2007年09月20日

◆ しがらみ (3)


 前々項前項 の続き。
 前項では、「しがらみ」から脱するための、三つの方法を示した。
 本項では、よりいっそう基本的なことを示す。それは方法以前のことだ。すなわち、心構えや態度だ。 ──

 前項では、「しがらみ」から脱するための、三つの方法を示した。
 では、これらの方法を取れば、うまく行くだろうか? もちろん、その方法を取れれば必ずうまく行く、ということはない。世の中、そんなに甘いものではない。
 しかし、注意。努力すれば必ず成功する、というようなことはないのだが、努力しなければ成功はしない。それと同様だ。正しい方法を取れば成功するとは限らないが、正しい方法を取らなければ成功はあり得ない。……その意味で、正しい方法を取ることは重要だ。
 つまり、成功するためには、「しがらみ」から脱するための方法を取ることが必要だ。取ったからといって、成功するとは限らないが、うまく行けば、成功だろう。
 一方、「しがらみ」にとらわれている限りは、成功しない。たとえば、青色LEDでは、セレン化亜鉛系にこだわっている限りは、成功はできない。

 まとめて言おう。
 新しい道に進めば必ず成功とは限らないが、古い道にとらわれている限りは不成功となる。他人と同じことをしている限りは、他人と同じ成果しか得られない。画期的な進歩などは無理だ。
 画期的な進歩は、常に、他人の通らない道から生まれる。つまり、少数派の道から。

 ──

 では、他人の通らない道(少数派の道)を取るには、どうすればいいか? ここから先は、方法論というよりは、心構えの問題となる。

 ──

 心構えというと、感情のようなものなので、非科学的に思えるかもしれない。しかし、そんなことはない。これは、「喜怒哀楽」のような感情とは違って、「判断」という行動な精神作用によるからだ。

 一般に、通常の業務は、部下がやる。そこでは、定型業務がなされるし、なすべきことはマニュアルなどで決まっている。
 一方、個別の難局に遭遇したときは、ボスが個別に総合判断を下す。ここでは、定型的な業務がなされるのではない。マニュアルに書いてあるようなことがなされるのではない。高度な総合判断力によって、最終的な決断が下される。
 こういうことは、感情も作用するので、ちょっと非科学的に思えるかもしれないが、実は、通常の科学的な業務よりは、はるかに高度な業務なのだ。

 そして、「他人の通らない道(少数派の道)を取る」というようなことも、高度な総合判断による。たとえば、中村修二が青色LEDの研究で、窒化ガリウムの研究をするか否かは、マニュアルなどによって決めたのではなく、彼の高度な総合判断によって決められた。
 これはとても重要なことだ。
 たいていの凡人は、中村修二のような道を取らない。むしろ、こう思う。
 「大多数の人は、セレン化亜鉛こそ正解だ、と言っている。みんながそう言っているのだから、真実はこちらにあるのだろう。みんなの言うことを信じて、みんなと同じことをしよう。」
 これが普通の人の判断だ。いかにも定型的な判断だ。一方、中村修二は、自己の独自の判断によって、別の道を選んだ。ここでは、あえて危険な道を選んだ。危険な道を。一見、成功する可能性の低そうな道を。
 ここでは、非常に高度な総合判断がなされたことになる。
 とすれば、そういう非常に高度な総合判断をなすための「心構え」こそが重要になる。
( ※ どうするべきかを記した教科書などはないからだ。)

 ──

 では、その心構えとは、どんなものか? それは、「他人の通らない道(少数派の道)をあえて取る」という心構えだ。そのポイントは、次の (1) (2) (3) で示せる。

 (1) 独立心
 しがらみにとらわれないためには、「しがらみにとらわれまい」という心を意識的にもつことが必要だ。
 たいていの人は違う。「主流派はこう考えています」という話を聞くと、「それに従います」と考える。つまり、「長いものには巻かれろ」だ。そして、それは、出世のためには不可欠である。だからたいていの人はそうする。
 しかし、「主流派はこう考えています」という話を聞くと、「それに従ってたまるか」と考えるような反発心をもつといい。これは、「反発心」とも言えるし、「天の邪鬼」とも言える。そういう精神が必要だ。
 政治で言えば、「お上の言うことに従います」とは思わず、「お上にたてついてやる」というふうに。
 学界で言えば、「主流派の言うことに従います」とは思わず、「主流派にたてついてやる」というふうに。
 職場で言えば、「ボスの言うことに従います」とは思わず、「ボスにたてついてやる」というふうに。

 こういう精神をもつことが重要だ。で、その結果は? たいてい、ひどい目に遭う。たとえば、ボスに嫌がられて、冷遇される。主流派に「トンデモ」と呼ばれて、悪罵される。政治権力のテリトリーからはじき出されて、冷や飯を食わされる。……ま、ろくなことはない。損するばかりだ。実際、中村修二も、さんざん冷遇されてきた。
 しかしながら、そういう「反発心」「天の邪鬼」という心構えなしには、画期的な成功はおぼつかない。
 だから、「冷遇される」と自覚した上で、あえて「反発心」「天の邪鬼」の道を進もう、という心構えが必要だ。
 もしそれがなければ、主流派の道を歩むしかない。その場合は、安楽な生活や人生を取れるだろうが、画期的な業績などはとうてい無理だ。

 なお、ついでに言えば、このような精神は、「若さ」とも言い換えることができる。若い精神は、主流派に平然として反発する。年取った精神は、多数派になびく。
 独立独歩の道を歩むには、若々しい精神が必要なのだ。

 (2) 捨てる勇気
 未知の道を進むには、新しいものにトライする勇気が必要だ。
 では、その勇気は、どんな勇気か? 無謀な危険なことに進む勇気か? バンジージャンプをやるとか、急流下りの小舟に乗るとか、危険なロケットやグライダーに乗るとか、そういう危険なことに進む勇気か? ……いや、それは、ただの無謀さだ。勇気とは違う。

 新しいものにトライする勇気とは、古いものを捨てる勇気だ。それはつまり、すでに得たものを捨てる勇気だ。
 人はこれまでに長年をかけて、多大なものを得てきたはずだ。しかるに、まったく新しい道に進むとしたら、これまでに得てきた多大なものを、ごっそる捨てるハメになる。それは自分の人生を捨てるようなものだ。非常に難しい。
 たとえば、あなたは、すでに獲得した学歴を捨てて、未知の外国で裸一文からやり直す気はあるか? ないだろう。せっかく得たものを捨てる勇気はないだろう。
 だが、得たものを捨てられないという弱さが、しがらみの根源なのだ。得たものを捨てられないから、新しいものを獲得できないのだ。

 比喩的で言えば、魚から両生類への進化の際には、水中での最適化という形質を捨てなくてはならない。四肢を獲得するためには、すでに得た四つのヒレを捨てなくてはならない。
 そういうふうに、新しい領域に進出するためには、古い領域において役立ったものを捨てなくてはならない。そして、捨てることのできたものだけが、成功できるのだ。

 生物の進化の際には、突然変異などが必要となる。学術研究者の場合には、何が必要となるか? もちろん、心だ。すなわち、新しい領域に進もうとする心だ。それは、前に進もうとする勇気であり、かつ、古いものを捨てようとする勇気だ。
 人は、新たなものを得る勇気なら、いくらでもある。しかし、古いものを捨てる勇気は、なかなかない。そして、そのせいで、新しいものを得ることができにくくなる。……これがつまりは、「しがらみ」だ。

 比喩で言おう。
 若くて美しい女がいる。その女をどうしても欲しくなる。その際、「新しい女を欲しい」と思えばいいか? いや、「欲しい」と思うだけなら、誰だってできる。大事なのは、「古い今の女房を捨てる」という心構えだ。単に「新しい女を欲しい」と思うだけならば誰にもできるが、「古い今の女房を捨てる」ということは容易にはできない。そして、その容易にはできないことをやり遂げたものだけが、新しい女を得ることができる。
 そして、「古い今の女房を捨てる」というのは、「しがらみを捨てる」ということだ。古女房との間には、長年をかけて形成された蓄積がある。子供もいるし、財産もある。そのすべてを捨てることができるか? とうてい、できないだろう。それが普通の人だ。
 「しがらみを捨てる」というのは、このように、とても困難なことだ。「新しい領域へ進もう」と思うことは簡単だが、「古いものを捨てよう」「すでに獲得したものを捨てよう」と思うことは困難だ。
 では、なぜ、困難か? 成功する保証はほとんどないからだ。古女房を捨てても、新しい女がこちらと結婚してくれる保証はない。途中で気が変わって逃げてしまうかもしれない。たとえ結婚してくれても、数年後には「あんたには飽きた」と言って逃げてしまうかもしれない。……こういうふうに、成功の保証はない。だからこそ、古女房を捨てることは困難なのだ。
( ※ なお、注意。「古女房を捨てることが立派だ、そうせよ」と述べているわけではない。絶対に違います。絶対です。絶対ですよ。……私はすべての古女房を尊重します。勘違いしないでね。  (^^); )
( ※ 解説しておこう。ここでは、「古女房を捨てる横暴さが必要だ」と述べているのではなく、「古女房に捨てられたくないという臆病さを乗り越える勇気が必要だ」というふうに述べている。……なお、「おまえにそれがあるのか!」とは聞かないでほしい。武士の情けというものです。  (^^); ) 

 (3) 自己反省
 以上の二つは主要な心構えだが、もう一つ、補助的な心構えがある。それは、自己反省の能力だ。具体的には、次のことを認識することだ。
 「自分もまた、しがらみにとらわれがちだ」
 人は、いくら「しがらみにとらわれまい」と思っても、どうしても、しがらみにとらわれてしまう。人間というのは、そういうものだ。人間は、過去の蓄積によって形成されたものであるから、どうしても、過去の蓄積からは逃れがたい。そういうものだ。
 だから、そういう現実を理解するべきだ。そしてまた、自分の欠点を自覚するべきだ。「自分もまた、しがらみにとらわれがちだ」と。

 実は、これが最も困難なのである。
 人は、「自分は利口だ」というふうには思いがちだが、「自分は馬鹿だ」とは思いたがらない。むしろ、「自分は何でも知っている」と思いがちだ。そのせいで、自分が知らないものについて、理解しようとしたがらなくなる。
 たとえば、誰かが画期的な新説を出すと、「その新説はどういうものか?」というふうに興味津々で探ろうとする人もいるが、むしろ、「画期的な新説なんて、トンデモだ。主流派の説とは違うから、間違いに決まっている」というふうに、頭ごなしに否定しがちだ。

 もちろん、それは、きわめて当然のことだ。なぜぜなら、前述のように、画期的な新説は、過去の自分が獲得してきたものを否定するからだ。
 たとえば、天動説が主流であるときに、地動説が出れば、地動説を否定したがる。なぜなら、これまでに獲得してきたものを、ごっそり失う危険があるからだ。
 また、創造説が主流であるときに、進化論が出れば、進化論を否定したがる。なぜなら、これまでに獲得してきたものを、ごっそり失う危険があるからだ。
 また、江崎玲於奈や西沢潤一の場合も、同様だ。トンネル効果なんていうものを認めると、これまでの常識が覆るので、たいていの(日本の)研究者はトンネル効果を否定しようとした。「トンデモ」呼ばわりして。

 というわけで、画期的な新説が出たときには、人は誰しも、これを否定したがるものだ。それが当然なのだ。
 ただし、その際、そういう自分自身を自覚するといい。「自分は古いものを捨てるのを恐れているのだ」と。……そういうふうに自己の弱さを認識することこそ、何よりも大切であり、何よりも困難である。
 これは、科学の問題ではない。心構えの問題だ。勇気の問題だ。自己の誤りを認識するという勇気。──そして、そういう勇気をもたなければ、未知の分野には突き進めない。
 ソクラテスは「無知の知」という言葉を語った。この言葉は、語ることは簡単だが、実行することはすこぶる困難である。どの分野であれ、自分には専門知識があると自信満々である人は、既存の知識を破壊する新説と出会ったとき、「無知の知」を意識することは困難である。……そういう場合、たいていの人は、新しい知識を攻撃する。
 西沢潤一、江崎玲於奈、中村修二といった三人は、こういう攻撃にさらされてきた。
 だが、その際、彼らが攻撃にさらされただけでない。彼らを攻撃している人々もまた、自分で自分を攻撃していたことになる。なぜなら、攻撃する人々は、虚偽を攻撃しているつもりで、真実を攻撃していたからだ。そのせいで、真実を見る機会を失ってしまったからだ。
 西沢潤一、江崎玲於奈、中村修二といった三人を攻撃した人々は、おのれの人生のほとんどを無駄にしてしまった。これらの攻撃する人々は、この世に生まれた価値はなかった、とさえ言える。彼らは科学の進歩に貢献したのではなく、科学の進歩を遅らせるのに貢献しただけだ。彼らの存在価値は、ゼロどころか、マイナスであった。彼らは、真実を知る人々を攻撃することで、結局は、自分自身の価値を最低にまで下げてしまった。ほとんど病原菌ぐらいの最低の価値にまで。(マイナスの価値。)

 では、そういうふうに自分の人生を無駄にしないためには、どうすればいいか? それは、たった今述べたとおりだ。「自己反省」をすればいい。「自分は誤っているのではないか?」というふうに、自分自身を疑う勇気をもてばいい。そうすれば、ひどく誤った道にまぎれ込む恐れがなくなる。
 誤った道に踏み込む人は、たいてい、自分自身では正しい道を進んでいると思い込んでいる。そしてやがて、間違った道を通っていることに気づく。しかし、気づいたときには、もはや手遅れだ。……だから、そうならないように、常に「自己反省」をすることが必要だ。
 そして、その目的は、攻撃対象の相手を救うことではない。自分自身を救うことだ。自分の存在価値をマイナスにしないように、と。

( ※ 当然ながら、世の中の謙虚な人々は、このくらいのことはちゃんとわきまえている。「いちいち言われなくてもわかっている」と思う、立派な人も多いだろう。しかし、このネット時代には、他人を攻撃することに熱中する人が多いものだ。前にも述べたことがあるように。 → Wiki型と 2ch型

 ──

 以上の (1) (2) (3) で、「心構え」を示した。「しがらみ」から脱するための心構えを。方法以前の、心構えを。



 オマケふうの話を、少し足しておこう。

 [ 付記1 ]
 しがらみにとらわれた人は、画期的な新説に対して、しきりに攻撃する。(例は、前項で述べた、江崎玲於奈や西沢潤一などへの悪口。)
 では、いやらしい攻撃と、正常な学術的批判とは、どう違うか? その違いは、攻撃の対象を見ればわかる。
  ・ いやらしい攻撃   …… 個人の人格を攻撃する。
  ・ 正常な学術的批判 …… 個人の理論を攻撃する。
 前者は、人格攻撃をする。相手に対して、「馬鹿だ」「トンデモだ」というふうに。
 後者は、理論を批判する。相手の理論に対して、「これこれの箇所がこれこれのように間違っている」というふうに。これは、まさしく学術的だ。
 どちらを取るかで、批判者の種類もわかる。一般に、「こいつはトンデモだ」と語る人は、相手を人格攻撃しているので、その人自身、まともではないことを暴露するだけだ。
(仮に、相手が本当にトンデモであったなら、「トンデモだ」と批判しないで、「ここが間違っていますよ」と指摘するだけで足りる。いちいち悪口を言う必要はない。やれば、自分がみじめになるだけ。)

 [ 付記2 ]
 さて。すぐ上のことは、前フリだ。もっと重要なことがある。比較して、次の三通りがある。
  ・ 個人の人格を批判する
  ・ 個人の理論を批判する
  ・ 既存の学問体系を批判する

 このうち、最後のものが大切だ。それはつまり、既存の体系を批判して、既存の体系の穴を埋めることで、既存の体系を進歩させる。
 たとえば、「古典力学にはこれこれの問題がある」と批判することで、古典力学の問題点を浮き上がらせ、新たな量子論への進歩を導き出す。……これは、理想的な批判だ。
 こういう批判こそ、なすべきことだ。(前の二通りは、たいして有意義ではない。)

 [ 付記3 ]
 すぐ前では、理想的な批判というものを述べた。では、それをなすには、どうすればいいか?
 一般に、理想的な批判をする人の頭は、若々しい。個人の批判をする人の頭は、老化している。(特に、個人の人格を批判する人。)
 そもそも、体系全体を批判するには、精神の若さが必要だが、特定個人を批判するには、頑固じじいの老化があればいい。
 何か新しいことをなすために、何よりも大切なのは、精神の若々しさだ。老人のように他人を批判して喜ぶのではなく、若者のように未知のものをどんどん吸収しようとする柔軟さだ。
 だから、画期的な業績をなそうと思うのであれば、日ごろから、精神を若々しくしておくことが必要だ。──たとえば、専門分野の本だけを読むのではなく、幅広い領域に関心をもって、幅広い考え方を知る。
 そして、その目的は、単に幅広い知識を得ることではなくて、頭を柔軟にすることだ。「日々これ勉強」というふうに。常に学ぶことで、常に精神を若々しくすることができる。
 そして、そういうふうに若々しい精神を保てば、「他人から『トンデモ』と軽蔑されても進む勇気」というものをもつこともできるようになる。
 
 生きるのであれば、どこかの他人を攻撃して喜ぶよりは、未知の荒海に乗り出して、新たな航路を開拓しよう。それこそが人間にとって最大の人生の意義だ。それをなしたとき、人生を最大に充実させることができる。大いなる達成感とともに。

 [ 付記4 ]
 余談ふうに、くだらない話を一言述べておこう。
 「しがらみ」の対極となる概念は、「本質の理解」である。この件は、「兼坂弘の教え」など、あちこちで述べた。
 なお、「本質」という概念は、「核心」と言うこともできる。
 一方、本項で述べた「心構え」は、「革新」と言うこともできる。
 この二つを合わせると、「核心と革新」というふうになる。……ちょっとダジャレふうだが、覚えやすい。
(あまり大事ではないが、ダジャレふうの話。)

                          【 しがらみ ・完  (全3回)】
           (このあと、オマケの項目が一つ追加されます。次項。)
posted by 管理人 at 22:05| Comment(1) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「しがらみ」にとらわれることなく大きな短所を気にせずに主流派から脱することによって突破口を開いた,という実例を聞くと小さな挑戦者が栄光を掴むサクセスストーリーとして爽快ですね。
もっとも現実には,主流位置での地道な努力が実を結び結果がでた,というケースも少なくないはずですし,主流派を外れて信じる方向に進んだけれどもそのまま陽の目を見ないというケースも多いかと思います。
問題は,突破口が主流延長上にあるかそうでないかは結果論であって誰にも事前には分からないということでしょう。
個々の研究者にとってはリスクがあり悩ましいところでしょうが,分野全体としてみれば行き詰まりが見えた問題で多方向に研究をすすめることは突破の可能性を高めるでしょうから好ましいと思います。
ただ,こういう傍流奨励は個人への提言ではなくて研究分野の戦略として考慮すべきことだとは思います。
管理人さんはここで個人に対してではなく社会に対して提言されているんですよね。
Posted by 良寛 at 2007年09月21日 18:51
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