まず、「動的平衡とは何か?」を考える。すると、結論として、次のことが得られる。
「遺伝子の本質は、遺伝ではなく、(その逆に)遺伝以外のことである。つまり、生命の生存である」
「遺伝子は、『遺伝子』と呼ばれるべきではなく、『生命子』と呼ばれるべきだ」
──
本項では、最終的には、「遺伝子の本質は何か?」という問題に行きつく。ただし、最初は、「動的平衡とは何か?」を考える。前項で述べた書籍「生物と無生物のあいだ」の主題は、「動的平衡」であった。
ここで言う「動的平衡」とは、何のことか? まずは、これを手がかりとして、考えはじめよう。(最終的には「遺伝子の本質」に行きつくにしても、手がかりとしては「動的平衡」を考える。)
──
まず、用語の定義から始めよう。
同書では、「動的平衡」という言葉の意味が曖昧だった。そこで、曖昧さをなくすために、本項では特に、シェーンハイマーの見出したこと(= 真の「動的平衡」)だけを考える。(つまり、前項の(1)だけ。(2)の「遺伝子補償」のことは考えない。)
では、前項 (1) の「動的平衡」とは、何を意味するか?
──
まず、シェーンハイマーの見出したことから、「生物が動的平衡にある」ということが、わかっている。つまり、次のことが成立する。
(i) 動的である。 …… 静的ではない。
(ii) 平衡状態である。…… 見かけ上は静的に見える。
静的なものとは、無機物などだ。生命は、それとは違って、たえず変容しているから、静的ではない。
動的なものとは、次々と変化していくものだ。風であれ、雨であれ、行く川の流れに浮かぶうたかたであれ、絶えず変化していく。ただしそれらは、変化していることが見て取れる。一方、生物は、変化していることが見て取れない。つまり、一見したところ、静的に見える。
この (i) (ii) という二つのことが両立する、ということが、「動的平衡」だ。
──
では、動的平衡は、何を意味するか? その本質は?
それは、(私の考えでは)こうだ。
「遺伝子とは、個体発生の段階で遺伝形質を決めるためだけに作用するのではなく、誕生から死ぬまでのあらゆる生命活動において、たえず作用している」
「あらゆる生命活動」というのから(最初の)「個体発生の段階」を除けば、個体の生存状態と言える。
あ ら ゆ る 生 命 活 動
……━━━━━━━━━
個体発生 個体の生存状態(生涯)
赤ん坊も、子供も、大人も、老人も、個体は常に生存状態にある。そして、そういう生存状態において、遺伝子はたえず働いている。
つまり遺伝子は、個体発生における胎児のときだけに働くのではない、ということだ。最初に働くだけでなく、常に働いている、ということだ。
( 図の …… だけでなく ━━━ の全期間で働いている、ということ。通常は …… だけで働いている、と思われがちだが。)
──
たとえば、GP2 というタンパク質をつくる遺伝子がある。この遺伝子は、ネズミの生命の活動のどの段階でも働いて、毎日毎日 GP2 というタンパク質をつくっている。決して、ネズミが誕生するとき(個体発生段階)だけに働くのではない。むしろ、ネズミが誕生したあとでこそ、しっかりと働く。
このような遺伝子は、通常は、正常に働いている。だが、あるとき突然、遺伝子が壊れると、正常なタンパク質をつくれなくなって、異常タンパク質をつくるようになる。
すると、どうなるか? 個体には、遺伝子病(遺伝子疾患)が発現する。たとえば、アルツハイマー病がそうだ。これは遺伝子の部分欠損によって、異常タンパク質が生じることによって生じるらしい。同書による。
( ※ 「その遺伝子に部分欠損があれば、アルツハイマー病が起こる」と言えるらしい。ただし、逆は述べていない。つまり、「アルツハイマー病はすべて、遺伝子の部分欠損によって起こるものだ」とまでは言い切ってはいない。)
──
生体内では GP2 というタンパク質がつくられる。この際、生体の細胞組織が器質的に作用してタンパク質をつくるのではない。生体の遺伝子が、遺伝子の情報を利用して、分子レベルの化学作用としてタンパク質をつくる。
特に、アミノ酸からタンパク質をつくる過程では、たえず遺伝子の情報が参照されている。(だからこそ、老化によって遺伝子が壊れると、アルツハイマー病などの遺伝子疾患が起こる。)
──
以上のことから、こうわかる。
「遺伝子」とは、「遺伝ないし個体発生のための最小要素」ではなくて、「生命活動のための最小要素」なのだ。
その意味からすると、「遺伝子」という言葉は、はなはだ不適当だ。それは、いわば、われわれの生命活動そのものを「遺伝」と呼ぶのと同様である。
「われわれは生きている。生きているから、歌うんだ」
という書くべきところを、
「われわれは遺伝している。遺伝しているから、歌うんだ」
と書くようなもので、まったく不適切な表現だ。生きているということは、遺伝を受けているということではない。生きていることは、生きていることである。生きていることは、生命活動がなされているということである。そこでは、「生きる」とか「生命」とかの言葉が妥当であって、「遺伝」という言葉は妥当ではない。
だから、こう結論できる。
「遺伝子というものの呼び名は、『遺伝子』ではなく、『生命活動子』もしくは『生命子』と呼ぶべきだ。それでこそ、DNAの本質を示せる」
DNAと遺伝子とは、(細かい点を除けば)同一視される。しかし、DNAは「遺伝子」と呼ぶよりは、「生命子」と呼ぶべきなのだ。そうしてこそ、DNAの本質を言い表す。
DNAは、個体発生のときに個体を形成するためだけに働くのではなく、それ以後のすべての段階で働くのだ。人間で言えば、誕生前の 280日ほどの期間だけに働くのではなく、それ以後の 80年ぐらいの人生のすべてにおいて働き続けるのだ。すべての遺伝子が毎日働く、というわけではないが、とにかく毎日、莫大な数の遺伝子が働いている。(もちろん、働いていない遺伝子もたくさんあるが。)
──
遺伝子の本質は生命子である。このことが、シェーンハイマーの「動的平衡」という概念からわかるわけだ。とすれば、このことこそが、「動的平衡」ということの概念の重要性だ。
「動的平衡」の本当の意義は、「分子がたえず交替されている」という現象それ自体ではない。その現象をもたらす根源だ。つくられたものの方ではなく、つくっているものの方だ。
「分子がたえず交替されている」ということは、「組織(タンパク質)がたえずつくられている」ということだ。では、どうやって、つくられるか? そこではDNAが働いている。DNAが組織をつくっているのだ。
ここでは、つくられるものよりも、つくっているものこそ、重要である。そして、つくっているものは、DNAである。
だから、DNAの役割は、「親の情報を子に伝える」という意味の「遺伝」ではなくて、「生命が生命として活動している」という意味の「生存」なのだ。
DNAの本質は、「遺伝」ではなく、「生存」( or 生命活動の維持)である。── このことが、「動的平衡」という概念の重要性である。
私はそう思う。
( ※ 福岡伸一が「動的平衡」という概念を提出したことは、重要だ。ただし、彼は問題提起はうまかったが、解答を間違えてしまった。「動的平衡」の重要性を「遺伝子補償」のことだと思い込んでしまった。そこで私は、シェーンハイマーに立ち返って、その本当の意義を明かしているわけだ。「動的平衡」という概念の重要性は、DNAの役割が「遺伝」ではなく「生存」であることを示したことだ、と。)
※ 重要なことはすでに述べた。あとは、補足的な細かなことを記す。
[ 付記1 ]
「『遺伝子』という言葉は、はなはだ不適当だ」
と上では述べた。その理由を詳しく示そう。
そもそも、遺伝形質というものは、生物のうちの個体差の部分にすぎない。分子的には「個人の塩基差」というレベルのものだ。そういうものは、生物における変異量でもごくわずかだし、また、変異があっても、たいして重要性がない。
たとえば、「指を形成する遺伝子」というものは非常に重要だし、それがなければ大変なことになるが、「耳アカが湿っているか乾いているか」という遺伝子は、どっちでも構わない。「血液型が何型か」ということも、どうでもいい。
同様に、メンデルのエンドウ豆の実験で、豆が「シワよっているか/シワよっていないか」という遺伝子の差も、たいして重要性はない。
一般に、遺伝的形質というものは、「個体の生存にとってはどっちでもいい」というふうに、重要性が低いものだ。一方、変異することで致死的になるような遺伝子は、重要性が高い。
まとめると、こうだ。
・ 遺伝形質 …… 遺伝子変異は可能 …… 重要性が低い
・ 生命形質 …… 遺伝子変異は不可 …… 重要性が高い
結局、DNAには、重要な形質と、重要でない形質とがある。そして、遺伝形質というものは、重要ではないものだ。DNAの本質は、遺伝形質ではなく、生命形質にある。ここにこそ本質があるのだ。遺伝形質というのは、どうでもいいような、ただのオマケにすぎない。
だから、(本来ならば両方を見るべきだが)どちらか一方だけを見るとしたら、生命形質の方だけを見るべきだ。そちらにこそDNAの本質がある。遺伝形質の方は、非本質的であるにすぎない。
DNAの意味は「遺伝子」ではなくて「生命子」もしくは「非遺伝子」である。「非・遺伝子」ではなくて「非遺伝・子」である。こういうふうに認識するのが、DNAの本質を知るということだ。(「遺伝・子」の部分は、あることはあるが、重要ではないオマケにすぎない。)
ただ、歴史的に見ると、次のようになる。
・ 遺伝形質 …… メンデルの実験で簡単に判明する
・ 生命形質 …… 遺伝子分析などの高度な解析が必要
こうして、前者は簡単に判明し、後者はなかなか判明しなかった。本質的であるかどうかよりも、簡単にわかるかどうかが重視された。そのせいで、DNAを「遺伝子」と呼ぶ命名が定着してしまったのである。
とはいえ、その命名は、あまりにも不当な命名であった。DNAの本質は、遺伝部分にあるのではなく、非遺伝部分にあるからだ。
こうして「DNAの本質は生命子である」という真実は、ずっと理解されないままであった。
( ※ このことは、漠然とは理解されているのだが、しかし、はっきりと言葉では理解されていない。いわば「地球は平らだ」と信じているような時代と同様だ。「地球は丸い」ということは経験的にわかっているとしても、世間常識では「地球は平らだ」というのが常識なので、その常識を信じて疑わない状態だ。……実際、Google で検索 してもわかるが、本項で述べた趣旨で、「DNAは遺伝子ではなく生命子だ」という趣旨で述べている人は、一人もいないようだ。少なくとも、日本語サイトでは。)
で、結局、何が言いたいか?
本項では、何か新しい事実を示そうとしているのではない。本項で示されていることは、すでに知られていることだ。
大事なのは、「何が本質か」という、注目の仕方である。
遺伝子を見るとき、「あれもある、これもある」ということはわかっている。その点では、事実は何も変わらない。ただし、物事を認識するとき、「どこに注目するべきか」という注目点の置き方が異なる。
これまでは、見やすい点ばかりに注目してきた。つまり、個人差としての遺伝形質という点を。しかし本当は、見やすい点よりも、見えにくい点にこそ、注目するべきだったのだ。「発現する限り、誰でも同じように発現して、個人差は現れない」というような点に。区別のつきにくい点に。
このあとでは、「生命の本質とは何か?」という話題を扱う。そこでは、事実をたくさん乱雑に列挙するのではなく、核心的なことだけを精選して見極める必要がある。それゆえ、「どこに着目するべきか」ということを論じるわけだ。
このあと、「生命の本質とは何か?」を論じるとき、遺伝子というものが話題の中心に来る。そのとき、「遺伝子の役割は何か」を論じるが、そこで、「遺伝子の役割は遺伝です」と説明して、目の青さや耳アカの固さを論じるのでは、生命の真実に近づくどころか、かえって生命の真実から遠ざかってしまう。
だから、そういうことのないように、何が大切で何が大切でないかを、はっきり見極めておく必要がある。それが本項の意義だ。
[ 付記2 ]
本項を読んで、
「そんなことはわかりきっている」
と思う専門家もいるだろう。
「遺伝子が生命活動の全般で働いているということは、今日では常識だ」
というふうに。そこで、そういう専門家のために、解説しておく。
第一に、本項は、専門家向けの学術論文というより、一般人向けの啓蒙記事だ。そこでは、すでに認められている学問常識を書くこともある。別にそれはそれで、問題あるまい。嘘ではなく事実を書くのだから。
第二に、本項は、新しい知識を書くというよりは、注意の喚起が目的だ。「考え方で注意せよ」というふうに。注意の問題である。
さて。ではなぜ、注意が必要か。それは、本項の論旨とは逆の見方と比べるといい。
「遺伝子の役割は、遺伝である」
というのが、メンデル以来の常識であった。だから、これを否定したいわけだ。
「遺伝子の役割は、遺伝ではない」
と。つまり、
「遺伝子において、遺伝などはどうでもいいことだ」
と。このことを強く意識せよ、というのが、本項の意図だ。
そして、こういうふうに意識することで、次項以降では、生命の本質をめぐって、正しい認識に近づくことができる。目の青さや耳アカの固さにとらわれたりせずに。
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──
( ※ 本項では、「動的平衡」の真意を解説し、「遺伝子の本質」を探った。ここでは主題は「遺伝子」だった。一方、主題を「生物」「生命」にして、「生物とは何か?」「生命とは何か?」という本質的な問題もある。これについては、次項で説明される。)
読まなくでもいいという注記を記して、全体を灰色で覆いました。
という(一般の方への啓蒙の)指摘は適当だと思いますが、「遺伝」という言葉を「個体ごとの個性を生み出す変異」(が親から子へと受け継がれること)として使うのは不適切だと思います。確かに、生物学を学んで(理解して)いない人には、そういう素朴な概念があるかもしれませんが、それならば遺伝子を「生命子」などという聞き慣れない言葉で置き換えるのではなく、「遺伝」や「遺伝子」の正しい意味の理解へ導くべきだと感じました。
確かに遺伝子は生命活動のほとんど全ての局面で非常に重要な役割を果たしますが、それは実際に「作用するもの」として働くわけではないので、遺伝子をして「生命活動のための最小要素」などと称することの方が、はなはだ不適当だ、と思えます。実際に生命活動を「行っている」最小単位は個々のタンパク質ですから、生命体を構成する素子という意味ではタンパク質こそ「生命子」と言って良いかもしれません。しかし、それでは「電子機器の主要構成要素はトランジスタだ。だからトランジスタ(だけ)を電子素子と呼ぼう」と言うようなもので、啓蒙としても乱暴な気がします。やっぱり、「生命活動を実際に担っている要素で最も重要なのはタンパク質なんだよ」くらいで良いと思います。
電子機器の部品にトランジスタを始め様々な素子があり、主要素子たるトランジスタにも様々な種類があるように、生物を構成する部品(生体物質)にもタンパク質を始め色んな物質があり(それぞれに重要な働きをしていて)、また、タンパク質にも色んな(役割の違った)種類があるんだ、という説明なら、だいたいの感覚はつかんでもらえるのではないでしょうか?
そして、同じ電子機器でもテレビかパソコンか、あるいは同じテレビでもメーカーやモ促ルが違えば、(全体的な部品構成は似ていても)個々の部品はそれぞれ異なっている様に、生物を構成するタンパク質(を始めとする生体物質)も、生物種ごと、個体ごとに異なっているのだ、ということも感覚的に理解してもらえるでしょう。
そして、各電子機器を作るにあたって、どんな部品をどのように組み合わせれば良いかは「設計図」に書かれているわけです。では、個々の生物が、どんなタンパク質が組み合わさってできているかは?と、(陳腐な比喩ではありますが)「遺伝子は生物の設計図」というアナロジーで説明してあげるのが分かりやすいのではないか、と思っています。
[ただし、「生物の設計図」には「タンパク質の構造」だけが書かれているんですよ、つまり、機械の設計図のようにそれだけで全てが決まっちゃうわけではないですよ、と、そこだけは誤解の無いように強調しておく必要があると思っています。]
ここまで来て初めて、冒頭に書いた「遺伝子は文章、DNAは紙」が意味を持ちます。ここで言うなら、「文章」というよりは「設計図上に書かれた(図形を始めとした)設計情報」と言うべきでしょう。
そうすれば、遺伝子が、個体ごとの個性の部分だけじゃなく、生物を構成する全ての(タンパク質)成分を作るのに必要なんだ、つまり「生命活動の全般で働いている」ということが理解されるでしょう。
このような考え方を理解すると、「ゲノム」とは何かも自然と分かるようになります。
「遺伝子は設計図だ」
というご指摘ですね。失礼ですが、話題の本をお読みになりましたか? 「動的平衡」という概念を全然理解していないと思えますが。
「最小要素はタンパク質だ」
ということですが、そのタンパク質をつくっているのが遺伝子です。
「遺伝子は設計図だ」
ということですが、設計図というよりは工場に近いものです。
>どんな部品をどのように組み合わせれば良いかは「設計図」に書かれているわけです。
ということではなくて、まさしく部品そのものをつくっているのです。何もかもを作り上げているのです。
──
本項で述べたことは、「動的平衡」という概念に基づいて、
「最小要素はタンパク質だ」
「遺伝子は設計図だ」
という従来の発想を否定し、遺伝子がそれ以上のものであることを示すことです。
「動的平衡」という概念を、同書から正しく読み取ってください。私の話にコメントする前に、同書の文章をはっきりと理解してください。さもないと、話の共通基盤がありません。食い違いっぱなしです。
言っていることはごもっとも。ただしそれは、遺伝子を扱う生物学者の「傲慢」です。
歴史的に言って、「遺伝」という言葉が先にあるのであって、「遺伝子」という言葉が先にあるのではありません。
その後、遺伝子というものが見つかると、最初は「遺伝の形質を決めるもの」(メンデル)というふうに見なされたのに、いつのまにか「生物の全形質を決めるもの」というふうに意味が変化してしまいました。
そういうふうに、学問用語の意味が変化してしまったのです。
だから、その意味の変化に応じて、言葉を帰るべきだ、というのが、本項の趣旨です。言葉が意味とズレているのですから。
それに対して、「いや、遺伝子という言葉は変化したのだから、変化したのだということを世間に教えればいい」というのが、ご趣旨でしょう。それはそれでごもっともですが、それは学者の傲慢です。専門世界のなかで自分たちが変化したからと言って、世間全体の言葉を換えてしまう、というのは、傲慢に過ぎます。
たとえば、あなたが前を向いているときに、少し左を向いた。そうしたら、風景がズレてしまった。「だから、おれの体の向きの変化に応じて、世界そのものがズレてしまうべきだ」などというのは、あまりにも自己中心的です。それよりは、「自分がズレてしまったのだ」と理解して、自分が世界に合わせて、自分の方がズレを修正するべきでしょう。
遺伝子という言葉の意味は、当初からズレてしまったのです。そして、ズレてしまったのは、学問用語の意味の方であって、世間ではありません。「遺伝」という言葉は昔も今も同じ意味で使われています。親の眼の色が子供に伝わることは「遺伝」ですが、親も子も同じく人間として生きていることは「遺伝」ではなくて「生命(人間)としての生存」です。人間が人間として生きていることを「遺伝」と呼ぶことは、不適切です。
言葉というものは、人類の長い歴史の上に成立するものであって、短期間の学問研究の成果によって左右されるものではありません。短期間の学問研究の成果によって認識が変わったのなら、認識の変化に応じて用語を変えるべきなのです。「長い歴史をもつ言葉の意味を、自分のズレに応じて変えてしまえ」というのは、傲慢すぎます。
自分が間違えたなら、自分が修正するべきなのです。「自分の間違いに応じて世界が変われば、自分の間違いを直さないで済む」というのは、傲慢すぎる発想です。
学問の世界では、謙虚でなくては、真実をつかめません。
> 「遺伝」や「遺伝子」の正しい意味の理解へ導くべきだと感じました。
という点については、「自分が正しいと思っていることこそ、世間からズレているのだ」と理解することが先決でしょう。「自分が正しくて世間が間違っている」と思う前に、「自分が間違っていて世間が正しい」と思うべきなのです。少なくとも、言葉遣いについては。
英語であれ、日本語であれ、言葉は専門家だけのためにあるのではありません。その言語を使う国民のためにあるのです。専門家が勝手に自分の都合で「遺伝」という言葉を歪めてしまえ、というのは、自分勝手すぎます。
と本項の最後で述べたが、これを説明するページがあった。
── 以下、引用 ──
「遺伝形質を規定する因子」という元の定義からするとおかしなことが次々と最近わかってきました.
どうやら親から子への「遺伝」を決めているのはタンパクを作るDNA部分だけではなく,その周辺にあるノンコーディングRNAと呼ばれるRNAを作る部分だったり,DNAの塩基に加えられた化学的修飾だったり,遠い位置にあるエンハンサーと呼ばれる調節領域にあるちょっとした塩基の違い(多型)であることが判ってきたからです.
トンビからタカが生まれないというレベルの遺伝はタンパクを作るDNA部分にありますが,親子の顔が似ているというようなレベルの遺伝は実はタンパク以外の部分の個性が決めているということがわかってきました.
── 以上、引用 ──
(引用元のトップページは
http://www.igm.hokudai.ac.jp/crg/molbio/index.php
だが、該当のページは URL が長すぎてしまうので、ここには記さない。該当ページを見たければ、上記の長い引用文の一部分を Google 検索すればいい。)
>結局、DNAには、重要な形質と、重要でない形質とがある。そして、遺伝形質というものは、重要ではないものだ。DNAの本質は、遺伝形質ではなく、生命形質にある。ここにこそ本質があるのだ。遺伝形質というのは、どうでもいいような、ただのオマケにすぎない。
一世代や数世代で見た場合にはオマケに過ぎないと感じるかもしれませんが、進化というスパンで見たときには、どうでもいいと思えるようなことがどうでも良くは無かったりします。中立説などがそうですね。
DNAの情報が代々受け継がれることは進化とも関連することですから、おっしゃることに同意できません。全般に、科学というより哲学に近い印象を受けました。
ただ、そちらの書いていらっしゃる内容にはずいぶん参考になることが含まれているのは確かです。そちらが福岡さんの著書を批評したのと同じようなことを、そちらの記事から感じます。
おっしゃりたいことはわかりますが、それは言葉の字面だけを唱えた「揚げ足取り」でしょう。生命や個体における話とは全然別レベルの話で、議論になりません。
「どうでもいい」というのは「意味も何もゼロだ」ということではありません。
たとえば、私が仕事をしているときには、横から「ご飯だよ」と言われたら、「食事のことなんかどうでもいい」と思います。けれど、それに対して、「食事は人間には必要ですから、どうでもいいということはありません」という生物学的批評が来たら、「あんた、何を言っているの?」と思うでしょう。
ま、本サイトへの悪口のほとんどは、こういう揚げ足取りです。
とにかく、冒頭の > の引用部のことはまさしくその通りですが、全然別次元の話ですから、字面だけを取って論じても、話が噛み合いません。
生物学の問題ではなく、国語力の問題でしょう。
本文の最後に、
「DNAの役割は、「親の情報を子に伝える」という意味の「遺伝」ではなくて、「生命が生命として活動している」という意味の「生存」なのだ。」
とありますが、分かりやすく書くならば、
「DNAの役割は、「目の色や血液型など片方の親の分しか伝わらない情報(つまり変異する)を子に伝える」という意味の「遺伝」ではなくて、「子も人間として生まれてくるために必要な情報を伝える」という意味での「遺伝(というのかどうか分かりませんが、一般的にはそうでないためにこのエントリーにあるような「遺伝子」という名前に対する批判になったのではないですか)」さらには「子が人間として生き続けていくことができる」つまりは「生命が生命として活動している」という意味の「生存」なのだ。」
とでも言えるでしょうか。
最後に「国語力の問題」とか「読解力がない」もただの悪口と見なされている場合があると思いますよ。
( ※ まともな読解力がある人にとっては、言わずもがな。ただの悪口にしか思えないかもしれない。あらかじめ、お断りしておきます。)
> 遺伝形質というのは、どうでもいいような、ただのオマケにすぎない。
というふうに本文中で書いた。この意味を説明しておこう。
ここで「どうでもいいような」というのは、「意味がまったくない」ということではない。「何らかの意味はあるが、そんなことは重要なことではない」という意味だ。「どっちでも構わない」ということだ。
具体的に例を挙げると、次のような例がある。
・ 血液型は、A型でもB型でも、他の型でも、どうでもいい。
・ 瞼は、一重でも、二重でも、どうでもいい。
・ 皮膚の色は、白っぽくても黒っぽくても、どうでもいい。
このような差は、個体差であり、重要なことではない。要するに、次のような主張は、正しくない。
・ 血液型は、A型が良く、B型は駄目だ。。
・ 瞼は、一重は駄目で、二重が優秀だ。
・ 皮膚の色は、白が優秀で、黒は劣悪だ。
・ アーリア人種は優秀で、ユダヤ人種は劣悪だ。
こういう主張は正しくない、ということだ。ここにはさまざまな形質差があるが、そういう形質差は、人間が人間であることにとって、どうでもいいことだ。
さらに言えば、体力の差も、知力の差も、人間にとってはたいして重要ではない。たとえば、あなたに子供が複数いれば、体力や知力で差があるだろう。だが、その誰もが、あなたの子供であり、あなたにとっては等しく大切だ。「頭のいい姉が大事だ」とか、「二重の妹がかわいいから大事だ」とか、そういうことはない。あなたの子供は、あなたの子供として生まれたこと自体が大切なのであって、生きていることだけが重要なのだ。体力や知力の差など、どうでもいいことだ。
しかるに、そこに進化論学者が現れて、「体力や知力の差は、どうでもいいことではありません。体力や知力の優れた子供の方が、進化の上で有利です。だから、劣悪な子供より、優秀な子供の方を大切にしなさい」などと言い出したら、あなたはどうするか?
私だったら、蹴飛ばしてやりますけどね。あなたは?
※ 私はときどき思うんだが、進化論学者を親にもつ子供ほど、不幸なことはない。
最近では、DNAだけでなく、一部のRNAやタンパク質も遺伝することがわかっています。ご存知の通り、DNAからRNAに転写され、RNAからタンパク質に翻訳されるのですが、DNAからRNAに転写するにもタンパク質が必要なので、そのタンパク質は、親から一部拝借するのです(これは個体発生時期限定の話です)。そういった意味で、遺伝子の意味が広くなりました。遺伝子にDNAは含まれるが、DNAは遺伝だけを担っている訳ではない、むしろ生命維持を担っているのだといえると思います。
その部分は、「生命子」の概念に入っています。「非遺伝・子」の箇所を読み直してください。
>「DNAは遺伝子ではなく生命子だ」という趣旨で述べている人は、一人もいないようだ。少なくとも、日本語サイトでは。
たしかに、重要な概念にも関わらず見過ごされているようです。ただ、英語のwikipediaのDNAの項目には、一行目からあっさりと生命子の概念に相当する説明がなされていました。以下に引用します。
Deoxyribonucleic acid, or DNA, is a nucleic acid that contains the genetic instructions used in the development and functioning of all known living organisms
引用終わり
また、遺伝子のgeneの語源についてですが、ドイツ語ではなく、ギリシャ語のgenesis(誕生)あるいはgenos(起源)が大本です。genesis or genos→gen→geneと変化したのでしょう。geneがドイツ語由来であることは確かですが、そのドイツ語のgenはギリシャ語のgenesisあるいはgenos由来ですので、語源というとgenesisあるいはgenosが妥当かと思います。
さらに初めて遺伝の概念でgenesisという言葉をつかったのはダーウィンです。彼の遺伝概念は、現在では否定されていますが、このgenesisという言葉を短くしてgenあるいはgeneと書いたのが、ヨハンセンになります。
いや、違います。含んでいません。文中で何度も書いたとおり。
> DNAが次世代に受け継がれ、次世代の「生命形質」を担う
というのは、遺伝とは違います。遺伝というのは、ごく小さな個体的な差異の部分だけです。たとえば、メンデルの実験で調べた7つの形質。豆の色や形状。
一方、そういう形質の差異とは関係ない基本的な部分が、生命子の部分です。
DNA は、本質的である生命子の部分と、本質的でない遺伝子の部分から、成立します。
たとえば、あなたの肌の色や髪の形質などは親の遺伝によりますが、あなたが(猿でなく)人間として誕生したことはDNAの本質的部分によります。
DNAが次世代に受け継がれ、次世代の「生命形質」あるいは「遺伝形質」を担うことは、教科書的にはどちらも「遺伝」と説明されます。私もこちらの意味で使っていました。
本質的である生命子と本質的でない遺伝子とを分けて考えたときに、すでに「遺伝」の意味がずれたことに気づけませんでした。
お付き合い頂きありがとうございます。
>ということですが、そのタンパク質をつくっているのが遺伝子です。
>「遺伝子は設計図だ」
>ということですが、設計図というよりは工場に近いものです。
遺伝子あるいは管理人さんのいうような「生命子」は、管理人さんもご自分で指摘しているように、DNA です。これはあくまで単なる塩基配列であり、DNAがあるだけでは、たんぱく質は作られません。DNAの配列に基づいてタンパク質を作る、別のタンパク質が必要です。つまり、遺伝子あるいはDNAはやはり設計図であり、工場というには無理があります。DNA+タンパク質だと、工場のイメージに近いかもしれません。
タンパク質をつくっているのは遺伝子ですが、遺伝子からタンパク質を作っているのはタンパク質とほかの遺伝子で、これはどちらが先かはいまでも議論があるところです。