2008年01月17日
◇[補説] 遺伝子と本能
統計データを見たとき、そこから短絡的に因果関係を想定してはならない。集団の統計データ と、個別行動の原理 とは、異なる。
( ※ 本項のテーマは「利己的遺伝子説」。その難点を示す。) ──
まず、わかりやすい例を示そう。次の例がある。
「脂質をたくさん取る人は、死亡率が高い」
ま、成人病のデータのようなものだ。別にどうってことはない、ありふれた統計データである。
ただし、ここに短絡的な因果関係を見出すと、次のような表現ができる。
「脂質は人を殺す」
これは一種の擬人的な表現だ。比喩であると理解している限りは、間違いではないだろう。しかし、これを字義通りに受け取ると、次のような結論が出る。
「脂質は殺人犯だから、脂質を死刑にするべきだ」
ここでは、擬人的表現にだまされて、脂質を人格視している。いかにも馬鹿げた話だ。
では、どうすればいいか? 簡単だ。元の統計データに戻ればいい。
「脂質をたくさん取る人は、死亡率が高い」
このことだけを見ればいい。その要旨として、次のようにも言える。
「脂質の取りすぎは有害だ」
これが普通の表現だろう。
──
遺伝子についても、同様である。
「子育ての遺伝子をもつ親は、子育てをする」
という例がある。ま、当り前だろう。別にどうってことはない、ありふれた統計データである。
ただし、ここに短絡的な因果関係を見出すと、次のような表現ができる。
「子育ての遺伝子が、親に子育てをさせる」
これは一種の擬人的な表現だ。比喩であると理解している限りは、間違いではないだろう。しかし、これを字義通りに受け取ると、次のような結論が出る。
「子育ての遺伝子は、自己の利益(自己複製)のために、親を利用している」
「親は、子育ての遺伝子の乗り物にすぎない」
ここでは、擬人的表現にだまされて、子育ての遺伝子を人格視している。いかにも馬鹿げた話だ。
では、どうすればいいか? 簡単だ。元の統計データに戻ればいい。
「子育ての遺伝子をもつ親は、子育てをする」
このことだけを見ればいい。その要旨として、次のようにも言える。
「人間( or 哺乳類)にとって、子育ては当然である」
これが普通の表現だろう。
──
では、擬人的な表現は、どこでどう間違ったのか? そのわけを探ろう。
まず、事実と統計データからは、次の因果関係がある。
子育ての遺伝子 → 子育ての行動
ここまではいい。こういう因果関係はある。問題は、そのあとだ。
擬人的な表現では、この因果関係を見て、「直接的な」働きがあると推定した。「子育ての遺伝子が、子育ての行動をさせるのだ」と。
しかし、これは、物事の「最初と最後をつないでしまう」という発想だ。途中のブラックボックス部分を見失っている。
では、ブラックボックス部分とは? それに気づくには、科学的に見ればいい。事実をあるがままに見ればいい。すると、次のことがわかる。
子育ての遺伝子 → [ 子育ての本能 ] → 子育ての行動
ここでは、「遺伝子」と「行動」のあいだに「本能」がある。ここがブラックボックス部分である。
( ※ 本能は、この場合には、「愛」と呼ばれる本能だ。ただし、他の場合には、別の名前の本能となる。)
( ※ なお、本能とは、脳の作用である。たいていは、旧皮質など、原始的な脳。)
──
一般に、「遺伝子」と「個体行動」とのあいだには、「本能」が挟まる。
本能。これこそが決定的に重要なものだ。遺伝子が直接、個体を行動に駆り立てるわけではない。遺伝子は、本能を経由して、個体に行動を間接的に促す。行動を直接指示するのは、遺伝子ではなく、脳(の本能)である。
ただし、擬人的表現をしていると、その途中部分(本能)を見失う。というか、自分が何かを見失っていることに、気がつかないのだ。
ハミルトンであれ、ドーキンスであれ、彼らが「本能」という概念を知らないわけではない。ただし、彼らは擬人的な表現を取った時点で、何かを見失い、しかも、見失っていることに気づかない。
それが、擬人的表現の決定的な難点だ。
──
では、彼らはなぜ、そんな擬人的表現をなしたのか? 彼らが文学趣味だからか?
違う。彼らが科学趣味だからだ。彼らは、科学趣味があるゆえに、擬人的表現を取った。
その擬人的表現の用語は、「利己主義」だ。
「Aにとって利益になるから、Aはその行動をする」
これが「利己主義」の表現だ。ここでは、「利己主義」の発想を取った時点で、すでに擬人的表現を取っている。そして、科学者は誰しも、「利己主義」という概念を好む。なぜなら、それこそが科学的だと信じているからだ。
結局、人々は科学趣味があるがゆえに、「利己主義」という概念を取り、擬人的な表現を取る。その結果、不正確な表現のせいで物事の途中過程を見失い、最初と最後だけをつなげてしまう。かくて、まったく間違った結論を出しても、不正確な表現のせいで気づかないでいる。
不正確な表現が、自己の過ちに対して、盲目にさせるのだ。
( ※ “ 科学者は誰しも、「利己主義」という概念を好む。”
という件については、本項では説明不足なので、次々項あたりで説明する。)
※ 本項の意図について補足しておこう。
[ 付記1 ]
最後の結論部分にばかり着目しないでほしい。本項のポイントは、冒頭に述べたことだ。つまり、「統計データと個別行動」だ。
人は統計データを見ると、そこから短絡的に因果関係を想定しがちだ。「脂質が人を殺す」というふうな。しかし、集団の統計データと、個別行動の原理とは、直接的には関係がない。たいていは、間接的に関係があるだけだ。とすれば、統計データを見たあとで、「脂質が人を殺す」というふうな結論を出してはならないのだ。
進化論の世界では、遺伝子の有利・不利を統計的に調べる。そこまではいい。しかし、そこから先で、短絡的に因果関係を想定してはならない。「脂質が人を殺す」というふうな結論を出してはならない。
たとえば、次のように考えてはならない。
「子育ての遺伝子が、自己の利益のために、太郎に子育てをさせる」
「黒い目の遺伝子が、自己の利益のために、次郎の目を黒くさせる」
「直毛の遺伝子が、自己の利益をのために、花子の髪を直毛にさせる」
こういうふうに、個別の個体について結論を下してはならない。集団における統計データは、あくまで集団内においてのみ意味をもつだけだ。個別の個体については、特に何も示さない。ヒントをくれる形で暗示することはあるが、科学的には何も示さない。
だから、「利己的な遺伝子」という学説を聞いたら、「下らない擬人的表現で与太をふりまくよりは、統計データをしっかり分析しろ」と言い返すべきだ。統計データはあくまで統計データであって、生物の内部構造については何も明示しない。そのことに留意しよう。
[ 付記2 ]
なお、「利己的遺伝子」とは、DNAにある個別の遺伝子(塩基の特定の配列)のことではない。
「利己的遺伝子」とは、「個体を操る遺伝子」という意味で、抽象的なもの。具体的には、個々のDNAにおける遺伝子ではなくて、集団内における同一遺伝子集合のこと。たとえば、人の遺伝子のうち、A型遺伝子全体として想定されたもの。抽象的・普遍的なものである。通常、遺伝子多型という微小な塩基差は無視される。さもないと、統計的な意義がなくなるので。
[ 付記3 ]
「利己的遺伝子説」では、「個体は遺伝子の乗り物だ」と説明される。
ただし、このようなことが曲がりなりにも成立すると見えるのは、「個体行動」の分野だけだ。ドーキンスは動物行動学者だから、動物の行動を説明するために「利己的遺伝子」という概念を導入した。
しかし、動物の行動(個体行動)では、遺伝子が直接的に発現するのではなく、脳が介在する。その点に注意。
「目の色の遺伝子」とか「皮膚の模様の遺伝子」とか「シッポの形の遺伝子」などならば、遺伝子が直接的に形質に発現する。しかし、行動の場合には、
遺伝子 → 形質
ではなく、
遺伝子 → 脳(本能) → 行動
というふうになる。ここでは
遺伝子 → 行動
ではない。ここを勘違いしてはならない。このことが本項のポイントだ。
なるほど、統計的に見るだけなら、遺伝子と行動とのあいだに、何らかの相関関係のようなものが見出される。それを因果関係と見なしてもいい。しかしそこには、直接的な関係があるわけではない。あくまで「脳(本能)」が挟まった間接的な関係だ。
そういう間接的な関係の多段階を、一つ一つ逐次的に見るというのが、科学的な認識である。途中を省いて、最初と最後を一挙に結びつけるというのは、非科学的な認識だ。(文学的にはなるが。)
遺伝子と個体行動とのあいだには、関連性がある。だとしても、「遺伝子が個体を操作する」という直接的な関係があるわけではない。統計的な関係を見たら、あくまで統計的に認識するだけでいい。勝手に最初と最後を結びつけて、内部構造を勝手に推定してはならない。
( 例。「男性ホルモンの多い人は、気質が荒い」という統計データがあったとする。それはそれでいい。これを「男性ホルモンを多く分泌させる遺伝子が、人間の気質を荒くする」と表現するのも、まあ、間違いではない。しかし、「その遺伝子が人間を操作して気質を荒くする」というのは、あまりにも擬人的すぎる。それをただの比喩として理解するのはいいが、字義通りに受け止めるべきではない。科学的には単に「統計的に関係が見出される」というふうにだけ理解するべきだ。……その意味で、「遺伝子は利己的である」とか「個体は遺伝子の乗り物である」とかの表現は、「統計を文学的に表現しすぎたもので、字義通りに解釈するのは誤り」と認識するべきだ。要するに、「利己的遺伝子」というのを導入して理解すること自体が、非科学的認識である。文学的ではあるが。)
[ 付記4 ]
ドーキンスのやったことはまったく無意味だ、というわけではない。ドーキンスの業績について、「単に文学的に表現しただけだ」というふうに主張する人もいるが、それは正しくない。
ドーキンスはまさしく画期的な業績をなしたのだ。それは、次のことだ。
「利己主義を前提とした上で、血縁淘汰説を科学的に説明した」
すなわち、ハミルトンの血縁淘汰説は、ご都合主義の理論にすぎなかったが、ドーキンスは「利己的遺伝子」という概念を導入することで、体系的・統一的に説明することに成功した。その意味で、まさしく科学的な説明に成功している。これは重要な成果だ。
( → http://openblog.meblog.biz/article/43391.html )
ただし、いくら科学的に説明していても、その説明の根源的な基盤が間違っているから、すべてがナンセンスになってしまっている。血縁淘汰説であれ、利己的遺伝子説であれ、根源がおかしい。
根源とは、「利己主義」を前提としていることだ。もともと利己主義ではない事柄を、利己主義で説明するから、話のすべてがおかしくなる。
ハミルトンであれ、ドーキンスであれ、「利己主義という枠組みにおいて、いかに説明するか」ということに腐心した。そして「血縁の利己主義」「遺伝子の利己主義」という概念を導入した。
しかし本当は、「個体の利全主義」で説明するべきことなのだ。……二人とも、利己主義という枠組みの世界では少しずつ業績を上げていったが、しょせんは、利己主義という枠組みの世界そのものがおかしいのだから、すべては砂上の楼閣であったことになる。
とはいえ、間違いの世界では、少しは学問を進歩させた、という効果がある。比喩的に言えば、天動説のようなものだ。まったくの間違いではあるのだが、無知なる人々のあいだでは、「何もわからない」というよりは、「天動説なら、それなりに説明がつく」という点で、間違いの世界でいくらか進歩している。ハミルトンやドーキンスの業績は、そういうものだ。今となっては、二人の業績は完全に捨ててしまっていい。必要なのは「利全主義」という(もう一つの)概念だ。
そして、そのためには、「利己主義がすべてだ」「利己主義以外には何もいらない」というふうな、一つのものにとらわれるしがらみから自由になることが大切だ。
( ※ 「利己主義で説明すると、どこがまずいか」という話は、利全主義と対比させて、前項で詳しく説明した。 → 前項 )
( ※ なお、「利全主義」は、当然ながら、個体行動の分野についてのみの概念だ。「肌の色の遺伝子」などは、個体行動には関係ないし、利全主義で説明されることもない。ドーキンスならば、統計を見て、「肌の色が濃いと有利だから、個体はメラニン色素遺伝子の乗り物にすぎない」と主張するだろう。だが、「利全主義」の発想からは、「メラニン色素遺伝子は脳には作用しないので、メラニン色素遺伝子は個体行動には影響しない」と結論する。……当り前ですね。科学的に理解すれば、これが当然。)
過去ログ
タイムスタンプは ↓
y=x+5
A=y×6
という式(xが自由変数でAが結果)において、yが介在するからと言って、やはりAの値はxに左右される事になるのと同様です。
もちろん、遺伝子以外にも、周りから教わる物事というのもありますし、人間の場合それが特に大きいと思いますし、脳を後から人為的に改造したとかならまたややこしくなりますが、やはり脳が最初に組み立てる本能の部分は大きいと思います。
遺伝子が意志を持って個体を利用するというわけではないにしろ、種の保存に有利な遺伝子が結果的に残る以上、遺伝子が種の生存に有利な行動をさせているといっても過言ではないと思います。
ただ、種の生存に有利な遺伝子を持った個体が、無事に次の世代に命を伝えることができるとは限らないだけで。
統計と個別というのは、そういう事なのではないでしょうか。
「脂質をたくさん取る人は、死亡率が高い」では、脂肪をたくさん取る人が必ず死ぬとは限りませんので、それを、「脂肪をたくさん取る人は死亡する」と解釈してしまうのが問題になりますが、「子育ての遺伝子をもつ親は、子育てをする」では、これ自体が既に、遺伝子をもつ親は必ず子育てをするような表現になってます。
でも、子育ての遺伝子を持ってるからって、子育てをするとは限らないわけなので、すると、「子育ての遺伝子をもつ親は、子育てをする」を擬人的な表現にする以前に、この表現そのものが間違ってる事になると思います。