2008年01月21日

◇[補説] 利己的遺伝子説の修正 2


 前項では、
    遺伝子 → 個体行動

 という二段階の構造を
    遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動

 という三段階の構造に修正した。
 では、そのように修正すると、どうなるのか? 両者の違いは何か? ──

 上記の問題を扱う前に、まず、大切なことを述べておこう。それは、利己主義と利全主義の関係だ。

 利己主義と利全主義は、どちらか一方が絶対的に正しいということはない。この世界では、(場合ごとに)そのどちらも成立する。あくまで、ケースバイケースだ。
 比喩的に言おう。この世には、醤油もソースもある。どちらか一方が絶対的に正しいとか優先するというものではない。あるときには、醤油を使う。あるときには、ソースを使う。通常、どちらか一方を使い、両方をともに使うことはないが、ともあれ、そのどちらも可能だ。「どちらか一方だけ」ということはない。(「砂糖と塩」というふうに考えてもいい。とにかく、他にも似た例はいろいろとあるだろう。)

 本サイトの主張も、同様だ。「利己主義が間違いで、利全主義が正しい」というふうには述べていない。「利己主義もあるが、利全主義もある」というふうに述べている。

 図式的に書けば、次のようになる。

     《 従来 》    《 新規 》

 (誤) 利己主義 → 利全主義
 (正) 利己主義 → 利己主義 + 利全主義


 ここでは、一つから二つへというふうに、思考の幅を広げている。

 ──

 現実の例で言おう。次のような例がある。
  ・ 利己主義 …… 獲物を食い殺す。(例。ライオンがカモシカを。)
  ・ 利全主義 …… 親が子供のために奉仕する。


 このうち、前者の「利己主義」については、当り前のことである。だから、いちいち言及しなかった。だが、言及しなかったからといって、否定しているわけではない。そういうこともあるだろうが、特に取り上げなかった、というだけのことだ。

 一般的には、次のことが成立する。
  ・ 個体の生命維持 …… 利己主義
  ・ 子孫を生む繁殖  …… 利全主義


 前者は、当り前で、誰でも知っている。
 後者は、当り前ではなく、本サイトで初めて提唱された。だから、その時点では、利全主義ばかりを強調した。しかし、だからといって、利己主義というものを否定しているわけではない。単に言及しなかっただけだ。

 今改めて言及するなら、この世界では「利己主義と利全主義の双方が働く」というふうになる。

 ──────────────────────

 さて。以上のことは、当り前のことに思えるかもしれない。「わかりきったこことを、いちいちダラダラと書くな」と思う読者もいるだろう。しかし、肝心なことは、このあとだ。
 「利己主義と利全主義の双方が働く」
 ということから、ただちに、次のことが結論される。
 「利己主義と利全主義の双方が、同時に働くことがある」
 これは、どういうことか? ちょっと「矛盾」のように思えるが。

 例で言うと、次の例がある。
 「母狼の前に、熊が現れた。母狼は、どうするか? 自己の生命を優先するなら、逃げた方がいい。自己の遺伝子を優先するなら、とりあえず逃げてから、別の場所で繁殖すればいい。一方、子の生命を優先するなら、自己犠牲をしても、子を守るべきだ」

 ここでは、次の図式が成立する。
  ・ 逃げるべきだ …… (個体の利己主義・遺伝子の利己主義)
  ・ 戦うべきだ   …… (利子主義・利全主義)

 ここでは、「利己主義」と「利全主義」がともにある。そして、その双方が対立している。

 ──

 ここには「対立」がある。つまり、「矛盾」のようなものが。……では、この「対立」は、論理的に、どう解決されるか? 
 実は、論理的には解決されない。「どちらが得か?」というような損得計算では解決されない。その意味で、集団遺伝学のような発想は、まったく無効である。(少なくとも、個体行動のレベルでは。)

 この「対立」は、生物的に解決される。その意味を知るために、先の「二段階/三段階」という区別が必要となる。

 まず、二段階の発想では、
    遺伝子 → 個体行動

 という因果関係になる。ここでは、原因と結果はあるが、途中の過程はない。したがって、どう決定されるかは、判明しない。

 次に、三段階の発想では
    遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動

 という関係になる。すると、母狼の場合には、次の図式が成立する。
    ・ 利己主義の遺伝子 → 自己を守る本能 → 逃げる
    ・ 利子主義の遺伝子 →  子 を守る本能  → 戦う

 この二通りが考えられる。
 ただし、である。この三段階の過程のうち、第一段と第二段は、共存が可能だが、第三段は共存が不可能だ。つまり、「逃げる/戦う」は共存が不可能だ。「逃げる/戦う」は、同時成立はありえず、どちらか一方しか成立しない。
 すると、どうなるか? 次のことが起こる。
 「対立する本能がせめぎあったあとで、一つの決断がなされる」

 ここで、「対立する本能がせめぎあうこと」を「葛藤」と呼ぶことにすると、こうなる。
 「葛藤のあとで、決断がなされる」

 これが起こるわけだ。

 ──

 具体的な例では、こうだ。
 「母狼は、熊を見て、恐怖に駆られる。身を守るために、さっさと逃げ出したい。いつもなら、逃げ出しただろう。しかし今は、そばに子がいる。自分が逃げ出せば、子が死んでしまう。子への愛が、逃げることを禁じて、戦うことを促している。心のなかでは、二つの本能が対立する。『逃げたい、いや、戦おう……』と。言葉にはしないまま、二つの本能が対立する。そういう葛藤のあとで、最終的に、一つの決断がなされる」

 では、決断はどちらになるか? 実は、決断は個体ごとに異なる。利己主義の強い個体では、逃げ出す。利子主義(親子愛・母性愛)の強い個体では、子を守る。こういうふうに、個体差が現れる。
 ただ、その結果は、統計的に処理できる。つまり、利己主義の強い系統は断絶しやすく、利子主義の強い系統は存続しやすい。したがって結果的には、存在している個体はたいてい、利子主義が強い。とはいえ、個体変異のせいで、利己主義の強い個体も出現する。それはいわば、欠陥生物だ。それでも、全体としては健全な個体が多いので、ほとんどの個体は利子主義が強い。したがって、たいていの場合は、母狼は子を守るために戦う。

 ──

 ここでは、
 「葛藤のあとの決断」
 がある。これは、生物学的には、どういうことか? 次のように言える。
  ・ 葛藤 …… 原始的な脳における本能
  ・ 決断 …… 脳の高度な部分による総合判断


 一般に、人間のような高度な生物ほど、「決断」のための脳は発達している。一方、下等な生物では、そのための脳は発達していない。そのせいで、葛藤が起こることもほとんどなく、単なる本能だけで行動することが多い。(昆虫はたいていそうだ。)

 ──

 ともあれ、
 「対立する本能から一つを選ぶ」
 「対立する原理(利己主義・利全主義)から一つを選ぶ」
 という行動原理が判明した。これは、三段階の構造を取ることで、判明したことだ。もちろん、二段階の利己的遺伝子説からは、得られないことだ。
 利己的遺伝子説は、あくまで利己主義の枠内で考えて、「行動は利益の大小だけで決まる」というふうに考えた。つまり、「行動は利己主義だけで決まる」
 しかしながら、利全主義の発想を取れば、そうでないとわかる。行動は、利己主義で決まることもあるし、利全主義で決まることもある。その双方があるのだ。だから、「利己主義において、利益の大小だけで決まる」ということはない。(利全主義で決まることもあるから。)
 特に、利己主義と利全主義の双方が同時に働くこともある。それが「葛藤」だ。そして、「葛藤」のすえに、最終的に決断を下すのは、集団的・統計的にわかる損得ではなくて、あくまで個体レベルの脳の作用(総合判断)なのだ。

 ──

 具体的な例で示そう。
 たとえば、あなたの子供が川で溺れた。そのとき、あなたはどうするか? 「自分の身を守るのが最優先だ」と思って、子が溺れるのを平然と見ているか? 「この子が死んでも、もう1人産めば、遺伝子は残せるから同じことだ」と思って、見過ごすか? それとも、「何が何でも子を守らなくちゃ」と思って、飛び込んで、そのあげく、二人とも溺死してしまう危険を冒すか? 
 この問題に対して、ダーウィン説や利己的遺伝子説を信じる人ならば、ためらいもなく、「もう一人産めばいい」と答えるだろう。逆に、盲目的な愛情だけがある愚かな母親ならば、あっさりと飛び込んで、自分もまたあっさりと死ぬだろう。
 しかし、普通の人ならば、「葛藤」が起こるはずだ。「子を守りたい」という本能(愛)と、「自分の身が危険だ」という本能(自己保存)と、この二つの本能に挟まれて、心がせめぎあうだろう。そして、そのすえに、個人ごとに何らかの決断がなされるだろう。その決断は、あくまで個人レベルのものであって、学問的に決定できるようなものではない。もちろん、集団遺伝学なんかで判明するようなものではない。あくまで個人の心によって決まる。……そのことが、本サイトの立場からは、結論される。

 つまり、本サイトの結論は、「学問的には結論は出せない」ということだ。個体の行動を決めるのは、あくまで個体の脳(総合判断)であって、学者の考えた集団レベルの損得勘定なんかではない。個人の心を決めるのは、あくまで個人である。
 こうして、(個体の個別行動の葛藤について)「学問的には結論は出せない」という結論を出した。そして、そのことこそ、真実であるはずだ。
 なのに、結論を出せないところに、無理やり結論を出しても、真実になるどころか、虚偽になってしまう。
 「損得勘定で言えば、子を見殺しにするのが最も利益になる(繁殖率が高い)。ゆえに、溺れた子を誰もが見殺しにする」
 という結論を出しても、「もっともらしい嘘」にしかならない。真実を知るために理屈を出そうとしているはずなのに、自分の理屈を守るために真実を歪めることになってしまう。

 物事をあるがままに見れば、「本能の対立がある」とわかる。そして、そのことを理解するためにあるのが、先の「三段階」の図式なのだ。このように二段階から三段階へ修正することで、われわれは個体行動の原理について、ようやく理解し得たことになる。

( ※ 二段階の図式は、まったくの間違いではないが、不正確であったので、修正される必要があった。そして、修正すれば、真実に届く。それが本項で言いたいことだ。)

 ──

 ここまでは、「ドーキンスの説を修正する」という話だった。これについては、ここで終わり。


 ────────────────────────


 最後に、「ドーキンスはどこを間違えたか」という根源的な話をしておこう。

 ここまでの「修正」という話を読むと、「三段階でなく二段階で理解したのが不正確であった」というふうになる。学問的には、そう言える。
 ただし、より根源的な間違いがある。それは、科学的な「方針」の間違いだ。(「態度」と言ってもいい。学問的な態度。)

 そもそも、ドーキンスの方針は、何であったか? こうだ。
 「動物の行動を、統一的に説明すること」

 これこそがドーキンスの方針であり、また、ドーキンスの成果であった。実際、この方針は、結実した。まさしく、あらゆる行動を統一的に説明することに成立した。普通の個体維持の行動も、子育てなどの利他的行動も、すべて統一的に説明することに成功した。その意味で、
 「物事を統一的に説明する」
 という科学的な「方針」を実現したことになる。

 ただし、そのような科学的な「方針」そのものが、根源的に間違いだったのだ。なぜなら、この学問は、物理学ではなく、生物学だからだ。
 なるほど、物理学ならば、あらゆる現象を統一的に説明する理論が有益だ。そういう理論こそ、「科学的」と言える。しかし、生物学では、そうとは限らない。
 生物学では、物事を「統一的」に見るよりも、「あるがまま」に見ることの方が大切だ。そして、物事を「あるがまま」に見るならば、次の二つの原理がともに併存している、とわかる。
  ・ 利己主義 (個体維持)
  ・ 利全主義 (繁殖)

 この二つの原理がともに併存している。その事実をあるがままに認識することが大事なのだ。
 だから、ここでは、物事を統一的に認識してはならないのだ。物事を統一的に認識すれば、かえって真実に反することになるのだ。

 ドーキンスは、生物学の分野を科学的に説明しようとして、統一的な原理を導入した。「利己主義」という原理を。そして、その原理のもとで、あらゆる行動を統一的に説明することに成功した。
 しかし、そんなことをしてはならなかったのだ。なぜなら、事実は統一的ではないからだ。そこには、もともと二つの原理があるからだ。

 では、正しくは? 物事を、「統一的に」認識するかわりに、「生物学的に」認識することだ。すなわち、次のように。
 「個体の内部では、二つの原理が併存しており、そのうちどちらにするかを、が決定する」

 と。── これが本サイトの結論である。

 本サイトの立場を一言で言うなら、「脳決定説」(または「脳決定主義」)と言える。── 「個体の行動は、個体の利益によって決まるのでもなく、遺伝子の利益によって決まるのでもなく、個体の脳の判断によって決まる」と。
 ただし、脳の判断の前に、本能がある。その本能は、遺伝子によって、原始的な脳に組み込まれている。
 いずれにせよ、個体の行動を決定するのは、個体の脳だ。遺伝子は、脳の形成に影響するだけだ。
 以上が、本サイトの立場である。

( ※ 「脳決定主義」の本質は、「動物を生物として扱うこと」である。動物には、脳がある。つまり、心がある。この心というものが決定的に重要なものだと見なす。一方、ドーキンスのような立場は、「動物を機械として扱う」という立場だ。動物を物理法則のような一般法則に従う機械と見なして、その機械に適用される法則を探る。そして、その法則を見出したことで、「科学的に成功した」と思い込む。……しかし、本サイトの立場は、それを否定する。個体の行動において、遺伝子の影響というものは、たしかにある。本能として。ただし、最終的な決定をするのは、あくまで脳なのだ。つまり、心なのだ。この心によって、法則からの逸脱はいくらでも起こる。だから、法則のように見えるものは、何らかの原理のように見えても、あくまでただの原則に過ぎず、物理法則のような絶対的な原理とはならない。動物は機械ではない。動物は物質でもない。生物としての動物には心がある。……これが本サイトの「脳決定主義」の立場だ。当然ながら、そこでは、「一般法則を見出せばいい」というような単純な方針は否定される。)

( ※ 「脳決定主義」は、本サイトの立場であるが、あくまで仮説の一つと見なした方がいいだろう。学界で公認された理論ではない。本サイトは、「あなたの行動はあなたの脳が決定する」と主張するが、それは、学界の公的見解ではない。むしろ、異なる見解が一般的だ。たとえば、「あなたの行動は遺伝子が決定する」とか、「あなたの行動は誰も決定しない」とか、「あなたの行動を決定するものについては、何も論じないのが正しい。ただ遺伝子の増減だけを見ていればいい」とか、「比喩だけを文学的に論じていればいい」とか。……普通の生物学の分野ならば、「あなたの行動はあなたの脳が決定する」という主張が普通だが、進化論の分野では、本サイトのような見解は「トンデモだ」と批判されることが多い。生物学の世界では当り前のことを、進化論の世界で主張すると批判される。それがどうしてかは知りませんけどね。)

 ──

 【 余話 】
 オマケで、利己的遺伝子説の意義を歴史的に評価しておこう。(科学史における評価。)
 利己的遺伝子説の意義は、前にも述べたように、「天動説」の意義に近い。
 先に解説したように、利己的遺伝子説の意義は、個体行動を統一的に説明したことだ。そのことですばらしい成果を挙げ、科学的に強力な理論となった。まるで天動説のように。

 だが、すぐ前にも述べたように、個体行動の原理には、利己主義と利全主義の双方がある。ここでは、すべてを「利己主義」だけで統一的に説明してはならなかったのだ。つまり、成果そのものが根源的に間違っていたのだ。なしてはならない成果を挙げてしまったのだ。
 この意味で、天動説と同様、利己的遺伝子説はまったく間違った理論と言える。真実とは正反対だ、とも言える。

 では、利己的遺伝子説は、まったく無価値か? いや、そうでもない。天動説から地動説へと発展したように、利己的遺伝子説から脳決定説へと発展した。その意味で、利己的遺伝子説には、歴史的な意義がある。天動説と同様に、まったくの無知という状態から、はるかに発展しているのだ。
 ここでは、「真実とは正反対の地点が、かえって真実に近い」という逆説が成立する。
 比喩的に言おう。この地上で南極がどこであるかわからないで、うろうろしているときに、いったん北極に達してしまった。そこが南極だと信じたら、真実とは正反対だ。しかし、いったん北極に達したことで、極地に到達する能力を得て、そのことで、一転して、南極に行くことができるようになった。一方、北極に行かなかった人は、相も変わらず、赤道付近でうろうろと東西にめぐっているばかりだった。そんなことではいつまでたっても南極に達せないのだが。

 利己的遺伝子説は、まったくの間違いだが、ただの間違いではなく、まったくの間違いであるがゆえに、かえって真実に近づいたのだ。




 ※ 以下は、ついでに書き足した話だが、特に読む必要はない。
   「何が真実か」という話ではなく、「何が誤解か」という話。

 [ 付記1 ]
 専門家のあいだにある誤解について、解説しておこう。
  ・ 「個体は遺伝子の乗り物である」
  ・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
  ・ 「遺伝子が個体を操作する」
 というドーキンスの主張は、統計的には、次のように解釈される。
  ・ 「環境に有利な遺伝子は増える」
  ・ 「増える性質を帯びた遺伝子は増える」
 これはまあ、集団遺伝学的な解釈だ。それは間違いではない。ただし、「それだけだ」と思い込んだのが、専門家の間違いである。実は、それだけではないのだ。
 ドーキンスの主張は、集団遺伝学的な意味だけではない。つまり、個体行動において適用される。つまり、
  ・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
  ・ 「遺伝子が個体を操作する」
 ということが、個体レベルでまさしく成立する。それがたとえば、
   「働きバチは(子でなく)妹を育てる」
 というような本能だ。ここでは遺伝子が個体行動に影響している。それは個体行動の現象であり、ただの統計的な遺伝子の増減という数値を越えた現象だ。
 そして、ドーキンスの業績は、こういう「個体行動の説明」にある。集団における遺伝子の統計的増減でなく、一つ一つの個体における行動原理を、まさしく説明したこと。それがドーキンスの業績だ。それは動物行動学における業績である。
 「ドーキンスの業績は個体行動を説明したことだ」 ……(*
 このことが核心である。彼の比喩も、そのためにある。ただし、彼の業績には集団遺伝学の成果が利用されていることを見て、「彼の業績は集団遺伝学のことだけだ」と勘違いした専門家が多かった。
( ※ なぜかというと、ドーキンスがわざと勘違いさせるようなことを書いたからだが、その言葉にまんまと引っかかってしまったわけだ。字面ばかりを追って、本全体が何を意味しているかを理解できなかったので。)
 そこで本サイトは、ドーキンスの本全体が何を意味しているかを教えるために、(*)のことを記したわけだ。この指摘で、見通しが良くなったはずだ。このことを理解した読者は、ドーキンスの本を読んだとき、ドーキンスがいくら勘違いさせる言葉を告げても、それに引っかからずに、肝心の(*)を中心として、物事を理解できるようになるだろう。
( ※ ついでだが、ドーキンス自身は、「これは動物行動学の本だ」とは書かなかった。なぜか? 当り前だ。物理学者が書いた物理の本には「これは物理の本です」とは書いてない。言わずもがなだからだ。ドーキンスも言わずもがなのことは書かなかった。彼は、動物行動学者として、動物行動学の本を書いたが、「これは動物行動学の本です」とは書かなかった。しかし、そのせいで、多くの人が勘違いして、「これは動物行動学の本じゃなくて、集団遺伝学の比喩だ」というふうに思い込んでしまった。困ったことですね。)

( ※ オマケで言うと、行動の決定について、「増える遺伝子は増える」とだけ唱える立場は、トートロジーを繰り返すだけなので、どんな「説」にもなっていないだろう。内容が空っぽだからだ。それはオウムか九官鳥に似ている。空っぽな言葉を反復するだけだからだ。)

 [ 付記2 ]
 ついでに、蛇足を一つ。竹内久美子について論じておこう。専門家のあいだでは、この人はきわめて評判が悪いからだ。(女に対するやっかみ半分だろうが。)
 竹内久美子は、たとえば、次のような仮説を出す。
 「人が浮気をするのは、浮気の遺伝子があるからだ。それというのも、浮気の遺伝子がある方が、進化の上で有利だったからだ」
 こういう仮説は、まあ、与太である。与太なのであるから、「ケラケラ。おもしろい」と笑っていればいいのだが、一部のくそまじめな専門家は「けしからん。トンデモだ!」と青筋を立てて怒り狂う。こういう人は、落語を聞いても、「真実ではない!」と青筋を立てるのだろうが。
 「浮気の遺伝子」なんていう単一のものはない。もちろんだ。ただし、浮気という形質を形成するのに影響するような、複数の遺伝子はたしかに存在する。
  ・ 性欲を高める遺伝子 (男性ホルモンを形成する遺伝子)
  ・ 自己抑制能力を十分に形成できなくする遺伝子 (馬鹿の遺伝子)
 このような遺伝子は、一つの遺伝子からなるものではなく、複数の遺伝子が影響するのだが、とにかく、そういう働きをする遺伝子はある。男性ホルモンを形成するための数十種の遺伝子とか、脳の発達を促す数百の遺伝子とか。……そういう遺伝子は、確かにある。そして、その結果として、浮気が起こる。
 「性欲ばかりがやたらと高まり、自己抑制力がなくなる」
 という形で。
 そして、ここではもちろん、
    遺伝子  →  脳(本能・判断) → 行動
 という図式で、「遺伝子が個体行動に影響する」ということは成立する。

 竹内久美子の仮説は、この全過程を単純化したものだ。それは正確な表現ではないし、学術的でもない。ただし、まったくの間違いというわけでもない。単に簡略化しすぎているだけだ。
 だから、いちいちいきり立つほどのことはない。「あんまり簡略化しないで、細かい過程をすべて見るべし」と修正するだけでいい。
 ま、専門家なら、いちいち言われなくたって、自分でそのことを理解している。「この与太は、物事を簡略化しすぎた簡易表現だな」ということは、読めばわかる。だから、自分の頭のなかで修正できる。
 ただし、一部の専門家は、簡易表現を字義通りに読んで、「これは間違いだ」といきり立つ。「頭のなかで修正する」という作業ができないわけだ。本を読んで、「自分の頭で考える」「自分なりに解釈する」ということができずに、文字通りの意味でだけ読んで、そのあとの思考がストップしてしまっているわけだ。
 こういう人は、「ケラケラ」と笑って済ませられる与太を聞いて、「こいつは間違いだ」といきりたって青筋を立てることになる。もう、やってられんわ。
 というわけです。はい、お粗末でした。これにて、一席終了。……(と書くと、私も怒られるかな。言葉をまともに理解できない人々に。)
posted by 管理人 at 19:18 | Comment(5) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、遺伝子が(本能を介して)行動に作用する2つの対立した原理があって、それを脳が選ぶという説明はしっくりきますね。

そう考えると、遺伝子によって影響されるものではなく、生まれてからの学習により得られる「理性」で行動する人間の生物としての特殊性が見えてきます。さらには本能を押さえ込むような「理性」のみで行動することの危険性も示唆しているように思えます。よく言われる「心に従う」は遺伝子により発生された本能を尊重しろとも言えますし。「馬鹿であれ」とか。

「利己主義の強い系統は断絶しやすく、利子主義の強い系統は存続しやすい。したがって結果的には、存在している個体はたいてい、利子主義が強い。とはいえ、個体変異のせいで、利己主義の強い個体も出現する。それはいわば、欠陥生物だ。それでも、全体としては健全な個体が多いので、ほとんどの個体は利子主義が強い。したがって、たいていの場合は、母狼は子を守るために戦う。」
ここ数世代で人口が爆発的に増加している人間の場合は、利己主義が強い個体も多く生き残ってるわけで、どうりでおかしな人が多いわけですね(笑)

それどころか、最近では利全主義の子供よりも金持ちの子供のほうが生き残る可能性が高かったりするんじゃないでしょうか。利己主義の強い系統(金持ちの家)は断絶しやすいとは、とても言えない社会になっていると思いますが。いろいろと変わった視点で物事を見ることができて面白いですね。
Posted by ポト at 2008年01月21日 22:47
本文の最後のあたり([ 付記 ]の直前)に、【 余話 】を追記しました。
http://openblog.meblog.biz/article/269133.html#yowa

 タイムスタンプは、下記。 ↓
Posted by 管理人 at 2008年01月22日 08:06
今回も面白く読ませていただきました。

ただ、以下の点についてですが、

「決断はどちらになるか? 実は、決断は個体ごとに異なる。」

私は決断は状況によっても異なると思うのです。

例えば母親と10人の子供がいたとします。
この家族には父親が無く、母親なしには食べていくことが出来ません。

そしてある日、母親と一人の子供が食糧を確保しに森へ行きます。このとき、母親が死んでしまうと、残りの9人の子供の命もなくなります。そうなった場合、森へ行った母親も子供も、自分で自分の命を守るしかありません。

また、動物の世界では子供を見捨てる行動が普通に見られます。特に草食動物などでは、子供がオオカミに襲われたからと言って余り助けには行きません。子供を見捨て、次の子供を産むだけです。しかしそれでも草食獣の数は肉食獣よりもはるかに多く、要するにこれは生存戦略の違いと言えると思います。
Posted by masa at 2008年01月22日 12:05
決断は状況によって異なるのではなくて、状況に応じてなされるものでしょう。

ここでの意義は、仮にXという状況があったとして、それからaまたはbという決断が常に出されるだろうというのが今までの立場で、いや、aでもありうるしbでもありうるぞ、しかしそれは個体によって異なるのではないか、さらにはこのaとbも統計的に見ることができるのではないかというところが違う部分だと思います。

草食動物の例で言えば、現に「余り」助けには行かないと書かれているように、同じ状況においてでも違った行動をする個体がいるということに対する説明ではないでしょうか。

そしてこの違いも実は遺伝子によるものではないだろうかというのは、「利己主義+利全主義」に達した時点で簡単にでてくるであろう推論でしょう。

とついしゃしゃりでてしまった...(ごめんなさい)
Posted by ポト at 2008年01月22日 18:04
管理人とはスタンスが違います。
与太である、あほか!!!!て言って、公開処刑を楽しむのが好きな人もいるんですよ。
まあ、与太か分からず信じる人もいるので、そういうスタンスもありじゃないでしょうか。
そんくらいのケツの穴の小ささをスルーするくらいのケツの穴の広さをあなたももってはいかがでしょうか?笑
Posted by 言葉はもちろん理解できますが at 2008年02月02日 15:36
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