2008年02月01日

◆ ミツバチの教訓 3 (生物の原理)


 前項 の続き。
 人々はなぜ、真実を見失ったのか? 人々はなぜ、「生存」という本質のかわりに、「自然淘汰」という副次的なものにとらわれたのか?
 それは、人々が数字にばかりこだわるからだ。「数字で表現すれば真実をつかめる」と信じて、この世界をあるがままに見渡すことができなくなったからだ。 ──

  ※ 前項の (5) 〜 (6) に引きつづき、(7) 〜 (9) を述べる。

 ──

 (7) 演繹主義(単一の原理から)

 すでに述べたように、「自然淘汰」というものは副次的なものだ。それは決して間違いではないが、生物を解明するための唯一絶対の原理などではなくて、あくまで副次的なものにすぎない。
 なるほど、「自然淘汰」という原理は、目立つことは目立つが、本当は、目立たない「生存原理」の方が本質的なのだ。(ふだんは目立たないので、意識されないが。)
 ではなぜ、人々は「自然淘汰」という原理にばかりこだわったのか?

 実は、これと似た事情は、他にもあった。それはダーウィンやドーキンスの方針だ。
 ダーウィンは、「個体淘汰」という単一の原理ですべてを説明しようとした。(しかしそれでは片付かなかったが。)
 ドーキンスは、「遺伝子淘汰」という単一の原理ですべてを説明しようとした。(それで片付けたと信じた。……実は勘違いだったのが。 → 前述
 ともあれ、ダーウィンもドーキンスも、「単一の原理ですべてを説明しよう」という発想を取った。これを「演繹主義」と呼ぼう。

 演繹主義は、数学の「公理主義」に似た発想だ。公理は一つではないのだが、とにかく基本となる公理からあらゆる命題を演繹的に定理として導き出そうとする。それが「公理主義」だ。そして、同様のことを他の分野でなそうとするのが、「演繹主義」だ。
 演繹主義によれば、理論としては厳密になる。だが、厳密になるということが、真実をつかむということなのか? 

 ここを多くの人々が誤解した。
 「学問として厳密であるということは、学問として真実をつかむということだ」
 と。しかし、そんなことはないのだ。厳密であることと真実であることとが一致するのは、数学のように「虚構世界の学問」である場合だけだ。そこでは、いくらでも厳密な理論を構築できる。だが、それは現実との接点を持たない。それは現実世界に直接的な産物をもたらさない。
 このことをアインシュタインは皮肉った。
 「数学は処女のように純粋だ。だから何も生まない」
 まさしくその通りだ。アインシュタインは数学に詳しいから、数学の限界をよく知っていた。一方、数学のことをよく知らない人は、数学コンプレックスにとらわれているので、「数学の方法を取れば学問が真実に近づけるぞ」と思い込む。それが勘違いだとも知らずに。

 (8) 複数の原理を受け入れる

 では、どうすればいいのか? 演繹主義を捨てればいいのか?
 いや、何かを捨てるだけでは駄目だ。何かを捨てるだけでなく、別の何かを取る必要がある。では、何を?
 実は、これは、方法の問題ではない。「演繹主義を取る」というのをやめて、「別の主義を取る」というふうにすればいいのではない。
 これは、方法の問題ではなく、より根源的な問題なのだ。いわば、心構えの問題なのだ。
 演繹主義の根源には、われわれの心構えがある。演繹主義を取るとき、次のように考えているはずだ。
 「単一の原理で世界のすべてを説明する、というのが可能だ」


 しかしこれは、ただの思い込みだ。現実には、そんなことはない。
 たとえば、生物には、(単一の原理でなく)たくさんの原理が成立している。最重要の原理は、「生存原理」だが、他に、「自然淘汰」という原理もある。また、血液の流動には物理学的な原理が働いているし、呼吸などでは酸化還元などの化学的な原理も働いている。
 また、一つの個体の内部を見ても、「利己主義」と「利全主義」がともにせめぎあっている。どちらか一つの原理で片付くわけではない。( → 前出 の「葛藤」)

 とにかく、こういうふうに、生物の内部では、たくさんの原理が働いているのだ。とすれば、「単一の原理ですべてを片付けよう」などとは思ってはならない。むしろ、たくさんの原理を、あるがままに受け入れるべきだ。

( ※ たとえば、ダーウィンやドーキンスは、ミツバチの利他的行動を見たとき、「自然淘汰という単一の原理ですべてを片付けよう」などとは思わなければよかった。そうすれば、そのあとで、「利全主義」という原理を見出せたかもしれない。)

 (9) 大自然と向かいあうこと

 「単一の原理ですべてを片付けよう」などと思うべきではない。これは、方法論の問題ではなく、心構えの問題だ。なぜなら人々は、こう思い込んでいるからだ。
 「単一の原理で世界のすべてを説明する、というのが可能だ」
 と。
 しかし、この思い込みは、「思い上がり」とか「自惚れ」とか称するべきものだ。現実には、そんなことはないのだから。この世界の大自然は、ちっぽけな人間の唱えるたった一つの原理で語り尽くせるほどに、単純ではないのだから。
 むしろ、われわれは、この世界の複雑さに感嘆するべきだ。「この世界をすべて語り尽くせる」などとは思わず、「この世界には語り尽くせないことがたくさんある」と自覚するべきだ。
 要するに、思い上がりを捨てて、謙虚さを持つべきだ。


 演繹主義の根底にあるのは、思い上がりだ。
 「ただ一つの原理ですべてを語りつくることができるだろう」
 という思い上がり。それはまるで、小人が「おれは山を動かせるほど力があるぞ」と過信するようなものだ。あるいは、ただの人間が「自分は偉大な神のようなものだ」と自惚れるようなものだ。しかし人間は、造物主ではない。むしろ、被造物の一つだと言える。つまり、多種多様な生物のうちの、ほんの一種の生物にすぎない。
 では、人間は、最高の生物か? いや、人間は、きわめて非力な生物である。空を飛ぶこともできず、水中で呼吸することもできない。走るのも遅いし、木登りも下手だ。体表に厚い毛が生えていないので、裸で暮らすことすらできない。文明の利器を手放した人間という生物は、ほとんど無力である。
 人間においてただ一つ優秀なのは、脳である。それだけだ。とはいえ、その脳も、真実を見抜くために使われるというより、自惚れるために使われるばかりだ。── 人間は、「自分はたった一つの原理で真実を語り尽くせるぞ」という自惚れだけはたっぷりあるが、「自分はいまだ真実を見抜いていない」と気づくだけの謙虚さはないようだ。

 ここに至って、ようやく、われわれのなすべきことがわかる。
 それは、世界のすべてを説明しようとして、万能の絶対的な原理を求めるかわりに、まずは、心を空無にすることだ。そして、空無にした心で、この世界のすべてと向かいあいながら、目を開いて、耳を澄ませることだ。そのとき、感じ取ることができるだろう。この世界の奥にひそむ精妙さを。この世界から届いてくる多重の響きを。
 この世界は、単一の原理のみで構成されているのではない。この世界はたくさんの原理から構成されており、それらのものが複雑に重なって効果を及ぼしている。
 そのことは、音楽にも似ている。── われわれは世界と向かいあう。世界に鳴り渡るメロディを聞く。しかし、聞こえるのは、メロディだけではない。メロディの奥には、複数の楽器の伴奏があり、複数の声のコーラスもある。それらがたがいに重なりあって、全体として和声をなしている。その和声が美しい響きとなるのだ。── それは、単一の楽器による単純な響きとは違うものであり、多様なものが重なりあって生じるものだ。しかも、そこには、混然とした乱雑さがあるのではなく、整然とした調和がある。

 この世界には、多様な原理があり、それらが重なりあっている。われわれの目に触れるのは、「自然淘汰」というような、単純で目立つ原理だけかもしれない。しかし、メロディの背後には、複雑な和声がひそんでいる。それを聞き取り、それを聞き分けるということが、多種多様な生物の真実を知るということだ。




 ※ 話はここでいったん完結しています。
   このあと、次項では、補足的なことを記します。
posted by 管理人 at 22:03 | Comment(0) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
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