2007年12月08日

◆ 子供の科学力の低下


 子供の学力が低下しているという。特に、科学力の低下が問題だ。そこで、世間は「何とかせよ」と騒いでいる。
 しかし、その発想そのものが、非科学的だ。子供の科学力を増すには、そのための対策を科学的になす必要がある。単に騒ぐだけでは駄目なのだ。 ──

 まず、「子供の学力・科学力が低下している」という事実がある。
15歳の学力で日本続落 応用力、読解力とも
 経済協力開発機構(OECD)は4日、15歳を対象に06年に実施した国際的な学習到達度調査(PISA)の結果を公表した。日本は、「読解力」で前回(03年)14位から15位、「数学的リテラシー(応用力)」では6位から10位に順位を落とした。
 先行して公表された「科学的リテラシー」でも2位から6位に下がっている。
 読解力は「11〜21位でOECD平均と同程度」、数学的リテラシーは「6〜13位で平均より高得点グループ」、科学的リテラシーは「3〜9位で上位グループ」と分析している。
 今回最も力を入れて調べた科学的リテラシーを詳しくみると、日本は、「証拠を用いる」能力で2位だったものの、「疑問を認識する」で8位、「現象を説明する」で7位と、自ら課題を設定し説明する力に弱点があった。
 PISAではアンケートも実施。科学に興味・関心や楽しさを感じている日本の生徒の割合は、さまざまな質問でOECD平均を軒並み下回った。
( → http://www.asahi.com/life/update/1204/TKY200712040314.html
 以上は、記事だ。続いて、次の見解(朝日の社説)を紹介する。
 国際学力調査―考える力を育てるには
 学校で習った知識をどれぐらい覚えているかではなく、知識の応用力や論理的に考える力を問う。
 最初の00年、前回の03年と比べると、順位はいずれも下がっている。
 PISA調査といえば、03年に数学と読解力が大幅に順位を下げ、学力低下の論議を一気に高めた。文部科学省は導入して間もないゆとり教育を見直し、国語や理科などの授業時間を増やして総合的な学習を減らすことを決めた。
 問題は、このカジの切り方でよかったかどうかである。
 科学では、公式をそのままあてはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力が弱い。
 併せて実施したアンケートを読むと、その原因は授業のあり方に問題があることがわかる。理科の授業で、身近な疑問に応えるような教え方をしてもらっているかどうか。そう尋ねると、日本は最低レベルだったのだ。
 自分で問題を設定し、解決方法を考えるという力に弱い。
 学力の底上げと応用力。二つの課題を克服するには、どうすればいいのか。
 十分な教員の数とともに、その質を上げることが必要だろう。
 単に授業時間を増やしただけでは、どうしようもないことは文科省も承知のはずだ。応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである。
( → http://www.asahi.com/paper/editorial20071205.html
 社説ではもっともらしいことを述べているが、こんなふうに「教育の質を上げる」というような抽象的な対策では、とても解決はしまい。もっと抜本的に対策を考えるべきだ。

 ──

 私の考えを言おう。
 子供の科学力の低下が起こったのは、何だかわけがわからないうちに起こったのではない。何らかの計算違いが起こったからでもない。「子供の科学力を低下させよう」という政策を取ったから、当然の結果として、子供の科学力は低下したのだ。……そして、このように考えるのが、合理的な考え方だ。

 こう考えた上で、次のように問うことができる。
 「子供の科学力を低下させよう、という政策とは何か?」
 具体的には、次の三点がある。 
  ・ 勉強の否定
  ・ 真実よりもITを優先すること
  ・ 建前や倫理を優先すること


 これらの政策が取られてきた。順に説明しよう。

 (1) 勉強の否定
 まず、「ゆとり教育」というものがある。これはすなわち、「勉強のしすぎは悪いことだから、なるべく勉強しないようにしましょう」ということだ。
 その結果、生徒は勉強をしなくなった。政府が「家庭で躾などをすることが大事です」と述べて、学校の教育を放卒した。その代わりに家庭が教育するはずだったが、現実にはそんなことは起こらなかった。学校も家庭もそれぞれ教育を放卒した。その結果、子供はないがしろにされた。「遊ぶことはいいことだ、勉強することは悪いことだ」と信じるようになった。また、たとえ信じなくても、薄っぺらな教科書しか渡されないので、勉強のしようがなかった。
 結果的に、子供の学力はどんどん低下していった。
( ※ 何度も言われたとおり。特に新しい見解ではない。)

 (2) 真実よりもITを優先すること
 「これからの時代にはIT教育が必要だ」というスローガンのもとで、パソコンを使えば科学的になれる、と生徒は信じ込まされた。
 その結果、ケータイやバーチャルゲームにのめりこんで、現実の世界と触れあうことが少なくなった。
 ここでは、「仮想世界にのめりこむ」というオタク化の問題もあるが、それよりも問題なのは、「現実の世界に触れる時間が減った」ということだ。
 特に、科学の面では、顕著である。子供の科学教育にとって最も大事なのは、科学的な感動だ。
 「星はどうしてこういうふうに動くんだろう」
 「台風はどうして起こるんだろう」
 こういう謎がある。それは大自然や宇宙に対する謎だ。こういうことを知ろうとするところから、科学的な探求心が生じる。そして、そのためには、現実の物と触れあう時間が必要だ。それは、つまり、実験をするということだ。
 たとえば、天体望遠鏡で観測したり、風力計で観測したり、機械工作をしたり。……しかしながら、そういうことの時間は、まったく削られてしまった。IT教育にばかり熱心になって、自然を探るという科学的な探求心の時間は大幅に削られてしまった。
 こんなことでは、科学的な探求心も、科学的な興味も、起こるはずがないのだ。(皆無ではないが、大幅に減じる。) 

 (3) 建前や倫理を優先すること
 実を言うと、すぐ前に述べたことは、昔の教育だって、似たり寄ったりだった。昔の科学教育が特別に優れていたわけではなかった。というのも、昔は金がなかったからだ。
 ではなぜ、本項を読んでいる人々の多くは、科学的な探求心があるのか? それは、私の体験に即して言えば、こうだ。
 「学研の科学教材のお世話になった」
 つまり、「○年の科学」や「○年の学習」というやつだ。これには、とても面白い教材があって、科学的な探求心を大幅に高める効果があった。
 私が科学好きになったのは、こいつの効果が大幅にある。こういう教材は、とにかく、メチャクチャに面白かった。今日のテレビゲームは、やればやるほど虚しくなるだけだが、「○年の科学」というやつは、やればやるほど深い充実感を得ることができた。それは「真実の一端に触れる」という感動だ。
 しかし、である。
 この「○年の科学」や「○年の学習」は、学校教育の場で、禁止されてしまった。それまでは学研が小学校と協力して、生徒の科学教育をになっていた。学校では教材を強制的に買わせるわけには行かないから、任意の形で子供たちに学研の教材を買わせた。(もちろん買わなくてもいい。そこは勝手である。)
 ところが、「学校が企業とつるんでいるのはけしからん」という形で、このような「産学協同」の教育体制は、破壊されてしまった。
 「子供のためにならないからいけない」
 のではなくて、
 「子供のためになるし、教師のためにもなるが、会社のためになるから悪いことだ」
 というふうな建前で、子供の科学力を向上させることが禁止されてしまった。
 これはつまり、「企業のやることは悪い」「大人が働くことは悪い」ということである。したがって、子供は「働くことは悪いことだ、遊ぶことがいいことだ」と信じ込まされた。そのせいで、せっせとテレビゲームに励むようになった。

 ──

 結局、こうだ。
 子供たちは、科学オモチャを通じてリアルな真実に触れる機会がなくなり、プレステなどを通じてバーチャルな虚構に触れる機会ばかりが増えた。だから子供たちは、真実よりも虚構を大切にして、虚構の世界に生きるようになったのだ。
(その例がオタク。現実の女性よりも、仮想の女性を愛する。というか、それしかできないようになる。)

 こうしてわかっただろう。
 「子供の科学力の低下」
 は、意図せずに起こったのではない。あえてそうなるように、意図的に教育制度を変更していったから、なるべくして、そうなっただけだ。
 そして、そのことを理解するのが、「科学的な発想」である。
 つまり、問題の根源は、大人に「科学的な発想」が欠けていることだ。そして、朝日のように、「教育の量よりも質を向上させればいい」という抽象的な美辞麗句だけを述べているだけだ。その間、現実には、ひどい体制を子供に強いている。……こういう非科学的な大人の態度こそ、子供の科学力を崩壊させている根本原因なのだ。


 [ 補足 ]
 もう少し背景を説明しておこう。

 学研の商法(学校内で自社商品を販売すること)については、「産学癒着」というような言葉で、大きく批判された。
 しかし、企業が子供の科学力を向上させる仕事をすることの、どこが悪いのか? 「金儲け自体が悪い」(乞食が正しい)というわけではあるまい。
 ひるがえって、他の企業を見るがいい。食品企業は添加剤で食品をゴマ化すし、トヨタは排ガスや炭酸ガスを撒き散らすし、ソニーは子供をテレビゲームづけにする。これらは企業活動によって悪をなすのに、何らおとがめなしだ。むしろ、「素晴らしい先端企業」というふうにマスコミに称賛されることが多い。その一方で、子供の科学力の向上に尽くす、学研のような良心的な企業は、マスコミに非難される。そして、そのあおりを受けて、子供たちは学力を奪われる。

 こういう大人の非科学的な発想こそ、現状を悪化させた根源なのである。問題は、子供の非科学性ではなく、大人の非科学性なのだ。
 ま、大人も昔は子供だったから、子供のころにまともな教育を受けないと、どんどん馬鹿になっていく。親の馬鹿が子供の馬鹿へと、拡大再生産されていく。……そういう構造的な悪化要因があるのだ。
 こういう事実に気づくべきだ。そのあとで、まずは、子供からテレビゲーム機を取り上げて、かわりに「○年の科学」や児童書などを与えるべきだ。そうすれば子供たちは、自ら考える力をもつようになれる。

 とはいっても、当の大人たちが、自ら考える力を失っている。そこで私が「自分の頭で考えよ」と何度も述べているのだが、ものぐさな大人たちは、「機械に考えてもらいたい。グーグルで検索すればいい」などとほざいている。考える力はどんどん低下していく。
( ※ 本サイトを読めば別だが。……とはいえ、「本サイトはトンデモだ」と文句を言う人も多い。自分の頭で考えず、他人の見解を鵜呑みにすることしかできない人が多くなっている。)




 [ 付記 ]
 子供の科学力と聞いても、「そんなの関係ねえ」と思う大人が多いだろう。
 しかし、子供の科学力が低下しているということは、時間を経て、社会全体の科学力が低下することにつながる。その非科学性は、あなた自身にも降りかかる。
 実例を示そう。
 「池袋で自殺者が屋上から飛び降りたので、歩行者が犠牲になった」
 という事例があった。これに対して、読売新聞の記事(夕刊 2007-12-08 )は、遺族の声を、こう報道している。
 「他人に迷惑がかかると思わないのか。けしからん」
 こういうことを報道して、平気でいるのが、今の非科学的なマスコミだ。呆れてしまう。理由を示そう。

 (1)
 自殺者は、自分のことを支えることもできないのに、他人の迷惑のことなど、考えることができるはずがない。能力がないのだから、自殺者を批判しても無意味である。批判したところで、状況が改善するわけではない。

 (2)
 としたら、なすべきことは、ビルの管理者が対策を取ることだ。すなわち、自殺者がビルから飛び降りないように、対処をすることだ。

 (3)
 しかし、現実には、対処ができていない。どのビルも、たいていは、あっさり飛び降りることができるようになっている。ちょっとした対策ぐらいはあるが、本人が「飛び降りよう」「自殺しよう」と思ったら、簡単に乗り越えることのできるような、あっさりとした対策にすぎない。

 (4)
 その理由は、ビル管理者が、「こうすればこうなる」という因果関係で考えずに、「自分にできることはこれです」という官僚的な弁解主義で対策を取るからだ。その結果、無意味な対策だけをして、「対策はしました」と弁解する。
 つまり、ここでは、科学的な発想ができていない。そして、そのせいで、人々は自殺者に巻き込まれて、命を失う。……あなただって、繁華街を歩くたびに、自殺者に巻き込まれて命を失う危険があるのだ。

 (5)
 科学的な発想ができれば、対処は簡単だ。「電気ショックを与える」というような特殊な方策は必要ない。柵のてっぺんに、トゲや有刺鉄線をつけるだけでいい。そうすれば、乗り越えようとしたとき、痛みが生じる。血を流す。……そんなことをしたがる自殺者はいない。なぜなら、彼らは、生きる気力がなくなっているからだ。兵士ならば、「血を流しても有刺鉄線を乗り越える」というような気力を持つが、自殺者にはそんな強い気力はない。
 ここでは、物理的に阻止するよりも、自殺者の心理を見抜いて、それに応じた対処をすればいい。
 つまり、物事の真理を見抜けばいい。……そのためには、科学的な発想が必要なのだ。
 そして、現代の人々には、科学的な発想がない。あるのは、官僚的な発想と、テレビゲームやケータイの発想だけだ。
 こういう愚かな状態の結果が、「死」という形になって、あなたの頭の上から、あなたに降りかかってくるのだ。それでもあなたは死ぬまで、「そんなの関係ねえ」とほざいているわけだ。
 これが現代社会。……科学的な社会ではないですね。

 ※ 三島由紀夫が面白いことを言っていた。(「金閣寺」で。)
 狂人の行動を阻止するには、狂人だけに読める言葉で書けばいい、と。
 ビルの屋上も同様だ。普通の人の行動を阻止するのではなく、自殺者の行動を阻止することを狙う。「有刺鉄線なんかやると、普通の人がよじ登ったとき、ケガをするのでクレームがつく」なんている発想をしていると、駄目なのだ。
 有刺鉄線というのは、普通の人に理解できる言葉ではなくて、狂人に理解できる言葉である。つまり、自殺者と泥棒を阻止するためにある。普通の人には関係がない。(また、たとえ関係があるとしても、ケガをさせるのは自殺させるよりはマシである。)
 要するに、ビル管理者の保身的な官僚主義・保身主義が、ビルの屋上での対策を怠らせる。日本には、科学主義はなく、官僚主義・保身主義があるばかり。




 【 参考 】
 参考情報として、学研の「科学」と「学習」の紹介をしておこう。
 これは、現在では、通販の形でのみ購入できるようだ。

 学研のサイト
 Wikipedia の記事
 個人の感想1 , 個人の感想2 

 ※ 「科学」と「学習」については、ご意見を積極的に受け付けています。
   個人的な感想・体験などについて、コメントをお寄せ下さい。
   体験は人それぞれで、興味深いので。
posted by 管理人 at 23:00 | Comment(5) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も子供の頃、「X年の科学」にはお世話になりました。毎月ワクワクしながら来るのを待っていましたね。
付録でアルコールランプや試験管やフラスコもあったりして気分は完全に化学者。学校の授業はおもしろくなくても家で実験するのは楽しかった。
ただそれを学校から閉め出したから学力が低下・・と言われるとちょっと抵抗があるのも事実。
学校で受け取るこの本とは別に「子供の科学」を本屋で買っていてこちらも同様に楽しみにしていました。高校の頃は「天文ガイド」とか。
そういう本を見ながら鉱石ラジオをコイルを巻いて作ったり、ダウエル光学からレンズを通販で買ってボール紙を巻いて望遠鏡を作ったりと、勉強はしませんでしたが夢中でこういうものを製作していました。
今の時代のゲームではこういうものを一から作った時の感動は得られないでしょうね。
Posted by panos at 2007年12月11日 23:03
「子供の科学」は私も買いました。だけどあれは(本屋で販売するせいで)付録が紙だけですから、紙ヒコーキぐらいしか思い出がありません。

 「科学」「学習」は月に 670万部も出ていたのに、今では無視できる程の量。
 子供が科学好きになるかどうかぐらいの差は出そうです。

 おっしゃるとおりに「一から作った時の感動」があるのも大事です。他人のつくったものを操作するのと、自分でつくるのとでは、全然違いますから。
Posted by 管理人 at 2007年12月11日 23:14
私も付録で石膏で立体の日本地図を作ったり、原料からパンを焼いたりして楽しみました。
立体地図は、まあ当たり前なんですが、富士山の部分が一番高さがあり、なるほどと思った覚えがあります。イースト菌を使ったのは、後にも先にもあれ1回ですね(失敗しましたが)。

「ものを一から作る」点にはもう触れられているので、別の観点から。
私にとって、いわば月刊誌だった「○年の学習・科学」は、当時の最新ニュースを知る重要な機会でした。
図書館に行けば、子供向けの科学関係の本はありましたが(もちろんそれはそれで有用で面白いものでしたが)、どうしても内容は新しくない。
まだ新聞を読むのは難しい年代に、分かりやすく噛み砕いた記事でいろいろと(こんなロボットが開発されたとか、宇宙ロケットがこんな写真を送ってきたとか)教えてもらいました。
さらに「日本のへそは滋賀県」だとか、林家木久蔵が教えるラーメンの食べ方の作法(チャーシューは麺の下に隠して最後に食べるらしい(笑))とか、いわゆるトリビアも多数載っており、今から思えば広い意味で子供の教養に役立つ本だったと思います(一応ラーメンの話は、体内で消化された後の養分の話につながるんですが)。

ニュースの即時性という意味では、インターネットなど世界中で起きたことをすぐに知ることができるんでしょうが、体系的な内容をわかりやすく伝えるとなると、やはり「その道のプロ」が「有料」でやらないと、いいものはできないんでしょうね。

余談ですが、たまに大きな書店(紀伊国屋など)にいくと、「学習・科学」が置いてあって懐かしさのあまり手が伸びるんですが、「付録を作っても置き場に困るだけだろうな」と冷静になってしまい、買えません(笑)。
Posted by 井坂 at 2007年12月14日 06:01
ブログを拝見しました。NHK「日本の、これから」のディレクター清水真人です。この番組は一般市民による3時間の生討論番組でこれまでに「憲法9条」「いじめ」「年金」など社会問題を取り上げてきました。次回3月8日(土)テーマは「学力」です。
昨今、日本の子供たちの学力低下が問題視されています。
ゆとり教育の功罪。公教育・教師への不信感。無責任な親。やる気のない子供たち。地域社会の崩壊。原因は色々考えられます。
番組では学力低下の背景を整理し、日本という国の将来を担う子供たちにどんな教育が必要なのかを徹底的に議論したいと思っています。国際競争に打ち勝つための優秀な人材育成に力を入れるのか、経済至上主義ではなく心豊かな大人に育てるべきなのか。学力を考えることは日本の向かうべき方向性を考えることにもつながります。
番組では立場の異なる多くの方からの意見を募集しています。25日夜より番組HPからアンケートに参加頂けますので、是非ご協力下さい。その際、「清水宛」と一筆下さい。
http://www.nhk.or.jp/korekara/
Posted by 清水真人 at 2008年01月24日 17:04
NHKの方にご覧いただけたのは、光栄に存じます。
しかしながら、番組には期待できませんので、悪しからず。
根源的に見当違いなことをする番組には、協力のしようがありません。

> 国際競争に打ち勝つための優秀な人材育成に力を入れるのか、経済至上主義ではなく心豊かな大人に育てるべきなのか。

こういう無意味な問いかけをしなくてもいいようにするには、下記サイト
http://nando.seesaa.net/category/491840-1.html
をご覧ください。
これは本サイトの兄弟サイトの目次ページです。

次のような項目があります。
◆ 思考力と教育
◆ いじめ対策
◆ ワーキングプア & 古典派の倒錯
◆ 戦争の経済学
◆ ワーキングプア の本質
◆ 人口デフレ
◆ なぜ言語力が重要か?

教育問題についても論じていますが、経済問題についても論じています。
とにかく、経済と教育は、二者択一ではありません。まともな経済があって初めて、まともな教育が可能になります。経済をメチャクチャにしたまま、教育だけをまともにしようと思っても、駄目です。

マルクスも言っていたように、経済はすべての基盤です。最低賃金以下の給与しかもらえない状況を放置しておいて、「経済のことなんかどうでもいいさ、教育だけやればいいさ」なんて思っても、駄目です。
かといって「企業の競争力を強めるのが最優先だ」などと思うのは、修正する方向が正反対です。(改善どころか悪化。)

NHKは、マスコミのなかでは最も本質に近づいており、朝日や読売のようなマスゴミとは違いますが、まだまだ問題の本質を理解していません。
「どんな番組をつくると視聴者に受けるか」
「どんな番組をつくると視聴者の声を聞くか」
というふうに考えるよりも、まず、
「物事の真実を探ろう」
という知恵をもつことが必要です。その知恵がないまま、無知な読者の妄想をたくさん集めて報道しても、嘘を並べた面白いバラエティ番組ができるだけで、物事の真実はつかめないままです。

> 昨今、日本の子供たちの学力低下が問題視されています。ゆとり教育の功罪。公教育・教師への不信感。無責任な親。やる気のない子供たち。地域社会の崩壊。原因は色々考えられます。

色々なんか、考える必要はありません。理由はただ一つだけです。
つまり、こうです。
「学力を低下させようとする方針をあえて取ったから、狙い通りにまさしく学力が低下した」
つまり、必然的結果です。これまでさんざん「受験競争の緩和」という名分で、「教育の縮小」をやって来たのだから、その必然的な結果です。簡単に言えば、こうです。
「勉強しないでも頭が良くなる、と思って勉強時間を減らさせて、IT教育の名分で読書もやめさせた。かわりに、パソコンとテレビゲームとケータイに熱中させてきた。そうしたら、目論見とは逆に、頭が良くならなかった。それで、『なぜだろう・なぜだろう』と大騒ぎしている」
それだけのこと。もともと「勉強しないでも頭が良くなる」と思った、という自分の最初の方針に根源的理由があることに、気づいていない。自分であえて自殺的行動を取ったということに気づいていない。「崖から飛べば空を飛べる」と信じて、あえて崖から飛んだのが自分だ、ということに気づいていない。

 上記の疑問は、自殺者の死体を見て、「誰がこの人を殺したか? 犯人を捜せ!」と言っているのと同じです。馬鹿げている。
 悟るならば、「崖から飛べば空を飛べる」と信じたという、自分の錯覚を悟るべきでしょう。自殺した人間を殺した犯人を、よそにいくら探しても、犯人は見つかりません。

 ──

 なお、とりあえず簡単に正解を知りたければ、上記の目次のうちの
◆ 思考力と教育
◆ なぜ言語力が重要か?
 という二つのページをご覧ください。
Posted by 管理人 at 2008年01月24日 21:15
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