一般的に、次の説がある。
「生命の本質は、自己複製である」
これは本当だろうか? 実は、これは誤りだ。そこで、誤りのかわりに、正解を示す。(ちょっとひねくれた正解だが。) ──
「生命の本質は、自己複製である」
という説は、有名だ。私の知る限り、ドーキンスがこう唱えたのが、名高い例である。ただ、それ以前からも、知られていたようだ。
前述の福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、この説(仮説)が、「真実である」というふうにすら述べられている。
ま、そう感じているのは、彼だけではない。これは生物学界では主流の考え方である。
しかしながら、この説は正しくない。そのことを以下で示す。(正解も示す。)
──
まず、この説が正しいことの根拠として、次のことがしばしば示される。
(i) 生命の本質は、遺伝子であり、DNAである。そして、DNAには本質的に、自己複製能力がある。
(ii) 生物と無生物との境界を考える場合、自己複製能力の有無が最大の差異となる。細菌以上のすべての生物は自己複製能力をもつが、無生物は自己複製能力をもたない。(ウィルスはその中間的形態。)
この (i)(ii) から、「自己複製」こそが、生命の根本的な本質である、と見なされる。
( ※ 注記。福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、この「自己複製」を、生物の本質と見なした上で、さらに「動的平衡」という新概念を追加する。つまり、「自己複製」と「動的平衡」の双方で、「生物」を定義づける。……とはいえ、基本的には、「自己複製」を生物の根本的な性質と見なす。)
しかし、である。こういうの説(自己複製を本質と見なす説)には、重大な欠陥が二つある。
その欠陥を、次の (1) (2) で示そう。
──
(1) 自己複製は本質的でない
生命と無生命の区別をするときに「自己複製」を取ることは、一見、指標としては正しいように思える。
しかし、これは正しい指標ではない。おおむねは正しそうに見えるのだが、実際には正しくないのだ。そのことは、次の二つの面からわかる。
(a)自己複製する無生物
無生物ですら、自己複製をすることがある。次のように。
・ 核分裂で連鎖反応をする中性子
・ ロボットをつくるロボット
・ 情報的に自己複製するウィルス・プログラム
これらは、無生物ではあるが、自己複製する。ゆえに、自己複製をするかどうかは、本質的ではないのだ。
(b)自己複製しない生物
自己複製をしない生物、というのも、広く知られている。
・ 無精子症のオス。卵巣をなくしたメスや閉経したメス。
・ ミツバチの、働きバチ。
・ リカオンのヘルパー(他者を助けるだけのオス)
これらは、生物ではあるが、まったく自己複製しない。
では、これらは生物ではないかというと、そんなことはなく、これらもまた生物である。ゆえに、自己複製をするかどうかは、本質的ではないのだ。
( ※ 「閉経したババアは生物的価値がゼロである」と述べた都知事もいたようだが、彼はあまりにも生物学者と同じ見解を取りすぎているので、真実からは隔たっている。)
以上の (a)(b) の例からわかるとおり、「自己複製」というのは、生物の本質ではない。
──
(2) 通常の生物は自己複製をしない
よりいっそう重大なことがある。「通常の生物は決して自己複製をしない」ということだ。信じられないかもしれないが、これは事実である。以下で説明しよう。
まず、自己複製する生物というものは、たしかにある。しかし、自己複製する生物というものは、通常、われわれが「生物」とは意識しないものだ。つまり、われわれの目には見えないものだ。
たとえば、病原菌や、酵母菌、乳酸菌や、大腸菌などだ。これらは、顕微鏡でも使わない限り、見ることはできない。(ただし、顕微鏡で見れば、たしかに自己複製していることがわかるが。)
一方、われわれの目に、はっきりと見えるものがある。犬、猫、鳥、魚、花、草、木、昆虫、など。……これらはどれも、目に見えるし、「生物」と呼ぶにふさわしい。しかし、である。これらのうち、どれ一つとして、「自己複製」をするものはない。(強いて言えば、「カビ」ならば自己複製をするが。)
ではなぜ、これらは自己複製をしないのか? 次のことがあるからだ。
「有性生殖をする生物は、自己複製をせず、半分だけの自己複製をする」
ここでは、「自己複製」のかわりに、「半分だけの自己複製」がある。
なるほど、単細胞の細菌類ならば、性をもたないまま、自己複製をする。しかし高度な生物(多細胞の個体をもつ生物)は、性をもち、有性生殖をする。
そして、有性生殖をする生物は、オスとメスがそれぞれ、自分のもつ遺伝子の半分ずつを差し出して、新たに子供を作る。つまり、「半分だけの自己複製」をする。
子供は、父親の自己複製か、母親の自己複製か? いや、そのどちらでもない。子供は、「父親の自己複製が半分と、母親の自己複製が半分」という形で、「半分だけの自己複製が二つ組み合わさったもの」となっている。
だから、「生物の本質は自己複製だ」という命題は、有性生殖をする生物(有性生物)には当てはまらない。犬、猫、鳥、魚、花、草、木、昆虫、……これらはどれも、自己複製をしないが、生物である。
生物の本質は、自己複製ではないのだ。
──
結局、俗説の
「生命の本質は、自己複製である」
という説は、明らかに間違いである。それは、生物全般には適用されず、無性生殖をする生物のみに適用される。
また、有性生殖について当てはめようとすれば、個体としての生物には当てはまらず、DNAについてのみ当てはまる。しかも、それが当てはまるのは、一対のDNAのうちの半分だけである。
DNAは常に、その半分しか子供に伝わらない。その意味で、DNAについても「自己複製だ」というのは成立せず、DNAについても「半分だけの自己複製だ」というのが成立する。
なお、 どうしても子供の世代に自分のDNAをすべて伝えたければ、自分のクローンをつくるしかない。クローンならば、完全な自己複製となる。
だが、クローンを「完全な自己複製」と見なして、これを生物と見なすのであれば、われわれ人間はみな「生物」ではないことになってしまう。そうなったら、クローン人間が私たちを見て、「おまえたちは生物として不完全だ」と言い出すかもしれない。そして、クローンが私たちを虐殺したとしても、それは正当だということになる。なぜなら、クローンはこう言うからだ。
「おれたちが殺したものは、生物ではない。ただの人間は、完全な自己複製をしないから、半分だけの生物でしかない。そんなものは、生物ではないし、もともと生存する価値がないのだ。真の生物は、おれたちクローンだけだ」
もちろん、これは本末転倒である。そして、それは、どこから来たか? 「生物の本質は自己複製だ」という誤った発想から来たのだ。
要するに、「生物の本質は自己複製だ」という発想を取れば、とんでもない結論が出る。ゆえに、「生物の本質は自己複製だ」という発想は、根本的に間違いである。(一種の背理法。)
( ※ なお、ここでは、「遺伝子の自己複製」を否定しているわけではない。遺伝子には「自己複製」の機能はある。ただしそれは「遺伝子の」性質であって、「生物の」性質ではない。また、遺伝子の「性質の一つ」であって、遺伝子の「本質」ではない。遺伝子は別に、自己複製をするためにあるわけではない。遺伝子にはもっと重要な性質がある。「個体を生み出す」という性質が。そちらが本質であって、「自己複製」というのはあくまで脇役の一つにすぎない。そこを勘違いすると、本末転倒になる。注意。)
( ※ ともあれ、以上では、「生物の自己複製」というものを一般的に否定してきた。ただし、細菌類については、「生物の自己複製」は成立する。)
────────────────
「生物の本質は自己複製だ」という発想は、(一般的には)間違いである。では、この間違いは、どこから生じたのか? そのことを示そう。
まず、人々は、次の問題を立てた。
「生物の本質とは何か?」
そして、この問題に答えようとして、次のことを試みた。
「生物と無生物とのあいだに、境界線を引こう」
なるほど、このような境界線を引くことができれば、その境界線の上と下とで、はっきり特別ができる。そして、その境界線で区切られた双方の領域の性質を調べることで、物事の本質がわかりそうだ。
しかし、である。このような発想そのものに、根源的な誤りがある。それは非科学的な発想なのだ。「生物と無生物とのあいだに、境界線を引こう」という発想が、根源的に間違っているのだ。そのことは、次の比喩からわかる。
──
白や黒の本質は何か? この問いに対し、
「白や黒の本質を知るには、白と黒との境界を探り出せばいい」
と考えた学者がいた。彼は、さまざまな灰色を調べて、どこに境界線が引けるかを調べようとした。しかし、どこに線を引いても、きちんとした境界とはならなかった。しかし、それでも彼は、一番目立つところで境界線を引いて、「この境界線こそが白と黒を区別する本質的な違いなのだ」と主張した。
では、彼は、そのことで正解に達しえたか? ある一定の境界線を引くことで、白と黒を本質的に区別できたか? 否。
ここでは、特定の明度(たとえば明度 50%)で境界を引くことなど、ほとんど意味はない。さまざまな灰色のうち、特定の灰色を境界線として選ぶということは、白と黒の本質を知ることとは、何の関係もない。
では、どうすればいいか? 「白と黒の境界線を引こう」としなければいい。それよりは、連続的に変化する多段階の灰色の性質を、あるがままに認識すればいい。
つまり、最適の場所を見出して境界線を引くよりは、「(多段階の灰色があるので)もともと境界線は引けない」と認識すればいい。── そのことで、真実にたどりつける。
──
生物も同様だ。生物と無生物のあいだに無理やり境界を引いても、何の意味もない。むしろ、次のような多段階を考えるべきだ。(白と黒のあいだの多段階の灰色のように。)
・ 原子
・ 分子
・ ヌクレオチド
・ RNA
・ DNA
- - - - - …… ☆
・ 原核生物
・ 真核生物
・ 多細胞生物
・ 有性生殖生物
通常の発想では、☆ のところに境界線を引く。しかし、ここだけに特別に境界線を引いても、たいして意味はない。なぜなら、他の段階のどこにも、同じくらい重要な境界線を引けるからだ。別に ☆ のところだけに、特別な境界線が引けるわけではないし、そこに本質がひそむわけでもない。
(仮に、そんな区別をしても、いわば「明度 50%の灰色」だけを特別視するようなもので、たいして意味はない。ほんの少しなら意味があるが。)
──
以上のことから、結論が得られる。
「生物の本質とは何か?」
という疑問には、次のように答えることができる。
「『生物の本質とは何か』という問題自体が無意味である」
ここでは、正解などはない、というのが正解だ。なぜなら、問題自体が無意味だからだ。
この問題は、「白や黒の本質は何か?」と問うようなものだ。
しかし、もともと連続的に変化していくものに対して、2値的な区別を導入して、そこに本質を見出そうとしても、ほとんど意味はないのである。そんなことをするよりは、「2値的な区別という前提そのものが間違っている」と見なして、多段階的な認識を導入するべきなのだ。
「生物/無生物」という2値的な区別を導入して、「生物と無生物の違いは何か?」という問いを発しても、その問い自体が無意味だ。むしろ、「生物/無生物」という2値的な区別をやめるべきだ、というふうに考えるべきだ。
生物というものは、歴史的に、段階的に発展していったものだ。そこは多段階がある。ゆえに、それらの段階のどこかに境界を引くことが決定的に重要なのではない。それらの段階をあるがままに(多段階的に)認識することが重要なのだ。そうしてこそ、真実を理解できる。
──
では、(上記の一覧のような)多段階を認識するとは、どういうことか? それは、生物の進化の段階をあるがままに認識するということだ。
だから、「生物の本質を知る」ということは、「進化とは何かを知る」ということだ。
これらの多段階を見よう。塩基類から高等生物に至るまで、生物の歴史においては多段階がある。それは、進化の多段階だ。上記では、ざっと十段階ぐらいの段階を示したが、実際には、もっと多様な(ほとんど無数と言える)莫大な細かな段階がある。それは、進化の歴史である。
そういう進化の歴史を知るということ。それこそが、「生物の本質を知る」ということだ。
──
結局、こう言える。
「生物の本質を知るには、生物と無生物のあいだを探ればいいのではない。そこに境界線を引けばいいのではない。むしろ、多段階の進化の歴史をあるがままに見ればいいのだ」
と。
そして、このように正しい認識をすれば、特定の箇所( ☆ )だけを重視することもないだろうし、
「生物の本質は自己複製だ」
というような誤った認識をすることもないだろう。
( では、誤った認識ではなく、正しい認識とは、何なのか? それについては、次項で示す。)
【 追記 】
本項の執筆時点では、まだ考察が十分に進んでいなかった。
その後、長々と考察をしたすえに新たな結論を出すことができるようになった。簡単に言えば、次のことだ。
《 生物の本質は、「生きること」だ。 》 (→ 該当項目 )
このことが具体的に何を意味するかは、準備となる話が必要となる。とはいえ、一応、ここに結論を予告しておこう。
次項以降では、最終的な結論(頂点)には至らず、その下準備として、山の麓(ふもと)をだんだんと登るようにして話を進める。
※ 以下では、補足的な話を示す。
[ 付記1 ]
生物と無生物のあいだに境界線を引くというのは、生物の本質を知ることとは関係ない。
ただ、生物の本質を知ることとは別に、ただの興味から、この境界線を引くこともできる。その場合、どういう基準によって、この境界線を引くべきか? やはり「自己複製」ということを基準にするべきか?
それには、「否」と答えたい。
なぜ「否」か? それは、先に述べたとおりで、「自己複製」という機能面から定義することは、不適切だからだ。
たとえば、「ロボットをつくるロボット」もまた、「生物」と認定されてしまう。また、「クローン」は生物と認定されるが、人間は生物と認定されない。
では、どうすればいいか? 次に示す。
[ 付記2 ]
「生物と無生物のあいだに境界線を引く」
として、次の区別の仕方もある。(福岡伸一の仕方。)
「動的平衡を基準にして、その有無による」
なるほど、この基準だと、「自己複製」という基準を取ったときのような矛盾を、起こさないで済む。
しかし、「動的平衡」という概念は、別の難点がある。それは、「あまりにも複雑すぎる」ということだ。「動的平衡」という概念は、「原理」としては複雑すぎる概念なのだ。確かにそれは、(数多くある)指標の一つにはなるが、原理にはなりがたい。数学で言えば、「定理」にはなるが、「公理」にはならない。(簡明さに欠けているので。)
だから、「動的平衡を基準にして、その有無による」というのは、間違いではないのだが、どうせなら、同じことをもっとシンプルに言い換えるべきだ。
そこで、そのシンプルな表現(別の言い方)を探ることにしよう。次に示す。
[ 付記3 ]
まず、そもそも目的は、
「生物と無生物のあいだに境界線を引く」
ということだ。これは、 ☆ のところに境界線を引くということだ。
そのためには、どうすれば最もシンプルか? 簡単だ。直接、ここに境界線を引けばいい。
つまり、「自己複製」とか「動的平衡」というような 機能 によって境界線を定義する必要はない。そういう機能主義は、一種の哲学である。科学に思弁的な哲学は必要ない。単に科学的・実証的に決めればいい。
( ※ 物理学者だって、物理法則を定めるときには、思弁的な仕方なんかでは定義せずに、物理的な数値だけで決める。だったら生物学者も、そういうふうに、専門分野の概念で定義れればいい。ドーキンスにせよ、福岡伸一にせよ、あまりにも物事を哲学的に考えすぎる。もっとシンプルに、生物学的に決める方がいい。)
では、生物学的に決めれば? ☆ のところに境界線を引くには、次のように答えたい。
「DNAをもつ個体が生物だ」 …… (*)
これは実にシンプルな表現だ。しかも、この定義は、先の機能的な表現にも合致する。実際、DNAをもつ個体は「自己複製」機能を有するし、また、「動的平衡」機能をも有する。
( ※ 「動的平衡の意味は、DNAが生命子であることだ」という前項のことを参照。DNAをもつ限り、DNAが生命子として活動するので、常に動的平衡をすることになる。)
この (*) を、(哲学的な機能でなく)生物学的な機能で表現し直せば、次のようになる。
「タンパク質をつくる機能を有するヌクレオチド集団をもつ個体 が生物だ」
個体は、基本的にはタンパク質からなる。個体の基本はタンパク質だ。(このことは 2008年1月に発売中の科学雑誌「ニュートン」で特集している。そちらを読めば、詳しいことがわかる。ちょうど好都合。)
そして、タンパク質をつくるためのヌクレオチド集団がDNAだ。DNAそのものは生物ではないが、DNAを含む個体(細胞膜でDNAを閉じ込めている個体)は生物である。
ここで重要なのは、ヌクレオチド集団がタンパク質を合成するという機能だ。だから、生物と無生物の差を探るなら、「(タンパク質を合成する)ヌクレオチドをもつか否か」ということが決定的に重要だ。
こうして、「DNAの有無」を基準とする、上の定義が出る。
( ※ ただし、これは十分ではない。次に示す。)
[ 付記4 ]
すぐ前で述べた結論は、不十分なところがあるので、補足しておこう。
ヌクレオチドは必要だが、ヌクレオチドだけがあっても駄目であって、ヌクレオチドを含む個体であることが重要だ。
つまり、DNAを流出させない膜をもつような個体であることが必要だ。膜があって初めて、「生物」となる。
また、個体ではあっても、「DNA入りのカプセル」は、自己複製機能がないから、それだけでは生物とは見なせない。
というわけで、「子を産む」という機能も追加するべきだろう。ただし、「子を産む」という過程では、「自己複製」である必要はさらさらない。自己複製とは違う形で子を産むのでも差し支えない。
結局、以上のようにして、「生物」という用語は定義され、「無生物」から区別される。「DNAをもち、子を産む個体」というふうに。
( ※ 「子を産む」というのは、「自己複製」とは異なる。単に同種であればよく、まったく同じである必要はない。二人の親は、同種の子を産めばよく、親のクローンを産む必要はない。……ここを誤解すると、「生命の本質は自己複製だ」という誤った発想が生じる。)
[ 付記5 ]
なお、話の整理をしておこう。
ここまでに「付記1〜4」で述べたのは、
「生物と無生物のあいだに境界線を引く」
という話題だ。そんなことは非本質的なことだ、と初めからわかっていて、あえて非本質的なことをしたわけだ。
結論としては、「生物とは、DNAをもち、子を産む個体だ」という定義をした。だが、こんな定義をしても、何の意味もない。こういう定義は、単に、「生物はDNAをもち、繁殖する」ということをはっきりさせただけである。この定義をしたことで、別に、何か新しい知見を得たわけではない。ここでは、用語を定義しただけであって、ただの言葉の問題にすぎない。
(もちろん、他の定義をすることもできるし、それはそれで一興だ。たとえば、「動的平衡」という言葉で定義することもできる。どっちにしても、大差はない。)
ここで、話の初めに立ち返ろう。
「生物と無生物のあいだに境界線を引く」
というのは、もともと非本質的なのだ。それはつまり、こうだ。
「生物と無生物のあいだに境界線を引くことと、生物の本質を探ることとは、まったく別のことだ」
この両者は、別のことである。にもかかわらず、ドーキンスも、福岡伸一も、「この境界線を引けば生物の本質がわかる」と考えた。つまり、「哲学的な方法」で発想した。
しかし、われわれにとって必要なのは、「生物とは何か?」を哲学的に探求することではない。生物学的に探求することだ。とすれば、
「生物の本質とは何か?」
を知りたければ、
「生物の本質とは何か?」
を、直接、生物学的に考察するべきだ。(哲学的に境界線を引くかわりに。)
実際、物理学者は、そうしている。「量子とは何か?」を調べるときに、物理学者は、数式や実験によって、量子の本質を探り出そうとする。それが正しい態度だ。
一方、哲学者ならば、「量子と非量子のあいだ」を探ることで、「量子だけにある性質」というものを探り出そうとするだろう。しかし、そんなふうに哲学的に境界線を引くことをいくらやっても、無意味である。
大切なのは、境界線を引くことではなく、物事の本質を直接的に探求することだ。つまり、「生物とは何か?」ということを、直接的に考えるべきなのだ。
そして、そのためには、「生物/無生物」という二段階で区別するかわりに、多段階をあるがままに見るべきなのだ。
では、多段階をあるがままに見ると、何が見出されるか? それについては、次項で述べる。
※ 「生命の本質」という問題は、本項では完結しない。
数日後の「利全主義と系統 (生命の本質)」という項目で完結する。
それまでは順々に読んでいってほしい。
→ 次項 「有性生物と無性生物」
(本項では誤った認識[= 自己複製 ]を示しただけだが、
次項ではいよいよ正しい認識を示す。)
なお、「生物の本質は自己複製ではない」ということを知りたければ、一挙に飛んで、最終的な結論を見てほしい。次の箇所。
→ 性の誕生(半生物を越えて)
本項の問題については、前項で決定的に重要な説明をしてある。
→ 遺伝子の意味(生命子)
生命の本質を考えるときには、遺伝子の本質を考えることが大事だ。生命の本質は自己複製でもないし、遺伝子の本質も自己複製ではない。数を増やすことだけが問題なら、原爆の中性子だって、コンピュータのウイルスだって、どんどん数を増やせる。しかしそんなことは「生命」の本質とは異なる。生命には、ある特別な性質がある。それは、何か?──
もちろん、そこには、遺伝子がかかわっている。では、遺伝子は、生命にどのようにかかわっているのか? ……この問題を考えることで、生命の本質が見えてくる。詳しくは前項。
さらに、最終的な結論は、次で得られる。
→ 生物と遺伝子 (その1) 〜
これは、4回ぐらいの連載だが、その連載で、最終的な結論を得られる。
特に (その2) では、重要なことを述べている。ここに結論があると言える。
それはまた、「生命とは何か?」というシリーズにおける結論でもある。そこへいきなり飛んでもいいが、できれば、このシリーズを最初から読んでほしい。
→ 生命とは何か?(シリーズ)
※ これはカテゴリ項目の一覧です。降順なっているので、
最初の項目は一番下にあります。
我々人間も、細胞レベルでは、体内では自己複製が行われているのです。
植物は動かないが細胞を持ち、自己複製をする。
「自己複製能力を有する」か「自己複製能力を持たない」かが 生命とそうでないものの違いなのです。
「だから、細胞は生物であり、個体は生物でない」という主張ですか?
どうも、体細胞分裂と無性生殖の区別さえできないようですね。まずは高校の生物の教科書を読み直してください。それが先決。
それを知ればわかることですが、……細胞が自己複製能力をもつということと、生物が自己複製能力をもつということは、全然別のことです。
ちなみに、「体内では自己複製が行われている」というのは、間違いではないが、正確でもない。仮に自己複製がどんどんなされているだけだったなら、細胞が無限増殖して、肉体は破裂してしまいます。そんな自己複製をやるのは、癌だけです。あなたの主張が成立するのは、癌細胞だけです。
私の主張は? 自己複製ではなく、いわゆる動的平衡です。たとえば筋肉や骨の細胞は、毎日自己複製をして増殖しているのではなく、毎日動的平衡によって交替しているのです。(総計は増えない。)
自己複製の意味は、ドーキンス主義による「増加」です。しかし実際に「増加」があるのは癌細胞だけ。現実には、「増加」でなく「交替」があります。それが動的平衡。詳しくは前項。
→ http://openblog.meblog.biz/article/236846.html
ここでは「遺伝子の本質」という話が書いてあります。あなたがどう誤解しているかは、これを読めばわかるでしょう。
さらに、より本質的なことは、別項で示しています。その険は、本項の末尾に、新たにリンクを示しました。(本日)
そちらも読んでください。そうすれば、疑問は氷解するでしょう。
注記:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」では、この「自己複製」を、生物の本質と見なした・・・
上記人物は「自己複製」を生物の本質と見なしていない。また、自らの膨大な時間を浪費した研究成果を傲慢であった人間(自分自身)に対する一つの失敗、教訓事例として謙虚に受け止めている。最終的には自然科学に対して我々人類は跪く以外に無いと結論付けている。彼が主張している事は、熱力学第二法則であるエントロピーを減少させるマクセルの魔物(貴殿の言葉では生きる)が確かにいるが、それが複数犯なのか単独犯なのか誰なのか現状では不明であるといっている。
貴殿の主張する”生きる”この言葉は全く正しいし、おっしゃる通りと思います。しかしながら、恐らく福岡さんは引用しないと想う。
それについては:
→ 生命の起源
http://openblog.meblog.biz/article/364570.html
http://openblog.meblog.biz/article/5875444.html
http://openblog.meblog.biz/article/6318486.html