2007年09月09日

◆ 経験主義


 「本質を見よ」という本質主義とは異なるものとして、「つじつま主義」のほかに、「経験主義」とも言うべきものがある。経験的に正しければそれでいい、という主義だ。 ──

 先に述べた「つじつま主義」は、とりあえず問題をとりつくろう(つじつま合わせをする)という主義だ。
 比喩的に言えば、「対症療法」である。たとえば、風邪の患者が出たときに、ウィルスをなくす(風邪を治癒する)という根源対策を取らずに、解熱剤や咳止めなどで済ませる。なるほど、そうすれば、とりあえず目先の仕事を片付けることはできる。しかしそれは根源的な解決ではないから、病気を改善することはない(この場合にはむしろ病気を悪化させる)。
 つじつま主義は、物事の表層だけで解決して、根源的・本質的な解決を取らない、という主義である。(詳しくは前述のとおり。)

 ──

 さて。それとは別に、「経験主義」というものが考えられる。「経験的に正しいとわかっていればそれでいい」というものだ。物事の根源・本質は難しいからほったらかしておいて、とりあえず日常の便に役立てればいい、というものだ。
 
 具体的な例で言うと、漢方薬がある。漢方薬は、「この場合にはこの漢方薬」ということが経験的にわかっている。ただし、どうしてそういうふうになるのかは、詳しい原理が解明されていない。「理由はよくわかっていないが、とりあえず経験的にはよくなることがわかっている」というだけだ。
 ( ※ なお、原理が解明されると、漢方薬から抽出された成分が人工的に合成されて、西洋医学の薬になる、ということがある。)

 ──

 経験主義の意味は何か? 二つの点から考えるといい。
 第一に、その効用である。経験主義は、原理がわかっていないときには、それなりに役立つ。その意味で、ないよりはずっとマシだ。漢方薬を見て、「原理がわからないから使うべきではない」と思うのは、賢明ではないだろう。
 第二に、過信の弊害である。漢方薬は有効だが、だからといって、「漢方薬さえあればそれでいい。西洋医学なんかまったく必要ない」と思うのは、賢明ではない。「漢方薬が作用する原理を研究する必要もない」と思うのも、賢明ではない。つまり、経験に頼ることは大事だが、経験に頼るあまり、科学的な真実を見失ってはならない。

 ──

 さて。以上のことを訊くと、「当り前だ。何をいちいちごちゃごちゃと言っているのだ」と思う人が多いだろう。しかしながら、この当り前のことが、現代科学では理解されていない。
 というのは、「漢方薬の使い方さえわかっていればいい」というような非科学的な発想が、現代科学では(ほとんど)主流であるからだ。

 という話を聞くと、「嘘つけ」と思う人が多いだろうが、嘘ではない。その例が、量子力学だ。
 量子力学で主流の発想は、こうだ。
 「量子とは何かという問題を、いちいち根源的に考える必要はない。量子が粒子か波か、というような根源的な問題を、いちいち本質的に考える必要はない。単に数式による結果が実験結果と合っていればいいのだ。結果が合っていればいいのであって、その意味がどうのこうのということを考える必要はない」

 これはつまり、「結果の数字さえ現実に合っていればいいのだ。実際に役立てばいいんだ」というものであり、「本質なんかどうでもいい。原理なんかどうでもいい。真実なんかどうでもいい」というものだ。
 これはちょうど、漢方薬の効用だけを重視して、本質や原理を捨て去る立場と、まったく同様である。

 ──

 そもそも、科学とは、何であったか? 
 科学とは、「物事の原理・本質」を探る学問であったはずだ。たとえば、万有引力の法則。ここでは、「リンゴが木から落ちる」という事実を経験的に理解するだけでなく、ある本質としての真実を知ることが重要だ。
 その真実を知れば、「リンゴが木から落ちる」ということだけでなく、「月も落ちている」ということがわかり、「だから月は地球のまわりを回転する」という結論を得ることができる。……こういう一般化や普遍化をなせるということが、真実を知るということだ。
 科学というのは、広く宇宙の真実や本質を知るということだ。それは、身のまわりの具体的な経験に合致すればいいのではなく、具体的な経験を越えた非常に広い範囲の事柄を知るということだ。

 しかるに、現代の物理学者は、そうではない。ま、超ヒモ理論などを研究する理論物理学者は別として、たいていの実験物理学者は、経験主義である。
 「シュレーディンガー方程式については、そこから得られる結論が大事なのであって、そこにおける波動関数の意味なんか、いちいち理解する必要はない。そんなものはどうだっていい」
 というふうに。あるいは、
 「量子が粒子か波かなんて、そんなのを考えるのは、形而上学であって科学ではない。そんなことはどうだっていい」
 というふうに。
 彼らは何と、漢方薬の調合者に似ていることか! 

 これが経験主義である。「真実なんかどうでもいい、経験的にわかっていればいいんだ」と。
 彼らは、目に見えるものだけを重視して、目に見えない本質を理解しない。自分のすぐそばにある現実の実験結果だけを重視して、この地球を越えた宇宙全体の真実を理解しようとしない。

 まとめ。
 経験から得られた知恵を役立てる、ということは、それなりに有益だ。実際、漢方薬も有益だし、現代の量子力学も有益だ。
 しかし、経験で得られた知識だけで十分だ。それ以上の本質など知る必要はないという態度を取ると、真実に到達できない。
 とはいえ現実には、こういう「経験主義」が世にはばかっている。学問の世界でさえ、「役立つことが大事だ」「実用性が大事だ」「出世と金儲けが大事だ」ということになって、「真実が大事だ」という方針は無視されがちである。悲しいかな。……かくて人々は、目をふさがれる。しかも、自分で自分の目をふさいでいるということに、自分で気がつかない。

( ※ このことからわかるように、経験主義の難点は、経験を重視することではなくて、本質を排除することである。「本質なんかどうだっていいのさ。本質なんて無視してしまえ」というふうに。……そして、そういう風潮がまかり通っていることを、本項では批判している。「本質を見失ってはならない」というふうに。)
( ※ ついでだが、経験を重視すること自体は、経験主義でも何でもない。本質主義だって、経験を重視する。ただ、経験を絶対視しないだけだ。)



 [ 付記 ]
 現代の物理学では、経験主義の人々が大多数である。「量子は粒子か波か」という最大の根源的な問題を考える人は、ほとんどいない。極端に言えば、私以外には一人もいない。
 人々は、最大の基礎をおろそかにして、そのあと、虚構の土台の上に、勝手な理屈を構築しているだけだ。砂上の楼閣のように。

 具体的に細かく示そう。違いを示すと、次のように二つの立場がある。(前者が普通の現理大物理学。)

  ・ 量子は、「粒子」であり「波」である。 (性質について AND 型)
  ・ 量子は、「粒子」または「波」である。 (性質について OR 型)

 前者の場合、量子は、常に「粒子」および「波」の双方の性質をもつ。
 後者の場合、量子は、常に「粒子」または「波」の一方の性質をもつ。

 現代物理学は、前者を前提として、理論を構築する。しかしながら、前者のようなことは、実験的には、ただのいっぺんも確認されていない。実験的に確認されているのは、前者ではなく、後者の方だ。
 かくて現代物理学は、虚構の上に理論全体を構築する。
(ただし、それでも特に矛盾は起こらない。「本質のことなんかどうでもいいさ」と考えているからだ。本質を無視する限り、本質的な矛盾も無視できる。……なお、その矛盾を直視すると、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスが現れる。とはいえ、たいていの物理学者は、これについて見て見ぬフリをする。見て見ぬフリをすれば、自分の欠点に気づかずに済むからだ。)

 この問題について詳しい話は、下記を参照。
 → 物理学のサイトのトップページ
   http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm
  (目次のあとに説明がある。)
posted by 管理人 at 11:35| Comment(6) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
> 科学とは、「物事の原理・本質」を探る学問であったはずだ。

おっしゃるとおりだと思います。
ただ,どちらが“より原理的”か“より本質的”か,という判断には悩ましい場合があるのかも知れません。
Posted by 良寛 at 2007年09月09日 18:18
科学も経験主義が多いのでしょうけど、設計は全てと言って良いくらい経験主義でしょう。だから飛行機のボルトも経験でのみ、その取り扱いが決まるのかも....本来は多くの本質的な事を考えないとダメなのだと思います。
ところで、多くの文章を拝読させていただく中で、管理人様も経験主義の方ではないかと感じているのですが、気のせいでしょうか?誤解の無いように敢えて付け加えますが、非難しているわけではなく、単純にそう感じただけです。
Posted by 設計者に不満を持つ者 at 2007年09月10日 01:24
科学に限らず、「経験の絶対視」は良く見受けられるように感じます。小生も肝に銘じねばなりません。

わが国の教育が、知識の習得(過去の経験の積み重ね)のみに偏って、知恵の習得(物事の原理・本質を理解する)をないがしろにしてきたからではないか、と思ってみたりしています。
學而不思則罔 ですかね。

管理人さまの記事を読むことによって、小生のような者でも少しは知恵の習得が進むのではないかと期待しております。
Posted by けろ at 2007年09月10日 13:16
>かくて現代物理学は、虚構の上に理論全体を構築する。
理論的理解を超えたものについては経験に戻るということでしょう。やがて統一的な理解が来るときがあるのでしょう。しかし、とりあえず記述が必要で、ある程度の条件下で予測可能性が必要です。
実験を組めなくなる。
本質を考える時期じゃないと思う人は経験を中心に考えるし、そろそろ理論にまとめることが出来そうな気がするひとは理論の組み換えに挑戦する、ということでしょう。別に「虚構でいい」と思っていないと思います。
科学といわず、知は全体として進化しますので「ドグマによる暴力」、「権力化したドグマ」にならなければ、経験的アプローチでも、理論的、(本質的?)アプローチでもなんでもアリと思いますが。
Posted by 科学者のはしくれ at 2007年09月11日 18:37
古人曰く

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
Posted by 匿名希望 at 2007年09月11日 22:36
理論と経験について雑感です。
ものごとを見るためには必ず「枠組み」が要る、と聞きます。
極端にいえば言葉を言葉として聞くのも「枠組み」だし、視覚でものが見え認識できるのも「枠組み」あればこそのようです。
とすると、ものごとの関係性の認識については「枠組み」がより大きく効いてくるはずです。
「枠組み」は「理論」と言い換えてもいいかと思いますが、「理論」によってものの見え方が変わるのはそのとおりだと思われます。
どの「理論」が世に受け入れられるかは、その「理論」によって見えてくる普遍的「経験」の値打ちによるのでしょう。
場合によっては、その「理論」によって見える「経験」の値打ちを分かってもらうことが難しいのかも知れませんね。
つまらない一般論的戯言で失礼しました。
Posted by 良寛 at 2007年09月12日 12:04
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