2007年09月19日

◆ しがらみ (2)


 人は「しがらみ」にとらわれやすい。( → 前項
 では、しがらみを打破するには、どうすればいいか? その方法について述べる。 ──

 「しがらみ」にとらわれないということ。それは、科学技術の分野では、新しい理論(など)を生み出すことを意味する。
 たとえば、次のように。
   ・ 古典力学のしがらみを脱して、量子力学を生み出す。
   ・ 天動説のしがらみを脱して、地動説を生み出す。
   ・ 創造説のしがらみを脱して、進化論を生み出す。

 では、そういうふうに「しがらみ」を脱するには、どうすればいいか? 

 ──

 実は、そのための簡単な方法などは、ない。
 「この方法さえ用いれば、簡単に新たな学説を生み出せます」
 という方法など、あるはずがない。量子力学であれ、地動説であれ、進化論であれ、それらはいずれも、「ある簡単な方法を用いて、ちょこちょこっとお手軽に新たな学説を生み出した」というわけではない。
 物事はそんなに簡単ではないのだ。

 とはいえ、それで話がおしまいになっては、詰まらない。
 大事なことは、この先にある。

 ──

 まず、具体的な例を見よう。抽象的な話は、結論として述べることにして、その前に、具体的な例を見る。それは、青色LEDの発明だ。
 青色LEDの発明については、次の二つの点に着目するといい。
   ・ 赤崎勇(名古屋大学・名城大学)が、基礎的な発明をした。
   ・ 中村修二(日亜化学工業)が、量産技術を開発した。

 (詳しくは Wikipedia などを参照。)

 ──

 さて。この例を教訓として、次の結論を提出しよう。
 「しがらみ」を脱すにには、次のようにするといいだろう。 (a) (b) (c) (d) がある。


 (a) 独創性の理解
 新しい理論を自分の力だけで生み出そう、というのは、非効率的だ。それは、多大なる試行錯誤が必要であり、しかも、成功の確率は、著しく低い。そういうことには、ものすごい天才か、ものすごい幸運か、どちらかが必要だ。とすれば、まったく新しいものを自分の力だけで生み出そうというのでは、やめた方がいい。人生がいくつあっても足りないからだ。
 上記の例でいえば、青色LEDの方法を開発するのは、たまたま成功することができた基礎科学者(赤崎勇)に任せておけばいい。普通の人は、そんなことに手を染めるべきではない。
 ただし、である。普通の人でも、中村修二に似たことなら、なすことができる。(中村修二は、やはり天才なので、彼と同じことをそっくりそのままなすことはできないだろうが、その真似ならばできる。)
 その意味は? こうだ。
 「すでに成功した独創的な理論について、それを見出し、それを理解すること」

 独創的な見解というのは、公開された時点では、まだ主流とはなっていない。
 そこで、まだ主流とはなっていないうちに(つまり公認されていないうちに)ひときわ素早く着目して、そこに手をつければいいのだ。
 中村修二で言えば、赤崎勇の成果に着目して、それを理解すればいいのだ。そのことで、主流派とは異なる、まったく独創的な成果をなすことが可能になりそうだ。
 この際、成功の保証はない。では、それは問題か? いや、成功の保証がないからこそ、ライバルは少ない。それゆえ、独創的な業績を上げることが可能になる。
 中村修二で言えば、赤崎勇の成果(窒化ガリウム)に着目して、その量産化技術を開発すればいい。学界の大部分は、主流派の研究(セレン化亜鉛)にこだわっていたが、そういう主流派に背を向けて、非主流派の風変わりりな研究に着目すればいい。
 そのことで、どうなるか? すでにある新しい理論を理解することで、そこに自分の成果を付け加えることができる。しかも、その成果は、ライバルが少ないから、画期的な大きな成果になりやすい。
( ※ 進化論ふうに言えば、新領域に進出すればいい。その新領域では、ライバルがいないから、領域の大部分を自分のものにすることができる。まったく新しい新種というものは、そういうものだ。)


 (b) 範囲を広げる

 独創的な研究に進むときには、他人のやらないことをやる。新たな領域に進出する。
 では、その際に重要なことは、何か? 「他人とは異なることをやる」ということか? 個人レベルでいえば、そうだ。しかし、人類レベルでいえば、次のことだ。
 「研究の幅(多様性)をひろげる」

 人々は、「有望だ」と思えたものだけを研究しがちだ。ただそれだけを。通常は、そうしてもいい。特に、そうして成功するなら、問題ない。
 しかし、いつまでたっても成功しないことがある。その場合には、「研究の幅をひろげる」ということが大切になる。すなわち、一つの道を狭く深く掘り下げるよりも、広い道を浅く広く探ることが大切になる。
 そのときには、「短所のあるものを考察する」ということが大事になる。
 「短所があるから駄目だ」というふうにあっさり却下しないで、「短所があっても保留しておこう。そのまま捨てずに、さらに研究しておこう」という態度を取るといい。そうして範囲を広げるといい。そのことで、成功の確率が高まる。


 (c) 短所と長所

 範囲を広げるときには、どうすればいいか? 次のようにするといいだろう。
 「短所よりも長所を見る」

 一般に、人は、その反対になりがちだ。つまり、「長所よりも短所を見る」というふうになりがちだ。
 たとえば、青色LEDならば、主流派はセレン化亜鉛系だった。主流派の立場から見れば、こちらの方がずっと実用化に近くて、有望だった。一方、窒化ガリウムは、実用化からはほど遠くて、大きな短所があった。
 しかしながら、窒化ガリウムには、別の長所もあった。大きな短所もあったが、大きな長所もあった。
 ここで、どうするべきか? 主流派ならば、「大きな短所のあるものは駄目だ」と判断して、窒化ガリウムを否定するだろう。

 しかし、別の発想も成立するはずだ。次のように。
 「どちらが実用化に近いかは、関係がない。実用化は、するかしないかであって、実用化に近いか近くないかは、関係がない。野球の試合で言えば、途中経過で優勢であるかどうかは関係なくて、試合が終わったときに勝つか負けるかだけが問題だ。」
 「そして、二つの方法がどちらも一長一短であるのならば、どちらにも成功の可能性はある。実用化に近い方が有利だ、とは限らない」
 「大多数の人々が、有利だと思える方にかけるのであれば、賭け率(オッズ)は下がる。ならば、成功の確率が低く見えても、他人とは異なる道に進む方が、うまく行くかもしれない」

 こういう発想がある。そして、こういう発想に基づいて、短所のあるものを研究するといい。
 実を言うと、青色LEDに限らず、あらゆる理論は、発表当初には大きな短所をかかえていた。
 たとえば、量子論は、誕生当時は未完成であって、いろいろと問題があった。そのくらいだったら、まだしも古典力学の方がマシだ、と思えることすらあった。(たとえば、複素数を使って、波動関数というわけもわからないものを扱う、というのは、当時としては、ほとんどトンデモ扱いされかねない、根拠不明の学説だった。)
 こういうふうに、新しい説というものは、当初は未完成であって、大きな短所をかかえているものだ。(最初から完成した理論というのは、例外的である。特殊相対論ぐらいだろう。)
 ただし、新しい理論には、短所があっても、それにもかかわらず、大きな長所があるので、その後に、発展の余地が生じる。
 だから、新しい理論にとって大切なのは、短所があるかどうかではなくて、長所があるかどうかだ。長所、つまり、根源的な新しさ。それさえあれば、そのあとどんどん延びることが可能だ。一方、短所については、いろいろと修正されていくだろう。(どうしても短所が解決しないこともあるが。)
 ともあれ、新しい理論に着目するときは、「短所があるかどうか」に着目して、揚げ足取りをするべきではない。むしろ、「根源的な新しさ」があるかどうかに着目するべきなのだ。
 そして、そのために必要なのは、「視点を変える」ということだ。視点を変えることで、まったく新たな見方が可能になる。


 (d) 延長上にない

 「視点を変える」ということは重要だ。では、なぜ? それは、次のことによる。
 「同じ視点を取っている限り、視野の外にある真実には気づかない」

 たとえば、「前方 30度の範囲に宝物があるだろう」と信じて、しきりに探し回るとする。その場合、前方 45度のところに宝物があっても、見逃してしまう。……そして、そういうことは、しばしば起こりがちだ。
 こういうことは、なぜ起こるか? その本質は、こうだ。
 「いくらさがしても見つからないものは、従来の理論の延長上にはないことが多い」

 たとえば、古典力学でいくら研究しても真実が見つからないときは、真実は、古典力学の延長上にはなく、まったく別のところにある。
 また、天動説でいくら研究しても真実が見つからないときは、真実は、天動説の延長上にはなく、まったく別のところにある。
 こういうふうになるのが普通だ。だから、従来の理論が壁にぶつかっているときには、従来の理論をより深く研究して、その延長上に真理を見出せばいいのではない。むしろ、従来の理論を参考としながらも、従来の理論とはまったく別の方向に、真理を見出そうとするべきだ。


 [ 付記1 ]
 最後の「延長上にはない」ということは、大切だ。というのは、人々はたいてい、「延長上にあるはずだ」と思うからだ。
 たとえば、量子力学では、「現代の量子力学の延長上に真理はある」と思い込んでいる。進化論でも「現代の進化論の延長上に真理はある」と思い込んでいる。
 人々はそれを自明のことだと思い込んでいるが、それがいかに根拠なしであるかは、歴史を見ればわかる。
  ・ 古典力学の延長上に量子論も成立するはずだ。
  ・ 創造説の延長上に進化論も成立するはずだ。
 かつてはこれが主流の発想であった。人々は誰もがこれを信じていた。しかしそのように、「従来の説の延長上に真理はある」ということは、ありえないのだ。
 典型として考えられるのは、創造説だ。これは、次の発想を取る。
 「われわれの父母は、人間である。そのまた父母も、人間である。そのまた父母も、人間である。……ゆえに、何代さかのぼっても、その父母は人間である。だから、最初から人間は人間であった。」

 こういうふうに「延長上に真理はある」という発想を人々は取りがちだが、必ずしもそうとは言えないのだ。
 この件は、次の項目で、典型的に扱った。
  → 成功体験の縛り
   http://openblog.meblog.biz/article/79431.html

 [ 付記2 ]
 「真理は延長上にない」ということは、「クラス進化論」における進化の原理に似ている。
 クラス進化論では、種というものは、ある程度で進化が頭打ちになって、それ以上進化しなくなる。一方、まったく別の方面に向かって進化する新種があると、さらに大幅に進化することが可能になる。
 人類で言えば、人類はこのあとどんなに小進化を蓄積しても、まったく別の種に進化することはない。いつまでたっても人類のままだ。下等生物が今でもずっと下等生物であるように。
 とにかく、進化というものは、同じ方向を保つ限り、やがては進化が頭打ちになる。つまり、壁にぶつかる。壁を越えるには、まったく別の方向に進むしかない。(そして、そうして誕生したものは、いっそう進化した人類ではなくて、まったく別の種の生物である。)
 ともあれ、まったく新しいものは、従来のものの延長上にはない、ということだ。

 ──

 【 参考 】
 本項では、いろいろと「方法」について述べた。
 次項では、「心構え」について述べる。
 テーマはいずれも「しがらみを脱するには?」ということだ。
posted by 管理人 at 22:22| Comment(0) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
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