「本質を見よ」という本質主義とは異なるものとして、「経験主義」というものを示した。( → 前項 )
これは、経験にとらわれるあまり、本質を見失うものだ。ではなぜ、そういうことが起こるのか? それは「しがらみ」という概念で理解される。 ──
まず、事実を見よう。
人々は、経験主義を取りやすい。経験にとらわれるあまり、本質を見失いやすい。ではなぜ、そうなのか?
人々は別に、「本質を無視しよう」と思って、本質を無視するわけではない。単に「経験を大事にしよう」と思っているだけだ。ではなぜ、そのことが問題になるのか? 経験と本質とが対立したときに、経験の方を重視するからだ。
ここで、経験が正しければ何も問題ではない。たいていの場合は、経験は正しい。しかし例外的に、経験が正しくないことがある。それは、学問が進歩・革新する場合だ。
たとえば、物理学では、「古典力学から量子力学へ」という革新があった。ここでは、過去の経験主義は役立たず、まったく新たな発想が必要となる。その際には、経験主義よりも、本質主義が大事にある。
しかし、それにもかかわらず、人々は経験主義を重視する。すなわち、真実よりも、過去の経験を重視する。
──
ではなぜ、人々は過去の経験を重視するのか? それは、何らかの理由があるからだと言うよりは、もともと人々はそういうものだのだ、と考えるといい。
簡単に言えば、人々は「しがらみ」にとらわれるのだ。
ここで言う「しがらみ」とは、過去の蓄積によって人間の思考を縛るものだ。どうしてそうなのかは考える必要はなく、とにかく人間というものは、そういうものなのだ。
すなわち、いったん知識を得たあと、その知識を利用して成果を挙げるが、それと同時に、その知識に束縛される。そこから自由になれない。
たとえば「雨の降る日には傘を差す」という知識を得る。それでたいていの場合は役立つ。そして、いったんその知識を取ると、その知識に縛られる。あらゆる場合にその知識を適用する。そのせいで、そこから自由になれない。
たとえば、台風が吹く。そこではものすごい風が吹くので、もはや過去の知識は役立たない。「雨の降る日には傘を差す」という知識は役立たずであり、むしろ、「雨の降っていても傘を差さない」という逆の知識を取る必要がある。……その知識は、通常、他人から与えられるというよりは、自分の頭で考えることによって得られる。
ここで、人の態度は、二通りに別れる。
本質主義の人は、「傘を差しても駄目だ」という事実を理解して、台風のさなかで傘をたたむ。
経験主義の人は、「雨の降る日には傘を差す」という知識にあくまでもとらわれて、束縛されるので、台風のさなかでどうしても傘を差し続ける。そのあげく、傘がおちょこになったり、傘が壊れたり、あるいは、傘とともに吹き飛ばされて、自動車にはねられて死んでしまう。
──
結局、未知の新たな状況では、過去のしがらみを離れる必要がある。しかし、人間というものは、そうすることができにくい。あくまで、過去のしがらみにとらわれ続ける。そういう人が多い。
似ているもの。古女房。長年のしがらみ。逃れにくい。
古い概念。
──
こういう「しがらみ」の例は、前にも述べたことがある。次の項目だ。
→ 「成功体験の縛り」
http://openblog.meblog.biz/article/79431.html
これは、「一度あることは二度ある。二度あることは三度ある」と思う、という形で、過去の経験に縛られることだ。そちらも参照。
(詳しい話はそこに記してある。)
──
ともあれ、人間というものは、保守的である。過去のものに縛られ、新たなものには踏み出しにくい。
新しいものが出れば、新しいものが真実であるかどうかよりも、慣れ親しんでいるかどうかで、判断を決めるものだ。
そのことは、日常生活で、しばしば見られる。次のように。
「料理では、慣れ親しんだ味を好み、未知の外国料理は味見したがらない」
「結婚では、長年慣れ親しんだ古女房が気楽であり、まったく新たな別の女性と再婚しようとは思わない」(今の古女房がよほどひどいのでなければ)
「機械もまた、慣れ親しんだ操作性のものを好み、新たなものに移り変わろうとはしない。たとえば、Mac なら Mac だし、Windows なら Windows だ。現状維持を保とうとする」
同様のことは、学問にも成立する。
たとえば、「量子は波と粒子の双方の性質をもつ」という発想に慣れ親しんだら、その発想にあくまでこだわる。「量子は波と粒子のどちらか一方だ」という新たな発想に飛び出すことはしない。
( → 「 粒子か波か」 )
──
では、こういうことの根源には、何があるか? それは、一言で言える。
「思考の硬直性」
これである。一般に、年寄りほど、思考は硬直する。そのせいで、いったん受け入れた思考から、新たなところへと踏み出すことができない。
若いうちならば、新たな思考を受け入れることができるが、年を取ると、新たな思考を取ることが困難になる。そのせいで「思考の硬直性」が起こる。
「しがらみ」の正体は、これである。
[ 付記1 ]
「しがらみ」の正体は、「思考の硬直性」である。だからこそ年寄りというものは、口うるさくて、怒って、他人の悪口ばかりを言うのである。(頭が硬直しているので。)
彼らが好きなのは、何か? 「アラ探し」や「欠点の発見」であって、「真実の発見」ではない。他人の失敗するのを見るのを喜び、他人が成功するのを見るのは喜ばない。
こういう人物は、しきりに揚げ足取りをしたがる。2ch型とも言える。だから、2ch 型の本質は、「頭が老化したせいだ」とも言える。若年寄。(ゲームのやりすぎかも?)
[ 付記2 ]
頭の硬直した人々は、しがらみにとらわれる。その実例は、どこに見出されるか? 探すのは、簡単だ。「トンデモ」という言葉を使っている人を見れば、たいていがそうだ、とわかる。
たとえば、革新的な意見を見て、「トンデモだ」という批判する人がいる。こういう人々こそ、しがらみにとらわれた人々だ。
一般に、「トンデモだ」と批判する人は、経験主義を取る。彼らは、革新的な意見を見たとき、理屈で正面から批判することはできないから、「トンデモだ」というふうに悪口を言うだけだ。
なお、批判対象が本当にトンデモである場合には、どうか? その場合は、いちいち「トンデモだ」というふうに悪口を言う必要はなく、単に学術的に批判するだけで足りる。まともな人間は、口汚い悪口なんかは言わないものだ。(言えば自分の品位が落ちるだけ。)
[ 付記3 ]
しがらみにとらわれた老人的精神に攻撃された例を示そう。その具体的な例は、こうだ。
・ 光ファイバーを発明した西沢潤一
・ エサキダイオードを発明した江崎玲於奈
彼らはまさしく、上記のような攻撃の対象になった。彼らは日本の学界からはまったく評価されず、日本の学界から攻撃対象になるばかりだった。そこで彼らを外国の人々が評価して、それを逆輸入する形で、彼らは日本でも評価されるようになった。
日本という国では、独創性のある人には、やっかみばかりがふりかかる。最近では、中村修二も、同様にひどい攻撃にさらされた。
【 注記 】
本項は、「しがらみ」というものを紹介した。
このあと、「しがらみ」を脱する方法を示す。それは次項で。
→ しがらみ (2)
2007年09月17日
過去ログ

ミュージシャンを目指す若者ですw
全くその通りです
ホント幼い頃からしがらみが嫌いで嫌いでしょうが無かった
もう幼稚園位の年の時にはそういうのが嫌で嫌で…新しい変わった事ばかりやってました。先生の言う事にはいつも逆らってました。
悪い変な奴見たいなレッテルでしたが、そんな問題児である事にひねくれた誇りを持ってました(笑)
でもそのおかげで他人には無いアイディアを利用して工作の時間では1番素晴らしかったと断言出来ます
高校までずっとそのまま来たから当然いじめのターゲットでしたね。
さすがに折れそうになって「自分の人生、全部間違いじゃないか?」とまで追詰められた事もありましたが
いまさら変えれませんw
「異端児気取りのキモいだけ」
なんて高校時代には言われてました
未だにマジョリティの右翼っぷりにはあきれますが
ちなみに今はマイナーな洋楽に詳しい僕が世界中見てもほとんどない新しいジャンルのサウンドをシコシコ作ってます。
同じタイプのバンドは多くても10も無いでしょう。いや、ホントに僕とあと2、3だけかもしれない。
かなり変態的だと思います。でも分かりやすさも考慮してますよ。
左翼的で漸進的な人の目に止まればいいなと夢見ています。
僕が音楽の歴史の断片を変えるんだ!って勢いで(笑)
「お前には成功なんかムリ」とからかわれても内心見下してますね、そんな人には「ププッ、所詮お前はマジョリティのゲスで何も変えれない」って思ってます(笑)
結局はマジョリティはマイノリティのケツを追うんですよw
可哀想ですね