2008年01月17日

◇[補説] 系統/血縁/遺伝子

 「系統」という概念は、次の概念に似ている。
   ・ 血縁淘汰説の「血縁
   ・ 利己的遺伝子説の「遺伝子」(正確には「利己的遺伝子」)
 この三つの概念は、どう違うのか?
 ( ※ 細かな話題なので、読まなくてもよい。)
 ──

 血縁淘汰説(血縁選択説)は、ハミルトンが唱えたもの。
 利己的遺伝子説は、ドーキンスが唱えたもの。
 いずれも、個体の「利他的行動」を説明するために導入された。そして「血縁」ないし「遺伝子」の利益のために、個体は行動する、というふうに主張された。
 ここでは、「血縁」や「利己的遺伝子」が主体であり、個体は従属することになる。そして、このことで、個体の利他的行動が説明された。
 「個体にとっては自己の利益にならないが、血縁ないし利己的遺伝子にとっては利益になるから、個体は自己の利益にならないことをなすのだ」
 というふうに。

( ※ 血縁淘汰説について 核心的な話 は、次を参照。
   → 血縁淘汰説 [ 核心 ]
 全般的な話は、次を参照。
   → 血縁淘汰説とは
 上の二つで基本はわかる。そのあと、詳細を知りたければ……

 血縁淘汰説の数値の計算方法については、
   → ミツバチの利他的行動 1
 血縁淘汰説の問題点については、
   → ミツバチの利他的行動 3



 「血縁」「遺伝子」「系統」という三つの概念を並べたあとで、その根本的な違いを見出そう。
 歴史的に見ると、次の変遷があった。
   個体淘汰 → 群淘汰 → 血縁淘汰 → 遺伝子淘汰

 ここでは、淘汰の単位が、次のように変わった。
    個体   →   群   →   血縁   →   遺伝子

 そして、そのいずれにも共通する点は、「利己主義による淘汰」である。つまり、「血縁」「遺伝子」というものは、いずれも、淘汰の単位である。

 では、「系統」という概念は? 形の上では、「系統」は、「血縁」にそっくりだ。それは過去から未来へと続く「血統」のようなものだ。(「血縁」と「系統」を合わせたような概念が「血統」だ。言葉も、足して二で割った言葉だ。)
 ただし、「系統」が「血縁」と異なる根本的な点がある。「系統」は、「淘汰の単位」ではない、ということだ。本サイトの説は、「系統淘汰説」というようなものではない。「系統」という概念は、「血縁」という概念によく似ているが、「淘汰」という概念が付随していないので、「血縁淘汰説」のような形で「系統淘汰説」というものが生じるわけではない。
 血縁淘汰説における「血縁」とは、淘汰の単位である。そこでは「利己主義による淘汰」という発想が前提となっている。
 本サイトの説における「系統」とは、淘汰の単位ではない。そこでは「利己主義による淘汰」という発想が前提となっていない。では、何が前提となっているか? 「利己主義」でなく、「利全主義」が前提となっている。
 つまり、二つの発想は、似た概念を取っているが、前提となる原理が、異なる原理(利己主義/利全主義)である。

( ※ 最初に「利己主義」という枠を取ると、そのなかでさまざまな淘汰の単位を取る発想があり、そのうちの一つとして「群淘汰」がある。一方、「系統」というのは、「利己主義」ではなく「利全主義」のための概念である。分野が全然異なる。「話の次元が異なる」と言ってもいい。)
( ※ 比喩的に言うと、「男にとっての愛」と「女にとっての愛」だ。どちらも「愛」という概念があるが、「男」という前提の上での愛と、「女」という前提の上での愛では、かなり異なったものとなる。似た概念も、前提が異なれば、かなり意味合いが変わってくる。)



 【 群淘汰と血縁淘汰 】

 群淘汰と血縁淘汰の関係について、説明しておこう。この両者はよく似ているからだ。
 群淘汰は、今日では、完全に否定されている。なぜなら、群というものは、淘汰の単位にならないからだ。なるほど、ある時点では、「有利な群」と「不利な群」という対比はできる。しかし、群というものは時間的に継続しない。あるときに一つの群があったとしても、その群が何世代にも渡って持続的に同一性を保っているわけではない。子孫がいろいろと誕生するうちに、群は枝分れしてしまうし、交配が起こるにつれて、群の混合も起こる。だから、群は淘汰の単位にはならない。したがって、群を淘汰の単位とする「群淘汰」は、学説としては破綻している。……こうして、群淘汰は否定されてしまった。
 血縁淘汰は、その点を改良したものだ。世代を経ても持続するものとして、何世代にも渡る「血縁」というものを考えた。たとえば、「徳川家の血縁」というようなものだ。こうして「徳川家の血縁は、豊臣家の血縁よりも、淘汰の上で有利である」というような結論を出すことができる。……とはいえ、これは、一つ一つの「血縁」というものを抽出しにくい。ある個体を中心として、先祖や未来に移るにつれて、血縁はどんどん薄くなる。「これ」というふうに一つのものとして示すことができない。だから、「血縁」というものもまた、淘汰の単位にはならない。こうして、「血縁を淘汰の単位とする」という発想もまた、(群淘汰と同様に)破綻した。……なるほど、今日でも「血縁淘汰説」というものは残っているように言われる。だが、残っているのは、遺伝子を基本にした「血縁度」という概念だけだ。「血縁淘汰」という基本概念(淘汰の単位を血縁だと見なす概念)は、すでに打ち捨てられてしまった。
 群淘汰という概念も、血縁淘汰という概念も、今日では残骸のようなものだけを残して、本体部分は捨てられてしまっている。そして、かわりに、「遺伝子淘汰」という発想のみが残っている。
 遺伝子淘汰は、淘汰の単位が遺伝子である。この場合は、群淘汰や血縁淘汰の問題がない。
  ・ 遺伝子は、群と違って、世代を超えて同一性を保てる。
  ・ 遺伝子は、血縁と違って、先の世代でも稀薄化しない。
 後者について説明しよう。たとえば、自分の親や子は、血縁度は 0.5 である。ここでは血縁度という性質が半分に稀薄化されている。一方、遺伝子では、遺伝子が共通する確率が 0.5 である。ここでは、性質が半分に稀薄化されるのではなく、確率が稀薄化されるだけだ。現実の起こる現象は「(同じ遺伝子を)持つ/持たない」の二者択一である。つまり、1か0である。ただし、1になる確率は、世代を経るにしたがって、どんどん稀薄化していく。
 結局、「群淘汰」という発想は「血縁淘汰」に発展的に修正され、さらに、「血縁淘汰」という発想は「遺伝子淘汰」に発展的に修正された。こうして、今日でも残っているのは、「遺伝子淘汰」という発想だけとなった。





   ※ 以下は、特に読まなくてもよい。

 「血縁」「利己的遺伝子」と、「系統」とでは、発想の前提が異なる。
 このことについて、もう少し細かく説明しよう。

 (1) 利益の受領者
 この三つの概念は、次の意味では、ほとんど同じである。
 「利益を得るもの」(利益の受領者)

 たとえば、親が子を育てるということがある。そこでは、利益を受けるのは、系統・血縁・利己的遺伝子である。どの言葉で認識しても、大差はない。「利益を受ける」という点では、どれもが「全体」であり、個々の個体ではない。

 (2) 行動の決定者
 この三つの概念は、次の意味では、二通りに分かれる。

 「行動を決定するもの」(行動の決定者)

 血縁淘汰説と利己的遺伝子説では、行動を決定するのは、血縁・利己的遺伝子である。
 本サイトの発想(利全主義と系統)では、行動を決定するのは、個体である。

 ──

 以上の (1)(2) をまとめよう。
 「利益の受領者と行動の決定者は、同じか?」
 という質問に対する回答は、次のような差が生じる。
   ・ 「同じである」 …… 血縁淘汰説と利己的遺伝子説
   ・ 「同じでない」 …… 本サイトの発想


 では、この違いは、どこから来たのか? 
 それは、「利己主義であるか否か」ということから来る。
 血縁淘汰説と利己的遺伝子説は、利己主義に基づく。(だから、行動者は、自分の利益になることしかしない。)
 本サイトの発想は、利己主義とは異なる原理に基づく。(だから、行動者は、自分の利益にならないこともする。)……これは「利全主義」だ。

 ──

 つまり、二つの発想の違いは、「利己主義/利全主義」という違いだ。

 利己主義では、次の発想になる。
 「自分の利益になることを、自分が決定する」
 たとえば、「血縁の利益になることをせよ」と、血縁が決定する。
 また、「遺伝子の利益になることをせよ」と、遺伝子が決定する。
 ここでは、利益の受領者と行動の決定者は、同じである。

 一方、利全主義では、そうではない。
 「系統の利益になることをせよ」と決定するのは、個体である。たとえば、「子のためになることをする」と親が決定するとき、その決定をするのは親である。
 親は、自分の行動を決定するとき、「自分の利益になるから」という理由で決定するのではなく、「他者(子)の利益になるから」という理由で決定する。
 これが利全主義だ。ここでは利己主義は働いていない。

 ──

 こうして、違いがわかっただろう。
  ・ 利己主義 …… 利益の受領者と行動の決定者は、同じである
             (自分のためになることだけをする。)
  ・ 利全主義 …… 利益の受領者と行動の決定者は、同じでない

             (自分のためにならないこともする。)

 ここで、話の順序を変えると、次のように理解できる。
 以前の学者たちは、「利己主義」を前提とした理論を組み立てようとした。
 最初は、「個体の利己主義」という理論を組み立てた。(ダーウィン説)
 次に、「血縁の利己主義」という理論を組み立てた。(ハミルトン)
 次に、「遺伝子の利己主義」という理論を組み立てた。(ドーキンス)
 そのいずれも、「利己主義」を前提とした理論を組み立てようとした。そこでは、(利己主義ゆえに)「利益の受領者と行動の決定者は、同じである」ということが前提となった。

 しかし、まったく新たな発想が登場した。それは、利全主義だ。ここでは、「利益の受領者と行動の決定者は、同じでない」という発想を取った。たとえば、親が子育てをするとき、利益を得るのは子供であり、行動を決定するのは親である、と。
 こうして、利己主義を捨てることで、その制約(利益の受領者と行動の決定者は、同じである、という発想)を逃れて、新たな発想を取ることができるようになった。

 かくて、新たな発想を得た。古いのと新しいのと、二通りの発想を得た。
 その二つの発想のうち、どちらが正しいか、ということは、とりあえずは考えなくていい。ここでは単に、「発想の選択肢が二つに増えた」ということを理解すればいい。つまり、発想の幅が広がったわけだ。
 現実にはどちらが正しいかというと、ケースバイケースである。事例ごとに異なる。たとえば、食事を取るのは利己主義であり、子育てをするのは利全主義だ。
 とはいえ、「利己主義だけ」という発想を取る限りは、子育てをうまく説明できない。一方、「利己主義と利全主義の双方」という幅広い認識を得れば、「食事を取るのは利己主義であり、子育てをするのは利全主義」というふうに、ケースバイケースで真実に該当する方を選択できる。

 ──

 結局、「利益の受領者と行動の決定者は、同じか否か」という点がポイントだ。そして、そのためには、「利己主義こそ絶対的な原理だ」という発想を逃れることが必要となる。



 上記の点は、最も重要な違いである。他にも、細かな違いはある。

 (1) 「系統」と「血縁」 ……
  「系統」では、先祖から子孫へと続く「全体」(範囲)が意味される。
  「血縁」では、濃度のみが重視される。

 (2) 「系統」と「利己的遺伝子」 ……
  「系統」では、先祖から子孫へと続く「個体の全体」が意味される。
  「利己的遺伝子」では、「遺伝子の全体」が意味される。個体は副次的。


( ※ 「なんだか面倒臭い話だなあ」と思う人が多いだろうが、概念を明確するために、似た概念と対比させるわけだ。細かい話ではある。だから「補説」となる。肝心の本論は、すでに昨日分で終了している。本日以降は落ち穂拾い。……あんまり本気で読まないでください。このあとしばらくは、流し読みで十分。)
 


 本項では、用語(概念)の違いだけを示した。
 一方、物事を本質的に考えて、
 「利己的遺伝子という概念はどこがおかしいのか?」
 「正しくはどう理解すればいいのか」
 ということを知りたければ、(脳の)本能を考える必要がある。次項を参照。
  → [補説] 遺伝子と本能 (次項)
posted by 管理人 at 20:57| Comment(1) |  生命とは何か | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本項の前半部分の話を加筆しました。
つまり、一番肝心の話を追記しました。
(もともとの文章は、ピンボケでした。一番肝心の核心的な話が抜けていました。それを新たに書き足しました。)

タイムスタンプは下記。      ↓
Posted by 管理人 at 2008年01月27日 10:27
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