この本では、「生物の本質は動的平衡だ」というふうに主張されている。これは、まったくの間違いというわけではないが、読者をひどく混乱させるという意味で、非常に不正確な主張である。
そこで、この本のどこがおかしいかを指摘しておく。同時に、正しくはどう修正すればいいかを示しておく。 ──
( ※ 本項以降、「生命とは何か?」というシリーズが続きます。数日間の予定。)
( ※ 本項は、同書をすでに読んだ読者向けです。まだ読んでいない人は、先に同書を読んでください。)
──
初めにお断りしておこう。本項は、同書(生物と無生物のあいだ)を非難しているわけではない。また、「悪書だから買うな」と言っているわけでもない。むしろ、一般の人には、お勧めしておく。「大変興味深い本だ。買った方がいい。買って損はしない。多くのためになる情報を得られる」と。 |
──
では、いよいよ論じよう。
本書の美点については、しばしば次のように指摘される。
「詩的な文章がうまい」
なるほど、それはその通り。名文というほどではないのだが、下手くそな文章ばかり書く普通の文筆家に比べれば、はるかに上である。そこらの小説家よりは上かもしれない。(今はひどい文章を書く小説家が多いですからね。)
だから、その長所は、たしかにある。しかし、である。その長所が、逆に、短所となっている。彼の剣の切れ味はとてもいいが、敵を切るだけでなく、自分をも切ってしまっているのだ。それというのも、自分の剣の巧みさに、酔いすぎるせいだ。「ああ、おれって何て文章がうまいんだろう」と。
彼の書く個別のエピソードは、何ら問題ない。とても興味深い話が多いし、そのまま受け取っていいだろう。
ただし、そこから結論を引き出そうとして、強引に力ずくで無理なことをやろうとしている。そのせいで、上手に真実に近づこうとするあまり、真実とは逆の地点に至ってしまっている。つまり、(真実のように見える)虚偽に。
──
具体的に言おう。
彼には詩的な精神がある。そのせいで、常にこういう命題を立てる。
「生命とは何か?」
「生命の本質とは何か?」
そのあとで、次のように結論する。
「生命の本質とは、自己複製である」
「生命の本質とは、動的平衡である」
著者は、「自己複製」については基本として認めた上で、追加的に、「それだけじゃ足りない。動的平衡も重要だ」と考える。
( ※ 具体的に言うと、ウィルスには「自己複製」があるが「動的平衡」がない。だから、ウィルスは生物ではない、というのが著者の主張。)
ともあれ、この結論を先取りして、生物ではこの双方がともに成立するという著者の主張を受け入れることにしてみよう。すると、どうなるか?
第一の
「生命の本質とは、自己複製である」
という点については、本項では述べない。(あとで別項で述べる。)
第二の
「生命の本質とは、動的平衡である」
という点は、同書の眼目である。しかし、この眼目が、実はメチャクチャなのだ。以下に示そう。
──
本書で言う「動的平衡」というのは、概念的には、次のことだ。
「普通の物質(鉱物など)は、一個の静的な固定物である。だが、生物は、そうではない。生物は、それ全体としては一個の物として存在しながらも、その成分は動的に変化している」
このことを示すために、二つの例を示す。
(1) シェーンハイマー
ルドルフ・シェーンハイマーは、1930年代後半に、次のことを示した。
「同位体窒素のアミノ酸を含む餌を、ネズミに取り込ませると、その窒素は、ネズミに大量に取り込まれ、その後、少しずつ、放出された。」
つまり、原子レベルで見ると、ネズミという個体を構成する原子は、刻々と変化しているわけだ。普通の物質ならば、原子はいつまでも同じ原子だが、生物の場合では、そうではなくて、刻々と交替している。
( ※ その意味は、同書で説明されている。生物の構成要素は、どんどん損傷しているから、古いものは捨てて、さっさと新しいものに交替している、というわけだ。……私なりに比喩的に言うと、プラスチックは同じ原子のままだから、劣化して ひび割れたりするが、人間の内臓はどんどん更新されているから、80年ぐらいたってもボロボロにはならないでいるわけだ。ま、年相応に古くはなるが、それでもちゃんと機能している。)
(2) 遺伝子欠損に対する補償
遺伝子欠損をした(特定の遺伝子を人工的に欠落させてつくった)マウスで、その遺伝子の効果を調べようと思った。ところが、どういうわけか、その遺伝子が欠損していても、何も異常は起こらなかった。
つまり、その遺伝子の役割を、他の何ものかが補償してたわけだ。
( ※ 私なりに比喩的に言うと、誰かが借金を踏み倒したときに、他の誰かさんがどこかから借金を代わって返済してくれたことになる。)
──
著者は、この二つをともに「動的平衡」というふうに命名している。
しかし、この命名は、「こじつけ」であろう。「牽強付会」とも言える。なぜなら、この二つは別のことだからだ。
ま、たしかに、この二つは似ていなくもない。しかし、その似ているところをつまみ食いして、「どちらにも共通する点を取り上げる」というのは、馬鹿げている。
それはいわば、「 (1) とかけて (2) と解く。そのこころは?」という、なぞなぞのたぐいである。その問いに答えて、「そのこころは、動的平衡です」と答えたとしても、それはもはや、落語みたいなものだ。(笑点・大喜利)
──
詳しく言おう。
(1) を「動的平衡」と呼ぶのは、それはそれでいい。もともとはシェーンハイマーが考えた言葉らしいから、そういう意味で使っていいだろう。(最初の言葉の定義だから、どう呼ぼうと勝手だ。)
(2) を「動的平衡」と呼ぶのは、全然おかしい。これは、(1) とは全然違う。むしろ、「遺伝子補償」とでも呼ぶべきだろう。(1) とは共通点もあるが、まったく別のことである。(見かけ上はちょっと似ているが、同じことだと見なすのはこじつけである。)
両者の差は、次の通り。
(1) 真の動的平衡 …… 完成した個体の、日常レベルのホメオスタシスの一種。分子レベルの生理的な反応。
(2) 遺伝子補償 …… 個体発生における、遺伝子の作用のバックアップ。特定の遺伝子が欠落した場合に、他のバックアップ遺伝子が発現すること。
このように、両者はまったく異なる。
さらに、次の差もある。
(1) 真の動的平衡 …… あらゆる生物で常になされている。これを生物の本質と見なすのは、特に問題はない。
(2) 遺伝子補償 …… あらゆる生物のほとんどの場合において、なされない。個体発生の過程では、もし遺伝子欠損があれば、たいていの場合は、(流産という形で)個体発生が失敗する。あるいは、生まれた個体に、重度または軽度の遺伝子病を引き起こす。……ただし、ごく稀に、バックアップ遺伝子が働くことがある。著者は、そのごく稀な場合にだけ着目して、「動的平衡」という言葉で呼びながら、生物において例外的な現象を、生物の本質と見なす。 …… ★
すぐ上の ★ のことを「動的平衡」と呼ぶのは、ほとんどペテンに近い。(1)ではないものを(1)の名称で呼ぶからだ。
なるほど、 (2) の遺伝子補償という現象は、著者の実験した例(GP2というタンパク質の場合)には、たしかに起こった。しかし、その現象が起こったのは、非常に稀な例だ。たいていの場合には、遺伝子欠損は、何らかの異常を引き起こす。
( ※ 現実には、その異常が隠蔽されることもかなり多い。というのは、染色体がペアになっているからだ。とはいえ、それはまた別の話。)
要するに、著者は、自分の実験が狙い通りに行かなかった例外的な現象に、その理由を、「ツキがなかったので、例外的にハズレちゃったんだ」とは思わずに、「これはあらゆる生命に共通することであり、生命の本質なのだ」と勘違いしたのだ。
仮に彼が、GP2というタンパク質の遺伝子ではなく、別のタンパク質の遺伝子で研究をしていたら、「遺伝子欠損は、通常、何らかの問題を引き起こす」ということに気づいたはずだし、そうすれば、「(2) が生物の本質だ」というような、へんてこりんな結論を出すこともなかったはずなのだ。
──
では、正しくは? すでに述べたとおりで、こうだ。
「 (1) は、そのまま受け止めていい。一方、(2) は、生命の本質でも何でもない。ただの例外的なことにすぎない。その例外を、一般原理だというふうに記したところに、彼の誇張がある。まったくの嘘というわけではないが、例外を一般だと言いくるめるという意味で、ほとんど嘘に近い。素人や初心者を惑わせるという意味で、ひどく有害である」
( ま、この点だけね。)
──
さらに本質を探ろう。
著者はなぜ、こんな勘違いをしたのか? 笑点の「そのこころは?」というふうに、落語か漫才でもやりたかったからか? いや、違う。
その根本は、彼の詩的精神にある。まず、こういう問題を立てる。
「生命の本質とは何か?」
彼はこの問題を立てて、しきりに答えを探ろうとする。なるほど、それは、科学の分野における「夢見る詩人」の態度だ。そして、それに答えようとして、こう答える。
「生命の本質とは、動的平衡だ」
ここで、とんでもない勘違いをしてしまった。では、なぜ?
それは、そもそも、彼があまりにも遠大な問題に答えようとしたからだ。自分には答えられない問題に、無理やり答えようとしたからだ。たとえてみれば、19世紀の数学者が、フェルマーの大定理を証明しようとするようなものだ。とうてい無理な問題に取り組んで、誤った解答を引き出す。
では、彼は、どうすれば良かったのか? もちろん、無理な問題を立てなければ良かった。「生命の本質とは何か?」などと、考えなければ良かった。それよりむしろ、生命の現象として、
(1) 動的平衡
(2) 遺伝子補償 (例外的な例)
という二つの事実を、それぞれ別個に記せば良かった。その両者に無理やり共通点を探ろうなんていう、こじつけみたいなことをしなければよかった。そうすれば、「そのこころは……です」という落語的な解答をしないで済んだはずだ。
しかしながら、彼の詩的精神のせいで、何としても文学的に美しく表現したくなったので、ついつい、虚偽を記してしまった。
──
まとめて言おう。
本書は、個々のエピソードは、大事な知識などが記されている。また、とても面白いし、興味深いし、素人の興味を引きつけるだろう。だが、その長所が、逆に、短所ともなっている。「面白い話題を探ろう」「真実を探ろう」「美しいものを探ろう」という気持ちが、逆に、「美しい偽物」を呈示するに至っている。著者の文筆の冴えが、逆に、同書を科学書としては欠陥品にしてしまっている。(文学書としてならば面白いが。)
だからこそ本項は、読者に警告する。「同書を丸飲みするな」と。
ここに書いてある個々の事実(エピソード)は、そのまま信じていい。しかし、「生命とは何か」という大問題についての主観的文章は、ただの個人的主観による与太と見なして、聞き流すべきだ。また、「遺伝子は欠損していても大丈夫だ」などというふうに飛躍した結論を出している点も、聞き流すべきだ。(それは「一事が万事」であるにすぎない。一例を見て、あらゆることに適用する、という拡大解釈。とんでもない誇張であり、虚偽である。)
とはいえ、良質な欠陥品は、凡庸な無欠陥品に勝る。美点と短所をともに含むものは、どちらをも含まないものに勝る。その意味で、本項は、同書を読むことをお勧めする。(丸飲みしなければ。)
とにかく、「生命とは……」とか「……動的平衡だ」とかいう結論部分を除けば、同書は良書である。
つまり、核心ないし心臓だけはダメだが、それ以外は良い、というわけだ。脳のない生物のようなものか。一番大事なところは駄目だが、それ以外は良いので、同書は(おおむね)良書である。
ただし、丸飲みすると危険なので、本項で補正すればいい。要するに、「同書を読んで、本項で補正する」というふうにすれば、完璧。「同書は間違いを含むから読まない」というのは、最悪。(そういうふうに肝っ玉の小さい人は、この世を生き抜くことはできない。)
なお、同書の間違いを他山の石として、次のような教訓を得ることもできる。
「真実を強く求めるのはいいが、自分がたまたま得た部分的真実を、絶対的真実だと思い込んではならない」
このことは、他人がやっているのを見ると笑いたくなるものだが、誰しも自分でついついやってしまいがちなものだ。同書の著者がそうである。野口英世のやったことを、哀れな猿のごとく記述しているが、自分自身が、まったく同じことをやってしまっている。それでいて、自分では気がつかないで、「自分は真実を発見したのだ」と思い込んで、天狗になっている。
人は誰しもそういうものなのだ。だから、それを避けるには、「自分は誤っているのではないか?」と、常に自問自答して自省する必要がある。逆に、自分のやったことを美化しすぎてはいけない。
──
一般に、自分の見出したものが真実であるためには、その前に、他の可能性を膨大に探っている必要がある。何千もの試行錯誤のすえに、ようやく一つだけの真実が見つかる。
しかるに、この著者は、そうはしていない。自分の実験結果というただ一つの体験から、一挙に「一事が万事」という飛躍をなしてしまっている。ここでは自己への反省が欠けているのだ。
「生命の本質は動的平衡だ」
という仮説を唱えたいのであれば、それに並ぶ仮説を千通りも考える必要がある。思考の試行錯誤が必要だ。しかし著者は、その多大な手間を経ていない。そのせいで、しょせんは、仮説はただの「思いつき」になってしまっている。千の仮説のうち、999は捨てられるのだが、その999のうちの一つが今回の仮説なのだ、ということに気づいていない。
真実を得るための道は、美しい文章を書くことでもなく、直感で美しいものを探り当てること(だけ)でもなく、まず千の試行錯誤をすることなのだ。その手間を惜しむ限りは、とうてい真実には達せない。
この本は、そういう「陥りやすい失敗」の例を見事に示している。その意味で、人々にとって「他山の石」となる点でも、読む価値がある。
そもそも、この著者は、特別に頭が悪いわけではない。むしろ、普通の人よりも、はるかに頭がいい。だからこそ、多くの人々にとって、学ぶべき点が多いのだ。「アインシュタインの失敗と成功に学ぶ」なんてことは、普通の人には無理だが、「この本の著者の失敗に学ぶ」ということは、多くの人にとって有益だ。人は誰しも失敗するんですからね。
──
なお、同書から得られる教訓を言えば、こうなる。
「わかってもいないのに、わかっているかのように書く」ということを、同書はやっている。いかにも修辞が巧みだし、そのことで売れる本を書ける。そのこと自体は、別に悪くはない。(面白いだけ良いとも言える。)
ただし、著者はそれでいいが、読者はそれではいけない。著者は「わかってもいないのに、わかっているかのように書く」のだが、読者は「わかってもいないのに、わかっているかのように思う」というふうになってはいけない。それでは、だまされていることになる。
わかってもいないのに、わかっているつもりになるのは、楽しいことだ。馬鹿が利口になった気分になれるからだ。実際、この本を読むと、読者は利口になった気分がする。しかし、利口になった気分になれるが、実際には利口になってはいないのだ。実際には何もわかっていないのだ。
だから、「わかっているつもりになる」のではなく、「自分は何もわかっていない」と理解するべきだ。「自分はまだ無知なままなのだ」と理解するべきだ。
だが、私がそういうふうに語ると、読者は不快になる。「あなたは利口ですよ」と甘く語る言葉は心地よいが、「あなたは何もわかっていませんよ」と語る言葉は苦い。そんな言葉は聞きたくない。しかし、その言葉を聞かない限りは、いつまでも夢を理解するばかりで、真実には達しえないのだ。
はっきり言っておこう。同書を読んでも、読者は生命の本質については、何一つ知ることはできない。できることは、生命の本質ではないものを、生命の本質だと錯覚することだけだ。そして、同書は、この錯覚を心地よい言葉で語ってくれる。甘い虚偽を与えて、陶酔させてくれる。そこで、本項で私は、「甘い虚偽でなく、厳しい真実を知れ」と告げる。
とはいえ、耳に苦い言葉は、誰しも聞きたくないものだ。本項を読んでも、読者はたぶん、楽しい感じはしないだろう。だから、楽しい感じだけを求めるのであれば、本サイトを読むよりは、むしろ甘い虚偽のたっぷりとある小説でも読んでいればいい。そこには真実のかわりに、甘い虚構がある。
[ 余談 ]
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( ※ この本を買うべきかどうかと言えば、冒頭にも述べたとおり、「買うべし」である。この本は、一つだけ難点があるとしても、美点もいろいろとある。……美点がどういうことかを、ここに記すつもりはありません。それは、読んでみてからのお楽しみ。読書の楽しみを奪うのは、不粋ですからね。)
《 ※ 本項は次項に続きます。 「生物とは何か?」という問題への正解は、次項以降で示されます。》
【 後日記 】
このあとシリーズが長々と続くが、最終的な結論は次の箇所にある。
→ 生物と遺伝子 (その1 〜 3)
( ※ いきなりここに飛んでも、わかりにくいと思う。
とりあえずは、次項から順々に読んでほしい。)
福岡さんが自分で調べたわけじゃなくて、孫引き(みたいなもの)です。元ネタは、
「ダークレディと呼ばれて」
という題名の本に詳しく書いてあるとおり。福岡さんはその本の訳者だから詳しく知っているわけ。原著者はブレンダ・マドックスですが、その名前を出していないし、参考文献にも書いていないので、ちょっとずるいですね。業績泥棒とは言わないが。人のことを言えたもんじゃない、という気もしますね。
なお、同趣旨の本に
「ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光」
という本もありますが、この本の出版社は草思社です。立派な本を出す出版社はつぶれて、二番煎じの本を書く人の方ばかりが大儲けするわけ。
閉鎖系における化学反応では、自由エネルギーがゼロとなって反応が終結します。それ以上は変化が起こりません。これを「化学平衡」と言うわけです。
それに対し、開放系である生物では、常に外部から新たなエネルギーが獲得され(根源的には光合成による太陽の光エネルギーの化学エネルギーへの変換による)、(単細胞であれ多細胞であれ)生物個体(をひとつの系と看做す)内の化学反応=生化学反応の総体としては、自由エネルギーがある一定のレベル=一種の平衡状態を維持します。このことを(非生物系の化学平衡に対して)「動的平衡」と表すのだ、と理解しています。
# もっとも、私は「動的平衡」という言葉の提唱者の原著を読んだわけではありません。私なりの、生物を観察していて得た「生命の本質」の概念です。
# 生物が化学平衡に達する(様に動的平衡が崩れる)ことを「死」と表現できるでしょう。
おそらく宇宙全体は巨大な閉鎖系であり、宇宙全体としては自由エネルギーを減少させながら化学平衡へ向かっているのでしょうが、その中で局部的に自由エネルギーを増大させる(もしくは維持する)「システム」として構築された存在が「生物」と言えるかもしれません。
そうすると、恒星なども「生物」の内に入るのか?というような議論にもなりかねませんが、一般に(また、ここでの話でも)「生物」という言葉は、我々人間自身を含む「地球上の有機生命体」のことを指すことを意図していると思いますので、その範囲では「動的平衡」が生物の最も普遍的な特徴、と言っても良いのではないか、と考えます。
DNAを始めとする遺伝物質は、確かに現生生物にとって非常に重要なものですが、(地球上の)生命の起源を考えた時、必須の構成要素であったかどうかは疑わしいと思います。(自由エネルギーの維持という意味での)「動的平衡」には遺伝物質は“直接的には”関与しません。むしろ、遺伝物質は「物質の置き換え」に重要な(ほぼ必須の)役割を果たします。
もっとも、「物質の置き換え」が可能になったからこそ、「動的平衡」をもたらすシステム自体の維持も容易になり、現在に続く生物の繁栄をもたらされたと思いますが。
それだと、生物的な成長までが当てはまってしまいます。「平衡」という用語と矛盾します。
上記引用部の概念は、同書で示された「エントロピーの減少」のことでしょう。
「エントロピーの減少」の件については、数日後に言及します。
はい、その通りです。「生物はなぜ生長(成長)するか」の本質がそこにあると考えています。
生物系の「動的平衡」は厳密な意味での平衡(状態が変化しない)を意味しないと思います。
別の言い方をすれば、エネルギーの収支がプラスマイナスゼロ(=動的平衡)であれば、理論上は生物は生存を続けることができますが、環境要因等の変動によるエネルギー吸収/放出の増減により収支がマイナスとなることを考慮すれば、平均値としての収支は多少プラスになっている必要があったと思われます。そして、そのようになっている生物が、結果として現在まで(進化しつつ)生き延びて来たと考えられます。
エネルギー収支上の余剰は、生存確率を高めますが、一方で、余剰のエネルギーは物質化して蓄えられますので、生物量を増やすことになります。その結果、細胞は巨大化して行くことになります。細胞の巨大化は、構造学的な問題(物理強度の点で構造の維持が難しくなる)と同時にエネルギー的な非効率も生み出します(例えば体積に対する表面積の減少)。その結果、細胞は分裂をする(ことによって元の大きさを回復する)必要が生じます。と言うよりは逆に、円満に(娘細胞が生存を続けることができるような形で)分裂をすることができた細胞(生物)が進化的に存続できた、と言った方が適切でしょうが。
なお、内部エネルギーが一定の場合、「自由エネルギーの増加」と「エントロピーの減少」はほぼ等価の意味を持つと思いますが、生物において重要なのは、エントロピーの大きさではなく、自由エネルギーの方です。
「ダークレディと呼ばれて」
それよりもっと前の元ネタは、ロザリンド・フランクリンのパリ時代の友人(アメリカ人)がWatosonの"Double Helix"にむかっ腹を立てて書いたAnne Sayre”ROSALIND FRANKLIN and DNA" W.W. Norton & Company, New York (1975)でしょう。
この本が出版されたとき、わたしは、異常ヘモグロビンのX線解析をやっていた友人からこの本についてどう思う?と電話できかれ、早速買って読みました。当時のニューヨーク・タイムスの書評や切抜きも持っています。ワトソンが有名すぎて、Anne Sayreの本はあまり問題にならなかったが、ロザリンド・フランクリン再評価のさきがけになったのはこの本だと思います。
MOKUMOKU(ニューヨーク在住)
Methods in Enzymologyはオリジナル(未発表)の論文を発表する科学雑誌ではありません。生科学研究のための実験指導書で、分厚いハードカバーの本です。そこに書かれているものは「論文」ではありません。PCRを利用する研究者が増えたので、出版社が原稿料を著者に払って書かせたものです。(科学雑誌に論文書いても稿料は1円ももらえません)
「生物と無生物のあいだ」の114ページを読んだとき、「ここに三冊の書物がある。・・・」という記述があるのだが、そこに"ROSALIND FRANKLIN and DNA"と"ROSALIND FRANKLIN THE DARK LADAY OF DNA"(たぶん、日本語訳は「ダークレディと呼ばれて」がないので、たぶん管理人さん同様、わたしもあれと思って、古い本棚から30年以上前に読んだAnne Sayreの本を出してきて再読し始めたら、興奮して朝までかかって読んでしまった。福岡氏の記遜とあまりに似ているので、3人の共犯者(ワトソン、クリック、ウィルキンス)らと同様「剽窃」という言葉が頭をかすめた。Brenda MaddoxはAnne Sayreの本を何度も引用しているから、福岡氏がAnne Sayreの1975年の著書を読んでいないはずがない。やはり、引用すべきだね。
「生命の本質とは、自己複製である」
「生命の本質とは、動的平衡である」
じゃあ会社や国家も生物なのですか?
生命の本質が当てはまりますよ。
確かにウィルスよりは生命っぽいですけれどね。
何か勘違いしているようですが、その見解は、福岡さんの見解なのですから、福岡さんに言ってください。
なお、私の見解は別のページに書いてあるとおり。福岡さんの見解については支持しません。どちらかと言えば、否定している。
いずれにせよ、見当違いのコメントを書かないでください。本サイトに書くのはお門違い。
本書を読んで、前半は面白かったが、後半 気持ち悪かったのはそういうことだったのですね。
勉強になりました。
ただ一つ気になったのは、福岡氏はいくらなんでも遺伝子補償をすべての場合に当てはまるなんてことは考えていないと思います。
彼は遺伝子ノックアウトマウスをたくさんつくって実験していましたが、そのいくつかで有意な結果を得ていました。
いくつかの実験の中の一つとして、「何も起こらなかった」という結果について考察しているにすぎません。
本項の見解は、「動的平衡」という用語の二つの概念をきちんと区別するべきだ、ということです。
この区別をしないまま「生命の本質は動的平衡だ」というふうに表現すると、あなたの懸念しているような意味が生じてしまいます。
それゆえ、用語の区別が必要なわけです。福岡氏は、意識的に二つの概念を混同しているとは思えませんが、無意識的に区別し切れていないところがあります。そこを「はっきり区別するべきだ」と指摘したのが本項です。
福岡氏を批判しているというよりは、読んだ読者が誤解しないようにガイドを示しています。
その核心をついた書評に出会えたので、とても嬉しいです。
当人の書籍を、読み進めていく内に、この人は表現力豊かな評論家だけど、
独自の思想と実績があまり無く、興味のあることを強引に繋げているだけなのかも?
インシュリンの放出に関する膜タンパク質が欠損したノックアウトマウスと、動的平衡を
結び付ける行は、科学者の端くれにも値しないんじゃないのかな?
> 生物学者の福岡伸一さんが打ち出した考え方に「動的平衡」がある。生きものの体は、栄養素が通り過ぎる「流れ」のようなもの。体内で絶え間なく分解と合成が続いており、同じ人でも1年もたてば、分子レベルではまるで別人だという。
→ http://www.asahi.com/articles/DA3S13061370.html
これはとんでもない勘違い。動的平衡は、
「福岡伸一さんが打ち出した考え方」
ではない! シェーンハイマーが打ち出した考え方だ。福岡伸一は、それを紹介しただけだ。
天声人語の著者は、本を読まなかったのだろうか? あるいは、読んだあとで、間違って記憶していたのだろうか? いずれにしても、書く前に確認するべきなのに、それができなかった。
ひどいものだ。
※ できれば「正誤訂正」するべきだ。ただ、朝日新聞には、「間違いの指摘を受け付けます」という専用の受付場所はない。連絡するのも面倒だ。