「生物とは何か?」ということを、本質的に考えよう。
境界を見るなら、「生物/無生物」という境界でなく、「無性生殖/有性生殖」という境界を見るといい。この境界にこそ、最も重要な差がある。
つまり、「自己複製の有無」よりも、「性の有無」こそが本質的なのだ。 ──
前項では、
「生命の本質は、自己複製である」
という発想が間違いであることを示した。では、かわりに、何が正しいのか?
ここでは、進化の多段階における境界を変えるといい。それが基本としてある。そのあと、いろいろ考えてみよう。
──
まず、典型的な生物の例として、細菌類のかわりに、犬、猫、鳥、魚、花、草、木、昆虫、などを取ろう。これらはいずれも、生物らしい生物である。それらに共通することは、「性をもつ」ということだ。つまり、有性生物である、ということだ。(有性生殖をする、と言ってもいい。)
そして、有性生物の特質は、「自己複製をしない」ということだ。正確には、「半分だけの自己複製を二つ組み合わせる」ということだ。
このことは、「自己複製」のかわりに、「交配」という言葉で呼ばれる。 (「交配による繁殖」とも言える。)
──
もし「生物と無生物のあいだ」に境界線を引くのであれば、典型的な生物は細菌類だ、ということになる。
そして、魚類や哺乳類などの有性生物は、(自己複製をしないがゆえに)「生物」とは見なされないことになる。
また、「自己複製をするクローンこそは完璧な生物である」ということになる。
あるいは、ドーキンス流に言うならば、自己複製をする遺伝子が生物の主役であり、個体としての生物はただの「遺伝子の乗り物」にすぎないことになる。
いずれにせよ、クローンや遺伝子が「自己複製をする生物である」ということになって、普通の生物はすべて生物ではないことになってしまう。(強いて言えば「半分だけの生物」「不完全な生物」だ。)
これでは、「生物」という用語の定義がおかしくなる。つまり、「生物の本質を探ること」をした結果、逆に、生物からは遠ざかってしまう。(生物ではない別のものの本質を探るだけだ。)
──
では、どうすればいいか? 「生物/無生物」という区別をするのをやめればいい。かわりに、「有性生物/無性生物」という区別をすればいい。(多段階のうちの、別のところに境界線を引くわけだ。)
なお、この二種類の境界線からは、次のことが結論される。
・ 無性生物の本質 …… 自己複製
・ 有性生物の本質 …… 交配
──
要するに、こうだ。
生物の本質を知りたければ、「生物/無生物」という区別をしても、何の意味もない。それで得られることは、「細菌とウィルスの区別」であるにすぎない。そんなことをいくら探っても、高度な生物の本質を知ることにはならない。(細菌の本質を知るだけだ。)
細菌の本質と、高度な生物の本質は、まったく異なる。無性生物の本質と、有性生物の本質は、まったく異なる。前者の本質は「自己複製」だが、後者の本質は「交配」だ。「自己複製」という性質をいくら探ったところで、「交配」という性質とは何の関係もない。
図式的に言おう。
無生物 / 生物
という二段階の発想では、普通の生物の本質を理解できない。むしろ、
無生物 / 無性生物 / 有性生物
という三段階の発想をするべきなのだ。そうしてこそ、普通の生物の本質を理解できる。
では、なぜか? それは、後者の区別の方が、圧倒的に重大だからだ。図式的に書けば、こうなる。
無生物 / 無性生物 / 有性生物
二つの境界には、どちらも / という境界線を引けるが、その境界の大きさは、後者の方が圧倒的に大きい。ここにこそ決定的な重要性がある。
──
「無生物/無性生物」の区別よりも、「無性生物/有性生物」の区別の方が、圧倒的に大きい。……これは、結論である。
では、なぜ、その結論が成立するか? 以下では、その理由を述べよう。
──────────
「無性生物/有性生物」という区別。つまり、「性」の有無。つまり、「交配」の有無。
ここには、実は、驚くべき生命の神秘がある。われわれが生命を見て、生命に感嘆し、生命の偉大さを探ろうとするとき、その秘密は、ここにひそんでいるのだ。
実際、細菌類などを見ても、「生命の神秘」などを感じることはない。「ふーん、そんなものか」と思うだけだ。細菌は、単に自己複製をするだけであって、何の神経活動もないし、何の知性もない。
ところが、性をもつ生物となると、どれもが驚くべき神秘を備える。
具体的に見てみよう。
今日にも生存する有性生物のうちで、(植物を別として動物を考えると)最も原始的なものは、無脊椎動物と呼ばれるものだろう。これが進化の歴史では最も原始的だ。
無脊椎動物としては、ホヤ、カニ、昆虫、貝類、イカ、線虫などがある。これらは普通の脊椎動物とまったく異なるかというと、そんなことはない。ホヤ、カニ、貝類などを見るとわかるが、われわれ人間と基本的には同じ構造をもつ。
たとえば、ホヤを解剖するとわかるが、さまざまな内臓組織や神経組織を持つ。それはわれわれの内臓構造にとても良く似ている。どこかの異なる星の生物だとは思えず、まさしく地球の生物であり、人間と同じ仲間で、人間と同種の構造をもつ、ということがわかる。( → ホヤの解剖図 )
有性生物は、(一番最初の短い期間を除けば)ごく初期のころから、ほとんど同種の構造を備える。さまざまな有性生物は、初期のころの有性生物の構造を、遺伝子的にちょっと変えただけだ、とさえ言えるだろう。
こういうことは、細菌類とは、まったくことなることだ。どの細菌類も、人間と同種だとは思えないし、あまりにも大きな違いがありすぎる。
たとえば、どこかほかの星を探るとして、その星にも細菌類はきっといるだろう。それは地球の細菌とそっくりであるだろう。しかしながら、そこにいる高等生物は、地球にいる高等生物とはかなり大幅に異なっているだろう。心臓、腎臓、胃、という構造を同じようにもっている、とはとても思えない。おそらくはまったく異なる構造をもっているはずだ。
地球上のあらゆる動物は、ただ一通りの有性生物(動物)から生まれた子孫である。それらはみな同じ仲間だ。そして、その違いは、性をもつすべての動物に共通する。
ある種の有性生物は、神経を備えて、原索動物や脊椎動物となった。ある種の有性生物は、葉緑素を備えて、植物となった。ある種の有性生物は、動物にも植物にもならずに、キノコや菌類となった。……こういうふうに、生物の種類の大枠が決定されたのは、性を備えた時点であった。
要するに、生物の生物らしさが備わったのは、性を獲得した時点なのだ。つまり、生物らしい生物は、有性生物だけなのだ。生物の歴史で大きな境界線を引くとしたら、それは、「無性生物 / 有性生物」というところの境界線なのだ。
( ※ 詳しくは本項末の「カンブリア爆発」を参照。)
──
では、性の有無ということが、どうしてそれほど重要なのか? ── これが新たな問題となる。この問題の解答を探ろう。
まず、従来の説がある。
「生物の本質は自己複製だ」
という説だ。この従来の説に従えば、
「有性生物は不利だ」
という結論が得られる。なぜなら、どの個体も、自分の遺伝子すべてを残すことができず、自分の半分の遺伝子しか残せないからだ。
( ※ 半分しか残せないと、「遺伝子を増やす」という目的に反するので、不利になる。そのような生物は、自己の遺伝子をたくさん残せないので、生存競争で負けてしまう。……という理屈。)
しかしながら、現実には、
「有性生物は不利だ」
ということはない。従来の説に従うと、矛盾が起こるわけだ。
──
では、そこからわかることは? こうだ。
「『生物の本質は自己複製だ』という説は正しくない」
ということだ。そしてまた、
「『遺伝子をたくさん残せる個体が有利だ』という説も正しくない」
ということだ。
実際、「遺伝子をたくさん残せる個体が有利だ」ということは、成立しない。そのことは、進化の歴史を超長期的に見ればわかる。
次のことは成立しない。
・ 細菌 …… 遺伝子をたくさん残すから有利だ
・ 哺乳類 …… 遺伝子をたくさん残さないから不利だ
一般に、下等な生物ほど多くの子孫を残し、高等な生物ほど少数の子孫を残す。細菌は自己分裂することで何億もの個体を残すし、昆虫や魚類は何千もの卵を産むし、両生類や爬虫類は何百または何十もの卵を産む。だが、哺乳類になると、数匹の子供しか出産しないし、人間に至っては生涯で二人ぐらい(つまり理論上の最小限度)しか産まないこともある。
ここからわかることは、「進化するにつれて少数の子孫を残す」ということだ。とすれば、「遺伝子をたくさん残すものが有利だ」という発想からすると、「生物は進化することで、どんどん不利になっていった」ということになる。「細菌ならば何十億もの子孫を残せるのに、人類はちょっとの子孫しか残せないから、不利だ」ということになる。
そして、そこから得られる究極の結論は、こうだ。
「人間というものは、遺伝子増殖の面からして非効率なので、すべて殺してしまえばいい。かわりに、大腸菌を使った遺伝子培養タンクで、人間の遺伝子を莫大に増やせばいい。そうすれば、人間の遺伝子を大量に増やすことができて、人間の遺伝子にとって有利である」
つまり、「人間よりも遺伝子培養タンクの方が大事だ」という結論だ。こういうふうに、馬鹿げた結論が出る。ゆえに、最初の前提は正しくない。(背理法)
だから、次のいずれも成立しない。
「生物の本質は自己複製だ」
「遺伝子をたくさん残せる個体が有利だ」
これらはともに正しくない。
──
では、かわりに、何が正しいのか? そのことを探ろう。ただし、探るに際して、注意するべきことがある。
ここでは、生物の例として、細菌を見るのではなく、有性生物を見るべきなのだ。(本項の前半で述べたことからわかるとおり。)
では、有性生物を見ると、どんなことが判明するのか?
──
有性生物の本質は、「自己複製」ではなく「交配」だ。つまり、「半分だけの自己複製が二つ組み合わさること」だ。(前に述べたとおり。)

では、交配は何を意味するか?
まず、論理的に、すぐに明らかになることがある。こうだ。
「交配では、半分ずつの組み合わせがなされることにより、多様な組み合わせが生じる」
つまり、遺伝子の組み合わせの「多様性」が生じる、ということだ。このことを理解するには、自己複製と比べるといい。
自己複製では、子は、親のクローンであるから、親とまったく同じである。ごくわずかな偶然的なエラーを除けば、まったく同じままだと言える。実際、たいていの細菌は、何億年を経ても、昔とほぼ同じ姿のままで、相も変わらず細菌のまま、増殖しているだけだ。
交配では、子は親とは明白に異なる。子は、親に似ているが、親とは違う。双子の兄弟同士ならばそっくりだが、子は親とは明らかに違う。それも当然で、遺伝子が半分違っているからだ。
交配では、子の遺伝子の組み合わせは、親の遺伝子の組み合わせとは異なる。ここでは、遺伝子の新たな組み合わせが試されるのだ。
こうして、交配のたびに、遺伝子の組み合わせとして、多様な組み合わせが発生する。(数学的に述べるのは面倒だからここでは記さないが、莫大な数が累乗的に生じることを直感的に理解してほしい。)
ともあれ、交配においては、子の世代で、(遺伝子の組み合わせの)「多様性」が生じるのだ。
──
多様性が生じれば、その後、生存競争において、多様な試行錯誤がなされる。次のように対比して考えるといい。
無性生物では、親の世代で最強のものがあれば、それはいつまでたっても最強である。競争は一回だけあり、そのあとは同じ競争が延々と長年にわたって続く。なぜなら、子の世代も、親の世代とまったく同じ個体のまま競争するからだ。(突然変異以外には、新たな種類の個体は誕生しない。)
有性生物では、そうではない。親の世代では最強ではなくても、子の世代では最強になることがある。親の世代で最強の遺伝子をもつ個体は、自己の遺伝子を子にそのまま残すことはできず、半分しか残すことができない。一方、子は、ちょっと強い親同士から、二つの遺伝子をともにもらうことで、最強になることがある。……こういうふうにして、時間とともに、多様な試行錯誤が多様になされる。それは、無性生殖をする生物の世界の競争とは、まったく異なる競争だ。
要するに、有性生物の特色は、「多様性」だ。その多様性は、「遺伝子の組み合わせの多様性」だ。そしてそれは、ずっと固定された「多様性」ではなくて、生殖のたびに新たに生み出される「多様性」だ。
その結果、「親のクローンとしての子が生まれる」のではなく、「親を元にして多様な個体が生まれる」ことになる。
すなわち、「親と同じもの」ではなくて、「親以下」のものや「親以上」のものが生じる。また、上下とは別の左右方向で、「親とは異質な」ものが多様に生じる。
──
有性生物では、子は、親の自己複製ではなく、親とは別の多様なものとなる。
では、それを原則とした上で、親は子に、何を望むか? 「なるべく自己複製に近い子が誕生すること」か? 「なるべく自分とよく似た子が誕生すること」か?
違う。親が子に望むのは、「子が自分と同じになること」ではなく、「子が自分以上のものになること」だ。
わかりやすく言おう。あなたが親であるなら理解できるだろうが、「この子が少しでも良く育ってほしい」と思う。特に、「自分よりも良く育ってほしい」と思う。「自分にはできなかったこと(諦めたこと)を、この子にはさせてあげたい」と思う。たとえば、次のように。
「自分は貧しくて大学に行けなかったから、子は大学に行かせたい」
「自分はピアノを習えなかったから、子にはピアノを習わせてあげたい」
一般に、親は子の幸福を願う。「少しでも幸あれ」と願う。「自分以上にならないでくれ」とは思わない。「できれば自分と同じようなことをしてほしい」と思うことはあるだろうが、「そっくりそのまま自分のクローンになれ」とは思わない。そんなのは、かえって気持ち悪い。
( ※ 自分のクローンができるとして、そんなものをつくりたいとは思わないだろう。クローンをつくりたいと思うのは、遺伝子至上主義の生物学者ぐらいのものだ。)
──
親は子に「自分以上であってほしい」と望む。そして、親が望むだけでなく、実際に、まさしく親以上である子が誕生する。親以下である子も誕生するが、親以上である子も誕生する。なぜなら、多様性があるからだ。
そのあと、「多様性」のもとで、生存競争が起こると、どうなるか? 一世代ならともかく、超長期的に続けば、そこでは「進化」が起こる。
つまり、次のことは、必然である。
性がある → 交配がある → 多様性 → 進化
このうち、最初と最後をつなげれば、こうなる。
性がある → 進化
こうして、次の結論が得られる。
「有性生物は進化する」
「有性生物にとって進化は必然である」
つまり、「有性生物であること」と「進化する生物であること」とは、同義なのだ。「生物が進化する」ということは、生物が性を備えた時点で、自動的に導入されているのだ。
無性生物では、そうではない。無性生物の本質は、自己複製である。そして、その本質からはずれたエラー(突然変異)が起こったときのみ、多様性が生じて、進化が起こる。つまり、無性生物にとっての進化は、本質からはずれた例外的なことだ。
一方、有性生物にとっての進化は、有性生物の本質そのものだ。
対比的に書けば、こうなる。
・ 無性生物 …… 進化しない生物 (自己複製で現状維持)
・ 有性生物 …… 進化する生物 (交配による多様性から)
単純な図で書けば、こうなる。
・ 無性生物 …… 生命 ≠ 進化
・ 有性生物 …… 生命 = 進化 (一体化している)
有性生物の本質とは、進化する生物だ、ということだ。そこでは生命と進化とが一体化している。つまり、こう言える。
「有性生物が、複雑な構造をもつように進化したのは、決して偶然ではないし、原則からの逸脱によるものでもない。これらの生物が進化したのは、これらの生物のうちに『進化の構造』が内在的にひそんでいるからだ。無性生物は本質的に『進化しない生物』であるが、有性生物は本質的に『進化する生物』である」
と。
「有性生物においては、進化と生命とは一体化している」
ということに、有性生物の神秘がある。
──
まとめて言おう。
「生物/無生物」という区別をするのであれば、「無性生物こそ典型的な生物だ」ということになる。その場合は、「生物とは、自己複製をすることが本質的だ」ということから、「生物は進化しないこと(現状維持を保つこと)が本質的だ」という結論になる。
「有性生物/無性生物」という区別をするのであれば、「有性生物こそ典型的な生物だ」ということになる。その場合は、「有性生物とは、交配をすること(子に多様性をもたらすこと)が本質的だ」ということから、「生物は進化することが本質的だ」という結論になる。
この二つは、どちらが正しいということもない。なぜなら、「生物」という言葉の意味が異なっているからだ。
前者における「生物」とは、無性生物のことだ。それで説明されるのは、顕微鏡でしか見えないような、細菌類である。そこにおける話は、普通の有性生物には適用されない。
後者における「生物」とは、有性生物のことだ。それで説明されるのは、普通に目で見える生物(多細胞生物)である。そこにおける話は、細菌類には適用されない。
この両者を区別するべきだ。
あなたが「生物の本質は自己複製だ」と思うのであれば、あなたは細菌類について真実を理解したことになる。その生物は本質的に進化しない。
あなたが「生物の本質は交配だ」と思うのであれば、あなたはこの地上に棲息するさまざまな複雑な組織を持つ生物について真実を理解したことになる。そこにひそむ神秘を知ったことになる。すなわち、その生物は本質的に進化する、ということを。
ここには、二つの見方がある。どちらの見方を取るかは、「生物」という言葉をどう定義するか、ということによる。定義しだいだ。どちらが正しいということもない。
ただ、無性生物を典型的な生物と見なすのであれば、普通の有性生物は「自己複製能力を失った、生物のなりそこね」でしかない。
一方、有性生物を典型的な生物と見なすのであれば、細菌類などは「生物らしい生物になりかけている、発展途上のもの」でしかない。
一般に、シャーレで突然変異の実験する生物学者ならば、「細菌こそが生物だ」と思うだろう。一方、自然界に広がるさまざまな生物の神秘に触れた人ならば、「この多種多様の複雑な有性生物こそが生物だ」と思うだろう。
──
ともあれ、こうして、有性生物の本質がわかった。それは、こうだ。
「有性生物は、性ゆえに交配をなすことで、必然的に進化する」
「有性生物では、生命と進化とが一体化している」
有性生物の本質は、無性生物の本質とは、異なる。ここでは、「生物の本質とは何か?」と問うこと自体が無意味である。両者の本質は異なるからだ。
われわれが生命の神秘を知りたければ、「生物の本質とは何か?」と問うべきではなくて、無性生物と有性生物を区別した上で、それぞれの本質を探ればいい。
・ 無性生物の本質はこれこれだ。
・ 有性生物の本質はこれこれだ。
というふうに。
しかしながら、「無性生物の本質」だけを探って、そいつを拡大解釈して、「無性生物の本質を有性生物に適用する」という誤った発想もある。その発想が、「生命の本質は自己複製だ」という発想だ。
( ※ 比喩的に言うと、薬剤実験で、「マウスには無害だったから、人間にも無害だ」と拡大解釈したり、「細菌には無害だったから、人間にも無害だ」と拡大解釈したり。……そういうふうに、「下等生物に適用されたことは高度な生物にも適用される」というふうに拡大解釈するわけだ。いかにも非科学的だが、これが「自己複製」論である。ほとんど冗談の世界。)
( ※ なお、前項や本項で論じたのは「生命の本質」であり、「遺伝子の本質」ではない。「生命の本質は自己複製だ」という主張を否定したが、「遺伝子の本質(の一つ)は自己複製だ」という主張を否定したわけではない。DNAはたしかに分裂によって自己複製する性質を帯びている。そのことを否定しているわけではない。「生命の本質」と「遺伝子の本質」とは、別次元の話なので、混同しないように。)
※ 肝心な話はすでに述べた。このあとは、補足的な話を述べよう。
|
──────
【 補足 】
「有性生物と無性生物の境界は?」
と考える人が多いようだ。それについては、こう答えておく。
「有性生物と無性生物の境界線は、はっきりとは引けない。中間形態や混合形態が、さまざまにある」(ただしそれは、細かな問題なので、本質的ではない」
この件については、コメント欄で答えておいた。知りたければ、そちらを参照。
────────
※ 本項の話は次項に続く。
本項の話題は「有性生物/無性生物」であって、「ここで区別することが大事だ」ということだ。
このあと、「有性生物の本質は何か?」という話になるが、それは、次項で。
( ※ シリーズは次項に続くが、シリーズの最後でもふたたび「有性生物とは何か?」という問題を扱う。そこには生物学的な意味での結論がある。「有性生物の本質は半生物ではないことだ」というふうに。一挙にそこに飛んでもいい。途中の大事な話は抜けてしまうが。
→ 性の誕生(半生物を越えて) )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E7%82%BA%E7%94%9F%E6%AE%96
豫め想定済のツッコミでしょうけど、菌類の胞子/接合とか、単為生殖とか、微妙じゃありません?
ま、そうです。つまり、
「境界については今は問題にしないでほしい」
ということです。たとえて言うと、
「赤と緑をしっかり区別しましょう」
という段階であって、「両者の境界はどうなっているか?」
ということは、まだ論じる必要はないのです。
いったん区別がついたあとで、「細かな話」として、周辺的な事柄が話題になります。微調整みたいなもの。……今はまだ、その段階ではありません。現時点ではとりあえず、「本質」「核心」を話題にしています。
ここで結論を言えば、「境界領域の現象もあるが、経過の途中の小さな領域だから、無視しても差し支えない」と言えます。つまりは、重箱の隅です。
本文中に追記しようかとも思ったが、「真実の解説」ではなく、
「虚偽の解説」なので、特に読む必要もないし、コメント欄に
ざっと記すに留めておく。
────
[ 補足 ]
有性生物と無性生物については、次の俗説がある。
「有性生殖では遺伝的多様性が得られるので、環境の変化にも対応できる個体が得られる。その分、無性生物よりも有利である」
( → 例。Wikipedia 「無性生殖」)
しかし、この解釈は妥当ではない。
たとえば、「『ある病気や薬剤に対する耐性』という形質があると有利だ」ということがある。この場合、有性生物は無性生物よりも有利だろうか?
実は、この耐性の有無は、耐性の遺伝子の有無に依存する。その遺伝子の有無は、生殖形態が有性生殖か無性生殖かには依存しない。単にその遺伝子の有無だけに依存する。だから、「有性生殖の方が有利だ」ということはない。
むしろ、「世代の交替の速さ」の方が影響する。たとえば、ペスト菌が出回ると、耐性をもたない人々は一挙に大幅に死んでしまった。一方、抗生物質ができても、耐性のある病原菌は次々と出てくる。ここでは「世代の交替の速さ」の方が重要だ。だから、「遺伝的多様性」に関する限りは、無性生殖の方が有利なのだ。
では、どうして、上記のような誤解が生じたのか? それは、次のことによる。
「一人の親を取って考えると、無性生殖よりも、有性生殖の方が、その子は遺伝的多様性をもつ」
これは事実である。だから、一人の親を見れば、「無性生殖よりも有性生殖の方が有利だ」と言える。(たとえば、自分が耐性遺伝子をもたなくても、あちこちの異性と交尾すれば、生まれた子供の一人ぐらいは、耐性遺伝子をもつことができそうだ。一方、無性生殖であれば、自分が耐性遺伝子をもたなければ、子供も耐性遺伝子をもたない。)
しかし、である。種全体を見れば、「耐性遺伝子/非・耐性遺伝子」という2種類の遺伝子しかない。(細かい差異は別とすれば、2種類に大別される。)たとえば、「ペスト菌への抵抗力のある遺伝子」を、備える個体と、備えない個体。ここでは、遺伝子は、2種類しかない。
だから、一人の親については「有性生殖の方が遺伝的多様性をもつ」と言えるが、種全体については「有性生殖の方が遺伝的多様性をもつ」と言えない。
では、一人の親については、有性生殖の方が有利か? いや、そんなことはない。なぜなら、同一の種で、「有性生殖をする親と、無性生殖をする親」とが競争することはないからだ。(たとえば、無性生殖をする猿はいない。)
結論。
遺伝的多様性に関する限り、「有性生殖の方が無性生殖よりも有利だ」ということはない。むしろ、「世代交代の早い無性生殖の方が有利だ」と言える。
なるほど、「有性生殖の方が無性生殖よりも有利だ」という点はあるが、それは、遺伝的多様性ではない。
要するに、「遺伝子の組み合わせの多様性」は、「遺伝子の多様性」ではないのだ。そして、「遺伝子の組み合わせの多様性」は、たいていの場合、「病気への抵抗性」とはほとんど関係ない。単に「抵抗力のある特定の遺伝子を有するか否か」だけによって決まり、「組み合わせ」によって決まるのではない。
現代の進化論は、「単一遺伝子の有利・不利の競争」ということを唯一の原理として理論が構築されている。「遺伝子の組み合わせの競争」というのを詳細に論じているのは、クラス進化論だけだ。
( ※ と書くと、「いや、違うぞ。数理的に計算している進化論もあるぞ」という反論が来そうだ。だが、それは、ただの数理計算であって、そのための前提となる特殊概念[クラス交差]が欠落している。この特殊概念を用いない限り、いくら数理計算をしても、ただの「計算のための計算」にしかならない。)
──
もう一つ、肝心のことを示しておこう。
「遺伝的多様性がある」
というのは、換言すれば、
「優勝劣敗の原理が働かない」(環境の淘汰圧が弱い)
ということだ。ほとんど同義である。
そして、現代の主流派の進化論では、「淘汰圧の強さが進化をもたらす」というふうになっているのだから、そこにおいて「遺伝的多様性」の美点を持ち出すのは、ちょっと筋がズレている。自己矛盾とまでは言わないが、筋が通っていない。昨日と今日とで、言っていることが違っている、というようなもの。
性をもたないわけじゃなくて、「部分的に無性生殖をなす」ということです。有性生殖の部分もあります。Wikipedia で該当箇所の続きを読めばわかるとおり。
一般に、有性生物が「部分的に無性生殖をなす」ということは、下等生物では非常に広い範囲で見られます。銀鮒に限らず、ミツバチでも、イソギンチャクでも、有性生殖と無性生殖の混合形態が見られます。ただし、「無性生殖だけをする有性生物」というのは、原理的にありえません。もしそう見えるとしたら、有性生殖の部分を見失っているだけです。銀鮒の場合もそうです。
先のコメントでも述べましたが、境界領域というのは、きっぱりときれいに線を引けるわけではなく、あやふやなところがあります。しかし、それはまた別の問題。生物学の問題にはなるが、本項の話題とは直接の関係はありません。
調べたければ、生物学的に研究すればいいでしょう。いろいろと面白いことがありますよ。多種多様なので、百科事典みたいな話になります。だから、細かなことを知りたければ、「生物学百科事典」みたいなのを読むことをお勧めします。私に尋ねなくても、事典類や生物学の本を見れば、ちゃんと記してあります。