次のように説明されることが多い。
・ 「ご苦労様」 …… 目上の人が目下の人に言う
・ 「お疲れ様」 …… 目下の人が目上の人に言う
では、この区別は、本当に正しいか? ──
まず、現実の実態としてどうなっているかというと、確かに、そういう習慣がある。
問題は、それが国語学的に正しいかだ。
──
歴史的に見ると、そんな用法は見出されなかった。この用法は、近年になって急に出現したものである。したがって、「どちらが正しい」というようなことは、国語学的には言えない。単に「社会習慣的にそういうことがある」というふうにしか言えない。
しかし、それだけでは、話は面白くない。国語学的には、どう見なすのが正解か?
──
国語学的に言おう。この二つはどちらも「ねぎらい」の言葉である。そして、ねぎらいというのは、そもそも、上位の者が下位の者に施すものだ。
ゆえに、課長が部下に対して、
「ご苦労様」
「お疲れ様」
と語るのは、どちらも問題ない。そこには確かに、ねぎらいの意がある。(「目上の者が目下の者に語ったから誤用だ」と主張するのは、勘違い。)
では、部下が語るときは?
「ご苦労様」
「お疲れ様」
は、どちらもねぎらいの言葉であるが、そもそも、部下が上司にねぎらいをかけるということが、本質的に、出過ぎたことである。分をわきまえないこと、と言える。
だから、正解は、「どちらも語らない」ということだ。部下にはねぎらう資格がないのだから、ねぎらいの言葉をかけるべきではないのだ。
比喩的に言おう。
あなたが家庭に帰る。すると、娘が努力して、テストで百点を取っていた。あるいは、何らかの表彰を受けた。そのときは、あなたは娘に、「よくやったね」「がんばったね」とねぎらうといい。
しかし、娘の方があなたに対して、「そんなに稼いだの。よくやったね。頑張ったね。褒めてあげるよ。よしよし。頭を撫でてあげる」などとねぎらうのは、分不相応である。差し出がましいと言うべきだ。
むしろ、娘としては父親に対して、「働いてくれて、ありがとう」と感謝するのが正しい態度だ。
( ※ 娘の態度が間違っていたら、正してやるといい。それが教育だ。)
──
結論。
「ご苦労様」も「お疲れ様」も、ともにねぎらいの言葉である。それらはともに、目上の者が目下の者にかける言葉である。
ゆえに、こう言える。
目上の者が語るときには、どちらの言葉を使ってもいい。
目下の者が語るときには、どちらの言葉も使ってはならない。ねぎらいよりは、むしろ、感謝(など)の言葉を語るべきだ。会社ならば、上司に黙礼するだけでもいい。いずれにせよ、ねぎらいをかけるというのは、分不相応の、出過ぎた生意気な真似である。
──
国語学的には、以上のようになる。
しかしながら、ビジネスの現場では、国語を理解しない阿呆が多いので、
・ 「ご苦労様」 …… 目上の人が目下の人に言う
・ 「お疲れ様」 …… 目下の人が目上の人に言う
という常識(?)が幅を利かせている。嘘も普及すれば真実になる。嘘から出たまこと。(?)悪貨が良貨を駆逐する。ゾンビが真人間を駆逐する。
というわけで、現状では、デタラメ(間違い)が標準的である。そういう世の中で生きるときには、真実を語ると、排除される。
だから、まわりの人がみんな間違いをしているときには、あなたもまた間違いをするのが、この世の処世術である。
大事なのは、真実を語ることではなくて、間違いばかりを語る阿呆に合わせることなのだ。「こいつらはバカだなあ」と思いながら、そういうバカに合わせて、あなたも間違い表現を使えばいいのだ。……そうすれば、世の中を楽に生きていける。
[ 付記 ]
私だったら、どうするか?
上司の立場で部下に語るときには、「お疲れ様」「ご苦労様」と語ることもあるかもしれない。(ただ、どうせ語るなら、「ありがとう」「よくやってくれたね」と語りたい。)
部下の立場で上司に語るときには、「お疲れ様」「ご苦労様」と語ることはない。言いたくもないし、言う気もない。(黙礼するだけ。)
基本的には、私としては、どちらも語りたくない。こういう馬鹿げた挨拶みたいなのは、したくないですね。必要な挨拶は、「おはようございます」だけだ。「お疲れ様」「ご苦労様」は、無意味な挨拶、という感じ。
こういう言葉を聞いて、嬉しく思ったことなど、一度もない。言われたことはさんざんあるが、いつも「バカにされた」という気がするだけだ。
いや、相手は本当に、馬鹿にしているのかもしれないが。。。。。
[ 余談 ]
なお、私が上司として部下を採点するときは、私に向かって「お疲れ様」でも「ご苦労様」でも、いちいち口に出すうるさいやつは、減点してやりたい。黙って仕事をする部下に、高評価を与える。男は黙って仕事をしろ。
(あなたの上司はどうか? やはり「男は黙って仕事をしろ」と思っているか? いや、あなたの上司は、「お疲れ様」と言われて喜ぶ阿呆かも。つまり、痴れ者ですね。お痴れ様。)
【 追記 】
どうしても何か挨拶をしたいのであれば、お勧めの言葉は?
「お先に失礼します」略して「お先に失礼」さらに略して「お先に」である。偉い人ほど、略すことが可能で、下っ端ほど、略せない。
ただし。私にとって理想なのは、終業ベルが鳴ると同時に、「終わりだー」と叫んで、いっせいに帰宅することだ。

これなら、挨拶の必要もないしね。
【 補足 】
「ねぎらう」という言葉について、補足を追記しておこう。
「ねぎらう」とは、どういうことか? 次のことだ。
「目上の者が目下の労を認めて、言葉をかけてやること」
ここでは、目上の者が「言葉を与えてやる」わけだ。というのは、その言葉が目下の者にとって価値があるからだ。
お殿様が「ご苦労」という言葉をかけてやるのは、お殿様の言葉が目下の者にとって価値があるからだ。
親が子供に「よく頑張ったね」という言葉をかけてやるのは、親の言葉が子供にとって価値があるからだ。
目下の者は、目上の者から言葉をかけてもらうことで、そのお心をいただく。ここでは、言葉自体よりも、言葉を通じて「お心をいただく」ということが、目下の者にとってはありがたいわけだ。
逆に言えば、ここでは、「言葉をかけてやる」立場のものが、目上であることが、前提とされている。お殿様が目上であることも、親が目上であることも、あらかじめ前提とされている。
では、前提とされていないときには? その場合には、語った者が「自分は目上の者である」と暗示していることになる。「おれ様の言葉は、おまえのような下等な野郎にはありがたいはずだ。だからその御言葉を恵んでやる。ありがたく思え」ということが暗示されている。
そもそも、言葉には、何の価値もない。宝石や現金をもらえるのならば、ありがたくいただくが、ただの言葉など、何の価値もない。しかし、相手が目下の者であるときに限って、自分の言葉には価値があることになる。
だから、ねぎらいの言葉をかけるときには、暗黙裏に「おれ様はおまえよりも偉いんだ」ということが含意されていることになる。そうでなければ、自分の言葉をかけるということなど、恥ずかしくてできないはずだ。
たとえば、私は、自分のかけるただの挨拶言葉など、何の価値もないとわきまえているので、そんな無価値な言葉を上司にくれてやるという失礼をしない。自分の言葉は、相手にとって貴重な価値がある、などとは自惚れない。それゆえ、自分の言葉をくれてやること(ねぎらうこと)はしない。
しかしながら、「自分の言葉には素晴らしい価値があるんだ」と思い込んでいる自惚れ屋は、「この言葉をもらった相手は喜ぶだろう」と思い込んだあげく、その言葉をくれてやろうとする。「ほら、おれ様の言葉をくれてやるんだ。だからあんたは喜ぶだろう」と信じて。……こういう厚顔無恥な連中が、上司をねぎらうという恥知らずなことをなして、平然としていられる。まったく、あつかましいというか、自惚れているというべきか。
で、そういう あつかましい連中の 無価値な言葉をもらって、たいそうなものをもらったと誤解して、「ありがとうございます」と喜ぶ阿呆な上司もいる。そこで、冒頭に述べたような、おかしな慣習が広まることになる。
なお、事情は、同輩同士でも同様だ。ただの同輩のくせに、「おれ様の言葉をもらってありがたく思え」というつもりで、言葉をかけてくるやつがいるとしたら、そいつはまったくあつかましい。「自分を何様だと思っているんだ」と言ってやりたくなる。
それでも、ねぎらいの言葉は、けっこう社会に広まっている。
ゴミを差し出す阿呆と、ゴミをもらって喜ぶ阿呆。同じ阿呆なら、言わなきゃ損損、とでも思っているのだろう。やってられんわ。
《 注記 》
「敬語」との関係で言うと、「ねぎらい」は「逆転の敬語」とも言える。
つまり、上位の者が下位の者に、いたわりの感情を示す、ということだ。
通常は、下位の者が上位の者に、敬意を示す。これが「敬語」である。
しかし、例外的に、上位の者が下位の者の労をありがたく思って、いたわりの感情を示すことがある。それが「ねぎらい」だ。
だから、「ねぎらい」は、決して「敬語」ではない。むしろ、「敬語の逆」だと思った方がいい。気持ちとしては、感謝のような気持ちなのだが、言葉としてはあくまで、「目上の者が目下の者にかける」という表現である。それを「敬語の一種だ」と思うとしたら、とんでもない勘違いだ。
【 注釈 】
最後に、本項の意図を注釈しておこう。
さんざんイヤミを書きすぎたので、「イヤミを言うことが目的か」「他人を馬鹿にすることが目的か」と思われそうだが、そうではない。(「嘘つけ!」と言われそうだが。 (^^); )
ま、多くの職場で、潤滑剤のごとく「お疲れ」「お疲れ」と言い合うことが多い。そういう習慣自体を批判しているわけでもないし、また、そういう人々を馬鹿扱いして喜んでいるわけでもない。
私としては、「言葉の本来の意味」という真実を示す、というのが、第一の狙いだ。
その上で、「言葉の本来の意味」を離れて、ただの職場の潤滑剤のごとく、無意味な言葉が使われていること(しかも誤用として使われていること)を、嘆かわしく思う。
ここでは、人々を馬鹿にするというよりは、日本語が歪められていることを悲しく思う。ま、世の中には、「言葉は生き物だからどんどん変わる」という主張をして、誤用を正当化する人々もいる。しかし私としては、「間違いも多数になれば正解になる」という態度は好きではない。そういう風潮があることは確かだし、私が一人で文句を言ってもどうにもならないことだとは思うのだが、ただ悲しく思うのである。それはいわば、美しい女性が妙な化粧で歪められていくのを見て、悲しむのに似ている。「せっかく美しいものをわざわざ歪めることもないのに……」という悲しみだ。
本項の意図は、そういう慨嘆にある。誰かを批判することが目的ではない。誤解しないようにしてほしい。
【 補説 】 ( 2009-12-25 )
部下は上司に、ねぎらいの言葉をかけてはならない。そのわけを示そう。
仮に部下が上司にねぎらいの言葉をかけるとしたら、どうなるか? 部下は多数で、上司は一人。一人の上司に、多数の部下から、多数の言葉が襲いかかることになる。上司が班長ぐらいなら、まだいい。五人ぐらいの部下がいるから、五回ぐらいの言葉がかかるだけだ。しかし課長なら、十数人がいるから、十数回もかかる。部長なら数十人ないし百人がいるから、数十回ないし百回もかかる。専務なら千回。社長なら一万回。……こんなに多数の部下から、いちいちねぎらいの言葉がかかる。そうなったら、仕事にならない。邪魔なだけだ。業務妨害である。
だから、社長にねぎらいの言葉をかけるような新入社員がいたら、ぶんなぐられても仕方ないぐらいだ。クビになっても文句は言えないね。常識はずれすぎる。
一方、上司が部下にねぎらいの言葉をかけるとしたら? この場合は、一人の上司が多数の部下に、いちいち一人一人にねぎらいの言葉をかけることはない。そんなことをやっていたら、仕事にならない。
では、どうするかというと、特別な場合に特別な人にだけ、ねぎらいの言葉をかける。たとえばお殿様が家来に「ご苦労であった」と言葉をかける。
そして、その場合には、その言葉に特別な意味合いがあることになる。だから家来は、いたく感謝する。「かたじけない」と思って。
( ※ なお、お殿様が家来に言うときは、正しくは「苦労」と言うとのことだ。なるほど。殿様が家来に敬語を使うわけがないですね。)
なお、ついでに一言。
「ご」や「様」は敬語だが、「苦労」や「疲れ」は敬語ではない。「ご苦労様」や「お疲れ様」は、全体としては、敬語とは言えない。ただのねぎらいやいたわりである。
「ご苦労様」は、元は「ご苦労でしたね」で、使役をさせた側が使役をさせられた側にかける言葉だろう。内閣総理大臣が、外遊から帰った天皇に「ご苦労様でございました」と語ったという例があるそうだが、不思議ではない。天皇は(実質的には)使役をさせられた側だからだ。
「お疲れ様」は、元は「お疲れでしたね」で、帰宅した夫に妻がかけたりする言葉だろう。いたわりの言葉である。これは、妻が専業主婦ならいたわりの意があるが、妻も同様に共働きをするのだと、なんだかイヤミに聞こえる。「あたしの方が疲れているのに、あなたは家事もしてくれないのね。本当はあたしの方が疲れているんだけど、口でごまかすだけで、家事を手伝ってくれないわけ?」というふうに。
いずれにせよ、ねぎらいやいたわりは、背景となる事情に基づいて、特別な意を示すためにある言葉だ。挨拶の言葉ではないし、敬語でもない。これらの言葉を挨拶や敬語のつもりで使うと、誤用となり、イヤミな感じに聞こえてしまうだろう。
たとえば、職場の同僚に「お疲れ様」と言われると、「おまえのために働いたんじゃないよ。それとも、何だ? おまえのために働け、というつもりなのか?」という気がする。だから侮辱された感じを受けるものだ。言葉の本来の用法からすれば、そう感じるのが当然だ。一方、帰社した上司に、秘書が「お疲れでしたね」とお茶を出したなら、上司は「ありがとう」と答えるだろう。仕事上の仲間同士としての共同者意識を感じるからだ。ここでは「二人でいっしょに働いている」という感じがする。……このときの言葉は、挨拶でもなく、敬語でもない。まさしくいたわりの意があるから、言葉に身がともなう。ひるがえって、口先だけの挨拶ふうの「お疲れ様」なんて、空っぽな言葉である。こんなものを聞いて喜ぶ人は、あまりにもおめでたすぎる。口先だけのお世辞を言われて喜ぶのと同様だ。
( ※ 太った人が「スマートですね」と言われたら、侮辱されたような気がして、不愉快になるだろう。中身のない空疎なお世辞というのは、侮辱に近いものだ。)
上司に、「失礼します。」と返事しています。
かなり奇妙だと思います。
さて、日常挨拶のお話なのですが、ある方が「おはようございます」が素直に言えるのに、「こんにちは」や「こんばんは」が社会生活において活用されていないのは、「ございます」を付けられないからだとおっしゃられているのを拝見いたしまして、なるほどと感心させられました。このお方が段階的考察により、新挨拶案を導き出されておりました。
素案 「ございます」 予想返答 「何が?」
次案 「私でございます」 予想返答 「それがどうしたの?」
次々案 「私を見て欲しいのでございます」 予想返答 「で、どうしろと?」
次々々案 「私を見て、あとはあなたの好きにしてほしいのでございます」 完璧
起案は良かったのですがどうも途中から笑いを取りにいっておられまして、ご本人もおっしゃっていますが妙齢の女性からは言われてみたい気持ちもありますけれども、常識的に言ってもこれは少し無理があると思われましたので、素案から少し考え直してみたいと思います。
単純に、「こんにちは、こんばんは」に、「ございます」を直接付けられないかというところですが、普通、この前にくる言葉は、「おはよう」とか「ありがとう」または「暑う、寒う」という具合に「う」で終わっていないとダメたいです。または「で」とか「に」が間に入る場合もあるかと思うのですが、「こんばんはでございます」と言うのも日本語としてはやや変です。やはり言葉の素性を確かめないと話を前に進めることができないようです。
まずは問題の「ございます」ですが、これは「ある」とか「ござる」などの丁寧語であることから、「ありがとうございます」などのように自分の状況を言うときにに使う、または「暑うございますね」というように相手と共有している状況を言うときに使うことになるのでしょう。たいして相手の状況を言うときには「お元気で」+「いらっしゃる」などの尊敬語でないと具合が悪いものと思われます。よって「おはようございます」という挨拶は、「お互いに朝の早い時間を共有していますね」といった感じの意味あいではないのかなと思うのであります。
ところが「こんにちは」や「こんばんは」は、どうも様子が違うようでして、何かが省略されていることはわかりますが、まずそれが何なのかがよく分かりません。
「今日は、お勤めご苦労様。」
「今日は、ご機嫌いかがですか。」
「今日は、いい天気ですね。」
これでは、略されている言葉によって使うべき敬語が違ったりして一概に「ございます」が使えず大変煩雑な話になると思いますので、ここはひとつ「おはようございます」になぞらえて考えてみることにします。
「こんにちは」 → 「お昼でございます。」
「こんばんは」 → 「お晩でございます。」
「お晩」は聞いたことがありますが、「お昼」についてはたいへん違和感があり、予想返答としてはそれこそ「何が?」ということになるでしょう。よく考えてみれば、「おはよう」は、「朝」ではなく「朝早い」の、「早い」ことを共有しているからこそ挨拶になり得るのであり、「昼、夜」に関してもそこら辺を考慮しなければなりません。
「こんにちは」 → 「ご最中でございます。」
「こんばんは」 → 「お遅うございます。」
公衆道徳上、不適切です。
これも、「お遅う」は分かってもらえそうな気がしますが、「ご最中」はいかんでしょう。どうも、「昼」が中途半端なのは昼間はみんな起きて活動しているのだから時間帯を思いやること自体が不自然なのでしょうね。ならば何を共有すればいいかということを考えたときに、「ご苦労」や「お疲れ」が出てくるのだと思います。ところがこれは南堂様のおっしゃる通り、上下関係や、使いどころに別の意味合いがありますので「労」を共有するにあたってはやはり「ございます」とつながる良い言葉を見つけ出せねばなりません。でも京都弁風に口にしてみると「お遅うございます」、もしくは「遅うございます」はなかなか良さそうな気がしますので、これは採用いたしましょう。残るは「こんにちは」です。
「お労(いたわ)しゅうございます。」 これも、使いどころが違います。
「ご精が出ます。」 これは実際に使われますが、実労がないとちょっと無理かと。
「ハツラツでございます。」
「労」を共有することがむずかしいのでしょうね。あるいはボキャブラリーが不足しているのでしょう。これは、違う角度から攻めないと落ちそうにありません。それに世界からみても、日本の挨拶として相応しくなければならないので、ここは素直に「今日は、いい日ですね」といった意味あいで考えてみたいと思います。
「吉日でございます。」
仏滅の日は挨拶ができません。
それでは天気などはどうかと言っても、晴れる日もあれば嵐の日もあります。これだと「ご最中でございます」のほうがましかも知れません。それに形容詞から選ばないと朝、昼、晩の並びも悪いので、「う」で終わるようにしてみましょう。
「お忙しゅうございます」
おー、これは。なかなか良くないでしょうか?
「しゅう」っていうのが慣れていないだけに少し違和感がありますが、「お互いに忙しいですね」というような感じがいたします。
ということで、以下、素案を提出いたします。
「おはようございます」 → 「おはようございます」、「おはよう」
「こんにちは」 → 「お忙しゅうございます」、「お忙しゅう」または「お忙しく」
「こんばんは」 → 「お遅うございます」または「遅うございます」、「お遅う」 (語呂が・・・)
こんな事をしながら朝の貴重な時間は過ぎ去って行くのです。お労しや。
部下が上司に声をかけたり、
先に帰るときに声をかけたりするのは普通だと思われます。
その時に対する返礼として
「お疲れ様でした」
ではなぜいけなのですか?
今はそういう日本語として成り立っているのだから、
その波に飲まれ、
それを使うべきと考えます。
そうしないと社会から取り残されます……。
一応私の古武術の師に習った見解を投稿します
お疲れ様もご苦労様も、基本的にねぎらいの語で、目上から目下ての言葉ではなく主から従への言葉
使い方としては、主→従の場合
疲れたであろう、疲れを癒せ、疲れさせたな、苦労をかけた、苦労であった、苦労大義、労をねぎらおう、などと使います。
このように「御」「様」を付けません。
*従に対して、敬意を払う場合「御」付ける
従→主へ向けては、「御」「様」を付け更に正姿勢で「礼」の動作をする
従→従
上司、部下共に「御」を付ける、但し部下は正姿勢でなくともよいが「礼」の動作をする
疲れと使う場合
役命上の仕事に対するのねぎらいの語
苦労と使う場合
役命上の仕事以上の働きや私事の働きに対するねぎらいの語
まぁ〜昔々のお話ですから、昔話程度に思ってください^^
私の所属している組織はこの国でも特に上下関係の厳しいところですが、下位の者は上位の者に対して必ず「お疲れ様です」と言うことになっています。
これは敬礼の一部となっているので決してねぎらいのニュアンス等ありません。
答礼では人によって「お疲れ様」か「ご苦労様」のどちらかを使われていますが。
実例はさておき、要はその言葉を使う人の気持ちが重要であるお思います。
上に立つ者であれ、下で働く者であれ、その立場なりの苦労があるのですから、相手に対する感謝の気持ちを込めた言葉であれば、喩え本来の日本語の用法と異なる言葉遣いをしたところで何も問題がないと思いますし、その言葉遣いが正しい日本語に変わっていくものだと思います。
長文、乱文失礼しました。
本人の意図とは別に、「言葉遣いは正しく使いましょう」という趣旨です。たとえば、「情けは人のためならず」という言葉を間違って使っている人がいるとしたら、その人に向かって、「おまえは間違えているぞ、馬鹿野郎」と文句を言いたいわけじゃありません。
「情けは人のためならず」という言葉を間違って使っている人が、日本全体でたくさんいるとしたら、そういう日本全体の風潮を悲しく思うのです。つまり、「言葉を大切に使いたい」というのが趣旨です。
> 本来の日本語の用法と異なる言葉遣いをしたところで何も問題がないと思います
問題はありますよ。たとえば、社員がそろって社長に向かって「お疲れ様」と言い出したら、社長は一日中、うるさくてうるさくて困ってしまいます。「部下は上司に、黙って頭を下げればいい。このページに書いてあるのをちゃんと読め」と言いたくなるでしょう。
たとえ善意であれ、独りよがりな思い込みは、傍迷惑です。言葉を正しく使うことは、礼儀を正しく使うことにつながります。本項の趣旨をきちんと読んでください。
実はこんにちは、こんばんは、お疲れ様とご苦労様には閉口しております。
こんにちは、こんばんは一現象(昼、夜)だけの捕らえ方で遣われております。教室で先生こんにちはとスローモーに言われるのには閉口します。
しかしこれも悪貨は良貨を駆逐するごとく蔓延してしまいました。
お疲れ様も貴殿のご説に大賛成ですが、これもいまや朽ち果ててしまいそうです。
その言葉で反論抵抗した結果JVNETという日本へ働きに行く人の為の日本語研修センターで失職の憂き目に合いました。しかしどんなことに遭おうが私見を通します。
> 現状では、デタラメ(間違い)が標準的である。そういう世の中で生きるときには、真実を語ると、排除される。
> だから、まわりの人がみんな間違いをしているときには、あなたもまた間違いをするのが、この世の処世術である。
でもそれなりの上の人からならいやな感じはしません。
北海道59歳 専業主婦