生物として誕生したからには、あなたはやがて死ぬ。あなたは死を避けることができない。そして、だからこそ、今というこの瞬間の生存が、このうえ大切であるはずだ。そのことを自覚しよう。
それに似た話はある。それは青春のかけがえのなさだ。── 若き日々。過ぎ去った日々。二度と帰らない日々。……そうした日々は、すでに遠ざかった。今さらいかに惜しもうと、若き日々がここに戻ることはない。失われた青春時代は、どんなダイヤモンドよりも貴重だとしても、決してふたたび手に取ることはできない。
ゲーテ「ファウスト」から引用しよう。(190行。手塚富雄訳・一部改変。)
あの青春の日々を返してください。
数々の歌が絶えまなく
泉のように湧き出ていたあの日々を。
世界はまだ霧につつまれていて、
つぼみが未来の奇跡を約束していたあの日々を。
谷々に咲きみちていた美しい花を
気の向くままに摘みとったあの日々を。
何一つ持ってはいなかった、けれど私は充ち足りていた。
若き日々は何と貴重だったことか。そこには生命の最も純粋な部分がこもっていた。ただし、若さのさなかにいるときには、その真の価値に気づかない。そして、すべてを失ったあとで、かつていかに大きなものを得ていたかに気づく。
同じことは、今この瞬間の自分についても成立するはずだ。
あなたは今、何を得ているかに気づかないでいる。得ているものに気づかないまま、「得たい、得たい」「もっと、もっと」と望む。「もっと金を増やしたい」「もっと利益を増やしたい」「もっとエッチをしたい」というふうに、やたらと望む。
しかし、いつか、あなたが死の床に伏せたときに、ようやく気づく。かつて「あれも欲しい」「これも欲しい」と言っていたころに、自分がいかに豊かなものを得ていたかを。
自分が得ていたもの。それは金ではない。自分のまわりにある生命だ。親、妻、恋人、子などだ。……それらの価値に、今のあなたは気づかない。だが、やがてあなたが死の床に伏せたとき、ようやく、それらの価値をありありと悟る。
「あのころ、若くはなくとも、まだ老いてはいなかった。あのころ、自分のそばに、何と大切なものが豊かにあったことか」
あなたはそのときようやく、生きることの目的を知る。生きることの目的は、金や利益や遺伝子を増やすことではないのだ、と。生きることの目的は、数字で計れるようなものではないのだ、と。
たいていの生物学者は、生物の本質や目的を理解しない。彼らは「生物の本質は自己複製だ」と唱えるばかりだ。だから、彼らの勧めるのはたぶん、次のようなことだろう。
「いっぱいエッチをして、遺伝子をいっぱい残しなさい」
「恋人は、エッチをするためにいる」
「恋人は、たくさんいる方がいい。一人よりは二人。二人よりは三人」
「妻も、たくさんいる方がいい。一人よりは二人。二人よりは三人」
しかし、そんなことをしても、あなたは少しも満ち足りないはずだ。それも当然だ。あなたの本質は、遺伝子の数を残すことではないからだ。むしろ、次世代をしっかりと確実に残すことだからだ。
あなたが生物としての満足にひたるためには、どうすればいいか? 健全な家族を営み、子供をしっかりと育てればいい。また、この地球を守って、次世代に引き渡せばいい。── そうすることができたとき、あなたは人類の一員として、十分な満足にひたることができる。
しかし、生物学者だけは、そういうことを考えない。生物学者は、「増やせ、増やせ」と唱えるだけだ。「金を増やせ、二酸化炭素を増やせ、人口を増やせ」と。まるでミジンコのようにひたすら増えたがる。
人類にはミツバチの知恵がないのだ。人類が生きるためには、ミツバチの知恵を授かることが必要だ。
(7) 増加と進化
生物においては、「生存」が大切で、「増加」はその後だ。では、「増加」は二番目に大切なのか?
違う。二番目に大切なのは、「数の増加」ではなくて「質の向上」である。── 「質の向上」。それは、「進化」のことだ。
つまり、重要度の順で言うと、次のようになる。
生存 > 進化 > 増加
この順で重要だということは、進化の過程を見ればいい。
細菌 → …… → 魚類 → 両生類 → 爬虫類 → 哺乳類
こういう進化の過程で、生物は、次の二つを同時になしてきた。
・ 質の向上 (進化)
・ 数の減少 (産卵数の減少)
この二つは、トレードオフ関係にある。質の向上を果たすためには、卵は大きくなくてはならない。だが、母体に納まる総量は一定だから、卵が大きくなるにつれて、産卵数は減る。
たとえば、魚類は、小さな卵を数千ぐらい産卵することもあり、大きめの卵を百ぐらい産卵することもある。爬虫類では、十数個ぐらいの産卵。哺乳類では、数匹ぐらいの出産。人間に至っては、一回に一人しか産めない。
つまり、進化の歴史では、質の向上のために、数の増加は犠牲にされてきた。つまり、「数の増加」よりも「質の向上」の方が大事である。
結局、生物にとって何より大切なのは「生存」であり、次が「進化」であり、そのあとに来るのが「増加」だ。
生物にとって数を増やすことは、たいして重要なことではない。しかるに、「増加こそ大切だ」と信じる生物学者がいる。もしそれが本当であれば、生物は進化の過程でどんどん下等生物になっていったはずだ。なぜなら、下等生物ほど、遺伝子の数を増加させることが可能だからだ。
実際、先の進化の順を逆転させれば、生物は下等になるにつれて、数をどんどん増加させることが可能だ。たとえば、人間の総数は百億人ぐらいでしかないが、魚類や昆虫の総数は圧倒的に多いし、プランクトン類の総数はさらに多いし、細菌に至っては圧倒的に多い。(小さなシャーレに何億もの数が収まる。)
だから、「数を増やすことが生物の目的であり、それゆえに進化が起こったのだ」という説に従えば、あらゆる生物は進化するために、細菌をめざして進化していくことになる。つまり、退化こそが進化になる。(矛盾!)
これでわかるだろう。遺伝子の数を増やすことなど、生物にとってはたいして意味がない。むしろ、遺伝子の数を減らす過程(進化)こそが大切なのだ。ここでは、「進化」という概念と「増加」という概念とは、ほとんど矛盾・対立する。
人々は、生物の真実を、いまだよく理解していない。人々が理想とする生物は、遺伝子の数をやたらと増やすのが得意な細菌類である。それゆえ、人々は、自らの価値を理解できない。
「数を増やす能力が最も劣っている人類こそ、最もすばらしい生物なのだ」ということを。「人類は、大人になるまで 20年近くかかり、しかも一回に一人の子供しか出産できないので、数を増やす能力が最悪だが、だからこそ人類はすばらしい生物なのだ」ということを。
※ 付随的に、余談ふうの話をいくつか付け足しておこう。
[ 付記1 ] 医者向けの話
本サイトの読者には、医学関係者がかなりいるようだ。そこで、特に医者向けに論じておこう。
あなたはなぜ、医学の道を志したのか? その初心は、いったい何だったのか?
もしかして、利益になると思ったからか? 「医者になれば、金儲けができて、女にモテモテになって、遺伝子をたくさん残せる」と思ったからか?
まさか。医者というのは、最も死亡率の高い職業の一つである。宿直もザラで、健康を害しやすい。免疫力は低下しがちだし、まわりはウィルスがウヨウヨだ。病気の罹患率は高いし、職業的に死亡率が高い。……いくら利益を得ても、死んでしまっては何もなるまい。
だから、損得勘定による発想ならば、あなたは決して医者にはならなかっただろう。むしろ、たとえ給料は低めでも、ずっと安全な商売を狙っただろう。たとえば、医学系の公務員とか。製薬会社の薬学研究員とか。基礎医学の研究者とか。
しかし、あなたは医師になった。自らの手で、患者を救おうと思った。自分の生命を危険にさらしてまで、患者の生命を尊重しようと思った。それは、なぜか?
ここに面白い記事がある。「新型インフルエンザが発生したら、自分はさっさと職場から逃げ出したい」と思っている看護師が多い、という調査だ。
新型インフルエンザが大流行した場合、医療従事者の26%が転職も考えていることが、産業医科大学などの調査で分かった。ここでは、医師の 17%という数値に着目しよう。これは非常に低い数値だ。自分の生命の危機に瀕したならば、さっさと逃げ出すのが利口というものだ。患者が死のうと、知ったこっちゃない。自分の命を守り、自分の遺伝子を守ることこそ、大切であるはずだ。
調査は、6都府県の七つの大学病院などで働く約1万人を対象に実施、約 7400人から回答を得た。
複数回答で、75%が「仕事で感染するリスクがあるのは仕方がない」と答える一方、26%が「感染リスクがあるなら転職も考えたい」とした。
転職を考える人は、看護師が31%と最も多く、次いで、技師や事務職員が 23%、医師が 17%だった。
( → 読売新聞 2008年1月26日 )
ではなぜ、医者はそうしないのか? 医者は自分の損得を計算できないほど愚かだからか?
もちろん、違う。以上の議論はすべて、根本が狂っている。
あなたは医者を志した。だが、あなたは最初から、自分の利益などを狙っていなかった。あなたは最初から利己的には生きていなかった。
では、何を狙ったのか? それは「生命の尊重」であるはずだ。たくさんいる人々の一つ一つの生命を、この上なく大切だと思った。だからこそ、その大切な生命を守るために、おのが一身を捧げようとした。
あなたがそうしたのは、「医師は聖職だ」というような義務に強制されたからではない。あなた自身が自発的に生命を尊重しようとしたからだ。それは、つまり、あなたが人々を愛したからだ。そのために、自分の生命をあえて危険にさらそうとした。
あなたは自らの利益よりも、人々への愛を優先した。── それが、医師の心における真実であるはずだ。
利己的遺伝子説というものがある。
「遺伝子は、自分(つまり遺伝子)が増えようとする」
ということを原理とした発想だ。それによって個体の行動を説明しようとする。(たとえば、「ミツバチが利他的行動をするのは、ミツバチの遺伝子が、その遺伝子を増やそうとするからだ。そういう遺伝子をもつ個体が、環境において有利だから、自然に増えていったのだ」と。)
しかし、こんなものを信じる医者がいるとしたら、私はその医者を信じない。なぜなら、その医者自身は、その方針とは逆の方針を取るからだ。つまり、自分の遺伝子を減らす危険を冒してまで、他者の遺伝子を増やそうとするからだ。
これは、どういうことか? 生物の目的は「遺伝子の増加」ではない、ということだ。何よりも「生存」が優先される、ということだ。── そして、その「生存」は、自分の「生存」とは限らない。自分の「生存」を犠牲にしてまで、子を守ることもあり、妻を守ることもある。なぜなら、その個体には本能としての「愛」があるからだ。
そして、その「愛」が強い医者は、子や妻を愛するだけでなく、人々の全体を愛そうとする。だからこそ、自分の命を危険にさらしてまで、人々の命を救おうとする。── それが、先の調査結果の示すことだ。
なるほど、人間の原理には、「利己主義」もある。しかし、「利己主義」だけではない。利己主義を越えた原理もある。「利全主義」という原理が。その発露として、「愛」というものがある。
とすれば、その事実に気づくことが大切だ。「増加こそ大切だ」というふうに考えるだけでなく、「生存こそ大切だ」と考えて、「だからこそ自分は個体の生命を大切にする」と理解するべきだ。医者にとって大切なのは、患者の遺伝子を培養タンクで増やすことではない。患者のクローンをES細胞や iPS細胞で作成することでもない。医者にとって大切なのは、一人一人の人間の生命を守ることだ。それ以外に、何があるというのか?
生物の目的は何か。── そのことを、医師ははっきり意識しておくべきだと思う。生物の目的は、遺伝子の増加でなく、個体の生存である、と。
一人一人の人間は、生きていること自体に意義がある。われわれは誰しも、誕生して、生きてきた。そして今も生きている。そのこと自体が、すばらしく価値のあることなのだ。……生きている間に、金や利益を増やすことに価値があるのでなく、遺伝子を増やすことに価値があるのでもない。実際、金を稼がないでボランティアをする人には価値があるし、自分の遺伝子を増やさないで養子を育てる人にも価値はある。(利己的遺伝子の信者ならば、そういう人々を見て、「自分の遺伝子を増やさないからバカだ」というふうにけなすだろうが。)
本当は、自分の遺伝子を増やすかどうかなんていうことは、どうでもいいことなのだ。あなたという人間は、たとえあなたが交通事故で生殖能力をなくしても、存在意義がある。また、閉経した女性も、立派に存在意義がある。それは、「この世にまさしく生きている」という意義だ。ここにこそ、生命の意義がある。
あらゆる医者が理解するべきことは、その真実だ。もしそれを見失ったなら、医者としての存在意義がない、とすら言えるだろう。
[ 付記2 ] (医療体験記)
医学関係者向けに、面白い話がある。
「心に残る医療」体験記コンクール第26回。
読売新聞社賞。白石恵子。
これは、死を目前にした妹にお寿司を食べさせる話。
掲載箇所は、読売新聞・朝刊( 2008-01-31 )の全面広告。
なお、ネット上では、下記。
http://www.med.or.jp/kokoro/26/04.html
この話が、涙がほろりと出るような、いい話。次のことがわかる。
医者にとって大切なのは、患者の生命を救うことだ。ただし、それだけで十分なのではない。患者の心を大切することも、劣らず重要だ。
人間はただの生物ではない。人間は人間の心をもつ。その心を尊重しない限り、医者としての務めを果たしたことにはならない。
患者というものは「生命をもつ増殖機械」ではないのだ。ドーキンス説を信じる医者には、心の大切さというのは、とうてい理解しがたいことだろうが、人間の大切さは、心にあるのだ。その心を大切にすることで、真の医者になれる。
「恐竜は進化しすぎて環境の変化に対応できずに絶滅した」というのは南堂さんの主張ですよね?
そうならば恐竜にとっては進化という目的を果たしたからこそ生存できなかったと言えるのではないですか?逆にそこまで進化しなかった、ワニなどは生き残っています。
もし核戦争なり環境破壊なりで人類が絶滅したあとの世界で、未来の生き物が人類の進化を見たならば、人類は進化したからこそ生存できなかったのだと言うのでは?
もちろん多様性があるからこそ進化していない生物も存在し、人類が絶滅するほどの災害のあとにも生き残ることができたのだと見ることも出来ますが。(つまりより進化した生物は多様性が少なく(基本的に人類は一種)進化していない生物は多様である(虫なり細菌なり)ために、なにかの種は残るであろうということ)
魚類と哺乳類は子孫を残す方法に別々の物を選んだだけでどちらが優秀と言うものではないはずです。現在地球上に存在する細菌は様々な進化を経てきたはずで、その中にはひたすら数を増やして脱落者がいくら出てもいいようにした者もあれば、構造を複雑化し多少繁殖力を減らしても脱落者を減らすように進化したものもいるはずです。
ハチと言う一つの種の中でもジガバチのように一度にわずかな卵しか産まない者もいれば、ミツバツのように沢山のタマゴを産む者もいます(別にミツバチはそこらじゅうに生み捨てている分けでは有りませんが)。ハチが進化の上で何度も社会性を捨てたり獲得したりを繰り返したりしている事からもわかる通り、『数の増加』と『質の向上』は環境によってどちらが有利化が変わる生存上の戦略の一つに過ぎないと思いますが。
また、ドーキンズ説を正しいと考える医者を信用できないと言うのは理解に苦しみます。人間は本能とは別に理性や倫理や宗教観をもつはずです。それが彼を医者にしたとは考えられないのですか?
この件は別のところで述べています。
自然淘汰説に従えば、環境への適応が「進化」ですから、どの生物種も等しく進化していることになります。
私の説に従えば、進化とは一つまた一つと階段を上がっていくことですから、生物種には明確な「進化の段階」があることになります。たとえば、
無性生物 → 節足動物 → 魚類 → 両生類 → 爬虫類 → 哺乳類
という進化の段階があり、これは少しずつステップを上がることで初めて可能になります。また、進化の逆転はありえません。……これが私の見解です。そしてまた、事実もそうなっています。
たとえば、哺乳類が水中に入って、水中に適応して魚類になることはありえません。哺乳類という形態を保ったままです。(たとえば鯨。)
自然淘汰説に従えば、鯨がエラをもつことは鯨にとって有利なので、鯨が魚類になることがあるかもしれませんが、私の説ではそういうことはありえないのです。そして、現実にそうなっています。
結局、進化とは環境への適応ではないのです。進化とはステップアップ(質の向上)であって、「同じレベルでの横方向の変化(環境への適応で)」ではないのです。
従来の発想のように「数の増加こそが大事だ」という発想を取ると、「質の向上」という進化の本質を見失います。だいたい、「質の向上」がなければ、「進化」という概念そのものが成立しなくなります。ただの「違い」があるだけで、「進化」という概念は成立しなくなります。自己矛盾でしょう。
そもそも、「質の向上」を説明するために、「数の増加」を利用しただけなのに、いつのまにか手段にすぎない「数の増加」という概念がご主人様にのさばってしまっています。本末転倒。主客転倒。物事の本質を見失わないでください。数ばかりにとらわれると、物事の本質を見失って、平然としていることになります。
詳しくは
→ 進化論の初歩
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_05.htm
この全体をすべて読んでください。(つまみ食いは駄目です。)
>『数の増加』と『質の向上』は環境によってどちらが有利かが変わる生存上の戦略の一つに過ぎないと思いますが。
面白い見解ですが、妥当ではありません。
というのは、産卵数と子孫数とは一致しないからです。ミツバチでは、生まれる個体のほとんどは不妊であり、子孫を残すのは新女王バチだけです。その意味で、ミツバチでも、子孫を残せるような個体数を見る限り、実質的にはわずかな卵しか生まないのと同様です。
数(特に遺伝子の数)ばかりに着目していると、物事の本質を見失います。働きバチの遺伝子数がどんなに増えようと、そのことはミツバチの長期的な個体数には何ら影響しません。その一世代においてコロニー内の個体数を増やすだけです。
そもそも、『数の増加』は産卵数を増やすことで可能ですが、『質の向上』は非常に難しいのです。たとえば、細菌が環境に適応するために(一挙に)人間になることは不可能です。『質の向上』がいかに困難であるかを理解しないと、進化の本質を理解できません。
>自然淘汰説に従えば、鯨がエラをもつことは鯨にとって有利なので、鯨が魚類になることがあるかもしれませんが
この部分は、仮に比喩としても不適切なように思います。自然淘汰説に則って「鯨がエラをもつことは鯨にとって有利」であるという主張をしている生物学者や進化論者は居ないと認識しております。また自然淘汰説の中にそのような説明があるとは聞き及びません。このような説明は折角の御説にとって瑕疵でしかないように思います。
また、
>無性生物 → 節足動物 → 魚類 → 両生類 → 爬虫類 → 哺乳類
>という進化の段階があり
という表現も誤解を招きやすいかと思います。この場合は「節足動物」というよりも「無脊索動物」とする方がより正確かと思います。
あと、南堂さんは本質的な問題ではないとお考えかもしれませんが、敢えて。
>ミツバチでは、生まれる個体のほとんどは不妊であり
とありますが、働きバチは「後天的」な不妊であることを考えれば、誤解を招きやすい表現であると思います。
ちょっと舌足らずでしたね。
「鯨がエラをもつことは鯨にとって有利」
というよりは、
「鯨がエラをもつ魚になると、個体数が増えるという意味で有利」
というふうに解釈してください。巨大な鯨の個体数よりは、小さな魚の個体数の方がはるかに多い。一般に下等生物ほど、個体数が増えて、遺伝子数が増えます。
前にも述べましたが、「遺伝子が増える方向に進むのが進化」ということからは、「高等生物から下等生物に退化するのが進化である」というふうになってしまいます。そのことがいいたかったわけです。特に鯨の肺だけがエラになることを意図しているわけではありません。鯨全体が魚になってしまうことを意図しています。
「無脊索動物」の件は、おっしゃるとおり。
生物にとって生存が大切であるという主張をするにあたって、「個体の生存」がなににも増して重要であるという考えは南堂さんの否定するところであると思いますが(「系統の存続」が優先されるため)、一つの種から進化して新しい種に分かれたとすると、新しい種の存続は古い種にとっては生存上の競争相手となりうるために、必ずしも望ましいものではないことになります。クロマニョン人はにとって人類の存続は「どうでもよい」ことなのですか?それとも地球上の生物としての進化の過程を継承した種として評価されるものなのでしょうか。古い種にとって(派生して)新しい種を生み出すことが目的ならば(質の向上が「進化=古い種から新しい種の追加」によって成し遂げられるとして)、その「進化」によってその「古い種」の存続がおびやかされてしまうと言えるかもしれません。
古い種の「存在意義」が新しい種へと移って未来へと継承されてゆく、というような考え方もできると思いますが、そのようなものが生物学的にあるのかどうかも分かりません。
もう一つ、産卵数を増やすことによる数の増加はその世代のみの短期的なものであり、長期的な増加はむしろ「繁栄」とでも呼んだほうがよく、南堂さんが批判的である「遺伝子の増加云々」にかんしてはこの長期的繁栄のほうにより当てはまるように思えますが。繁栄と衰退は表裏一体で、繁栄しないものは衰退していくわけです(0より上の平衡状態は続かない)。となると生きている以上生物は繁栄を目指し、質の向上はそのための手段と考えるのが自然ではないですか。
結局堂々巡りになっているような。
それこそが真実、ですかね?
調子付いてひとつ質問することをお許しください。
無脊索動物→魚類 ということは、
節足動物や頭足類などはどれだけ進化しても無脊索動物という階梯に停滞しているものであり、
たとえどれほど環境に適応し高度な社会構造のように見えるものを構築していても
魚類よりも低級である/脊索を持つという一点において魚類のほうが高級である、
という解釈でよろしいでしょうか。
はい。
ただし、その説明をするには、従来の説明だけでは不十分で、新たにまったく別の原理を提出する必要があります。今までの記述からは結論できないことなので、詳しくは説明しません。ここでは結論だけ示しています。
直感的に言えば、ミツバチがいくらスズメバチに強くて、その意味では人間よりも優れているとしても、ミツバチの方が人間よりも進化しているということはありえません。
環境への適応は、進化のレベルには関係なく、進化の方向を変えるだけです。系統樹の横方向だけ。縦方向とは関係ない。自動車で言えば、幅広い道路のどの車線をたどるかという違いであって、先へ進むか否かとは関係がない。
この意味で「環境への適応が進化をもたらす」という従来の説を全否定しています。
当方の質問の意味を少々拡大気味に捉えられたのではないかと危惧します。
私が伺いたかったのは魚類と節足動物の比較においての解釈です。
人間とミツバチを比較する意図は毛頭ありません。
ですから、
「全ての節足動物は魚類よりも低級である」という解釈で良いわけですね?
(論じるには多大な分量が必要です。)