2008年01月20日
◇[補説] 利己的遺伝子説の修正 1
前項 では、利己的遺伝子説を紹介した。
本項では、利己的遺伝子説を どう修正すればいいかを示す。
簡単に言えば、個体の行動を説明するために、「本能」というものを導入すればいい。( → 前々項 「遺伝子と本能」) ──
前項(利己的遺伝子の意味)では、利己的遺伝子説を紹介した。「動物行動学の学説である」「利他的行動を説明する」というふうに。
ここでは、個体の行動を説明する、ということが大事だ。動物行動学の一分野として、個体がどうしてそういう行動を取るのかを説明する。特に、利他的行動について説明する。また、「共進化」という現象なども説明する。
とにかくここでは、「行動を説明する」という点が決定的に重要だ。このことに着目しよう。というのは、多くの進化論学者は、ここを誤解しているからだ。
彼らは、物事を「進化」という一つの観点からしか見ない。すると、「優秀な遺伝子が増える」とか、「増える遺伝子は増える」とか、単に遺伝子の増減という点だけを見るようになる。その結果、個体の行動は見失われてしまう。(集団遺伝学ふうの立場。)
たとえば、ミツバチの利他的行動というものがある。働きバチは自分の子を育てる代わりに、自分の妹を育てる。なぜか? 集団遺伝学ふうに見ると、次のように説明される。
「妹を育てる遺伝子をもつ個体が自然淘汰の上で有利だったので、そういう遺伝子をもつ個体が増えた。妹を育てる遺伝子をもつ個体が増えたから、妹を育てるという行動を取るようになった」
しかし、このような説明は、もっともらしいが、空疎である。それは何も意味していないし、何も説明していない。なぜならそれは単に、
「増えるものは増える」
と言っているだけだからだ。ただのトートロジーである。何一つ意味をもたない。似た例で言えば、次のようなトートロジーがある。
「バラはバラである」
「白いものは白い」
このようなトートロジーは、何一つ意味していない。(間違いではないが、中身が空っぽである。)
同様に、次のような問答もある。
「なぜ地球は回るのですか?」「地球は回るからです」
「なぜ地球に重力はあるのですか?」「地球に重力があるからです」
「どうしてこの遺伝子をもつ個体が多いのか?」「その遺伝子をもつ個体が増えたからです」
これらは中身が空っぽのトートロジーである。何かを説明したように見えるが、何も説明していないのだ。
──
ミツバチが利他的行動を取ることを説明するためには、「どうしてその行動を取るのか」ということを、はっきりと原理的に示す必要がある。集団遺伝学ふうに、「その遺伝子が増えたから」というふうに述べても、何も説明したことにはならない。「遺伝子が増えたから遺伝子が増えました」と述べても、「どうしてその行動を取るのか」ということを説明しないのだ。
つまり、遺伝子の増減と、個体の行動とは、別のことである。個体の行動を説明するには、集団遺伝学とは別の学説が必要だ。
そこで、ドーキンスの説が現れた。その趣旨は、前項で述べたとおりだ。つまり、
・ 「自己複製は利益だ」
・ 「主体は自己の利益を増すために行動する」
という二つのこと基本として、三段論法によって、
・ 「遺伝子は自己複製を目的としてふるまう」
ということを結論した。
ここで、「遺伝子が自己複製を目的としてふるまう」ということが、個体行動のことだ。つまり「遺伝子が個体にその行動をさせる」ということだ。
この際、その個体行動がどんなものであるかは、それぞれの場合に当てはめていけばいい。
たとえば、ミツバチの利他的行動では、こうなる。
「働きバチが自分の妹を育てると、働きバチの遺伝子は自己複製をすることになる。こうして、ミツバチが自分の妹を育てるという個体行動が、『遺伝子が自己複製をする』という目的に合致することになった。」
こうして「遺伝子の自己複製のため」という目的のために、個体がその行動を取る。つまり、個体が遺伝子に奉仕する。そう解釈すれば、個体の利他的行動は説明される。……これが利己的遺伝子説の主張だ。
──
ここでは、次のことが成立していることになる。
「遺伝子の利益(自己複製)のために、個体が奉仕している」
このことは、一見、非合理的に見える。だからドーキンスはこのことを「ただの比喩である」というふうに何度も繰り返して主張した。で、その主張を鵜呑みにした人々が、「利己的遺伝子説のすべてが比喩なのだ」と思い込んでしまった。
そうではない。ドーキンスが「比喩だ」と述べているのは、次のことだ。
・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
・ 「遺伝子が個体を操作する」
これはまあ、比喩と言えば比喩である。そうとしか解釈できない。ただの塩基列にすぎない遺伝子が、まるで人間のように命令する、ということは、ありえないからだ。
( ※ で、一部の専門家は、素人を馬鹿にして、「素人はこういう妄想を信じている」と批判する。誰もそんな妄想などは信じていないのだが。)
しかし、である。
・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
・ 「遺伝子が個体を操作する」
というのは、比喩的ではあるが、字義通りに解釈したとしても、あながち間違いではないのだ。そのことは、次のことからわかる。
──
仮に、
・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
・ 「遺伝子が個体を操作する」
ということが、まったく成立しないとしたら、個体行動については何ら説明できないことになる。集団遺伝学ふうに、
「増えるものは増える」
という空っぽなトートロジーを出して、それで物事を説明しているつもりになるだけだ。これでは、論理が空っぽであるだけでなく、頭が空っぽになっている。いわば、白紙の論文を出して、「正しい学説です」と主張するようなものだ。
むしろ、
・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
・ 「遺伝子が個体を操作する」
という言葉を、そのまま受け止めた方がいい。これを図式で書くと、次のようになる。
遺伝子 → 個体行動
これは個体行動についての「因果関係」だ。そして、このような因果関係は、まさしくある。次の例のように。
・ 青い目の遺伝子がある → 目が青くなる (形質)
・ 長い足の遺伝子がある → 足が長くなる (形質)
・ 妹育ての遺伝子がある → 妹を育てる (個体行動)
このうち、初めの二つは通常の形質の例であり、最後の一つは個体行動の例である。いずれにしても、原理は同様だろう。つまり、
「その遺伝子があるから、その遺伝子が発現する結果が起こる」
ということだ。こういう意味での「因果関係」はある。だから、
遺伝子 → 個体行動
という因果関係は、まさしく成立するのだ。その意味で、
・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
・ 「遺伝子が個体を操作する」
というのは、決して間違いではないのだ。
──
ただし、それらは間違いではないにしても、真実だとは言えない。0点の間違いではないが、百点の真実でもない。50点ぐらいである。つまり、おおまかには正しいのだが、どこか不正確なのだ。
そこで、この不正確な部分を修正すればいい。それが、前々項で述べたことだ。図式的に書くと、次の通り。
[ 不正解 ]
遺伝子 → 個体行動
[ 正解 ]
遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動
ここでは、段階数の違いがある。二段と三段。その違いに留意しよう。
( ※ なお、「個体行動」は単に「行動」と書いてもいい。)
──
まとめ。
ドーキンスの「個体は遺伝子の乗り物である」というのは、必ずしも間違いではない。それは、
・ 「個体が遺伝子に奉仕する」
・ 「遺伝子が個体を操作する」
ということを意味しており、
遺伝子 → 個体行動
という二段階の構造を意味している。
このような解釈は間違いではない。実際、その因果関係はまさしくあるからだ。ただし、間違いではないが、不正確なのだ。
正しくは、
遺伝子 → 個体行動
という二段階の構造を取るかわりに、
遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動
という三段階の構造を取ることだ。つまり、二段階の構造は保持したまま、途中に「脳(本能)」というものを介在させることだ。こういうふうに、第三のものを加えることで、不正確なところが修正され、正確な表現になる。
( → 前々項「遺伝子と本能」 を参照。)
ついでに、「専門家はどこを間違えたか」という話をしておこう。
専門家はドーキンスの説を、「比喩にすぎない」と考えた。
なるほど、たしかにドーキンスは比喩を使っている。ただし、「何の比喩であるか」を専門家は間違えた。つまり、「その比喩が何を含意しているか」を、正しく読み取れなかった。ただ「比喩であること」だけを重視して、「そこには比喩しかない」と思い込んでしまった。
詳しくは、以下の通り。
ドーキンスの言う
「個体は遺伝子の乗り物である」 …… (*)
というのは、比喩的表現である。また、
「遺伝子は個体を操作する」
というのも、比喩的表現である。
では、それらを正確に表現すると、どうなるか?
「優秀なものは増える」「増えるものは増える」
ということか? 違う。それはただの自然淘汰の原理だ。(*)は、自然淘汰の原理を述べたものではない。(*)が述べているのは、
「遺伝子と個体行動には因果関係がある」
ということだ。つまり、
遺伝子 → 個体行動
ということだ。そして、これは、二段階の表現であるがゆえに、単純化された表現(いわば比喩)となっている。だから、その単純化されたところを正確に表現し直せば、三段階で、
遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動 ……(#)
と書き直せる。
結局、(*)は、たしかに比喩であるが、ただし、「自然淘汰」の比喩なのではなく、(#)の比喩なのだ。
しかるに、多くの専門家は、ここを取り違えてしまった。( というのも、ドーキンスが勘違いさせるようなことを書いたからだが。)
【 注記 】
「(*)は、(#)の比喩だ」
と述べた。これは、正確に示すと、次のようになる。
「個体は遺伝子の乗り物である」 ……(*)
というのは、
「遺伝子と個体行動には『因果関係』がある」
ということだ。ただし「因果関係」というのが曖昧である。そこで「因果関係」というのを明確に図式化して、
「遺伝子 → 個体行動」
と書く。さらにその図式を二段階から三段階に精密化して、
「遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動」 ……(#)
と書く。こうして、「(*)は、物事をおおまかに示した比喩表現であり、それを科学的に表現すると (#)になる」とわかった。
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【 追記 】
専門家の誤解について、さらに説明しておこう。
利己的遺伝子説について、専門家の解釈は、次のようなものだ。
「個体選択説では、個体のための遺伝子という考え方をするが、利己的遺伝子説では、これを逆転して考える。遺伝子は自らのコピーを残し、その過程で生物体ができあがるという考え方である」
「利己的遺伝子とは、進化論における比喩表現の一つで、自然選択や生物進化を遺伝子中心の視点で解釈することである」
「この語は、あくまでも、遺伝子から生物の進化を解釈することを言い換えただけである」
( → Wikipedia 「利己的遺伝子」 )
この説明は、特に問題ないように思える。しかし、ここには最も重要な点がすっぽりと抜け落ちている。そのわけを示そう。
上記の発想は、ただの「遺伝子淘汰」という発想であるにすぎない。つまり、
「環境の淘汰圧にさらされたとき、有利な遺伝子は増えて、不利は遺伝子は減る」
という発想だ。これによれば、遺伝子ごとに、増えたり減ったりすることが数値的に表現される。たとえば、ミツバチの利他的行動で言えば、その利他的行動をもたらす遺伝子が増えるか減るかということが数値的に表現される。
しかしそこには、遺伝子と形質との関連が説明されていない。遺伝子の増減は表現されるし、形質の有利不利も表現されるが、遺伝子と形質との関連が説明されていない。
たとえば、ミツバチの利他的行動で言えば、その利他的行動をもたらす遺伝子が増えるか減るかということは数値的に表現されるのだが、その利他的行動をもたらす遺伝子を備える個体がまさしく利他的行動をなすこと(遺伝子の形質が発現すること)が説明されていない。要するに、
遺伝子 → 行動
という関連が説明されていない。(当り前だと思っているのかもしれないが、とにかく説明されていない。)
そこで、この関連を示したのが、ドーキンスだ。
「個体は遺伝子の乗り物である」
「遺伝子は個体を操作する」
というような表現で。
そして、これは、間違いではないのだ。正確には二段の過程でなく三段の過程として示すべきだとしても、それでもとにかく、
遺伝子 → 行動
という因果関係はある。そのことをしっかりと指摘したのがドーキンスだ。
仮に、このことが示されなかったとしたら、「その遺伝子をもつ個体は、その遺伝子による行動をなす」ということが説明されなくなる。つまり、「遺伝子が形質を発現する」ということが説明されなくなる。たとえばミツバチで、「利他的行動をなす個体は、まさしく利他的行動をなす」ということが説明されなくなる。
それでは、遺伝子の数を勘定することはできても、個体の行動を説明できなくなる。つまり、進化の原理を説明することはできても、動物の行動を説明できなくなる。それでは、動物行動学としては、何にもならない。
まとめて言おう。
ドーキンスの業績は、進化の原理(遺伝子淘汰)を説明したことではない。「動物がなぜその行動をなすのか?」ということを説明したのだ。その業績は、進化論の業績(遺伝子淘汰)ではなく、動物行動学の業績なのだ。
ドーキンスの業績を「遺伝子淘汰を比喩で表現しただけだ」と見なす専門家もいる。なるほど、それは、「遺伝子淘汰」についてだけなら、正しい。しかし彼の業績はもともと、遺伝子淘汰の業績ではないのだ。彼の業績は、動物行動学の業績なのだ。彼はそのために、遺伝子淘汰の概念を利用しただけだ。なのに、遺伝子淘汰の分野ばかりを見ても、何にもならない。
たとえて言おう。アインシュタインは、数学を駆使して、相対論を構築した。ここで、彼の独自の数学的業績は、何もない。そこで、ある人は、こう主張した。「アインシュタインの業績は、数学において、比喩を駆使したことだけだ。実際、アインシュタインの数学業績は、何もない」と。……しかしこれは、アインシュタインの業績が(数学でなく)物理学にある、ということを見失った、根本的な誤認である。
ドーキンスについても同様だ。ドーキンスの業績を「遺伝子淘汰を比喩で表現しただけだ」と見なすのは、根本的な誤認である。ドーキンスの業績は、動物行動学にあるのだから。……そして、彼はまさしく、「遺伝子 → 個体行動」という過程を明示したのである。(たとえ二段階であるがゆえに不正確であるとしても。)
こうして、利己的遺伝子説は、ミツバチの利他的行動や共進化など、さまざまな動物行動を説明できるようになった。動物行動学として。
※ 細かな話を補足しておこう。
「数値的に考えるとはどういうことか」という話をする。
[ 付記1 ]
集団遺伝学は、個体行動を説明できない。なぜか? それは、たまたまそうなのではなくて、集団遺伝学というものがもともとそういうものだからだ。
集団遺伝学というのは、物事を統計的に扱う分野である。そして、統計的に扱う分野というのは、個別的なことについては何も解明しないのだ。
たとえば、a という遺伝子からは A という形質が発現し、b という遺伝子からは B という行動が発現するとしよう。集団遺伝学では、a や b という遺伝子の増減が計算される。
ただし、遺伝子の増減が計算されるだけだ。A という形質や B という行動が、具体的にどういうものであるかについては、まったく関知しない。単に「統計上の数値に影響するもの」として見なされるだけだ。それが利己的行動であろうと、利他的行動であろうと、あるいは青い目であろうと、長い足であろうと、そういう違いにはまったく関知しない。A という形質や B という行動がどんなものであろうと、まったく関知しない。関知するのはただ一つ、a や b という遺伝子の増減がどのくらいか、という統計的なことだけだ。
しかしながら、「利他的行動とは何か」ということは、a や b という遺伝子の増減のことではなくて、「 B という行動がどんなものであるか」という問題なのだ。遺伝子の増減の問題ではなく、行動と環境との相互関係の問題(自然淘汰の問題)なのだ。
ここでは、「利己的であろうと利他的であろうと構わない。単に遺伝子の増減だけを見てればいい」ということは成立しない。つまり、動物行動学の理論は、集団遺伝学では説明されない。そして、これは、当り前のことだ。もともと学問分野が異なるのだから。
生物を見るときには、さまざまな認識の方法がある。「個体の身体構造を調べる」とか、「個体の行動を見る」とか、「遺伝子の増減を見る」とか。……それらはすべて別々のことである。遺伝子の増減を見たからといって、それで個体の身体構造が判明するわけではない。遺伝子の増減を見たからといって、それで個体の行動が判明するわけではない。遺伝子の増減と、遺伝子の発現状態(形質や行動)とは、別次元のことなのだ。当然ながら、「遺伝子の増減だけ見てればそれでいいさ」というような発想は成立しない。
ただし、集団遺伝学者だけは、そこを勘違いする。「おれの学問は世界のすべてを支配する」と自惚れて、「あらゆる生物現象は遺伝子の増減だけで説明できる」と思い込む。これはまあ、数学者が「数学さえあればあらゆる物理現象は説明できる」と勘違いするようなものだ。物理学者は数学を使う。生物学者は集団遺伝学を使う。数学にせよ、集団遺伝学にせよ、他の学問に利用されているだけなのだが、利用されている側が「おれがすべてを支配している」と自惚れる。そして、こういう自惚れから、前項の専門家のような勘違いが生まれるわけだ。
では、真実は? こうだ。
「世の中には、数値では説明できないことがある」
「行動の種類は、質の問題であって、量の問題ではない。」
わかりやすく説明しよう。
質の違いを、量の違いで認識することは、いちおう可能だ。次のように。
・ 利己的行動 …… 適応度が 0.3
・ 利他的行動 …… 適応度が 0.7
こういうふうに、質の違いを量の違いという観点から見ることは可能だ。しかし、それによって、質の違いを説明しきれたわけではない。
たとえば、「背が高い」「背が低い」ということを、それぞれの適応度の違いで表現することはできるが、そのことで、「背が高い」「背が低い」という形質の違いを示したわけではない。
適応度の違いは、物事の一面を見ただけである。ほんの部分的な認識にすぎないのだ。
ドーキンスがなしたのは、「行動の違い」という「質の違い」についてのことだ。ここでは論点はあくまで「質」にある。「量」は、「質の違い」を説明するために、利用されただけだ。ちょうど、物理学のために数学が利用されるように。
質の違いの学問(動物行動学)と、量の違いの学問(集団遺伝学)とは、別の学問分野である。前者が後者の一部分だ、というようなことはない。前者が後者を利用している、というだけのことだ。
この点を勘違いしないようにしよう。(勘違いする専門家が多いが。前項で示したように。)
[ 付記2 ]
「物事を数値で理解しよう、それが科学的なことなのだ」
と思い込んでいる専門家が多い。しかし、数値で理解するということと、数値だけで理解することとは、まったく異なる。
遺伝子の真実を理解するには、遺伝子の増減の数字を調べて事足れりとするのでは駄目だ。数値などは、物事のほんの一部分にすぎない。
生物を理解するということは、生物の形質を数値で表現するということではない。さまざまな内臓の形状や機能を、ただの数値に置き換えても、物事の本質は理解されない。心臓の弁の形状を「3659」と表現したり、心臓の機能を「2958」と表現したとしても、そこでは数字にならない大切なものがすっぽりと抜け落ちてしまっている。
物理学の世界では、数字で示すことが大事だ。(数字でしか表しようがないからだ。) しかし生物学の世界では、数字にはならないものの方に、真実がある。そこにおいては、数字にばかりこだわることは、かえって真実から遠ざかる結果をもたらす。
生物学に限らない。「物質」を扱う科学は別として、生物や人間という「生きたもの」を扱うほとんどの分野では、数字にはならないものにこそ真実がある。
たとえば、愛や優しさという心理的なものがそうだ。また、美のような主観的なものもそうだ。こういうものも数字にはならない。なのに、「それを数字にすれば科学的になる」と思い込んでいると、とんでもないことになる。
心理的なものや主観的なものについては、物事をあるがままに理解することが大事だ。数字にならないものは、数字にならないまま理解すればいい。数字にならないものを、あえて数字で理解しようとしても、真実に近づくどころか、真実からかえって遠ざかる結果になる。
「物事を数字で表すことは、科学的になることだ」
という解釈は、必ずしも間違いではない。ただし、科学的であることと、真実であることとは、同じではない。逆になることもある。もともと科学的な対象にならないものを、あえて科学的に扱おうとしても、事実をつかむどころか、事実を歪める結果になることもある。
その例が、「心理学者」と呼ばれる専門家だ。彼らは「心理学」という分野で、数字にならないものを数字にしようとする。そうして努力した結果、真実からはますます遠ざかる結果になってしまう。むしろ、数字などは使わない小説家の方が、はるかに人間心理の真実を知っていることが多い。
( ※ 皮肉で言えば、心理学の教授は、ネズミが迷路でどっちに行くか、という実験をすることばかりに熱中している。そのせいで、自分の妻や子供の心理さえ理解していないので、妻や子供の愛を失う。……いますよね、こういう人。人間の心理を知るために、ネズミの心理を調べて、人間の心理を理解できなくなる。本末転倒。……「他人事じゃないぞ」と思う人も多いはず。特に、進化論の学者は。)
[ 付記3 ]
集団遺伝学は、個体行動を説明できない。なぜか? それは、集団遺伝学というものがもともとそういうものだからだ。(少し前の[ 付記1 ]で述べたとおり。)
ここで、「もともとそういうものだ」というのは、「原理的にそういうものだ」ということだ。このことを、数学的に説明しよう。(統計学とは何か、という話。)
物事は統計的に扱うことができる。ただし、そうすることが意味をもつのは、次の仮定が満たされる場合だ。
「個体はすべて、たがいに区別されない」
たとえば、気体分子だ。気体分子は、どの気体分子も、たがいに区別されない。だから、そこでは統計的に扱うことで真実を示すことができる。たとえば、「エントロピーの法則」とか「熱力学の法則」とか。
しかし、生物というものはすべて、個体がたがいに区別される。そして、本来なら区別されるものについて、あえて区別しないで認識すると、物事は統計的に処理される。
たとえば、猿山を見て、次の事実が判明したとする。
・ 行動Aが起こる割合は、25%である。
・ 行動Bが起こる割合は、75%である。
これは、個体を区別しないで、単に統計的に調べただけだ。
一方、個体を区別すると、次のことがわかるだろう。
・ 個体 a は、常に行動 A を取る。ゆえに 25% だ。
・ 個体 b,c,d は、常に行動 B を取る。ゆえに 75% だ。
このことから、「個体 a と個体 b,c,d は、別の行動を取る」とわかる。とはいえ、それは、個体の違いを詳しく見たからだ。
一方、統計的に、
・ 行動Aが起こる割合は、25%である。
・ 行動Bが起こる割合は、75%である。
というふうに見ているだけでは、それぞれの個体の違いは理解できないし、個体の内部構造も理解できない。
統計的認識とは、あくまで物事の表面だけを見る認識だ。たとえば、
原因 → 結果
というふうに。あるいは、
遺伝子 → 行動
というふうに。そこでは、内部構造というものは無視される。
しかし、生物を知るときには、単に統計データだけを見てればいいのではない。もちろん、遺伝子の増減だけを見ていればいいのではない。生物がどういう内部構造をもっているかを見る必要がある。それが生物学的な認識だ。
そして、その内部構造を探ったときに、
遺伝子 → 脳(本能) → 個体行動
という構造を見出すことができる。つまり、次のように。
「妹を育てる遺伝子があるから、妹を育てる本能が脳に形成され、それぞれの個体は実際に妹を育てる行動を取る」
と。こういうふうに、内部構造を理解するということが、生物学的な理解だ。それは統計的な理解とはまったく異なる。
※ 次項では、続いて、「二段と三段の違い」という話をします。
(遺伝子と行動との関係。)
→ 次項
過去ログ
http://openblog.meblog.biz/article/266957.html#psx
タイムスタンプは 下記。 ↓
ドーキンスの「遺伝子」は、個体の(行動に表れた)表現型から逆に規定する種類の遺伝子、すなわち遺伝子型であると理解してよろしいでしょうか。
またはそれら「遺伝子」の総体としてのゲノムと言い換えていいでしょうか。(ここでいうゲノムは、DNAの非コード領域も含みます。)
もうすこし説明した方がよいでしょうか。管理人さんにはこれくらいの内容で伝わるかもと、思っているのですが。お暇ならご回答下されば幸いです。
この件はもともと、明日あたりに、独立したテーマとして論じる予定です。それまでお待ち下さい。
(質問が一日か二日、早すぎましたね。 (^^); )
明日は別の話になりそう。未定ですが。