そこで、本項では、正確に説明する。すなわち、「利子主義」に替えて、「利全主義」という概念を用いる。(こちらが正確。)
利全主義とは、「全体の利益」を狙うものだ。ここで、「全体とは何か?」が問題となる。その全体を「系統」という概念で説明する。
結局、「利全主義」と「系統」という二つの概念が登場する。これらが有性生物の真実を解き明かす。
( ※ 本項ではエッチな話も含まれます。) ──
前項では、「利子主義」という概念を呈示した。これは、(正確さには欠けているが、)わかりやすく説明することができた。
すなわち前項では、典型的な対比を示した。
「利己主義/利子主義」
という対比だ。この対比では、次のことを示した。
・ 利己主義は、進化には不利だ。(数を増やすには有利だが。)
・ 利子主義は、進化には有利だ。(数を増やすには不利だが。)
こうして、「利己主義」に対して「利子主義」という新概念を導入することで、有性生物の原理は「利己主義」でなく「利子主義」であることを示した。
──
さて。「利子主義」という概念は、物事の核心を典型によって示すには便利だが、適用範囲について考えると、いささか不正確なところがある。というのは、その概念では説明できないことがあるからだ。── それは、「異性愛」だ。
「利子主義」という概念は、親子間の愛を説明できる。しかし、異性間の愛を示すことはできない。
なぜか? いまだ子供を生んでいない男女の間には、子供が(まだ)存在しないので、親子間の愛情もないからだ。
だから、男女間の愛を示すには、別の概念が必要となる。
というわけで、「利子主義」という概念を拡張する形で、「利全主義」という概念を新たに導入する。以下の通り。
──
まず、概念の意味を説明しよう。
「利全主義」とは、「利己主義」に対比されるもので、「自分一人だけの利益」のかわりに「自分を含む全員の利益」を狙うものだ。
その意味は、簡単に言えば、「協力」である。
比喩的に話をしよう。
狩りをして、大きな鹿を倒した。この鹿を、どうするか? Aという人は、自分の利益だけを狙うので、鹿を独り占めしようとしたが、大きすぎて運べない。Bという人も、同様だ。二人とも、鹿をその場に放置するしかなかった。結果的に二人とも、鹿を「独り占めしよう」と思って、利己的にふるまったすえに、鹿を全然得られなかった。
しかるに、AとBとが協力して、「二人で鹿を分けあおう」と考えると、二人でいっしょに鹿を運べるので、二人で鹿を半分ずつ得ることができた。
つまり、「利己主義」で得られる利得はゼロ。一方、(協力という)「利全主義」で得られる利得は半匹。 だから、「利己主義」よりも「利全主義」の方が利得が大きい。
こういうふうに「協力することで各人の利益を増やす」ということは、文明社会では必ず見出される。原始時代の人間では、意思を疎通できず、各人は「利己主義」で生きるしかなかったかもしれない。しかし、協力するうちに言葉ができれば、言葉によってさらに協力することができて、「利全主義」を取ることができる。そのことで大規模な協力も可能になる。たとえば数十人がいっしょに狩りをしてマンモスを狩る、というふうな。
こうして協力が進むうちに、「村」などの村落ができるだろう。それを大規模にしたものが「大都市」である。そこでは「分業」という形の「分担・協力」がなされる。
一方、無人島に漂着して孤立した人は、すべてを自給自足する。彼は、自分の得たものを独り占めできるが、逆に、他人から得ることもできない。得る割合だけは 100%だが、得るものの全体量があまりにも小さいので、原始的な生活しかできない。せいぜい魚貝類の採集生活しかできないだろう。人間としては最も貧困だ、とすら言える。これが「利己主義」の行きつくはてだ。(利己主義の極致は、人間のもっとも無性生物に近い状態、とも言える。)
こうして「協力」の重要性がわかった。
一般的に、各人がバラバラに利己主義で競争するよりは、各人が協同作業をする方が、全体の利得は大きくなる。そのせいで、各人の分配される利得もまた大きくなる。
それがつまり、「利全主義」の意味するところだ。
──
以上のこと(利全主義のこと)は、「利子主義」にも当てはまる。
前項の「利子主義」とは、「利全主義」の一種と見なすことができる。つまり、「親子間の利全主義」である。
( ※ なぜそう見なすことができるか? その理由は、ここではまだ述べない。後述の「系統」という概念が必要だ。)
さて。「利全主義」という概念を得た。そして、この概念を「親子間」に当てはめることもできた。
では、この概念を「異性間」に当てはめると、どうなるか? その場合には、「利子主義」を拡張する形で、次のことが成立する。
──
異性間の場合も、(親子間の場合と同様に、)目的は「子の利益」である。
ただし、異性同士では初めのうちは、まだ子は誕生していない。そこで、「(やがて生まれるはずの)未来の子」のために、異性同士が協力する。それが「異性愛」だ。
異性愛は、子供のころには生じず、思春期になってから生じる。次のように。
まず、子供のころには、「利己主義」が原理となる。つまり、自分のことだけを考えて、自分の利益だけを狙う。
やがて、子供が成長して、思春期になる。すると男も女も、子供を生む能力を備える。男は精子を出せるし、女は卵巣が働きはじめる。この時点で、「利己主義」を脱して、「利全主義」に移る。つまり、「自分の利益を狙う」という原理から、「未来の子の利益を狙う」という原理に転じる。
すると、どうなるか? それまでは「自分のため」とばかり考えていた利己的な子供が、思春期以降には「異性のため」ということを考えるようになる。それまでは「オモチャがほしい」「おいしいものを食べたい」とばかり考えていた子供が、「異性のために尽くしたい」と思うようになる。男は女のために尽くしたくなり、女は男のために尽くしたくなる。つまり、特定の相手のために尽くしたくなる感情(= 愛)が生じる。
この感情(愛)は、自分の利益だけを狙う利己主義とは逆に、自己犠牲的な感情だ。ただしそれは、決して利他主義でも博愛主義でもない。特定の異性だけに向けられる感情だ。異性愛とはそういうものである。「他の人はどうでもいい、この人だけは特別だ」という気持ちだ。
このような愛は、女の愛よりも、男の愛の方が、かなり強い。換言すれば、男の方が自己犠牲の度合いが強い。男は「女のために死ねる」と思うが、女は「男のために死ねる」とは思わない。
ではなぜ、男は女よりも愛が強いのか? それは、守る対象が異なるからだ。女は、子を守る。だから女は、「子のために死ねる」と思う。男は、女と子をともに守る。ただし、子がまだ生まれていない時点では、将来的に子を生む女を守る。女を守ることで、女と子の双方を守る。だから、男と女が出会った時点では、男の方が愛は強い。女の愛は、やがて生まれるはずの子のために留保されている。(その後、子が生まれると、女は子を愛する。この愛が最強かもしれない。)
以上のことが、「利全主義」という概念から説明される。
男も女も、子供のときには利己主義だが、思春期以降では自分以上に相手を大切にする。なぜ? それは、(まだ生まれていない)将来の子供のためだ。そして、いったん子供が生まれれば、そのあとは子供を最優先にする。(これは「利子主義」である。)
こうして、異性愛と親子愛が、統一的に説明された。子が生まれる前には「異性愛」があり、子が生まれたあとでは「親子愛」がある。そこではいずれにしても、目的となるのは「子の利益」である。
──────────────
ここで、「子の利益」ということは、「全体の利益」というふうに言い換えることができる。これは結論だ。その結論に至る理由は、次の通り。
まず、「全体の利益」というものを考えよう。そこで問題となるのは、
「全体とは何か?」
ということだ。
全体とは、「家族」のことか? そう思えそうだが、そうではない。なぜなら、まだ子供が生まれていない状態では、「家族」というものはできていないからだ。単に「夫婦」「つがい」があるだけで、「家族」にはなっていない。
しかるに、「家族」ができていなくても、「全体」はある。その「全体」とは、何か? それは、「未来の子供」を含むような全体だ。そこでは、いまだ誕生していない「未来の子供」こそが、決定的に重要である。
では、「未来の子供」を含む「全体」とは、いったい何か?
──
ここで、話を転じて、過去の進化論を見よう。過去の進化論で、似た例を探ると、次のような発想があった。
・ 群れの利己主義 (群れをなす動物における群れ全体)
・ 種の利己主義 (種の全体)
しかし、このような形で「全体の利己主義」を提出して、「全体同士の競争」という利己主義を導入すると、その学説には矛盾が生じる。なぜかというと、「群れ同士」とか「種同士」とかでは、競争は起こらないからだ。
──
そこで、本項では、過去の進化論とは別の形で、「全体」を示そう。
「群れ」とか「種」とかは、一つの個体を空間的に拡張した概念である。たとえば、あなたがいて、あなたのまわりの空間に同種の仲間がたくさんいる。それが「群れ」や「種」などの概念で示される。
一方、一つの個体を時間的に拡張した概念もある。たとえば、あなたがいて、あなた以前には親などの「先祖」がいて、あなた以後には子などの「子孫」がいる。先祖と子孫。それらはいずれも、あなたを基準にして、時間的に拡張したものだ。これを「系統」と呼ぼう。
系統とは、ある個体を基準にして、先祖から子孫に至る集団全体のことである。
( ※ 系統は、自分において最も濃い。子と親では、濃度は 1/2 だ。過去に遠ざかるほど稀薄になるし、未来に遠ざかるほど稀薄になる。)
──
「系統」という概念を導入したあとで、これを「全体」と見なそう。すると、「系統」にもとづいて、「利全主義」というものを定義できる。
その意味は、こうだ。
「先祖から子孫に至る系統において、各個体は、自分の利益だけでなく、系統全体の利益を狙う」
これは「系統の利全主義」である。これこそが重要だ。(留意!)
このことは、次の対比で示せる。
・ 利己主義の個体 …… 自己の利益を狙う。
・ 利全主義の個体 …… 系統の利益を狙う。
たとえば、利己主義の個体ならば、自己の利益を狙うので、子育てをしたくないだろう。また、利全主義の個体ならば、系統の利益を狙うので、子育てをしたがるだろう。そういう違いが生じる。
もちろん、子育てだけでなく、他の繁殖行動のすべても該当する。恋も、交尾も、子育ても、すべては「系統の利全主義」でうまく説明される。(その意味は、子の利益を目的とすること。前項で「利子主義」と呼んだもの。前項を参照。)
こうして、「個体の利己主義」や「遺伝子の利己主義」に代えて、「系統の利全主義」という発想を取ることで、さまざまなことがきれいに説明されるようになった。
( ※ なお、他の概念として、「遺伝子の利己主義」というものもあるが、それには別の難点がある。そのことはすでに示したとおり。── 第一に、遺伝子ばかりが優先されるならば、遺伝子培養タンクだけあれば済むことになる。第二に、その発想では遺伝子は個体を退化させてしまうはずだ。個体が退化するほど遺伝子が増えるからだ。)(あとで別項でも詳述する。)
──────────────
ついでに少々。
「利全主義」という概念は、わかりにくいところがあるので、もう少し説明しておこう。
まず、次の疑問がある。
「利全主義は利他主義と、どう違うか?」
これについて答えよう。
利他主義では、他者に「与える」ことが核心だ。自分は得られず、単に他者に与えるだけだ。たとえば、貧者に金を恵む篤志家。恵まれない人々に奉仕するボランティア。
その変形として、「全体主義」や「共産主義」というものもある。自分の稼いだものをすべて国家に提供する、というものだ。
一方、利全主義は、そうではない。give というよりは give and take だ。ただし時間順も入れて書くと take and give だ。
ここでは、与えるだけではない。受け取り、与える。順序は、「先に受け取り、後で与える」となる。どっちみち、与えるだけではないから、損得の帳尻は合っている。
この際、「自分もまた全体の一員である」ことが大切だ。
系統のなかで、個体は(系統のなかの)「子」に与えるだけではない。(系統のなかの)「親」から受け取る。
記憶力の悪い人は、自分が受け取ったことを忘れて、いま与えることばかりを意識する。だが、利全主義の生物は、系統とのあいだで take and give をしているのだ。それは決して( give だけの)「利他主義」ではない。
──
「親が「子の利益を狙う」ということは、利他主義にはなっていない。なぜなら、それは、利他主義のように(純粋に)「与える」ことではないからだ。どちらかと言えば、「受け取ったものを返す」ことだ。
個体は、系統から受け取ったものを、系統に返す。その全過程のうち、後半だけを見れば、単に「与える」だけのように見える。だが、それは決して、単に「与えること」ではない。
たとえば、あなたが百万円を借りて、百万円を返済したとしよう。あなたが受け取ったものと、あなたが与えたものとは、等量だ。ただし、あなたは、その間に百万円を運用する権利を得た。そのことで、すばらしい利益を得た。
ここでは、「受け取ったものを返す」ということは、「与えること」とは異なる。だから、百万円を返済するのを見て、「百万円を与えるのは損だ」と思うのは、間違いだ。
以上の話を聞くと、「何を当り前のことを言うのか」といぶかる読者も多いだろう。しかし、このことは当り前であっても、生物学や進化論の世界では、当り前ではないのだ。むしろ、次のように信じられている。
「受け取ったものを返さない方がいい。受け取るだけにして、借金を踏みにじるのが最高だ。そうして利己的にふるまえば、利得が最大となり、有利であるから、生存競争に勝てる」
これが常識だ。
……というふうに書くと、「それは曲解だ、トンデモだ」とわめきたてる人もいるだろう。そこで、解説しよう。
現代の学界では、最初から最後まで、「利己主義」というものを原則とする。「個体の利己主義」であれ、「遺伝子の利己主義」であれ、とにかく、「利己主義」を原則とする。
そして、子育てについても、「利己主義の観点から、親である個体は自分にとって有利なことをなす」というふうに説明する。たとえば、「子供を残すことが親にとって有利だ」とか、「子供を残すことが遺伝子にとって有利だ」というふうに。
ここではあくまで、「利己主義」というものが原則となる。「子育て」というものを、直接的には、「親が子に利益を与えること」というふうに認識する。
そこでは、「与える」という認識だけがあり、「(受け取ったものを)返す」という認識はない。当然ながら、「返してもらった個体がさらに誰かに与える」という発想もない。あくまで「自分一人の損得」だけを考える。
だからこそ、私は「考えを根本的に改めよ」と主張する。
・ 物事を全体的に見よ。
・ 親の視点から見ず、子の視点から見よ。
・ 与えるものばかりでなく、受け取ったものを見よ。
こういうふうに、考えを根本的に改めることを要請する。それがつまり、「利己主義でなく、利全主義でとらえよ」ということだ。
──────────────
「利己主義」と「利全主義」の違いを際立たせるために、この双方を、われわれ人間に当てはめてみよう。
われわれ人間は、いかに生きるべきか? この問題には、次の3通りの答え方がある。(「利己主義」が2通りと、「利全主義」が1通り。)
(1) 利己的な個体
「利己的な個体」を前提とするならば、われわれは個体として、自分の利益だけを狙えばいい。
「金儲けが自分の利益だ」と思う人は、子育てなんかしないで、独身貴族のまま、自分の稼いだ金を自分の遊びに使い果たしてしまえばいい。結婚も子育てもする必要はない。
「子を残すことが自分の利益だ」と思うのであれば、あちこちで乱交すればいい。そこで生まれた子供がどんなに不幸になろうと、知ったこっちゃない。子供の数さえ増えれば、それでいいのだ。あとは野となれ、山となれ。(プレイボーイ)
(2) 利己的な遺伝子
「利己的な遺伝子」を前提とするならば、われわれは遺伝子の乗り物として、自分の遺伝子を増やすことだけを狙えばいい。
「自分の遺伝子を残すことが自分の利益だ」という方針で、あちこちで乱交すればいい。そこで生まれた子供がどんなに不幸になろうと、知ったこっちゃない。遺伝子の数さえ増えれば、それでいいのだ。子供の半分が死のうと、子供が3倍生まれれば、それでいい。(すぐ前のプレイボーイと同じ。)
さらに、最善なのは、自分の遺伝子を「遺伝子培養タンク」で培養することだ。
特に、「クローン人間」を作成すれば、なおさらいい。クローンなら、自分の遺伝子の全体を増やせる。だから究極の目的は、自分のクローンで地上を埋めつくしてしまうことだ。
その後、各人のつくった大量のクローンがエゴイズムによって殺しあいをすれば、ベストだろう。そのあと、最強の一人だけが生き残る。彼こそが、最優秀の人類だ。彼のクローンで地上を埋めつくしてしまうことこそ、理想的な状態だ。(ほとんどヒトラーのような発想。)
(3) 系統の利全主義
一方、「系統の利全主義」ということを前提とするならば、事情は根本的に異なる。なぜなら、そこではもはや、「利己主義」という概念は捨てられるからだ。また、「数を増やすこと」という目的もなくなるからだ。
では、この場合には、われわれの目的は何か? ここでは、目的というよりは、原理がある。その原理は、こうだ。
「受け取ったものを、返すこと」
つまり、単に与えることでなく、系統から受け取ったものを、系統に返すことだ。これこそが原理だ。(そのことが結果的に「子の利益のため」という形を取る。)
では、この原理は、何を意味するか?
──────────────
「受け取ったものを、返すこと」
これは、「系統の利全主義」における原理だ。では、その意味は? ──こう考えると、生物の本質に突き当たる。
「生物の本質とは何か?」
という問題に、先日の項目で、次のように答えた。
「生物と無生物のあいだに境界を引くのはナンセンスだ。なぜなら、無性生物と有性生物は、根本的に異なるからだ。だから、(二分類でなく)三分類でとらえるべきだ。『無生物/無性生物/有性生物』というふうに」
これはこれでいい。これは生物学的に、物事の本質をとらえる立場だ。
ただし、哲学的に物事をとらえるのであれば、「生物と無生物のあいだに境界を引く」ということも可能だろう。そこで、新たに哲学的な観点から、「生物と無生物のあいだに境界を引く」ということをなそう。
すると、「生物の本質とは何か?」という問いに、次のように答えることができる。
「生物の本質とは、誕生と死があることだ」
誕生と死。この二点こそ、生物に特有の形質だ。このような形質は、無生物にはない。生物だけにあるものだ。
そして、ここでは、生よりも死の方が重要だ。生だけならば、無生物にも見出される。どんな現象であれ、発生するだけなら、発生するだろう。だから「誕生」ないし「発生」だけなら、生物の特質とはならない。
生物に特有の形質は「死」があることだ。たとえ個体の肉体が崩壊しなくても、単に「生きている」という機能が停止しただけで、生物は死ぬ。
そして、生物が生物である期間は、「誕生から死」までの期間である。つまり「寿命」の期間だ。(= 一生・ライフタイム)
生物には、寿命がある。ここから、重要な知見が得られる。次のことだ。
「一つ一つの個体には寿命があるのに、それでも生物は延々と存続し続ける」
これを一言で言えば、こうなる。
「生物は世代交代をする」
「世代交代」── これこそが生物において決定的に重要なことだ。
生物には寿命があり、たえず老化し、やがて死ぬ。それでも生物は、世代交代をして、ずっと存続し続ける。
とすれば、そこには、何らかの方法がある。では、その方法は? 次の二通りだ。
・ 自己複製
・ 交配
ここでようやく、「自己複製」という概念が出た。そしてまた、「自己複製」ということの意味も、ここでその本質が理解される。
「自己複製」とは、「個体の数を増やすこと」ではない。確かに数は増えるが、そのこと自体が目的なのではない。(その理由は、進化の過程を見ればわかる。進化していくにつれて、産卵の個数は減る。)
「自己複製」の真の意義は、「世代の交替」なのだ。親が老化や寿命によって死ぬから、死ぬ親の代わりに、子を誕生させる。子を誕生させることで、親の死を乗り越える。こうして、世代交代をなして、生物を存続させる。(系統の存続。)
ただ、「世代の交替」を目的とするなら、「自己複製」という方法は特に必要ない。むしろ、もっと洗練された方法がある。それが「交配」だ。
「交配」でも同じく、「世代の交替」が可能だ。しかも、「世代の交替」のほかに「進化を内在的構造として含む」ということが可能になる。(前項で述べたとおり。)
だから、「交配」は、新たな利点(進化)を得ながら、「自己複製」と同じ目的(世代の交替)を達成しているのだ。
ここでは、「数を増やす」ということは、まったく目的になっていない。「数を増やす」ということは、「自己複製」や「交配」においては、どうでもいいことなのだ。
何より大切なのは、「世代の交替」である。つまり、「過去から未来へ」「先祖から子孫へ」という形で、その生物を存続させることだ。つまり、系統の存続だ。── これこそが、個体の死という宿命に縛られた生物において、唯一の絶対的な原理だ。
──
ここまで理解すれば、生物としてのわれわれのなすべきこともわかる。
先に、(1)(2)(3) の例で、「利己的な個体」「利己的な遺伝子」「利全的な個体」というふうに説明した。そして、次のように行動規範を示した。
(1) 利己的な個体ならば、好き勝手に欲望のままに生きればいい。
(2) 利己的な遺伝子の乗り物ならば、ひたすら乱交すればいい。
(3) 利全主義の個体ならば、子の利益を大切にすればいい。
このうち、(3)は、これはこれでいい。ただし、すぐ前に述べた「世代交代」という概念を理解したあとでは、同様のことを、次のように表現できる。
「われわれのなすべきことは、先祖から子孫へとつながる全体(= 「系統」)のなかで、一つの世代として、おのれの使命を果たすこと」
使命とは、何か? 「系統から受け取ったものを、系統に返す」ということだ。
このことは、イメージ的には、「リレー競走における、バトンの受け渡し」を思い浮かべるといい。前走者からバトンを受け取り、自分がしばらく保持して、次走者に渡す。バトンを継続する限りは、リレー競走は続く。誰か一人が「もうやーめた」と言い出したら、そのチームは脱落する。だから、リレー走者の一人として、おのれの役割を果たすこと。それが使命だ。
もう少し正確に言うと、損得勘定を込みにして、こう言える。「借金の踏み倒しをするな」と。(受け取った金を返せ。)
ただし、である。「借金の踏み倒しをするな」という説に対して、逆の見解もある。次のように。
「借金の踏み倒しをするといい。そうすれば自分が得をする」
これは、利己主義であり、悪魔のささやきだ。しかし、そんなささやきに従えば、その系統は途絶えてしまう。次のようにして。
(1) 親が子育てを忘れて、自分の欲望だけを満たしていれば、子供はないがしろにされる。
(2) 親が子育てを忘れて、あちこちで乱交だけをすれば、生まれた子供はひどい環境に置かれる。(死ぬかもしれない。)
「利己主義」とか「遺伝子の数を増やす」とか、そういう方針は、あくまで無性生物の方針だ。単細胞の方針だ。(だから単細胞である進化論学者には好まれるが。)
しかし、進化した有性生物は、そういう方針を取らない。むしろ、「系統から受け取ったものを、系統に返す」という方針を取る。なぜなら、そのような系統だけが、立派に進化するからだ。
進化した生物は、あるとき突然誕生したわけではない。時間的に長い歴史をもつ系統の上に誕生した。つまり、先祖の長い歴史の蓄積の上に誕生した。あなたが人間として誕生したのも、先祖の長い歴史の蓄積があるからなのだ。あなたはそれほどにも多大なものを過去から受け継いだ。
とすれば、あなたは系統における一つの世代として、受け取ったものを返すという使命をもつ。その使命は、(遺伝子によって)本能として組み込まれている。だから、その本能を果たせばいい。健全なる生物として。……それがあなたのなすべきことだ。
世間には、単細胞である進化論学者が多い。彼らは、有性生物の本質を見抜けないまま、あなたに無性生物の原理を押しつける。「利己的であれ」「自己複製をせよ」「遺伝子の数を増やせ」というふうに。……しかし、それらの原理は、無性生物の原理であって、人間の原理ではない。そんなものを押しつけられた人は、人間らしさを失い、無性生物のようになってしまう。それが、利己的な人々や、乱交する人々だ。
われわれはそういうデタラメな理論を聞く必要はない。むしろ、有性生物の本質として、おのれの使命を果たせばいい。
では、そのための方法は? その方法を、特に考える必要はない。おかしな進化論の本を読んで、あれこれと考える必要はない。単に自然に生きればいい。人は、自然に生きる限り、本能に従う。本能に従えば、自動的に正解にたどりつける。
すなわち、こうだ。
「誕生したあと、子供時代には、親の愛によって成長する。その後、異性を愛し、異性とのあいだに子を生み、子を育てることで、親から受け取ったものを子に与える」
これを簡単に言えば、こうなる。
「誕生と死のあいだの期間(寿命・一生)において、一つの個体としてよく生きること」
人間は(愛と性という)本能にしたがって、よく生きればいい。そして、それは決して、「やたらと乱交する」という意味ではない。また、「自分の遺伝子の数を増やす」ということでもない。
そこらの進化論学者ならば、ニューヨークの貧民街を見て、乱交がまかり通り、未婚の母がたくさんいるのを知ると、「何とすばらしいことだろう」と称賛するだろう。「若者たちよ、もっともっと乱交しよう。フリーセックス万歳」と推奨するだろう。
しかし、私はそれを否定する。なぜならそこでは、子が不幸になるからだ。親が自分の遺伝子を増やすことが大切なのではない。生まれた子の一人一人がまともに生きられることが大事なのだ。そしてそのためには、交尾をする自分が立派に成長していなくてはならない。ガキがガキを生んでも仕方ない。その前に、生まれた子を育てることができるように、個体が立派に成長している必要がある。個体がろくに成長しないまま、「遺伝子の数を増やそう」とだけ努めて乱交しても、ナンセンスなのだ。
人は大人になるまでに、十分に成長する必要がある。それがつまり「良く生きる」ということだ。
新たな発想では、何よりも大切なのは、「よく生きること」だ。誕生と死のあいだで。
有性生物の本質を知ると、われわれ人間が何であるかという真実にも気づくようになる。人間を生物学的に理解するということは、確かに、人間の根源的な本質を教えてくれるのだ。
( ※ 逆に、人間を生物学的に誤解すると、とんでもない行為を正当化することで、人間を無性生物のように退化させようとする行動を推奨するようになる。……これは冗談ではない。米国の進化論学者のあいだでアンケートを取ったら、彼らの多くは「乱交こそ人間の本質だ」と信じている。人間性のレベルが知れるね。)
※ 肝心のことはすでに述べた。このあとは、補足としての話を加える。
[ 補足1 ]
「世代交代」は、有性生殖と無性生殖とでは、いくらか異なる。
有性生殖では、純然たる交替である。「親から子へ」というふうに交替する。(ただし、共存期間もある。)
無性生殖では、純然たる交替ではない。親細胞が分裂して、二つの娘細胞が生じる。
この両者は、似ている点もあるが、原理的にはかなり異なる。本項では特に、有性生殖の世代交代を念頭に論じている。
なお、本項の立場は、「生物の共通原理を探ること」というよりは、「無性生物と有性生物を区別して、それぞれの原理を別個に探る」という方針を重視したい。( → 有性生物と無性生物 )
[ 補足2 ]
「利全主義」や「愛」というのは、「利己主義」というのに比べると、文学的すぎて、非科学的に思えるかもしれない。そこで、科学的に説明しておこう。
次のことが核心だ。
「利全主義の方が利己主義よりも、得られる利益が大きい」
換言すれば、こうだ。
「あえて利益を得ようとするよりも、目先の利益を追わずに生物学的な本能に従う方が、利益が大きい」
有性生物では、「子の命を大切にする」「自己犠牲をする」という本能があれば、その系統は持続的に生き続けることができる。そして、その結果として、系統の末端にいるあなたは、莫大な利益を得た。それは、「この世に誕生した」という利益だ。これに勝る利益があるだろうか?
生物の最大の利益は、「誕生」「生存」である。そのことを、利全主義の発想は教えてくれる。
そして、そのことがうまく実現するように、有性生物にはもともと本能が組み込まれている。利己主義に反する本能が。そして、それがいったいどういう本能であるかを明かすのが、「利全主義」という概念だ。つまり、この概念は、有性生物の本質を示すのに役立つわけだ。
「利全主義」の特質は、科学的に言えば、「個体の利己主義」に反することをあえて行動するための本能を、個体が生得的に備えることだ。
たとえば、個体はふだんは利己的に獲物を捕るし、そのための本能として食欲などがあるのだが、その一方、利全的にふるまうことも必要で、それゆえに性欲などがある。
一般に、生物は飢餓に瀕すると、食欲と性欲がともに高まる。すなわち、個体を生存させようとしながら、かつ、子孫を誕生させようとする。……そういう本能があるのだ。そういうことは、「利己主義」および「利全主義」という双方の概念で理解される。この二つの概念はともに必要なのだ。利己主義だけで片付くわけではないのだ。
( ※ 簡単に言えば、こうなる。有性生物の特質は、誕生・成長・交配の三つである。「誕生」後の「生存」のために、利己主義は必要だ。たとえば、食物を摂取することなど。それは「生存」のために必要だ。だが、生物の特質は「生存」だけではない。あらゆる生物に共通の特質として「生存」があるが、有性生物ではさらに、成長・交配という二つの特質がある。この二つの特質は利全主義に基づく。そして、この二つの特質があるからこそ、有性生物は進化した生物となれる。……われわれ人間が、単に生存するだけの細菌でなく、進化した生物である人間であるということにおいて、利全主義は決定的に重要な意味をもつのだ。)
( ※ 注記してこう。「系統の利全主義」は、この宇宙の絶対的真実というわけではない。ある生物はそれを取り、ある生物はそれを取らない。取るか、取らないかは、どちらも可能である。……ただし、これを取らない生物[無性生物]は、進化することができない。これを取る生物[有性生物]は、進化することができる。そして、われわれ人間は、後者に属するのだ。……こうして、われわれがどういう生物であるかを理解できる。つまり、「有性生物は、数を増やす生物ではなく、進化する生物である。その最先端に、われわれ人間がいるのだ」と。わかりやすく言えば、こうだ。「われわれは利己主義を取らないから、細菌ではないのだ」と。……ま、あえて細菌になりたがろうとしている人もいるが。)
──
※ 最後にもう一つ、蛇足としての話を加えておく。
(ここまでの話を理解できていれば、以下は読まなくてよい。)
|
※ 「生物とは何か」をめぐるシリーズは、ここで一応、完結です。
このあとは、落ち穂拾いふうに、周辺的な話題を拾います。
※ ただし、別途、新たな結論を一つ追加しました。
「生物の本質は自己複製ではない」ということを、強く示しています。
非常に重要な話なので、是非ご覧ください。
→ 性の誕生(半生物を越えて)
※ さらに、遺伝子に関して、最終的な結論を示しました。
→ 生物と遺伝子 (その1 〜 その4)
(これは最終的な結論です。そこに至る前に、他の項目も
読んでおくことが前提となっています。)
確かに早まってしまいました。
しかしついに全て理解しました。直感的にですけどね。全体像を。系統かあ。素晴らしいです。
悟りが天から降ってきたような感覚です。
ここでもう一つありますが、系統を個体を時間的に拡張したものだけではなく、個体を含む群れを時間的に拡張したものと捉えることもできると思いますが、ここのところはどうでしょうか?最小の群れとしての単一の個体の系統とただの個体の系統では違いはあるようなないような...ですかね。
ミクロ:マクロと利己:利全というわけです。
あさってあたりに書く予定のテーマだったのに、先手を打たれてしまった。参った!! どうしよう・・・・ (^^);
そこらの進化論学者ならば、ニューヨークの貧民街を見て、乱交がまかり通り、未婚の母がたくさんいるのを知ると、「何とすばらしいことだろう」と称賛するだろう。「若者たちよ、もっともっと乱交しよう。フリーセックス万歳」と推奨するだろう。
しかし、私はそれを否定する。なぜならそこでは、子が不幸になるからだ。親が自分の遺伝子を増やすことが大切なのではない。生まれた子の一人一人がまともに生きられることが大事なのだ。そしてそのためには、交尾をする自分が立派に成長していなくてはならない。ガキがガキを生んでも仕方ない。その前に、生まれた子を育てることができるように、個体が立派に成長している必要がある。個体がろくに成長しないまま、「遺伝子の数を増やそう」とだけ努めて乱交しても、ナンセンスなのだ。
人は大人になるまでに、十分に成長する必要がある。それがつまり「良く生きる」ということだ。
新たな発想では、何よりも大切なのは、「よく生きること」だ。誕生と死のあいだで。
以上の先生の見解に対して、、、
決して反論、異議を唱えるわけでは無い事をご理解下さい。
通常の常識から考えて、狂った考え方だと思います。
まさに非常識な考え方です。
我々は思春期を迎えると発情してしまいます。(強さに個人差はありますが、、)
これは我々に組み込まれた遺伝子からの欲求と私は考えます。
特に霊長類?人類?は1年中、発情する事も可能なようです。
ある専門家の意見として、思春期時代にセックスを抑制されなかった人間は、暴力的、攻撃的になる傾向が少ないと言っていたと思います。
もちろん、だから好き勝手にやりたい放題すれば良いと言っている訳ではありません。
機能は備わっても、この高度?に発達した我々の社会の中で、利子的、系統の利全主義的に生きなければならない事は彼らもわかっている事と思います。また、生きて行く為に身につけなければならない武器も取得するのに時間がかかります。
しかし一方で、好むと好まざるにかかわらず体は欲求して来ます。
チンパンジーのボノボではありませんが、、、体からの欲求の不満を浄化するために、、、
我々は少々お金がかかりますがコンドームを手に入れました。コンドームの使用により事故(破ける)を除き、ほぼ100%に近く避妊出来るようになったと思います。
ある人に言わせれば、自然的じゃなく間違った考えだ!、と言うかも知れませんが、自然の体の欲求に逆らうのもこれまた不自然のように考えてしまいます。
もちろん、人によりけりですが、、、
健康な男子なら4日で精子のタンクが満タンになると聞いた事もあります。
若年の女性の場合は、万が一の事故の際、あまりにリスク、犠牲が大きいので考えものですが、、、
あと、男の我がままもあります、、、
ある程度の年齢の女性ならば、逆に正しいセックスを男の子に教育してあげられるとおもいますが、、、騙されてしまいますね、、、
やはり、そういうものなのだと考えるしかないのでしょうか、、、
男女の中は秘め事であるべきと思っておりますので。
矛盾していると自分でも思いますが、間違ってもいるし、間違っていないとも私は考えてしまいます。
失礼致しました。
性欲は大事だし、むしろ現状以上にあった方がいいでしょう。この件は、本日よりも数項目後で再論します。
一方、本項(ここ)で述べているのは、性欲ではなくて、乱交による多産です。本項で論じているのは、やたらと強姦したり乱交したりして、たくさんの女をはらませて、そのあと責任を取らずに逃げ出すことです。話題にするなら、そっちの方を話題にしてください。
普通に避妊具を使う件は、ここでは論じておりません。あえて言えば、性欲が多くて避妊具を使うのは、妥当でしょう。全然問題ではありません。むしろ好ましいことです。
私の話を読むと、どうも、被害妄想に陥る人が多いようですが、強姦魔を非難したからといって、普通の人を非難したことにはならないので、勘違いしないでくださいね。
私自身が被害妄想に陥っている為(私の私生活で、、、)つまらない事を申し上げました。
南堂先生の広範囲に渡る見識、学識を、ただただ有り難く読ませて頂いてるオーディナリー・ピープルです。
そうですね。一人一人、自らと同じ心を持つ人々に対して、その心を考えもせず、と、言うよりも人間性を持たない、それを考える事の出来ない人間は厳罰に処して欲しいものです。
去勢か切り取ってしまう事を。
ほとんどの被害者は女性ですが、その家族の思いたるや一族郎党死罪にしても飽き足らないと思います。
が、これが恨みの連鎖を生み、大げさに言えば、最終的には戦争という悲劇に発展してしまう人類の性、サガ、なのだと考えてしまいます。
誰もが均等に愛を受けられるわけではありませんが、、、
このような悲劇が消滅してくれる事を願うばかりです。
しかし当サイトを拝見してまさに目から鱗が落ちる思いでした。もちろんすべてを盲目的に信じたわけではありませんけれども、それでも少し大袈裟かもしれませんが、自分の人生を全うする上で大きな役にたったと感じています。ありがとうございます。
人生の目的は何か?と誰もが考えますが目的というよりは「原理」や「本能」に従う事がきっと大切なのでしょうね。こう言うと少し無感情的な寂しいニュアンスを感じますが、実際にはその原理や本能に大きな割合で愛情や協力性が含まれているのだから、原理や本能の大切さを認識して生きる事はむしろ素晴らしい事なのだと思います。
今後も楽しい記事を期待しています^^ 失礼します。
尤も、これこそ原理の中の原理であり新しい境地を得たという気持ちになりながら、時間の経過とともに、あれは感激のしすぎだったと思った経験もありますので、しばらく咀嚼・反芻の時間を持たなければという気持ちもあります。
かねがね、若者になぜこのように苦しい勉強をしなければならないのかと相談されたときどのように答えるべきか、語るべき内容の持ち合わせが乏しいなあと思っていましたが、今般の論旨が答えの一端として使えるのかなという感想も持ちました。