前項 の続き。
働きバチはあえて不利な形質を取る。では、なぜ?
それは、不利な形質を選ぶ方が、遺伝子は増えるからだ。
このことは、一見、矛盾に聞こえる。まるで「減るものが増える」というふうな。しかしこれは、矛盾ではなくて、逆説である。
( ※ 逆説 = 嘘に思える真実 ) ──
前項の本文の最後では、次のように述べた。
“ ここでは、「利全主義」を取るために、「利己主義」を最小化した。つまり、「不妊」という方法を取った。”
ここでは、不利な形質(= 不妊)をあえて取っていることになる。では、なぜ、不利な形質を取ったものの方が残るのか? それではまるで、
「不利なものが増える」
ということが成立することになりそうだ。これは矛盾ではないのか?
実は、これは矛盾ではない。ここでは、
「不利なものが増える」
ということがまさしく成立するのだ。嘘みたいなことが成立するのだ。
ただし、そう聞くと、たいていの人は眉に唾をつけるだろう。
「不利だということは、遺伝子が減るということだ。不利なものが増えるというのは、減るものが増えるということであり、自己矛盾である」
なるほど、たしかに一見、矛盾に思える。しかし、よく調べると、矛盾ではない。そのことを示すのが、本項のテーマだ。
──
なお、次の疑問も生じるだろう。
「不利なものが増えるとしたら、『有利なものが増える』という自然淘汰説を否定しているのか?」
と。それには、
「イエス」
と答える。ただし、いきなりそう答えると、目を吊り上げる人が出てくるだろう。
「自然淘汰説を否定するなんて、創造説でも信じているのか? そんなのはトンデモだ」
というふうに。しかしそれは、早とちりである。ここでは、自然淘汰説を否定するといっても、全否定しているのではなく、部分否定しているだけだ。
その違いは、次の通り。
・ 全否定 …… 「その説がまったく成立しない」と述べる。
・ 部分否定 …… 「その説が成立しないこともある」と述べる。
本項では、全否定ではなく、部分否定をするだけだ。つまり、「例外的な場合もありますよ」と指摘するだけだ。
これはどういうことかというと、「自然淘汰説を拡張する」ということだ。大部分の場合は、自然淘汰説で済むのだが、場合によっては、自然淘汰説が成立しない例外的なこともある。そこで、そういう例外的なことにも当てはまるように、理論をひろげるわけだ。
比喩的に言おう。ニュートン力学があるときに、それを拡張する形で、相対論が出た。たいていの場合(日常的な速度の場合)には、ニュートン力学で済む。しかし、それでは済まない例外的な場合もあるので、そういう例外的な場合にも当てはまるようにしたものが、相対論だ、と見なせる。(ま、原理は全然違うが。)
ここでは、「相対論はニュートン力学を全否定している」という評価は妥当ではない。「相対論はニュートン力学を部分否定している」という評価が妥当である。
本項と、自然淘汰説との関係も、これと同様だ。
・ 自然淘汰説は、「すべては自然淘汰で説明できる」と見なす。
・ 本項は、「自然淘汰で説明できない例外もある」と見なす。
こういうふうに、例外的な場合にまで拡張するわけだ。
──
まとめて言おう。
血縁淘汰説であれ、利己的遺伝子説であれ、「自然淘汰」という原理のもとで、すべてを説明しようとした。ミツバチの利他的行動もまた、「自然淘汰」という原理のもとで説明しようとした。
本項は、違う。「ここでは自然淘汰という原理は成立しない」(ここは例外である)と考えて、「自然淘汰」とは別の原理を導入しようとする。
つまり、本項は、次のように考える。
「自然淘汰は、基本的な原理であるが、唯一無二の絶対的な原理ではない。例外的な場合には、自然淘汰という原理は成立せず、別の原理が成立する」
では、別の原理とは? それを示すのが、本項の意図だ。
────────────────────────
いきなり核心を述べておこう。
本項では、次のことを示す。
「不利なものの方が増える」
これは、常にそうなるという意味ではなく、そういうこともある、という意味である。
これは一見、矛盾に聞こえる。だが、これは矛盾ではない。そのことは、「リスク」という概念から理解される。
──
「リスク」という概念を説明しよう。
利益率の大きいものと、利益率の低いものがあった場合、最終的に得られる利益は、どちらが多いだろうか?
たとえば、年利5%の投資と、年利1%の投資は、最終的に得られる利益は、どちらが多いだろうか?
「もちろん年利5%の投資の方が、得られる利益は多い。当り前だ」
と思う人が多いだろう。しかし、である。そう思って、年利5%の投資に金をつぎこんだ人は、つぎこんだ金のほとんどを失ってしまった。
これは実話である。たとえば、「平成電電」とか、「近未來通信」とかだ。年利1%が普通である時代に、圧倒的に利益率の高い金融商品を呈示されて、そこに金をつぎこんだ人々がいる。彼らは、つぎこんだ金のほとんどを失ってしまった。
ここでは、「利益率の高い方が増える」ということは成立しない。なるほど、最初の数カ月だけなら、「利益率の高い方が増える」ということが成立する(ように見える)のだが、それはいつまでも続かないのだ。
( ※ 同様の詐欺に引っかかる人は、しばしば現れる。数年前だが、マイカルの社債や、アルゼンチンの国債という例がある。)
──
この投資の話は、「ハイリスク・ハイリターン」および「ローリスク・ローリターン」という概念で説明される。
ハイリスク・ハイリターンの方は、利益率が高い。利息はどんどん増える。つまり、「増えるものは増える」という感じで、どんどん増えていく。利益率が高いという意味で、こちらの方が有利である。
ローリスク・ローリターンの方は、利益率が低い。こちらは逆で、不利である。
しかしあるとき突然、バブルが破裂するように、突発的な事件が起こる。とたんに、ハイリスク・ハイリターンの方は、金のすべてが紙屑になってしまう。次の図のように。

要するに、リターン(利益)だけを見ていては駄目なのだ。リスク(危険度)をも考慮する必要があるのだ。
そう言われると、「当り前じゃないか」と思う人が多いだろう。しかし、進化論学者は、このことを理解しない。彼らは、利益だけを見て、危険度を見ない。あらゆるものを「利益」という尺度だけで見て、「危険度」という尺度で見ない。
ま、それでも、たいていの場合は問題ない。なぜなら、危険度がゼロ同然だからだ。そういう場合には、危険度を無視してもいい。
しかし、例外的な場合には、危険度が非常に高まる。たとえば、スズメバチに襲われるミツバチがそうだ。ここで、「増加率」だけに着目して、「生物は利益の増加だけを目的として行動する」というふうに発想すると、危険度こそが重要だということを認識できなくなる。
────────────────────────
リスクという概念を、すでに知った。この概念を用いると、ミツバチの行動(前項で述べたこと)を、うまく説明できるようになる。
ミツバチはあえて、不利な方法を取る。不妊という方法を。── それは、(増加率という)利益が少ない。つまり、遺伝子をたくさん残すことができない。
では、なぜ、そんなことをするのか? そのことは、前項で示された。つまり、
「コロニー全体の全滅を防ぐため」
である。そして、このことは、次のように言い換えることができる。
「自己の利益を増やすよりも、自己の危険度を下げるため」
ミツバチには、二つの戦略が考えられる。次のように。
・ 利益の最大化 (ハイリスク・ハイリターン)
・ 危険度の最小化 (ローリスク・ローリターン)
その結果、どうなったか? 先の図の通りである。つまり、こうだ。
前者は、あるときまでは利益を増やしていった(増加率が高かった)が、突然、全滅した。
後者は、短期的には利益をあまり増やせなかったが、全滅することがないので、長期的には大きな利益を得るようになった。
このことは、次のようにまとめることができる。
「増加率の最大化よりも、危険度の最小化の方が、優先される」 …… (*)
ミツバチにとって大切なのは、「増加率の最大化」でなく、「危険度の最小化」である。そういう戦略を取ったミツバチだけが存続できた。逆に、「増加率の最大化」を狙う戦略を取ったミツバチは、あるとき突然、スズメバチに襲われて、全滅してしまった。
──
では、「危険度の最小化」とは、いったい、何のことなのか? 「増加率」という概念ならば、わかりやすいが、「危険度」という概念は、わかりにくい。
そこで、同じことを、より明確に示すために、物事を逆の見方から説明しよう。こうだ。
「危険度を最小化するということは、生存率を最大化するということだ」
このことに基づいて、先の (*)を書き直せば、こうなる。
「増加率の最大化よりも、生存率の最大化の方が、優先される」
ここでは、「最大化」という用語がダブっている。この部分を省いて、本質だけを示せば、こうなる。
「生物にとって何より大切なのは、増加(自己複製)ではなく、生存である」
要するに、最優先となるのは、「生存」なのだ。
「増加率」がどうのこうの、というのは、あくまで二の次である。増加することは、「生存」という前提が満たされた上で、ようやく目的となる。もし「生存」という最優先の目的が脅かされたなら、「増加すること」などは目的としては吹っ飛んでしまう。
ミツバチの利他的行動において問題となっているのは、「生存」である。ここでは、最優先の目的が問題となっている。にもかかわらず、その問題を副次的な「増加」の問題として論じようとするのは、あまりにもお門違いだ。
比喩で言おう。たとえば、ダンプカーが襲いかかってきて、今すぐ逃げなくてはならない。そのときに、目に見える利益ばかりを目的とする阿呆は、「道に百円玉が落ちているから、それを拾おう」とする。こういう阿呆は、目に見える利益ばかりを重視して、(目に見えない利益である)生存をないがしろにする。……こういう阿呆は、まるで、ハミルトンやドーキンスだ。あるいは、たいていの進化論学者みたいだ。
たいていの進化論学者は、あらゆる出来事を「増加率」(遺伝子の増減)だけで論じる。それゆえ、危険度を無視する。だから、ハイリスク・ハイリターンこそが最善だと思い込む。
しかしミツバチは、進化論学者ほど愚かではない。ミツバチは、「増加」よりも「生存」を優先する。重大なリスクにさらされたなら、増加を犠牲にしても、生存を選ぶ。
しかるに、そんなミツバチを見て、進化論学者は不思議がる。「ミツバチはどうして、あえて不利な方を選んだのだろう?」と。
彼らは「不思議だ、不思議だ」と、しきりに首をひねる。なぜなら、彼らは、「増加よりも生存が大事だ」ということを理解できないからだ。
──
結論。
ミツバチはあえて不利な方法を取る。「不妊」という方法を。つまり、増加率の低い方法を。自己の遺伝子をたくさん残せない方法を。
それを見て、進化論学者は「なぜだろう」と首をひねる。彼らは「自然淘汰こそ絶対的な原理だ」と信じているので、その原理からはずれる出来事を理解できない。
しかし、「自然淘汰」という原理は、「増加」を目的と見なす原理だ。「遺伝子を増やすことが有利だ」という発想をする原理だ。そこには、「増加よりも生存が優先される」という発想がない。そのせいで、「生存が危険にさらされた場合にはどうするか」ということを理解できない。
生物にとって何よりも大切なのは、「増加」よりも「生存」なのである。その真実を見失ってはならない。
( ※ 当然ながら、「生命の本質は自己複製だ」などと思ってはいけない。この件は以前、「自己複製よりも、系統を存続させること(= 世代交代)が大事だ」というふうに説明した。 → 利全主義と系統 (生命の本質) )
──
最後に一言。
本項では自然淘汰に代わる「別の原理」を示す、と先に述べた。では、別の原理とは? それは、こうだ。
「生物は生きようとする」(生きるものは生き、滅びるものは滅びる)
これを「生存原理」とでも呼ぼう。
自然淘汰は、
「生物は増えようとする」(増えるものは増え、減るものは減る)
と表現することが可能だ。これはこれで成立するが、しかし、これは「生存原理」よりも後に来るものだ。生物にとっては、「自然淘汰」よりも「生存原理」が基本的である。── それというのも、生物にとって何より大切なのが、「生存」だからだ。
※ さらに詳しい説明を加える。繰り返しとなる冗長な部分もあるが、
重要な話も多い。特に [ 付記4 ] では重要なことを述べる。
[ 付記1 ]
本項で対比されているのは、「増加率」と「生存率」である。── この両者は、どちらも同じことのように見えるかもしれないが、別のことだ。その違いを示すのが、本項の趣旨である。
そして、両者がどう違うかを説明するのが、「リスク」という概念だ。この概念を用いて、先の図のように示された。
通常は、「増加率の高い方が、遺伝子は増える」と信じられている。これは、リスクが高い場合には成立しない。なるほど、あるときまでは成立するのだが、あるとき突然、全滅となる。そうなったら、もはや増加率など、無意味なのだ。
結局、リスクが高いときには、「増加率」と「生存率」とは異なるのだ。
自然淘汰説では、
「有利なものが増える」
と述べられる。それは、リスクが低い場合には成立するが、リスクが高い場合には、成立しないこともある。
自然淘汰説は、一定の条件が満たされる場合のみ、成立するだけだ。そして、長い進化の歴史では、その条件からはずれることは、しばしば起こった。その証拠が、絶滅種だ。たとえば、恐竜、サーベルタイガー、オオツノシカなど。これらでは、「優れた種が、あるとき突然絶滅する」ということが起こった。
[ 付記2 ]
絶滅種が生じることについては、
「環境が変化したからだ」
というふうに説明されるのが普通だ。それはそれでいい。では、「環境が変化する」というのは、何を意味するのか? そのことを理解していない人が多すぎる。思考がストップしてしまっているようだ。
「環境が変化する」
というのは、次のことを意味する。
「有利と思えたものがもはや有利ではなく、不利と思えたものがもはや不利ではない」
換言すれば、こうなる。
「有利 ・不利の違いは、固定的ではない」
さらに換言すれば、こうなる。
「『有利なもの』という固定的なものは存在しない」
ここから、次の結論が得られる。
「有利なものが増える、とは必ずしも言えない」
ある生物は、有利になったり不利になったりするのだから、それを「有利なもの」と固定的に考えて、「有利だから増え続ける」と思うのは、早計である。昨日成立したことは、明日成立するとは限らない。有利とか不利とかいう概念は、女心と秋の空であって、不安定に変わるものなのだ。
とすれば、「有利だから増える」というような固定的な発想をしても、それが現実とは食い違ってしまうこともある。
[ 付記3 ]
「有利だから増える」とは言えないこと。その具体的な例を示そう。
たとえば、利己的なミツバチがいると仮定しよう。自分の子を産んで、かつ、ハチの一刺しをしないミツバチだ。こういうミツバチは、利他的行動を取らない。スズメバチが襲いかかってきても、ハチの一刺しをやるのは、他のミツバチに任せて、自分はひっそりと隠れている。こういうミツバチは、コロニーのなかで有利だから、どんどん数を増やす。まさしく、「有利なものは増える」ということが成立する。最初は数匹ぐらいだったが、やがて、数十匹、数百匹、数千匹となる。大半が利己的なミツバチとなる。こうなるともはや、利他的(利全的)にふるまうミツバチはごく少数になる。すると、スズメバチが襲いかかってきたとき、突然、全滅する。
つまり、ある時点までは「有利なものは増える」「増えるものは増える」ということが成立したのだが、ある時点になると、「一挙に全滅」というふうになる。
[ 付記4 ]
上の例から、重要なことがわかる。
仮に働きバチが不妊でない(自分の子を産む)としよう。その場合、働きバチの突然変異は、その子に伝わる。もし有利な突然変異が生じれば、その突然変異は子に伝わる。すると、「有利なものが増える」というふうになる。(自然淘汰が成立する。)ハチの一刺しをしないミツバチが突然誕生すれば、有利であり、かつ、自分の子を残すので、その形質は集団のなかで急速に広まる。そして、その結果、集団は全滅する。
つまり、働きバチが不妊でなければ、自然淘汰が成立して、有利なものが増えてしまい、結果的に全滅する。── だからこそ、働きバチは不妊になる必要があった。自然淘汰を成立させないために。
こうして、働きバチが不妊である真の理由がわかった。不妊の目的は、集団の絶滅を避けることだ。そして、不妊の意味は、「集団内で自然淘汰を成立させないこと」(有利なものが増えないようにすること)だ。仮に集団内で自然淘汰が成立すれば、集団は全滅するのだから。
これまで人々は、不思議に思った。「働きバチはなぜ不利な方法を選ぶのか?」と。その理由は、ようやく判明した。「不利な方法を選ぶからこそ、ミツバチは存続したのだ」と。
仮に、不利でない方法(不妊でないこと)を選んだなら、とっくに絶滅していたのだ。つまり、集団内で「自然淘汰」が成立していれば、とっくに絶滅していたのだ。── ここでは、「(子孫の)増加」という目的を捨てることが、「生存」を得るための方法なのだ。
※ 以下は、[ 補足 ]である。 特に読まなくてもよい。
[ 補足1 ]
とにかく、「有利なものが増える」とは言えないわけだ。
これはつまり、「自然淘汰」という原理が成立しない、ということだ。そういうことは、まさしくあるのだ。不思議に思えるかもしれないが。
ただし、だからといって、「自然淘汰」という原理が全否定されるわけではない。部分否定されるだけだ。── つまり、「自然淘汰」という原理は、たいていの場合に成立するのだが、ただし例外的な場合もあるわけだ。
では、例外的な場合とは? それは、「全体の生存が脅かされた場合」である。そういうときにまで、「自然淘汰」という原理ばかりにこだわると、真実に近づくどころか、真実から遠ざかる。
たとえば、日本という国が外敵に侵略されかかったとしよう。ここで、たいていの人は、「自分の利益は二の次だ。全員の生存が最優先となる」と考えるだろう。そう思ったならば、日本という国は存続できる。しかし、そう思わなければ、日本という国は全滅する。日本という国が、そのときまでどれほど有利であったとしても、有利であることは、生存を保証しない。
ここで、目先の利益ばかりを追うと、生存を見失ってしまう。
[ 補足2 ]
上の[ 付記2 ]では、こう述べた。
「有利・不利の違いは、固定的ではない」
このことは、数学的には、「非線形」という概念でも説明できる。
この概念は、日常用語で言えば、次のようになる。
「二度あることは三度ある、とは限らない」
ここでは 2や3という数字には、あまり意味はない。むしろ、
n と n+1
というふうに考えた方がいい。 n 回目までは成立するが、 n+1 回目には成立しない。
このことは、ギャンブラーにも当てはまる。ついているギャンブラーがいた。彼はルーレットで「赤」か「黒」に賭けた。すると n 回目まで、勝ちっ放しだった。そこで n+1 回目にも勝つと思った。しかし、あにはからんや、 n+1 回目には負けた。
これは、どういうことか? 彼は、ハイリスク・ハイリターンの賭けをやった。だから、あるときまでは、倍々ゲームで利益を増やした。すばらしい大儲けだ。しかし、これは、リスクの高い方法だった。あるときまでは利益を急激に増やしたが、あるとき突然、利益は全滅した。
なお、このギャンブラーは、「自然淘汰説」を信じていた。そのせいで、
「 n 回目までは勝ったなら、私は有利である。
私は有利だから、 n+1 回目にも勝つ」
と思い込んでいた。そのあとで、実際には負けたのだが、彼はなぜ有利な自分が負けたのか、どうしてもわからなかった。(なぜなら、リスクという概念がなかったので。)
[ 補足3 ]
「二度あることは三度ある、とは限らない」
ということは大切だ。しかしながら、現実には、多くの人はその逆を信じる。つまり、
「二度あることは三度ある」
「 n 度あることは n+1 度ある」
というふうに。まことに愚かしいことであるが、世間の大部分の人はこれを信じる。その証拠は歴史上にある。バブル期の神話だ。
「地価は今までずっと上がってきたから、今後も上がるだろう」
「株価は今までずっと上がってきたから、今後も上がるだろう」
こういう「土地神話」「株神話」を信じてきた。なるほど、たしかに数年間に渡って、これらの神話は正しかった。その神話を信じてきた人は、莫大な利益(ハイリターン)を得てきた。……ところがあるとき突然、バブルが破裂した。そのとき、手持ちの資産は全滅状態になった。
なぜ人々は、これほど愚かだったのか? 今から思うと不思議に感じられるかもしれない。しかし、それは少しも不思議ではない。人々は単に、進化論学者と同じことを信じてきただけだ。
「上がるものは上がる」
と。あるいは、
「日本経済は有利である。有利なものの経済力が高まるのは当然である」
と。こうして、人々は、現状の「経済力が上がる」という傾向が永続すると信じてきた。
そして、バブル当時の日本国民と同じ発想をしているのが、今現在の進化論学者だ。彼らはこう思う。
「増えるものは増える」
と。あるいは、
「自然淘汰の勝者は有利である。有利なものが増えるのは当然である」
と。彼らはいずれも「バブル破裂」と同様の「突発的な破滅」があることを理解できない。彼らの頭にあるのは、
「 n 度あることは n+1 度ある」
という単純な発想だけだ。(これは、数学的には「線形」の発想である。)
[ 補足4 ]
突発的な変動は、数学では、「非線形」のうちの「カタストロフィ」という分野で論じられる。自然淘汰を絶対視して疑わない人々は、「非線形」や「カタストロフィ」という概念を理解できないのである。彼らの原理はただ一つ、「二度あることは三度ある」ということだけだ。
こういう数学音痴の人々に真実を教えるために、ローマクラブが「ハスの葉クイズ」というものを出した。
「ハスの葉は一日に2倍に増えます。30日たったら池全体がハスの葉に覆われます。そのとき魚は窒息して全滅します。では、池の半分が覆われるのは何日目ですか?」
そそっかしい人の解答は、
「 30日の半分にあたる 15日だろう」というもの。しかし正解は、「 29日目」である。
つまり、29日目までは、「まだ大丈夫」と思って油断をしている。しかし、「もうそろそろ危ないな」と思ったときには、最後の日の直前にまで来ている。人々は、滅亡の直前にまで、危機が迫っていることに気がつかないものだ……という趣旨。
まるで進化論学者のためにあるようなものだ。29日目までは、「有利だから増える」と楽観していられる。しかし、あと一日たつと、すべては逆転する。それまで有利だった性質のせいで、かえって全滅してしまうのだ。ここでは、「増えるものが増える」ということは永続しない。だが、彼らはそのことに気づかないのだ。
皮肉ふうの結論。
「増えるものは増える」
とだけ述べて、それで真実を理解しているつもりになるのは、単細胞の学者だけである。
賢明な人は、非線形の現象に気づかなくてはならない。ちょうど、ミツバチが本能的にそれを知っているように。
本項を読んでも、何となく「まだ納得できないな」と感じる人もいるだろう。それはそれでいい。実は、本項は、まだ完全に説明しきったわけではない。抜けている点もある。
本項では、おおまかに、「こういう考え方もあるのだな」と理解すればよい。この考え方が妥当であることの根拠は、数日後に示される。
タイムスタンプは下記。 ↓
タイムスタンプは下記。 ↓
ひとあたり読ませていただきましたが、いくつか疑問を。
ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンを比較するというのは少し問題がありませんか?
ローリターンということは、少なくとも利益はある(=有利)なわけで、絶対的に不利である、とは言えないかと思います。(ノーリターン、もしくは限りなく0に近いリターンよりは有利であるという意味です)
確かにリスクが高い場合にはリスクを回避するほうが有利な生き残り戦略となることは事実で、
例えば始祖鳥のGE飛行説などのように、明らかに高いリスクを回避してより確実な利益(有利性)を取ったことで(淘汰を受けた状態から)自然淘汰をくぐり抜けたという説があります。
ですから有利・不利は相対的なもので、
不利はより不利なものに比べれば有利であり、
有利なものはより有利なものと比較すれば相対的に不利なわけで、
それこそが多様性でしょう。
環境の変化とは、お示しのグラフのようなものではなく、ある時点で座標軸そのものが変動する(場合によっては反転する)ようなものだと考えていました。
その意味でいわゆるバブルの崩壊と環境変動は比喩的にもそぐわないように思います。
> 「『有利なもの』という固定的なものは存在しない」
これは言わずもがなだと思います。
遺伝学者や生物学者、進化論者らがそんなことは言っていないというなら、
(南堂さんの言い方を借りるならば)彼らは「言わずもがなのことは書かなかった。(述べなかった)」だけではないでしょうか?
ですから
> 「有利なものが増える、とは必ずしも言えない」
というのは私には論理としてしっくりきませんね。
増えている時点においては、その理由は有利だからですし、
「有利」というのは、その形質(行動様式を含む)が「分岐点の時点(増え始める時点)において」有利に作用したという解釈で問題ないと思いますが。
淘汰圧は常に均等に(固定的に)かかるわけではありませんが、「増えられる」環境が持続する間は増えるわけでしょうし。
その期間を取り出してみれば「有利なものが増える」は間違っていないのではないでしょうか。
不利(少ないが有利)なものも、勾配は小さいながら上昇しているわけですから、これも「有利さは少なくても増えられる」といえるかと思います。
現在において不利(比較的有利性が小さい)と思われる形質も、
過去のある時点でその集団にとって有利な戦略として機能し、
その結果その集団がその後も存続したとするとき、
それが「現在の生存」に「さほど不利でない」なら保持されていても問題は無い、という解釈は可能でしょうか?
退化するにもエネルギーは必要(淘汰を潜り抜けて退化の方向に進化することは容易ではないですから)ですし、
いろいろと大きなリスクになり得ます。
とりあえずの生存のために(退化させる必要が無いなら)そんなリスクを負うことはしないでしょう。
だから現時点で一見すると不利(実際には存続のためには不利ではない)形質が残っているという推論です。
そしてこれは正しく「自然淘汰」という現象だと思います。
(長文失礼しました。・・・ゴミ箱行きかなあ)
そこで、そういう反論に対しても納得してもらえるような書き方をしたつもりですが、それでもまだ納得できないようであれば、仕方ありません。私の言いたかったことが理解してもらえなかったのでしょう。仕方がないです。ミジンコの運命を理想だと思ってください。
この考えをもとに時間軸で拡張したり、いろいろ他のことに当てはめてみている。ひらめきの連続みたいなものに読めますが。
生命の最大目標が「生存」ならば、進化の早い段階で不老不死の生命体が
出現してもいいだろうし、少なくとも長寿の生き物が増えてもおかしくない。
しかしながらこの地球ではそうなっているようには見えない。それは、
生命を司る神が、生物に進化すべしという課題を与えており、そのため
個体は次の世代が自分を超える存在になることを期待し託して、
自らは滅んでいくシステムを選んでいるからではないか。そう考えついてから、
私は生まれそして死んでいく運命に、自分が置かれていることの意味が
少し理解できるような気になりました。
ここで南堂さんが主張される説は、誰もが感じる生命に関する疑問に
一つの解釈を与える、秀でた意見だと思いました。
いろいろ批判する方々がおられますが、南堂さんの表現の方法や、
例示された内容に多少の異論があったとしても、その反論を読む限り
本旨に影響を与えるような内容とは思えません。私には単に
建設的でない揚げ足取りに見えます。
ただこれら揚げ足取りの意見も結構おもしろいので、できる限り
掲載していただければと。