「気がつかない」ことは、罪なのだろうか?
(うっかり者には、身にしみる話。) ──
車椅子の利用者がバスに無視されて乗れない、という事例がある。この事例は、朝日新聞の地方版に掲載されていた。
車椅子の利用者が声をかけても、運転手に無視されて、バスに乗れない。バス会社は平謝りして、「今後は気をつけます」と言う。
しかし、謝った直後には直るのだが、しばらくするとまた元通りになる。
あとで運転手に理由を尋ねたら、「気がつかなかった」ということだ。気がつかないんじゃ、しょうがないですね。ここでは「無視している」というより、うっかりして「気がつかない」だけだ。
──
この問題の本質は何か? 「気がつかない」ということの罪だ。気がつかないことは罪なのか?
一般に、何か犯罪や悪行をなしたのであれば、「それをやめよ」とは言える。
しかし、「気がつかないこと」について、「それをやめよ」と言っても、意味がない。「気がつかないこと」は、何かをなしたのではなく、何かをなさなかったのである。有をなくすことはできるが、無をなくすことはできない。
ま、論理のお遊びならば、そういうことも可能に見えそうだが、現実には、そんなことはできない。……たとえば、1万円札を消すことはできるが、無を消すこと(無を1万円札にすること)はできない。
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だから、ことの本質は、バス会社の問題ではないのだ。バス会社や運転手がいくら注意しても、何も解決しない。なぜなら、単に気がつかなかっただけだからだ。
声をかけたときに「気がつかない」。それなら、「気がつく」ようにすればいい。
どうやって? 通常は、「声を大きくすること」だけで済む。
要するに、「声が小さくて聞こえない」ときに、「ちゃんと気がつけ」と批判するだけでは、何も解決しない。「声を大きくする」というふうに、情報伝達をしっかりとやることで、解決がつく。……ここでは、倫理や意識に問題があるのではなく、単に情報伝達の方法が問題となるだけだ。
ま、現実には、その人は声が小さい人であって、声を大きくすることができないのだろう。
ならば、次のような方法を取ることが可能だ。
・ テープレコーダーやスピーカーなどで、大音量の声を出す。
・ クラクションを鳴らして、注意を引く。
・ バスが近づいたら、手を振ったり光を点滅させたりする。
(そこに車椅子の人がいることを、運転手に知らせる。
そして声を聞くように注意させる。)
方法はいろいろあるが、とにかく、「情報伝達をなすための方法を使う」ということが大事だ。
ここでは、欠けているのは「情報伝達」であって、「良心」や「優しさ」ではない。単に情報伝達の問題を改善すればいいのだから、「良心や優しさのある社会にせよ」と新聞が訴えても、何の意味もない。
欠けているのは、「良心」や「優しさ」ではなく、情報伝達をなすための「知恵」なのだ。
[ 余談 ]

本項では、基本的には、次のことを述べている。
「気がつかないということは、ことさら罪だとは言えない」
ただし、例外もある。それは、次の場合だ。
「男が、女に対する自分のふるまいについて、気がつかない」
これは、問答無用で、許されない。世間が許さないのではない。女が許さないのだ。

で、どうなるか? 男は女に捨てられる。
「別にあんたみたいな鈍感な人を、あえて選ぶ必要はないのよ。もっと気の利いた優しい人を選べばいいんだから。じゃあね、バイバイ」

そのあと男が
「おれには罪がない」

とギャーギャーわめいたって、後の祭り。女に対して鈍感というのは、罪なんです。

同様に、女にも、罪があることもある。
「あたしってどうしてこんなにモテモテなのかしら。

男の罪は、鈍感さ。女の罪は、美しさ。

[ 付記 ]
「気がつかない」ことに似て、「忘れること」というのもある。
「気がつかないのはけしからん」と非難する人がいるように、「忘れるのはけしからん」と非難して、「忘れるという罪を犯した人を処罰せよ。そうすれば、そのような悪行は消えてなくなるはずだ」と主張する。
つまり、「信賞必罰」で物事はすべて解決する、という主張だ。
仮に、こんなことが可能であるならば、「信賞必罰」を強めることで、世界中の誰もが記憶力抜群になるはずだ。阿呆をぶんなぐることで、阿呆が直るはずだ。(そんなことを信じているのは、あなたの女房ぐらいだろう。)
ま、いかにも馬鹿げた話だが、このような馬鹿げたことを主張する人は、とても多い。下記を参照。
→ マークシート
http://openblog.meblog.biz/article/17651.html