この件については、本サイトでも、前に述べた。
( → http://openblog.meblog.biz/article/45089.html )
ただし、これは、不十分かつ不正確なものであった。
そこで、全面的に書き直して、新たに明快な見解を示す。 ──
まず、本項の趣旨は、こうだ。
「三分類から五分類へという変更は、妥当ではない」
つまり、文化審議会の答申を否定している。
ただ、その結論は同じだが、その根拠は、旧稿とはまったく異なる。本項では、まったく別の理由から、三分類から五分類へという変更を否定する。
──
本項はかなり長い文章なので、最初に要旨を述べておこう。
文化庁の答申では、次の区別をする。
・ 尊敬語 …… 動作の主体が話し手よりも上位であることを表す語
・ 謙譲語 …… 話題中の動作の受け手が話題中の動作の主体よりも
上位であることを表す語
ここでは「動作」について、動作の主体と客体(受け手)との上下関係を示す。示すというのは、「意味的に示す」ということであり、「言語は何らかの意味をもつ」ということに裏打ちされた結論だ。
一方、私は、次のように主張する。
・ 敬語 …… 話し手が聞き手に対して敬意を表す。
ここでは、意味は関係ない。単に話している人が聞いている人に、敬意という感情を表現するだけだ。
たとえば、「くれてやる」「やる」「あげる」「さしあげる」は、意味的にはすべて同じだが、話し手が聞き手に向ける感情が異なる。このような感情を表すのが、敬語だ。そして、そこにおいては、話し手と聞き手の上下関係は、何ら意味されない。平等な友達同士で「くれてやる」と言うこともあるし、「差し上げます」と言うこともある。敬語それ自体には、上下関係の意味はない。単にそのときそのときで、話し手の敬意感情の有無があるだけだ。
「敬語とは、《 話し手が聞き手に向ける敬意 》を表す表現である」
これが本項の結論だ。そして、この観点から、文化審議会の答申を全面否定する。「文化審議会の答申は、敬語に対する間違った解釈である」と。
────
次に、三分類と五分類については、 Wikipedia の解説があるので、そちらを見てほしい。
→ Wikipedia 「敬語」
5分類 : 3分類
尊敬語 : 尊敬語
謙譲語 : 謙譲語
丁重語 : ↑(〃)
丁寧語 : 丁寧語
美化語 : ↑(〃)
※ 詳しい説明は、Wikipedia の記事を参照。
「上位を示す」という意味的な言葉が使われていることに注意。
──
さて。この分類で問題になっているのは「謙譲語」だ。
3分類では「謙譲語」と呼ばれたものは、5分類では「謙譲語/丁重語」という二種類に分割された。
ここでは、二通りの「謙譲語」という言葉が使われていて、まぎらわしい。そこで、これ以後、次のように用語を書き直す。(文化審議会の答申に従う。)
・ 「謙譲語」 …… 3分類の「謙譲語」のこと。
・ 「謙譲語 I 」 …… 5分類の「謙譲語」のこと。
・ 「謙譲語 II」 …… 5分類の「丁重語」のこと。
なお、具体的な例としては、「伺う/参る」がある。
・ 伺う …… 謙譲語 I
・ 参る …… 謙譲語 II
以上で、話の下準備を終える。
なお、以下では、次の三つの例文が話題になる。
「先生のところに伺います。」
「弟のところに伺います。」
「弟のところに参ります。」
このうち、2番目だけが不自然で、1番目と3番目は不自然ではない。「それはなぜか?」ということが、国語学界の話題となっていた。そのあげく、5分類という新学説が出て、これが文化審議会の答申に結実したわけだ。
────────────────
では、いよいよ詳細に論じよう。
まず、文化審議会の答申がある。次の pdf ファイルだ。
http://www.bunka.go.jp/1kokugo/pdf/keigo_tousin.pdf
ここから引用すると、次の説明がある。
謙譲語 I の場合,例えば「先生のところに伺います。」とは言えるが,「弟のところに伺います。」は不自然である。ここでは「伺う/参る」が区別されている。「伺う」は謙譲語 I であり、「参る」は謙譲語 II である。
これは,初めの例では<向かう先>である「先生」が「立てるのにふさわしい」対象となるのに対し,後の例の「弟」は「立てるのにふさわしい」対象とはならないためである。
謙譲語 I は,<向かう先> に対する敬語であるため,このように立てるのにふさわしい<向かう先>がある場合に限って使う。
一方,謙譲語 II の場合は,例えば「先生のところに参ります。」とも言えるし,「弟のところに参ります。」とも言える。
謙譲語 II は,<相手>に対する敬語であるため,このように,立てるのにふさわしい<向かう先>があってもなくても使うことができるのである。
「伺う」では、「先生のところに伺う」とは言えるが、「弟のところには伺う」とは言えない。(ここまではよい。)では、その理由は?
答申では、こう説明する。
・ 「先生」は「立てるのにふさわしい」対象となる。
・ 「弟」は「立てるのにふさわしい」対象とはならない。
そして、ここでは、その動作(行くという動作)の向かう対象が、意味的に「立てるのにふさわしい」かどうか、という違いがある。
そして、こういう違いがあるものが「謙譲語 I 」であり、そうでないものが「謙譲語 II 」である、ということになる。
──
まとめて見よう。
「先生のところに伺います。」
「弟のところに伺います。」
「弟のところに参ります。」
という三つの例文がある。このうち、2番目だけが不自然だ。その理由を、文化審議会は、こう説明する。
“ 「伺う」と「参る」は、もともと別の種類の敬語なのである。だから、一方は使用可能だが、他方は使用可能ではない。そこで、この使用可能性・使用不可能性をもって、敬語を区別するべきだ。”
と。
なるほど、もっともらしい発想だ。しかし、それはあまりにも言語学者のご都合主義にすぎない、という匂いがする。「そういう区別は可能かもしれないが、そんな区別をして何の意味があるのか?」という感じがする。「ただの分類のための分類ではないか?」という感じがする。「そんなことをして、言語学的な整理のほかに、何の効用があるのか?」と。
つまり、この分類は、あまりにもウサン臭いのである。
──
このウサン臭さは、次のことで明瞭になる。
文化審議会の答申では、「向かう相手」と「聞く相手」とを区別して、次のように見なす。
・ 「伺う」 …… 向かう相手を立てる
・ 「参る」 …… 聞く相手を立てる
一方、私の考えでは、敬語というものはすべて「聞く相手を立てる」ものだ。とすれば、「向かう相手を立てる」という解釈は、成立しないはずだ。
そこで、その例を考える。それには、
「聞く相手のところには向かわない」
という例を考えるといい。具体的には、次のような例だ。
「私はあなたに敬意を表するが、私の向かうところにはあなたはいない」
その例文としては、次のような例文がある。(私が、目の前にいる○○先生に話しかける。)
「それでは明日、お留守のご自宅にお伺いします」
「それでは明日、奥様のところにお伺いします」
この二つの例文ではいずれも、私が、目の前にいる○○先生に敬意を表している。しかしながら、私は、○○先生のところに向かうわけではない。私の向かうところには、○○先生はいないのだ。そこは、留守宅であったり、奥様の居場所だったりする。だから、「伺う」という言葉は、「向かう先」への敬意ではない。目の前にいる○○先生への敬意なのだ。
こうして、「伺う」もまた「聞き手への敬意」であることが判明した。「伺う」を「向かう先への敬意」と見なす解釈(文化審議会の解釈)は、正しくないのだ。(重要!)
──
では、正しくは? それを知るために、もっと本質的に考えてみるといい。
物事の根本に立ち返って、本質を考えよう。では、本質とは? 本項の冒頭に述べたことだ。詳しい説明は、冒頭を読み返してもらうとして、簡単に再掲すると、次のことだ。
「敬語とは、《 話し手が聞き手に向ける敬意 》を表す表現である。それは、意味ではなくて、感情を示す言葉である。」
これが敬語の本質であるはずだ。この立場から、先の三つの例文を比較しおう。
「先生のところに伺います。」
「弟のところに伺います。」
「弟のところに参ります。」
これらの例文では、文が「何を意味しているか」が大事なのではない。「誰が誰に語っているか」が大事なのだ。
すると、次のことがわかる。
(1)「先生のところに伺います。」
「伺います」という言葉は、聞き手への敬意であるから、聞き手が先生である。先生に対して、「あなたのところへ伺います」という敬意を示している。ここでは、「誰のところへ行く」ということは関係ない。単に、聞き手が先生であるから、聞き手に敬意を表すために「伺います」という敬語を使っているだけだ。
(2) 「弟のところに伺います。」
「伺います」という言葉は、聞き手への敬意であるから、聞き手が弟である。しかし、弟に対して話すなら、「弟のところに伺います。」という表現はおかしい。敬意を使うなら、「そちらへ伺います」というふうに語るべきだ。ここでは、「伺う」という言葉がおかしいのではなくて、「弟」という言葉がおかしいのだ。
また、敬意を使わないのであれば、「そちらへ行くよ」というふうになる。どっちみち、「弟」という言葉がおかしいのだ。
(3)「弟のところに参ります。」
「参ります」という言葉は、聞き手への敬意である。ここで、聞き手は弟ではない第三者だ。「弟のところに行く」ということを意味しているのだが、聞き手である第三者への敬意を表すために、「参ります」という言葉を用いる。ここでは、弟に対して敬意があるわけではない。敬語というものは、あくまで話し手が聞き手に敬意を表すためにあるのであって、「行く」という行動における上下関係を表すためにあるのではない。
しかるに、答申は、次のような方針を取る。
“ <向かう先>である対象が、「立てるのにふさわしい」対象となるか否か。「立てるのにふさわしい」対象であるときのみ使えるのが、謙譲語 I で、「立てるのにふさわしい」対象でなくても使えるのが、謙譲語 II である。”
と。ここでは、<向かう先> である対象について意味的に考えている。つまり、ここでは、話し手が聞き手に敬意を向けるという感情は無視されている。こういうことでは、敬語の本質を見失っていることになる。
──
まとめてみよう。
「伺う」と「参る」は、どちらも「行く」という意味をもつ。意味的にはは、まったく同様である。ただし、敬語としては、異なる。では、どう異なるのか?
答申は、「両者は言語として意味的な違いがあるのだ」と考えた。そして、「行く」という行動の方向に着目して、その行動の到着点である人物との上下関係に着目した。「伺う」という言葉は、到着点が上位であるときのみに使えるが、「参る」という言葉は、到着点が上位でも下位でも使える、と気づいた。だから、この点をもって「伺う」と「参る」とを区別すればいい、と思った。
しかしながら、その発想は、どうも、ウサン臭い。それもそのはず、その発想は、敬語の本質を見失っているからだ。「敬語とは、意味的に何かを示すのではなくて、話し手が聞き手に向ける敬意を示すものだ」という本質を。
だから、「伺う」と「参る」とを、答申のように決めるのは、まったく無意味な分類なのである。
( ※ なお、答申の分類は、「まったくの間違い」つまり「虚偽だ」といういうわけではない。そういう分類をなすことは、形式的には可能だ。とはいえ、そのような分類は、敬語の本質とは何の関係もない分類であって、無意味なのである。……たとえば、男と女の区別をするときに、「染色体で区別する」とか「生殖器で区別する」というのであれば、本質的であろう。しかしながら、「名前で区別する」というのでは、あまりにも非本質的だ。「この人は太郎だから男。この人は花子だから女」というような区別は、たしかに、形式的には可能なのだが、本質とはまったく関係のない区別であり、やっても無意味なのだ。答申の分類は、そういう無意味な分類である。それを生徒に教えるとしたら、間違いを教えるということにはならないが、まったく無意味なことを教えていることになる。神学を教えるようなものだ。科学や真実とはまったく無関係に、学者の思い込みと教義を教えるだけ。生徒にとっては、いい面の皮だ。たぶん、国語嫌いの子供を増やす、という効果だけがある。)
では、文化審議会の迷走を批判したあとで、いよいよ、独自に真相を探ろう。
敬語の「伺う/参る」は、どう区別するべきか? 5分類とは別に、いったいどういうふうに区別するべきか? ……これを新たな課題としよう。その上で、次のように答える。
──
「伺う/参る」を、単純に対比するのは、妥当ではない。たとえば、
「先生のところに伺います。」
「先生のところに参ります。」
という二つの文を並べると、どちらも「敬語」(謙譲語)として理解できる。これは相手に対する敬意を示す。しかも、行為と言葉が、ともに同じ相手(聞き手)に向けられている。
一方、
「弟のところに参ります。」
という文では、行為の相手(弟)と、言葉の相手(聞き手)とが、分離している。その場合には、行為の相手への敬意は、聞き手への敬意とならない。(これは、「丁寧さ」「丁重さ」を示す表現である。)
その意味では、文化審議会のように、敬語を二つのタイプに分類することは意味がある(とも言える)。
しかし、である。ここでは、「伺う/参る」という言葉自体に、敬語としての違いがあるわけではない。なぜなら、
「先生のところに伺います」
「先生のところに参ります」
では、どちらも同じ敬語用法を用いているからだ。その点では、どちらも同じ種類の敬語である。
違いがあるのは、「参る」には、独自の用法(「丁寧さ」「丁重さ」を示す用法)がある、ということだ。そして、これは、「参る」という言葉自体が別種の敬語であるからではなくて、「参る」という言葉には別の用法があるということだ。次のように。
・ 「参る」I …… 「伺う」と同種で、謙譲語。
・ 「参る」II …… 「伺う」とは異なり、「丁寧さ」「丁重さ」を示す。
とすれば、これは、「参る」という言葉の意味用法の問題である。単語のレベルで「伺う/参る」が別種の単語なのではなく、「参る」という単語には(内部的に)2種類の用法がある。それが正しい認識だ。
だから、「謙譲語 I /謙譲語II」という区別は、敬語の区別ではなく、「参る」という言葉の意味用法の区別である、というふうに理解するべきだ。
そして、こういうことは、「参る」という言葉(だけ)を詳細に分析する国語学では意味があるが、「(一般的な)敬語の区別」という形で広範囲に原理的に分類するようなものではない。やっても無意味だ。
( ※ なぜ無意味かというと、「参る」には2種類の用法があるから分類可能だが、「伺う」には2種類の用法がないから分類は無意味だからだ。ありもしない分類など、やるだけ無意味。「参る」の内部用法のための分類を、「伺う」に適用するというのは、まったくの無意味。)
比喩的に言おう。コーラは「コカコーラ/ペプシコーラ」という(ほとんど無意味な)区別をすることができる。コーラ学者は、「コカコーラ社の製品/ペプシコーラ社の製品」という区別が重要だ、と思って、そういう大分類をすることを提案した。「これらはまったく別の種類の飲料なのだ。だから二種類に区別するべきだ」と。
そうして、コーヒーやジュースなどのすべてについて「コカコーラ/ペプシコーラ」というをすることにした。しかし、現実には、ペプシコーラ社のコーヒーもジュースも存在しなかった。区別できるのは、コーラだけだった。そこで私が、こう主張した。
「コカコーラ/ペプシコーラ」という区別は、できることはできるが、コーラだけに限られたことである。だからそんな大分類をするのは、無意味だ。どうしても分類したければ、コーラ学者がコーラについてだけ分類すればいい。一般の飲料についてまで「コカ/ペプシ」という区別をするのは、無意味だ。あくまでコーラの特殊例だと見なして、個別に論じるべし。
しかし、コーラ学者は大反対した。
「いや、どうしても、この新たな分類をするのだ! これを飲料一般に適用するべきだ。飲料を飲むときはすべからく、いちいちどちらの会社の製品であるかをチェックするべきだ。この分類は重要だ!」と大合唱。
そこで私はイヤミを言った。
「そりゃ、そういう分類をしないと、あんたたちにとっては論文を書けなくなるだけだ。あんたたちが無意味な論文を書くために、無意味な分類をしているだけだ。そんな無意味な区別を一般人に押しつけないでほしいね。一般人は、コーラについては区別することもあるが、コーヒーやジュースについてまでそんな無意味な区別はしない。馬鹿げた分類など、いちいちやっていられるか」
( ※ なお、「参る」と同様の用法は、「申す」にもあるが、だとしても、あくまで個別に論じるだけでいい。「伺う」のような一般の言葉にまで、分類を広く適用する必要はないのだ。……コーラについてなされる分類は、コーラだけでなくダイエットコーラについてもて同様の分類が可能だ。しかし、あくまで個別の事柄だ。その分類を、一般の飲料についてまで広く適用する必要はない。そんな過剰な分類は、無駄な分類である。)
──
結論を述べよう。次の通り。
「謙譲語には2種類ある」と理解するのでなく、「『参る』という語には2種類の用法がある」と理解するといい。
「参る」という言葉では、
・ 「聞き手のところへ向かう」という行動
・ 「聞き手以外のところ(第三者のところへ向かう)という行動
という二通りの意味がある。
どちらにしても、「聞き手への敬意」という敬語であるのだが、意味的に「どこに向かうか」という違いが生じる。
そのせいで、敬意の向けられる方向と、行動の向かう方向とが、分離する。しかしながら、敬意は常に、聞き手に向けられている。
ここでは、敬語の種類に二種類の差があるわけではない。敬語はあくまで「聞き手への敬意」という一種類だけだ。ただし、(敬語ではなく)意味論的に考えると、「行動の向かう先」が、聞き手に一致する場合と、聞き手に一致しない場合とがある。そういうふうに、国語学的な区別が可能である。とはいえ、これはあくまで、国語学的な区別であって、敬語としての区別ではない。敬語は「聞き手への敬意」という一種類があるだけだ。
さて。敬語の問題を根源的に理解するために、より詳しい考察をしよう。
(結論はすでに出たが、より深く問題を掘り下げる。)
§ 尊敬と謙譲
尊敬と謙譲とは、どう違うか? ……たいていの人は、そのように考えがちだ。しかし、その違いを知ることが大事なのではなく、その共通性(敬意)を知ることが大事なのだ。共通性こそに、本質がある。
この共通性を知れば、次のように結論できる。
「尊敬と謙譲は、どちらも同じことである。話し手が聞き手に敬意を示す、ということだ。ただし、相手のことを語るときには『尊敬』として示され、自分のことを語るときには『謙譲』として示される」
下線部のように、「尊敬と謙譲は、どちらも同じことである」と理解するべきだ。たとえば、自分が先生に語るときには、先生を尊敬することと、自分をへりくだることは、どちらも同じことである。ただし、先生のことを語るときには尊敬表現を用い、自分のことを語るときには謙譲表現を用いる。
ここでは、「尊敬」「謙譲」の違いは、何か? 何らかの意味的な違いか? 違う。「敬意を表現したい」という枠組みのなかで、「聞き手のことか、話し手のことか」という区別があるだけだ。そして、そのことを理解するには、「敬意を表現したい」という枠組み(共通性)を知ることこそ、最も大切なのだ。
だからこそ、「尊敬と謙譲は、(本質的には)どちらも同じことである」と悟るべきなのだ。
小さな差異に目を奪われるよりは、大きな共通性に目を向けるべきだ。
比喩的に言おう。北極と南極の違いを知るには、「北か南か」という小さな差異を知るよりは、「どちらも極点にある」という大きな共通点を知るべきなのだ。その大きな共通点を知った上で、初めて、小さな差異が意味をもつ。大きな共通点を知らないまま、小さな差異ばかりに目を奪われていては、本質を見失ってしまう。
以上を整理して、次のようにまとめることができる。
・ 「伺う」も「参る」も、ともに敬意を表現するための言葉である。
・ 「話し手が聞き手のところに行く」という意味で使うときには、
着目点が「聞き手」か「話し手か」という違いがある。
・ 「話し手が聞き手以外のところに行く」という意味で使うときには、
「参る」だけが使われる。その場合、敬意は聞き手に向けられる。
このようにして、「伺う/参る」は区別される。
( → 用例 )
──
では、そのような区別は、どう位置づけられるか? こうだ。
「伺う/参る」の(意味的な)区別は、敬語の区別ではなくて、言葉そのものの区別である。
比喩的に言おう。「美しい/きれいだ」は、「形容詞/形容動詞」という品詞の違いがある。ただし、この二つの語の意味の違いは、品詞の違いに由来するのではなくて、単語そのものの違いに由来する。
「伺う/参る」も同様だ。この二つの言葉は、異なる意味をもつ。(「行く」という共通の意味のほかに、「着目点の違い」によって、異なる意味をもつ。)ただし、その異なる意味は、敬語としての違いに由来するのではなくて、単語そのものの違いに由来する。
だから、「伺う/参る」は違うのだ、というふうに、あれこれ述べても、それは、両者の敬語としての違いを意味しない。むしろ、単語としての違いを意味するだけだ。
なぜか? そもそも、敬語の区別には、「意味の違い」は含まれないからだ。「意味の違い」は、あくまで個々の単語レベルのものだ。そして、「敬語の違い」とは、「敬意の違い」であり、「話者が著者にどう敬意を表現するか」という敬意の表現の仕方の違いだ。
ある場合には、「お弁当」というふうに丁寧を語を使う。あるときは「お食べ下さい」というふうに丁寧語を使う。あるときは「お食べいただければ幸いに存じます」というふうに補助的な言葉を追加する。表現の仕方は、いろいろとある。そして、それらは、あくまで表現の仕方による。単語自体に、敬意の違いがあるわけではない。
だから、単語の意味レベルで「尊敬語を区別する」という方針そのものが、根本的におかしい。むしろ、「補助動詞を使う」とか、「接頭語を使う」とか、そういう形で区別するべきなのだ。
その点からすると、「5分類」というのは、根本的におかしい分類だ。従来通りの「3分類」の方が、よほど妥当である。
「5分類」というのは、やろうと思えばやれなくもないが、それは、本質とはまったく別の、単なる「分類のための分類」にすぎない。そんなものをやっても、何ら意味もない。国語学者が専門雑誌に空虚な論文を書いて、彼の出世のために役立てる、というのが、唯一の用途である。
( ※ 「5分類」というのは、国語学者の自己満足にすぎない。自分で自分を慰めて喜んでいるだけだ。みじめ。)
──
一方、真実をを知るには、冒頭の原理に戻ればよい。すなわち、次のことだ。
「敬語とは、《 話し手が聞き手に向ける敬意 》を表す表現である」
敬語というものは、何らかの意味を示すのではない。話し手が聞き手に対して、「敬意」という感情を示すためにあるのだ。意味ではなく、感情のための言葉なのだ。
これが敬語の本質としてある。この本質を見失って、敬語を意味的に解釈しようとするのは、敬語というものをまるきり見当違いに理解した、とんでもない誤解というべきであろう。
[ 補足 ] ( 2010-05-12 に全面改定 )
「伺う/参る」には、意味的な違いもあるようだ。それは、「行く/来る」という概念だ。次のように。
・ 伺う ≒ (聞き手のところへ)行く
・ 参る ≒ (聞き手のところへ)来る
図示すると、次のように書ける。
聞き手 ○ ←────── ● 話し手
話し手が聞き手のところへ移動していく。ここで、「伺う」と「参る」では、どうか? 次のように着目点が異なる。
《 伺う 》(≒ 話し手のところを出発する)
聞き手 ○ ←─ ● 話し手
《 参る 》(≒ 聞き手のところに到着しつつある)
聞き手 ○ ←─ ● 話し手
説明しよう。
「伺う」も「参る」も、どちらにせよ、「話し手から聞き手に向かって進む」という行動を示す。ただし、違いもある。
「伺う」は、「行く」に相当し、「話し手が出発する」という意味になる。
「参る」は、「来る」に相当し、「聞き手のところに来る」という意味になる。
例文で示そう。
(1)
客の商品が壊れたので、店(修理係)に電話して、修理を依頼した。
客 「商品が壊れたんだけど、修理に来てくれないかな?」
店 「かしこまりました。担当者がただちにお伺いします」(= ただちに出発します)
(5時間経過)
客 「まだ来ないぞ。いつ来るんだ?」
店 「順番が詰まっているようで、遅くなります。でも、もうすぐ参ります」(= もうすぐ到着します)
(1時間後に担当者が到着)
担当者 「すみません。この機械を修理する部品がありません。必要な部品をもって、明日また参ります」(= 明日また来ます)
(2)
駅のホームで。
「電車が参ります」( = 電車が来ます。)
──
ただし、上記のような「行く/来る」の区別は、厳密ではない。
「来る」については、「参る」しか使えないようだが、「行く」については、「伺う」も「参る」もどちらも使えるようだ。
また、「到着する」という意味では、「伺う」も使えるようだ。
例。
「午後五時にお伺いします」( = 午後五時に訪問します)
ここでは、聞き手のところに午後五時に到着するという意味であり、話し手の家を午後五時に出発するという意味ではない。
ともあれ、現実の用例に当てはめると、例外的なことがいっぱい見つかりそうだが、基本的な点は、守られるだろう。それは、
「『伺う』にせよ、『参る』にせよ、あくまで聞き手を中心にして物事を考える」
ということだ。(話し手を中心にして考えるのではない。)
日本語の普通の文章では、(特に主語を抜いて)「行きます」「来ます」(= 「私は行きます」「私は来ます」)という形で、話し手のことを語る。ここでは発想が、話し手中心だ。
しかし敬語では、聞き手を中心にして物事を考える。
「電車が参ります」(= あなたのところへ 電車が来ます)
「明日また参ります」(= あなたのところへ 明日また来ます)
「五時ごろお伺いします」(= あなたのところに 五時ごろ着きます)
こういうふうに、聞き手中心だというところに、「伺う」「参る」の本質がある。それが基盤となる。その上で、「伺う」「参る」の違いがいくらか生じる。ただ、現実には、「伺う」でも「参る」でも、どちらでも構わない場合が結構ある。
例。
「明日またお伺いします」(= あなたのところへ 明日また訪問します)
( ※ 「参る」には、「聞き手ではない第三者のところに行く」という意味で使うこともある。このとき、敬意だけは、聞き手に向ける。たとえば、「弟のところに参ります」と言う。たとえば、会社の上司から「明日はどうするんだね?」と問われて、「弟のところに参ります」と答える、という場合に使う。この用法は、「伺う」にはない、別の形の用法だ。……先に述べた通り。)
[ 付記1 ]
文化審議会の答申は、言語について根源的な誤解をしている。それは、次の認識だ。
「言語は意味をもつ」
「言語は対象について何らかの意味で表現する」
たとえば、「花子はきれいだ」という文がある。これを、次のように解釈する。
「花子には《 きれい 》という属性がある」
こういうふうに、言葉を意味レベルで解釈する。
しかし、これは、妥当ではない。なぜか? 言葉には、次の二面性があるからだ。
・ 対象の属性を表現する客観的意味 (話者に依存しない)
・ 対象に属性を感じ取る主観的意味 (話者に依存する)
文化審議会の発想は、前者だけを認識して、後者を認識しない。しかし、現実には、後者もあるのだ。それは、
「『花子はきれいだ』と語った話者が、まさしく花子を《 きれい 》と感じている」
ということだ。ここでは、花子の属性を示しているのではなく、花子に属性を見出している話者の感情を示しているのだ。
そして、敬語というものは、こういうふうに、話者の感情を示すための表現形式である。そこでは、「花子はどうであるか」とか「先生はどうであるか」とかいう客観的意味は関係ない。「花子をどう感じているか」とか「先生をどう感じているか」とかいう主観的感情だけが問題となる。
文化審議会の答申は、このように、言語というものについて、根本的に誤解しているのだ。彼らは、「国語学」についてはよく理解しているが、「言語哲学」というものをまったく理解していない。細かな文法論だけは詳しすぎるほどよく知っているが、「言語とは何か」ということを根本的に誤解している。
そのせいで、分類ばかりを無意味に細かくして、それで議論が精密になったと思い込んでしまうのだ。細かくすれば細かくするほどかえって真実から遠ざかる、ということに気づかずに。
──
具体的な例で言おう。恋する男は恋人に、「きみは美しい」と語る。その意味は、何か?
「彼の恋人が客観的な美人であることを意味する」
と国語学者は語るだろう。しかし、それは間違いだ。正しくは、こうだ。
「『きみは美しい』と語る男の、その心の状態を表している。つまり、彼が恋人を愛している、ということを表している。」
つまり、「きみは美しい」という言葉は、その言葉で指し示された女が客観的美人であることを意味せず、その言葉で指し示された女を美しく感じている男がそういう心を持っていること、つまり、彼がその女に恋しているということを意味する。換言すれば、「僕はきみが好きだ」と語っているのに等しい。
これが真実だ。しかるに、国語学者は、その真実を理解せずに、彼の語ったその女がどのくらい美人であるかを知ろうとして、目や鼻の形を調べたりする。そういうふうに調べれば真実がわかると思って。……本当は、その女を調べるよりも、その男の心を調べるべきなのだが。
国語学者というのは、かくも愚かなのだ。文化審議会もまた同じ。ただの野暮。
────────────
[ 付記2 ]
ついでに、敬語の誤った用法を記しておこう。
敬語というものは、話し手が聞き手に向ける敬意を示す。一方、聞き手以外に向ける敬意というものもある。
たとえば、自分の先生に敬意を払いながら、目前の聞き手に何かを語る。次のBのように。
A「明日、どこかへお出かけですか?」
B「私の先生のところに伺います。」
ここでは、話し手は、自分の先生に敬意を払っている。そのことで、聞き手に対して敬意を払っていない。すなわち、自分の先生に敬意を払うことを聞き手に強要することで、聞き手を侮辱している。
「私の先生は偉いんだ。おまえも私の先生を敬え」
というふうに、聞き手を侮辱している。
従って、これは、敬語表現ではなく、侮辱表現である。
すなわち、
「先生のところに伺います。」
というのは、敬語表現ではなくて、侮辱表現なのだ。敬語を誤用することによって、敬語が侮蔑語になってしまうわけだ。
その意味で、文化審議会というものは、敬語の用法を誤解している。なぜなら、
「先生のところに伺います。」
という言葉を、「先生」に対する敬意だと思っているからだ。そうではない。これは、「先生」への敬意を強要することで、聞き手を侮蔑している、侮辱表現なのだ。そのことに気づいていない。
この表現は、「先生」への敬意を強要することで、「おまえは私の先生よりもバカなんだよ。おまえも私の先生を敬え。わかったか。このバカ野郎」と侮辱していることになるのだ。(たとえその意図がなくても、そういう意味合いをもつ。だから誤用法。)
( ※ このことはわかりにくいかもしれないので、説明しておこう。
よくいるものだが、自分の先生を過剰に称える弟子がいる。
「先生がおっしゃったんです。先生がお書きなさったんです。
先生が教えてくださったんです。あの立派な先生が。」
こういう敬意表現をたっぷり聞かされた方は、バカにされた
気分になるだろう。「ああ、そうだよ、おれはおまえの先生
ほど偉くはないよ。悪かったな。へいつくばりゃいいんだろ」
……こういうふうに、相手を不快にさせるものなのだ。)
敬語の正しい使い方を示そう。あなたの先生が夏目先生であるとする。
あなたが夏目先生に語るのであれば、聞き手に対する敬意を示して、
「先生のところに伺います。」
と語ればよい。
あなたが他の別人に語るのであれば、聞き手に対する侮蔑を示したいときには、
「夏目先生のところに伺います。」
と語ればよい。
あなたが他の別人に語るのであれば、聞き手に対する敬意を示したいときには、
「わが師の夏目のところに参ります。」
と語ればよい。ここでは、「参ります」は、先生に対する敬意ではなく、聞き手に対する敬意である。注意。
また、「わが師の夏目」というふうに呼び捨てにすることで、聞き手に対する敬意を払う。ここでは、わが師に対しては敬意を払ってはならない。(注意!)
(仮に、その敬意を払えば、聞き手に対しては侮辱となる。)
以上が、正しい敬語の使い方だ。にもかかわらず、文化審議会は、敬語の正しい使い方を理解していない。聞き手に対する侮辱表現を、敬語だと思い込んでいる。
(似た例を示す。「当社の大山社長がこうおっしゃいました」という表現は、大山社長に対して敬意を示している敬語表現ではなく、ただの誤用である。正しくは「弊社社長の大山がこう申しておりました」と語るべし。ここを勘違いしている人が多い。文化審議会も同様だろうが。)
文化審議会の意図は、たぶん、次のことだろう。
「先生のところに伺います」
は、先生への敬意を示す。これは、先生に語るときには、聞き手への敬意を示すが、先生でない第三者たる聞き手に語るときには、聞き手への敬意を示さない。だから、《 動作の向かう対象への敬意 》なのだ」
と。
しかし、これは、敬語の誤用法を正当化するための論理である。先生でない第三者たる聞き手に語るときには、
「先生のところに伺います」
は、先生への敬意を示す敬語表現ではない。たとえ話し手はそのつもりであっても、これは先生への敬意を示す敬語表現ではない。これは、敬語表現ではなく、誤った表現であり、誤用である。(実質的には侮辱表現である。)
文化審議会の意図は、敬語の誤用に対して、もっともらしい「こじつけ」を付けることでしかない。誤用に対して「こじつけ」で正当化するよりは、「誤用は誤用だ」と断じて、その使用を「間違いだ」と告げるべきなのだ。
つまり、こう告げるべきだ。「そういう表現は、たとえ敬意を示しているつもりでも、実質的には侮辱表現になっているのだから、そんな誤用をしてはならない」と。「たとえ本人は先生に敬意を払っているつもりでも、実際には聞き手を侮辱しているのだから、そんな言葉遣いをしてはならない」と。
( ※ 「伺う」という言葉を使ってもいいのは、訪問先が聞き手よりも
偉い場合だけだ。
例。〈平民同士で〉「皇居までお伺いしました。」
例。〈生徒同士で〉「先生のところに伺いましょう。」
この場合には、聞き手も敬意を強要されるが、誤用でない。)
はっきり言っておこう。「自分は良いことをしているつもりなのだから、それは許容されるべきだ」と弁明するのは、ただの子供の論理である。
大人ならば、「良いことをしているつもり」という自分勝手な思い込みは正当化されない、と理解するべきだ。自分の間違いで相手を侮辱した場合には、「自分は正しいことをしているつもりだった」と強弁するかわりに、「自分は間違っていました」と頭を下げるべきだ。それが大人の態度である。
しかしながら、文化審議会は、子供の態度を取る。自分では聞き手を侮辱する表現を取りながら、「正しいことをしているつもりだ」と威張って、誤用の表現を正当化する。
そういうことは、ただの「日本語の破壊」でしかない。
結局、日本という国は、間違った言葉遣いを標準化しようとする、阿呆の国なのだ。……そのことを理解しよう。
( ※ 狂人というものは、自分の狂気を社会全体に広めようとする。そうすれば、自分の狂気が目立たなくなるからだ。全員が狂人になれば、狂人は狂人でなくなる。……それが文化審議会の狙いだ。ゾンビと同様。全員をゾンビにしてしまおう、という狙い。)
【 参考 】
文化審議会の答申では、次のような記述がしばしば見られる。
「目上の人には、こういう言い方はできない」
「目下の人には、こういう言い方はしない」
例。
・ 生徒が先生に向かって「くれてやる」とは言えない。
・ 先生が生徒に向かって「お伺いします」とは言わない。
これらは確かに、変な言い方だから、こういう変な言い方は、ありえそうにない。
しかし、本項の趣旨(冒頭で述べたこと)を思い出そう。敬語とは、相手に対する敬意(という感情)を示すものだ。とすれば、感情しだいで、どういう敬語を使うこともできる。敬語を使うかどうかは、敬意の有無だけに依存するのであって、国語的な問題とはならない。
たとえば、上記のような変な言い方が許容されることもある。
・ 不良が、あえて教師を怒らせるために「くれてやる」と言う。
・ 教師が、生徒の結婚式や葬式や病院に「お伺いします」と言う。
前者は、あえて軽蔑したい場合であり、後者は、ことさら敬意を表したい場合だ。ここでは、感情しだいで、そのような敬語(侮蔑語)が用いられる。そして、そのことは、国語学的にまったく正しい。ここではまさしく、その感情にふさわしい言葉を使っている。
ここで国語学者がしゃしゃり出て、「そのような言い方は、国語学的に正しくない」と言うのは、ただの野暮である。
繰り返す。敬語というものは、「目上」とか「目下」とかの状況に応じて、自動的に(意味的に)決まるものではない。話者が相手にどう敬意を向けるかという感情レベルの表現法なのだ。
そのことを理解しないで、意味論的にとらえるのは、敬語というものをまったく誤解した発想である。
【 追記 】
主語が一人称複数の場合、敬意が第三者に向けられることがある。次の例のように。
「私たち、先生のところへお伺いしましょうか?」
ここでは敬意は、聞き手(あなた)ではなく、第三者(先生)に向けられている。
では、敬意は、「動作の向かう対象」に向けられているのか? (文化審議会の言うとおりに。)
違う。なぜなら、次の例もあるからだ。
「私たち、先生からお言葉を賜りました」
「私たち、先生から葉書をいただきました」
「私たち、先生からご訪問いただきました」
ここでは、動作の方向は、先生から私たちへと向かう。だから、動作の向かう対象とは関係なく、同様の敬意が生じている。
結局、動作の向かう対象というような事柄は何ら関係ない。
単に、「一人称複数から第三者へ」という敬意があるだけだ。ここでは、聞き手(あなた)には敬意が向けられていなくて、別の第三者に敬意が向けられている。
では、その意義は? はっきりとはしないのだが、普通の敬語用法の拡張と見なせるだろう。二人称のところへ「伺う」などと述べる用法の拡張として、一人称複数から三人称へと向ける敬意の用法が生じる。単にそれだけのことだろう。(敬語としての用法は異なるのだが、拡張する形で同様の用法を使うわけだ。)
その根源にあるのは、たぶん、「聞き手を身内と考えていること」だろう。ここでは一人称複数があるわけだが、一人称複数を語っている時点で、聞き手は「敬意を向けられるあなた」ではなくて、「同じことをなす身内としての私たち」となっている。身内に敬意を向けるはずがないから、身内には敬意を向けない。家族に敬意を向けないのと同様である。そして、身内ではない第三者に敬意を向ける。
だから、ここでは、聞き手に対して敬意表現よりは侮辱表現を用いることは、むしろ当然である。身内なのだから。
文化審議会の方針だと、「動作の向かう対象に敬意を向けているだけであって、聞き手にもそこそこの敬意を向けているのだ」という解釈を取ることになりそうだが、むしろ逆に、「聞き手には敬意よりは軽意(?)を向けている。身内ゆえに」と考える方が、妥当であろう。
そして、身内に軽意(?)を向けるのは、ごく普通のことだ。たとえば、家族同士で、そういう敬語を使うことはあるはずだ。
「お医者様に謝礼を差し上げましょうか」
「仲人の××様のところにお伺いしましょうか」
こういうふうに家族同士で語ることがある。ここでは、家族はあくまで身内として、第三者に敬意を向けている。
同様のことは、友人同士でも成立するだろう。それが先の
「先生のところにお伺いしましょうか」
という表現だ。ここでは、聞き手が身内となっているかどうか、ということだけが問題となる。
(仮に身内でなければ、そういう言い方はしない。むしろ、「先生のところをお訪ねしていただけないでしょうか」というふうに語る。)
【 関連する話題 】
「なぜ言語力が重要か?」
→ http://nando.seesaa.net/article/51904501.html
「姓名のローマ字表記」
→ http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/codehoso.htm
(国語審議会がいかに馬鹿げたことをしているかを示す。)
→ http://books.meblog.biz/
「無常という事」「ハンプティ・ダンプティ」「 日本語が亡びるとき」などの話題が記してあります。
(カテゴリ別に見ると、目次が見つかります。)
例えば、会社に来客があり、私が代表の電話を受け取ったとします。「Aさんはいらっしゃいますか?」と言われ、Aさんに来客がある旨を伝え、Aさんが来客の方にに向かって行ったとします。この場合、来客に対しこちらは、「ただ今Aが伺いますのでお待ち下さい」と言うべきかそれとも「Aが参りますので〜〜」というべきか。どちらがよりふさわしいでしょうか。私が受付にいるのであれば、来客を目の前に「Aが参ります」と言えるのですが、私も来客から見えない位置にいる場合は、なんと言えばいいのかいつも迷ってします。
あなたと客が同じところにいれば、Aはそこに「来る」のですから、「Aが参ります」(Aが来ます)と語ります。
あなたと客が別のところにいれば、Aはそこに「行く」のですから、「Aが伺います」(Aが行きます)と語ります。
ただし、視点を客の視点に置けば、客にとっては「Aが来る」ことになるので、いずれの場合であっても、「Aが参ります」(Aが来ます)と語ることができます。だから、「Aが参ります」も、間違いではありません。(あなたと客が別のところにいても。)
なお、本文中の ● による図示を参照。
タイムスタンプは 下記 ↓
その場にいるならば、
「挨拶に参りました」(過去形)
が正しいでしょう。
その場にいないならば、
「挨拶に伺います」(未来形)
は正しいが、
「挨拶に伺いました。」
は変ですね。
「××」は「○○」の謙譲語である……というような法則性は、成立しません。
言葉というものはたがいに独立しているものであり、それぞれ独自の意味を持ちます。それらの意味たちが、ところどころで重なることもありますが、領域が完全に一致するというようなことはありません。
たとえば、「高い」の反対は「低い」ですが、両者が完全に反対であるわけではありません。たとえば、「お目が高い」という言い方はありますが、「お目が低い」という言い方はありません。「鼻高々」という言い方はありますが、「鼻低々」という言い方はありません。
「伺う」「参る」は、「来る」とは意味が重なることが多いですが、完全に一致するわけではありません。
例 「明日、お伺いします」→ 「明日、行きます」
例 「明日、父の墓に参るつもりです」→ 「明日、父の墓に行くつもりです」
「伺う」「参る」は、それ独自の意味用法があるので、一概に「来るの謙譲語だ」というふうに決めつけることはできません。「来るの謙譲語だ」と見なせることが多い、という程度のことです。
これは、外国語との関係で理解するといいでしょう。「来る」の英語が「 come 」であるか? いや、そうとは限らない。「 come 」は「来る」と訳せることが多いが、場合においては「行く」と訳す方がいいこともある。「来る」と「 come 」は1対1の関係にはない。
それと同様のことが、「伺う」「参る」と「来る」との間でも言えます。そこには1対1の関係はありません。単に「意味が重なることが多い」というだけです。