【 重要 】
有性生物の本質を考えよう。前項では、
「有性生物においては、生命と進化は一体化している」
と述べたが、性があるからといって、なぜ進化が起こるのか? そもそも、進化の原理は、何なのか? ── これをめぐって考えると、「愛とは何か?」「性とは何か?」という問題にたどりつく。 ──
まず、従来の発想を紹介しよう。無性生殖を前提とした説では、次のようになる。
「生物の本質は、自己複製である。生物はいずれも、自己の遺伝子を多く残そうとする。優秀な生物ほど、自己の遺伝子を多く残せるので、その遺伝子が増え、他の遺伝子が減る。こうして、優秀な遺伝子が残るので、遺伝子レベルで進化が起こる」
なるほど、いかにも理路整然としている。誰しも、「なるほど」と思うだろう。
しかしながら、この説には、致命的な難点がある。「優秀な遺伝子が突然変異で生じる」という可能性は、天文学的に小さいのだ。確率的にとうていありえない、ということがわかっている。(遺伝子の塩基レベルの突然変異の確率から。)
つまり、この学説は、現代の分子生物学からは、あっさりと否定されてしまうのだ。「そんな好都合な突然変異がちょうどうまく起こるはずがない。そいつはご都合主義に過ぎる」と。
比喩的に言おう。宝くじの話だ。
「宝くじに当たると、金持ちになれる」
とA氏は考えた。そこでA氏は「金持ちになりたければ宝くじを買え」と主張した。しかし、これは正しくない。なぜなら、宝くじを買っても、当たる確率は非常に少ないからだ。当たるわけのない確率を信じて、「宝くじを買え」と主張しても、「そんなことは確率的にありえない」ということで、あっさり否定されてしまう。だから、
「宝くじに当たると、金持ちになれる」
と考えるのは、ダーウィン説を信じる進化論学者ぐらいのものだろう。まともな頭があれば、「そんなことは確率的にありえない」ということで片付けてしまう。
( ※ 宝くじの1等と、一つの桁だけで数字が一致することならばありそうだが、すべての桁で1等と数字が一致することはありえそうにない。)
とすれば、確率的に起こるはずのないシナリオを考えるよりは、確率的に起こるはずのあるシナリオを考える方がいい。
では、どんなシナリオを?
──
まず、従来の間違った説を調べてみる。すると、その根源に、次のことがあるとわかる。
「生物はいずれも、利己主義で動く。利己主義である生物がそれぞれ競争したとき、優勝劣敗という原理で、優れたものだけが生き残る」
( ※ ただし、「利己主義」の単位は、いろいろとある。下記を参照。)
ここで、「優勝劣敗という原理で、優れたものだけが生き残る」ということは、特に問題ない。生き残ったものを「優れている」と定義すれば、それはただのトートロジー(同語反覆)であるにすぎないからだ。
問題は、「生物はいずれも、利己主義で動く」という点だ。本当に、そうか?
実は、そうではない。そのことは、(無性生物ではなく)有性生物を見ればわかる。有性生物の原理は、利己主義ではない。かといって、利他主義でもない。それらとは別の、第三の原理がある。
では、第三の原理とは?
──
従来の進化論では、次のような学説があった。
・ 個体の利己主義
・ 群の利己主義
・ 血縁の利己主義
・ 遺伝子の利己主義
これらはいずれも、「利己主義」のバリエーションである。(利己主義の単位を変えただけだ。)
しかし、それとはまったく別の原理がある。「利己主義」ではない原理だ。しかも、「利他主義」でもない原理だ。
それを「利子主義」(りししゅぎ)と呼ぼう。ここでは「己」(おのれ)の利益を狙うのではなく、「子」(こ)の利益を狙う。前項でも述べたとおり、「親が子の幸福を望む(子の利益を狙う)」ということだ。……これが「利子主義」だ。
( ※ 銀行の「利息」という意味の「利子」とは異なる。また、人の名前の「としこ」とも異なる。新たな専門用語である。)
さて。いわゆる「利己的な遺伝子」という概念では、「遺伝子が利己的になっている」という発想で、「利子主義」と似た結論を説明する。
しかるに、「利子主義」は、「利己的な遺伝子」に(結論だけは)似ているが、原理的にまったく異なる発想だ。なぜなら、それはそもそも、「利己的」であることからはずれるからだ。利己主義(エゴイズム)という基本原理から離れるからだ。
──
では、(利己主義ならぬ)利子主義とは何か?
いきなり用語の解説をする前に、利子主義とはどんなものであるかを、具体的に描写しよう。
個体は、単に利己的(エゴイスティック)であるならば、自分のことしか考えない。子は子の利益だけを狙い、親は親の利益だけを考える。
この場合、「親は子を自分のために利用する」という発想から、「親は子を食ってしまう」ということが起こる。その結果、その種は滅びてしまいかねない。それを避ける方法は、ただ一つ。親と子とがまったく対等であることだ。そのための方法が、無性生殖(細胞分裂)だ。
細菌類は、親も子も対等である。この場合には、親が子を食ってしまうことはない。だから、無性生殖の生物には、「利己主義」(エゴイズム)が成立する。
しかるに、普通の有性生物では、親が子を利用することはできても、「親は子を自分のために利用する」ということはない。むしろ、親は子を助ける。つまり、「個体の利己主義」は成立しない。(例外的な特殊な場合を除く。)
──
普通の有性生物では、「個体の利己主義」は成立しない。では、何が成立するのか? ここで、新たに解答を与えるために、次のような学説(利己的遺伝子説)が出た。
「利己的であるのは、個体ではなく、遺伝子である。遺伝子の利益とは、遺伝子の数を増やすことだ、と定義する。その場合、個体としての親が、個体としての子を助けるのは、当然だ。なぜなら、そうすれば、遺伝子を増やせるからだ。ゆえに、『利己主義』という大枠を守ったまま、遺伝子を主語にすえることで、親が子を助けることを説明できる」
なるほど、これはこれで、一応、成功している。
ただし、である。その結果として、おかしな結論が付随してしまった。それは、「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」という結論だ。これはどうも、不自然である。(矛盾というほどではないが。主客転倒にしか思えない。)
──
そこで、本項では、新たな学説を出す。それが「利子主義」だ。
ここでは、「利己主義」という大枠そのものを否定する。個体であれ遺伝子であれ、「利己主義」なんてものは必要ない。必要なのは「利子主義」だけだ。それは、「親が子を助ける」という基本原理だ。(親子間に限定された意味での利他主義。)
「利己主義」を基本とする場合、視点は「親」の方にある。そして「親が子を助けるのは、親( or 親の遺伝子)にとって有利だからだ」というふうに答える。「親が自分の遺伝子をたくさん残せるので、親にとって有利だ」というふうに。
「利子主義」を基本とする場合、視点は「子」の方にある。そして「親が子を助けるのは、子にとって有利だからだ」というふうに答える。「親が自分の遺伝子をたくさん残せるかどうかなんてことは、子にとっては知ったこっちゃない。とにかく子にとって、自分が生きることが大事だ。そのためには、親に助けてもらうことが必要だ。だから、子は自分のために、親を奉仕させるのだ」というふうに。
つまり、親が子を助けるのは、親にとって有利だからではなく、子にとって有利だからだ。その事実をあるがままに直視するべきだ。(同じことを「親の遺伝子を残せるから親にとっても有利だ」というふうに、ひねくれた複雑な言い方をすることもできる。だが、そうしないで、シンプルに言い表すわけだ。)
──
親が子を助けるのは、子にとって有利だからだ。では、子にとって有利なことを、なぜ、親がなすのか? 生物の基本が利己主義だとするならば、親はなぜ利己的でないことをなすのか?
その答えは、次の二点で言える。
(a) 有性生物の基本は、利己主義でなく、利子主義である。
(b) 利己主義の生物は不利だが、利子主義の生物は有利だ。
従来の発想では、こうだった。
「利己的である生物は有利だ。だから生物の基本は、利己主義だ」
しかし、これは正しくない。むしろ、次のことが正しいはずだ。
「利己的である生物は不利だ。だから生物の基本は、利己主義でなく、利子主義だ」
( ※ その核心を言えば、こうだ。
「自分の利益を増やそうとして行動すれば、自分の利益を増やせる、と思えるが、必ずしもそうではない。かえって、自分の利益を減らそうとして行動すると、自分の利益を増やせる、ということがある。そういう逆説が、成立する」。
これがどういうことかは、次項で説明する。本項では、ざっと言及するだけにしておく。)
──
すぐ前の (b) では、こう述べた。
「利己主義の生物は不利だが、利子主義の生物は有利だ。」
このことを説明するために、具体的な例を示そう。次の (1)(2)(3)だ。
(1) 利己的な個体
個体が利己主義を取るのであれば、親は子を育てる手間を省く。
実際、そういう自分勝手な親はいる。たとえば、子育てをせずに、遊びほうけて、子を死なせてしまう親だ。そのせいで、子はひどい目に遭うし、絶滅しかねない。
したがって、「利己的な個体」を原理とする生物は、不利である。
(2) 利己的な遺伝子
遺伝子が利己主義を取るのであれば、個体はただの遺伝子増殖マシン(遺伝子の乗り物)であるにすぎない。
だったら、個体はいちいち高度に進化する必要はなく、むしろ細菌のまま、自分の遺伝子をどんどん増やせばいい。つまり、生物は退化すればいい。
結局、「利己的な遺伝子」を基本とすると、進化を説明できないし、むしろ、「生物は退化するべし」という結論が出てしまう。
したがって、進化の点から見れば、「利己主義的な遺伝子」を原理とする生物は、不利である。(数を増やすという点では有利だが、進化の点では不利。)
(3) 利子的な個体
いよいよ、利己主義ならぬ利子主義だ。その単位は、個体である。
利子主義の個体には、利子主義の本能が働く。たとえば、子育ての本能や、親が子を守る本能だ。この本能の結果、個体は生得的に利子主義の性質を帯びる。たとえば、親は、子育てをすることが自分にとって不利だとしていても、あえてその不利なことをなす。なぜなら、本能がそれを命じるからだ。おかげで、子は利益を得る。
したがって、「利子的な個体」を原理とする生物は、有利である。
──
個体は本能として、利子主義に従う。
その具体的な例は、「親の自己犠牲」だ。親はしばしば、自分の命を犠牲にして、子の命を助ける。特に、子育て中の母親は、その意識が強い。たとえば、母親である狼は、熊のような外敵に襲われたとき、自分の命を賭しても、子の命を守ろうとすることがある。
このことは、利己主義の原理では、説明できない。なぜなら、利己主義では、次のように説明されるからだ。
「子が外敵に襲われたときには、親は子を見捨てて、さっさと逃げればいい。そうすれば、目前の子は死んでも、翌年以降には別の子をたくさん残せる。その方が、たくさんの遺伝子を残せる」
一方、利子主義の原理では、うまく説明できる。
「子が外敵に襲われたときには、親は自己を犠牲にしても、子を守るべきだ。なぜなら、親よりも子の方が優先されるからだ。親のために子がいるのではなく、子のために親がいる。子にとっては、自分が生きるか否かが最重要であって、自分の弟がかわりに生まれることは重要ではない。何としても、自分が生きたい。とすれば、子が危機に瀕したときは、子のために、親は自らの命を捨てても、子を守るべきだ」 …… (*)
この(*)のこと。これはいかにも生物的だ。
そして、自分が子をもつ親であれば、その人は、(*)のことを「なるほど」と思うだろう。「確かにそういう自己犠牲の感情が自分にもある」と思うだろう。「たとえ遺伝子をたくさん残せなくても、目先の子を救おうとするだろう」と思うだろう。「自分の生きる原理は、自分の遺伝子や利益を増やすことではなくて、目の前にいる子を大切にすることだ」と感じるだろう。
あなたには次の三つの可能性がある。
もしあなたが「利己主義」に従う個体であるならば、あなたは子育てをしないで、単に自己の利益を増やすことに勤しむだろう。
もしあなたが「利己主義」の遺伝子の乗り物であるのならば、あなたは遺伝子に操られて、プレイボーイになって、あちこちの女を孕ませるだろう。
しかし、あなたが「利子主義」の個体であるのであれば、あなたは「利子主義」の遺伝子の作用で、自分よりもわが子を大事にするという本能をもつ。目の前でわが子が熊に襲われたならば、自分の利益や遺伝子を大切にしてさっさと逃げ出すかわりに、命を賭しても子を守るだろう。……そして、これこそが、真実であるはずだ。
──
生物の本質は「利子主義」だ。(有性生物では。)
となると、問題は、次のことだ。
「個体は、利子主義の遺伝子の作用で、自分よりも子を大事にする。では、利子主義の遺伝子の作用とは、いったい何か?」
これに対して、私は、次のように答える。
「利子主義の遺伝子の作用とは、一種の本能だ」
と。さらに、より具体的に表現すれば、こうだ。
「利子主義の遺伝子の作用とは、われわれが『愛』と呼ぶものだ」
と。換言すれば、こうだ。
「有性生物の基本原理は、愛である」
愛。これこそが、有性生物の基本原理である。利己主義なんかではなく、愛なのだ。
──
結局、ここまでの話をまとめて整理すると、次の対比が成立することになる。
・ 無性生物の原理 …… 利己主義 (自己利益をめざす)
・ 有性生物の原理 …… 利子主義 (子の利益をめざす = 愛 )
利己主義であれ、利子主義であれ、それらは、この世界全体の共通原理ではない。生物における、たくさんある行動原理の一つである。特にその行動原理を取るかどうかは、それぞれの生物ごとに、遺伝子によって決まる。
無性生物では、利己主義の遺伝子があるので、その行動原理は「利己主義」である。
有性生物では、利子主義の遺伝子があるので、その行動原理は「利子主義」である。そのふるまいは、日常的な言語では、「愛」と呼ばれる。特に、「親から子への愛」だ。
────────────────
さて。このあとさらに、話を発展させよう。
有性生物は、利己主義ではなく、利子主義を取る。では、なぜ?
それは、利子主義の方が有利だからだ。(前述。)
では、どう有利か? 「遺伝子を増やす」という目的のために、有利なのか? 違う。「進化をする」という目的のために、有利なのだ。
利己主義の個体では、子は親と同じ土俵で競争するので、子は初めから完成体として存在する必要がある。その例が細菌類だ。
利子主義の個体は、子は親に守ってもらえるので、最初は未熟な形で誕生できる。逆に言えば、最初は未熟な形で誕生して、その後に大幅に成長できる。
つまり、利子主義の個体では、「誕生後の成長」が可能となる。そして、一般に、進化した種ほど、「誕生後の成長」の期間が長い。なぜなら、複雑な個体組織を形成するためには、長い時間が必要だからだ。
実際、人間の肉体や脳が大人の組織に完成するまでには、長い時間が必要だ。逆に言えば、長い時間をかけて、人間は非常に高度な個体になれる。(特に脳は 20年以上も成長をし続けることができる。)
こうしてわかるだろう。「進化した種である」ためには、「誕生後の成長」の期間が長いことが必要である。そして、そのためには、「長期間の親の愛」が必要なのだ。親は何年も、自己を犠牲にして、子育てをなす。そういう愛があるからこそ、その種は高度に発達した種となれる。
つまり、「利子主義」を取ることと、「進化した種であること」とは、一体化しているのだ。
生物の原理は、「生存」だけではない。「成長」もある。この両者はともに大切だ。(有性生物では。)
ただの生存のためだけならば、利己主義だけで足りる。(無性生物ではそうだ。)
だが、成長のためには、利子主義が必要だ。子が成長するためには、親の愛が大切だ。親の愛ゆえに、子は成長できる。(特に哺乳類では哺乳が欠かせない。)……ここでは、愛や利子主義が原理となっている。
たとえば、あなたがいくら利己的に生きようとしても、あなたがここまで生きてこられたのは、あなたが子供だったころに、親の愛があったからなのだ。なのに、そのことを見失って、利己主義ばかりを唱えているようでは、忘恩であるだけでなく、真実に目をふさいでしまうことになる。
────────
※ 重要な話は、すでに述べた。このあとは、補足的な話を述べよう。
補足的だが、重要な話なので、しっかり読んでほしい。
[ 付記1 ]
なぜ親は、利子主義を取るのか? つまり、なぜ自分の利益ならないことをなすのか?
その答えは、簡単だ。こうだ。
「個体はいずれも、子である時期があった」
つまり、「親」である個体も、かつては「子」だったのだ。
個体は、自分が子であったときに、自分の親から利益をもらった。だから成長後に、親からもらった利益を、自分の子に与える。もらった分だけ、与える。……こうして、生涯を見れば、どの個体もちっとも損をしていない。利子主義は決して、損をもたらさないのだ。(「与えることが損だ」ということにはならないのだ。)
むしろ、利子主義には、利己主義よりも有利な点がある。それは、「もらう時期と与える時期を、うまくずらすことができる」ということだ。
利己主義ならば、(エゴイズムゆえに他者の協力を得られないので)各個体は自給自足をするしかない。子は自分で自分の餌を取るしかない。それでは子にとって大変だ。
利子主義では、子は親に助けてもらえるので、子は自分で餌を取らずに済む。そのおかげで、子は成長することに専念できる。そして、いったん成長したあとでは、成長した肉体を利用して、楽々と餌をたくさん取れるし、たくさん取った餌の一部を、子に分けてあげる。そうすれば、子が自分で餌を取るよりも、ずっと効率的だ。
かくて、利子主義の生物は、利己主義の生物よりも、「成長」という点で圧倒的に有利になれる。換言すれば、「進化」という点で圧倒的に有利になれる。
( ※ 「遺伝子を増やす」という点では不利だが、「成長」「進化」という点では圧倒的に有利。……現実に、そうだ。数だけ見れば、細菌の方が圧倒的に多いが、進化の程度は、有性生物の方が圧倒的に上だ。)
[ 付記2 ]
「利子主義」つまり「親が子を助ける」という行動は、多くの生物で観察される。
哺乳類では、「哺乳」(親が乳を与えること)という行動がある。
鳥類でも、同様に、「抱卵」(親が卵を温めること)という行動がある。「給餌」(ヒナに餌をやること)をすることもある。
では、爬虫類以下は? 爬虫類も、両生類も、魚類も、さらに下等な無脊椎動物も、いずれも、卵を生みっぱなしだ。つまり、子育てのようなことはしない。(例外はあるが。)
ただし、である。子育て以外にも、親が子のためになすことはある。それは「交尾」だ。(正確に言えば「有性生物の生殖活動」だ。)
そもそも、「交尾」というものは、親の利益にはならない。快感があるせいで、親の利益になるように錯覚されることが多いが、実際には親にとって損になるだけだ。(その損をあえて錯覚させるために、快感というものがある。)
親は交尾によって、快感という幻想だけを得るが、実質的なものを何一つ得られない。逆に、多大なエネルギーを費やすばかりで、骨折り損のくたびれもうけだ。もっとひどい目に遭うこともある。カマキリだと、交尾のあとで、オスはメスに食われてしまう。ミツバチだと、オスは交尾に成功したあとは、役立たずになって死んでしまう。メスだって、損をする。交尾のあとで受精卵をかかえていると、受精卵を育てるために体内で大量のエネルギーを食われてしまうので、大損だ。(人間だって妊婦はさんざん苦労する。)
要するに、「交尾」(有性生物の生殖活動)は、親の利益にはならないのだ。では、なぜ、親はそんなことをなすのか? 子の利益になるからだ。親の交尾は、子にとっては「自分の誕生」という最大の利益になる。そのためにこそ、親は大量のエネルギーを使って、奉仕する。
では、交尾する本能とは、何か? 愛か? いや、愛というには、あまりにも原始的なものだ。
原始的な愛。それは「性」だ。オス・メスの違いという意味の性ではなく、性欲という意味の(本能としての)性だ。── これが、あらゆる有性生物の基本としてある。
だから、有性生物の本質は「愛と性」なのだ。その二つ(愛と性)は、どちらもほぼ同じことを意味する。「親が子の命を守るために、おのれの命を犠牲にする」という精神的な愛もあるし、「親が性欲に駆られて、異性と交尾をする」という原始的な愛もある。いずれにせよ、そこには「愛と性」がある。
愛と性。これが有性生物の本質なのだ。そしてそれは、生物に備わった「利子主義」の発現なのである。生物には利子主義の本能がある。その本能は愛と性だ。そして、この本能は遺伝子によって、個体に仕組まれている。その遺伝子の作用で、個体には本能が発現し、結果的に、個体は利子主義の行動を取るのだ。
有性生物には、愛と性という本能があり、利子主義の行動を取る。だからこそ有性生物は、内部構造的に、進化という性質を備えるようになったのだ。
( ※ 一方、愛と性をもたない無性生物は、利己主義の行動を取るので、進化という性質を内部構造的に備えることができない。内部構造からはずれた例外的な場合に、エラーとして進化が起こるだけだ。)
【 参考 】
社会的な観点から論じよう。
「生物の本質は、エゴイズムではなく、愛である」
という認識は、社会的に、人々の意識を一変させてしまうほどの意義がある。
なぜか? たいていの人が、逆のことを信じているからだ。「生物の本質はエゴイズムである」と。
たとえば、生物学者なら、利己主義を原理として理論を組み立てる人がほとんどだ。ESS理論やら、利己的遺伝子説やら。
経済学者もまた、利己主義を原理として理論を組み立てる。
企業に至ってはもっと徹底している。「わが社の利益を増すことが最大の目的である」と。公務員や教員などは別だが、民間のサラリーマンはみなこの「利益至上主義」の原理のもとで行動している。
世間のほとんどの人は、利己主義を原理だと信じているのだ。
だが、そう思わない人々もいる。それは、子育てをする母親だ。彼女たちは「愛こそすべて」と思って、子育てをする。彼女たちだけは、利己主義よりも愛の大切さを知っている。
そして、人はみな誰しも、そのことを知っていたはずなのだ。子供のころに、父母の愛を受け、それを何より大切に思っていたはずなのだ。……ただし、頭のいい人ほど、愛を忘れがちだ。自分がかつて受けた愛を忘れて、すべてを自力で勝ち取ったと信じがちだ。未熟な子供のころには何一つできなかったことを忘れて。
多くの人々は、「生物の本質は、エゴイズムである」と思いがちだ。彼らは真実を見失っている。そして、その理由は、「自分は利口だ」と思うあまり、自分の子供のころのことを思い出せなくなっているからなのだ。……かつていかに無力であったかを。かつていかに愛を受けていたかを。
※ 次項ではより詳細を示します。(シリーズ完結編です。)
→ 次項
2008年01月15日
過去ログ
時間をかけて考えれば一つ一つの実例をあげていくこともできるのですが、難しい数学の問題を前にした時の解の「ひらめき」を得た段階で、個々の証明を全てつなぎ合わせることが本当にできるかどうかは確かではないのですが。
始めて「クラス進化論」を目にしたときに、感じた「美しさ」が前項の「動的平衡」「生存=進化」そしてこの「利子主義」を得て輝きを増してきたように思えますが、これからの展開が非常に楽しみです。
一つお聞きしたいのですが、一般的に利己に対する用語として利他が使われますが、ここでの「他」とは、「自己」に対する一「他人」ではなく、「自己が含まれる含むその共同体の任意の一人または複数人」と考えると、その「共同体」が家族である場合に、「利子主義」と非常に意味が近くなると思われますが、この点についてはどうお考えでしょうか。
確かに母親は自分を犠牲にしてでも子を守りますが、同様に父親は自分を犠牲にしてでも(伴侶である)母親(と子供)を守りましょう。自分の子供の配偶者またはその子供(つまり孫)はどうですか。養子を実の子のように愛する親も一般的です。犬などのペットを人間の子供以上にかわいがる人もいますし、会社のプロジェクトを「自分の子」だといい自分の存在以上の価値を見いだす人もいます。
とりとめがなくなってきましたが、どうやら僕が言いたいことは自分以外の「子」や「他人」を語るときには、それらが属する「共同体」が自分の属しているものかどうかが重要なのではないかということのようです。もし既出でしたらどこにあるか教えていただければ幸いです。
20分後に、その解答がアップロードされています。
すなわち、次項です。
(現在の科学とかの考えでは)遺伝子を残したり増やしたりするのが目的というわけではなく、あくまで結果だと思います。
進化というの物が何によって起こるのかは検討も付きませんが、無性生殖で自己を複製するだけのものは、環境の変化に対して一気に全滅したりしてしまって残らず、高度な進化でも、別に必要があってしたわけではなく、そういう生物のあり方の可能性を埋めたに過ぎないと思います。
植物があれば、それを食べて生活する、草食動物という一つの在り方が出現し、更にそれを食べて生活する、肉食動物というあり方が出現し、それを、ガスが容器内に満遍なく散らばるのと同様に、埋めるわけです(時間は非常に掛かるでしょうから、未だ遷移過程の部分もあるでしょうが)。尤もその結果、何か環境の激変があっても、どれかが残る可能性が高くなるわけですが、一方で、ある生物の存在によって滅ぼされてしまった生物が、その激変に唯一対応できるものだったりする場合もあると思いますので、やはり、有利とかよりは、単に水が流れるようなものに思います。
また、人間は、現環境においては、遺伝子を増やすのに有利だと思います。この複雑さと大きさで、ここまで同種が世界中に散らばってる種はそうないでしょう。尤も、今後何かの激変により、あっけなく滅んでしまうかもしれませんが。
愛が種の保存に有利なら、種は確実に残って行きます。
問題は、愛と、種の保存に有利な事とが、必ずしも一致するかという事だと思います。
狼の話については知りませんが、もし、簡単に親が犠牲になるような生物なら、子供も親を失って同様な事が起こってももう守られないのだから、その種は滅びへ向かうと思います。そんな危機によって命が奪われる場合に対し、繁殖力が強ければ別ですが。
また、危機において親が子供を見捨てるようなら、また生んで育てなおす時間がロスになり、それまでは前の子供よりも弱く危険にさらされる事が多いので、子供を見捨て生みなおす選択は、場合によっては種の保存に不利なのかもしれないです。