2007年09月06日

◆ 「シュレーディンガーの猫」と重ね合わせ

 「シュレーディンガーの猫」の問題では、「生と死の重ね合わせ」がある。つまり、「猫が生きていて、かつ、死んでいる」ということだ。
 これはおかしなことである。ではなぜ、現代量子論では、そんなことが必然となるのか? ──

 直感的に考えれば、次のようになるはずだ。
 「猫は、生きているか、または、死んでいる」
 つまり OR 型である。

 一方、量子論では、次のようになるだ。
 「猫は、生きていて、かつ、死んでいる」
 つまり AND 型である。

 OR 型ならば、何も問題はない。あっさり受け入れられる。(現実の猫はみなそうだ。もしそうでなければ、矛盾となる。)
 しかしながら、量子論の世界では、 AND 型が取られる。すると、「これは不思議だ」という問題(シュレーディンガーの猫の問題)が起こる。
 ではなぜ、量子論の世界では、 AND 型が取られるのか? 
 そのわけを根源的に示そう。

 ──

 この理由は、二重スリット実験を考えると、わかりやすい。

 【 実験 】
 二つのスリット A,B がある。その先に、電子乾板がある。
 電子銃から発射された電子は、二つのスリット A,B を通り抜けて、電子乾板に達して、そこに干渉縞を描く。


 さて。この実験において、電子は二つのスリットのどちらを通ったのか?
 「どちらか一方のスリットを通った」と見なすと、矛盾が起こる。なぜなら、もしそうであれば、干渉縞は生じないはずだからだ。実際、どちらか一方をふさぐと、干渉縞は生じない。
 このことから、「電子はどちらか一方のスリットを通った」という命題は否定される。
 
 ここまでは異論がない。問題は、このあとだ。
 「電子はどちらか一方のスリットを通った」
 という命題は否定される。では、何が成立するのか? 

 現代の量子論では、次のように結論する。
 「一つの電子が、二つのスリットを通った」
 この場合、二つの状態が同時に成立していることになる。これが「重ね合わせ」だ。
 このうち、スリットAを「猫の生」に対応させ、スリットBを「猫の死」に対応させれば、「猫の生」と「猫の死」が同時に成立していることになる。
 同様のことは、あらゆる量子の事柄に適用される。それがつまり「重ね合わせ」という原理だ。

 ──

 問題は、「重ね合わせ」という事柄の是非だ。
 常識的には、「重ね合わせ」などはありえない。「猫の生」と「猫の死」が同時に成立していることはありえないし、一つの電子がスリットAとスリットBを同時に通り抜けることはあり得ない。
 しかしながら、量子の世界では、それが成立する、と見なされる。ここに不思議さがある。
 では、この不思議さを、どう理解したらいいのか? 

 ──

 二重スリット実験で、注意しよう。
 「一つの電子がどちらか一方のスリットを通った」
 というのは否定される。では、
 「一つの電子が、二つのスリットを通った」
 というのは、正しいのだろうか?
 これは一見、正しいと思える。しかしそこには、暗黙の前提がある。それは、
 「電子は粒子である」
 という前提だ。この前提のもとでは、
 「一つの電子が、二つのスリットを通った」
 ということ以外にはあり得ない。いくら不思議でも、それ以外にはあり得ないのだ。

 ただし、である。この暗黙の前提をはずせば、どうなるか? もちろん、
 「一つの電子が、二つのスリットを通った」
 というふうになるとは限らない。
 つまり、
 「一つの電子がどちらか一方のスリットを通った」
 というのは否定されるが、だからといって、
 「一つの電子が、二つのスリットを通った」
 というふうにはならない。かわりに、次のことが成立してもいい。
 「波が、二つのスリットを伝わった」
 これが超球理論の発想だ。

   一つの電子(粒子)  ・ ────→

   波としての電子      )))))))))→

 ──

 まとめて言おう。
 古典的には、一つの電子が一つの粒子として、一つのスリットを通る。しかし、それは否定された。
 そこで現代量子論では、一つの電子が一つの粒子として、二つのスリットを通る。しかしそれは、不自然である。(重ね合わせの不自然さ)
 だが、いくら不自然でも、「それ以外にはあり得ないのだから、そう理解するしかない」と量子論学者は信じていた。……しかしながら、そこには、論理の穴があった。「それ以外にはあり得ない」ということはないのだ。なぜなら、そこには、「電子は一つの粒子である」という暗黙の前提があったからだ。その暗黙の前提をはずせば、「電子はである」という認識が得られる。
 そして、「電子は波である」という認識のもとでは、「電子が二つのスリットを通る」ということは、不思議でも何でもない。波は空間の全体に広く伝播するのだから、一つのスリットだけを通るということはないのが当り前だ。
 結局、「一つの電子が一つの粒子として二つのスリットを同時に通る」という認識(「重ね合わせ」による認識)は、妥当ではない。かわりに、「波としての電子が二つのスリットを伝わる」という認識(超球理論による認識)が妥当である。
 簡単に言えば、「粒子の重ね合わせ」のかわりに、「波」という発想を取ればよい。

 [ 補足 ]

 「従来の説でも、量子は波だ(波でもある)と考えられている」
 という主張もありそうだ。しかし、これは妥当ではない。「波でもある」というのでは駄目なのだ。「粒子ではない」というふうにはっきり言わないと。そこがポイントである。
 比喩的に言うと、二重国籍のロシア人スパイ(と疑われた人)が、「私は日本人でもある」と主張するのでは駄目で、「私はロシア人ではない」と示さないといけない。「どっちでもある」というのでは駄目なのだ。
 なぜかと言うと、粒子は「通り抜ける」が、波は「伝わる」だけだからだ。超球理論では、個々の超球は、移動することなく、その場で振動(≒ 回転)するだけだ。音が伝わるときに空気の分子が、移動することなく、その場で振動するだけであるように。
 「物が移動する」というのと、「波が伝わる」というのとは、まったく別のことである。はっきりと区別する必要がある。
 なお、「粒子でもあり波でもある」というのは、現実的なモデルが存在しないので、それは、仮説でもないし、科学的な表現でもない。ただの文学的な表現であるにすぎない。(矛盾を許容するレトリック。文学であれば非科学的表現も許容される。……現代物理学はそういう文学なのである。)

 [ 付記 ]

 比喩的に言おう。
 水面に伝わる波がある。その途中に、二重スリットを置く。水面波は、二重スリットを通り抜けて、その先で干渉縞を描く。
 これを見て、量子力学者は主張した。
 「水面波は、粒子として、二つのスリットを同時に通り抜けたのだ。つまり、(水面波という)一つの粒子が二つのスリットを同時に通り抜けたのだ。」
 なるほど、そう認識すれば、矛盾は起こらない。しかし、いくら矛盾が起こらないとしても、馬鹿げた認識である。もともと波であるものを、あえて「粒子だ」と強弁したところで、真実に至ることはできない。それは、たとえ矛盾を生じなくとも、ただの「屁理屈」にすぎない。
 
 そして、それと同じことをしているのが、「重ね合わせ」という現代量子論の発想だ。もともと波である量子を、あえて粒子だと思い込むから、「猫は生きていて、かつ、死んでいる」というような馬鹿げた結論を出して、平然としていられるわけだ。  ……(*)

 最初の基礎(量子は粒子である)が虚偽であれば、その上に立つすべては虚偽となる。砂上の楼閣。

 ──

 (*)において、いかに馬鹿げた結論が出るかは、別項で述べたとおり。
   → コペンハーゲン解釈の破綻
   http://openblog.meblog.biz/article/117039.html



 【 追記 】
 「一つの粒子が二つのスリットを通った」
 という発想がいかにおかしいかは、ファインマンの「経路積分」の発想をすると、よくわかる。
 ファインマンは次のように考えた。
 「一つの粒子が二つのスリットを通ったとしよう。ならば、スリットが三つ、四つ、五つ……と増えれば、一つの粒子が三つ、四つ、五つ……のスリットを通ることになる。では、スリットが無限にあれば? もちろん、一つの粒子が無限のスリットを通る。そして、スリットが無限にあるというのは、(スリットを刻む)衝立(ついたて)が存在しないという状況だ。つまり、真空中においては、一つの粒子が無限のスリットを通る状況となっている」
 ここからファインマンは「無限の粒子」という発想に至った。
 しかし、「無限の粒子」というのは、「粒子が空間全体を通る」ということなのだから、それはもはや「波の伝播」と同様なのである。……そのように発想すると、まったく新たな量子理論を構築できる。詳しくは下記。
  → 量子論のサイト

 
 【 後日記 】
 二重スリット実験については、下記を参照。

   → 「二重スリット実験とは」
posted by 管理人 at 18:30| Comment(7) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「シュレディンガーの猫」に関する本文および、そのほかの説明を読ませていただきました。
2重スリットの実験から電子が波であることは理解できます。
しかしながら、2重スリットの実験においても、1つの電子はスリットを通過後、それぞれ、1点に到着します。この部分の現象を説明するために、電子の粒子性があると理解していました。
電子が波(のみ)であると断定した場合、このような始点、終点が1対1で対応する部分はどのような説明ができるのでしょうか?
Posted by 長谷川 望 at 2008年02月29日 17:00
誤解があるようなので、量子力学のサイトの表紙ページを読んでください。下記。

http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm
Posted by 管理人 at 2008年02月29日 18:15
量子が粒子の時と波の時になることは薄く理解できました.波の説明では粒子自体は移動しないと説明しましたが,そうなると二重スリット実験の始点の粒子と終点の粒子は違う粒子になるのでしょうか?また,観測すると粒子が観察されると思いますが,その粒子も結局始点の粒子ではないでしょうか?そして,観測された時点で波の性質が無くなり,そこからは波の伝播はなくなるのでしょうか?それで,一つのスリットを隠したように干渉稿が発生しないのでしょうか?すなわち,観測時点以降は粒子として移動したということになるのでしょうか?
Posted by 安隆浩 at 2009年08月12日 13:27
質問する前に、ちゃんとあちこち読んでください。
本項以外のページにすべて記述済み。

わからないことがあったら、質問する前に、自分で調べましょう。
Posted by 管理人 at 2009年08月12日 13:52
二重スリット実験については、下記を参照にしてください。

  → 「二重スリット実験とは」
   http://openblog.meblog.biz/article/1377081.html
Posted by 管理人 at 2009年08月12日 18:16
今まで、量子力学のどんな本を読んでも腑に落ちませんでした。シュレーディンガーの猫のパラドックスがなぜ大真面目に語られているのかも納得できませんでした。波動関数は数学的虚構でなく実在の波だと考えれば、シュレーディンガーの猫のパラドックスなど起こりようがないのではないかと考え始めていました。
 いろいろ考えているうちに、「粒子の軌跡が観測できる霧箱の中で二重スリット実験をしたら干渉縞はできるのか(できるはずがないではないか)」と疑問を持って検索したら、先生のサイトを見つけました。超球理論はとてもよく納得できるような気がしました。私が考えていたことはどうやら間違いではなかったようだと思いました。
 これで、長年腑に落ちなかった量子力学が理解できそうです。
Posted by ぱーぷりん at 2012年12月05日 21:12
量子論の入門書を色々読んでいます。
私も観測による波動収縮や平行宇宙の考え
が多く学者の間では通用していてるのは
解釈する努力を投げ捨ててしまったようで
なんとも気持ちの悪いものでした。
もう少し先生のブログの色々なところを見て
自分なりの落とし所を探してみます。
Posted by 文系の量子好き at 2012年12月19日 21:25
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