しかしこれは、科学としては、破綻している。ただし人々は、その破綻に対して、見て見ぬフリをしているので、気がつかないだけだ。
( 前項 の後半で述べた「見て見ぬフリ」の実例。) ──
「観測が現実を決定する」ということは、あまりにも不自然である。そのことを具体的に指摘したのが、物理学者のシュレーディンガーだ。彼は、「シュレーディンガーの猫」という思考実験を用いて、「観測が現実を決定する」ということの不自然さを指摘した。
ところが、多くの物理学者は、これを逆に受け取った。「不自然だからあり得ない」とは考えず、「この世界そのものが不自然なのだ」と考えた。これはまあ、狂人の論理である。シュレーディンガーは、これを聞いて、呆れてしまって、「狂人たちよ さらば」とばかり、物理学の世界から遠のいてしまった。
しかし、私としては、本項において、狂人たちが狂人であることを指摘しておこう。
──
「観測が現実を決定する」
ということはあり得ない。なぜならば、それは、近代の科学主義に反するからだ。
「観測によって理論(仮説)を実証する」
というのが、近代の科学主義である。しかるに、量子力学は、これと矛盾する。その具体例が、シュレーディンガーの猫だ。
では、なぜか? その理由は、「シュレーディンガーの猫」というのが、だたのお話であって、現実には実験できないことであるからだ。現実には実験できないことを論拠にして、自説を述べるとしたら、それはもはや科学ではなくて、ただのフィクションである。
なお、注意。ここで「実験できない」というのは、「技術が不十分だから実験できない」という意味ではない。「根源的に実験のしようがない」というデタラメであるからだ。デタラメを実験するというのは、ナンセンス以外の何物でもない。それは、たとえ実行しても、実験ではなくて、ただの気違いのお遊びにしかならないからだ。(その意味で「実験不可能」となる。)
──
具体的に示す。シュレーディンガーの猫の実験として、次のことをなそうとする。
「観測が現実を決定する」ということを 実証 する。
そのために、次のことを行なう。
シュレーディンガーの猫のシステムを実際に構築する。その後、これに対して、覗き窓と観測者を用意する。ただし、覗き窓と観測者を、たくさん用意する。(一人でなくて)
このあと、結果として、次のことがわかる。
・ 観測者1の報告 …… 「時刻 T1 において、結果 E1 が起こる」
・ 観測者2の報告 …… 「時刻 T2 において、結果 E2 が起こる」
・ 観測者3の報告 …… 「時刻 T3 において、結果 E3 が起こる」
‥‥‥‥‥‥
‥‥‥‥‥‥
さて。一般の科学実験であれば、これらの結果は一致するはずだ。完全に一致することはなくても、99%ぐらいは一致して、残りは統計誤差となるから、正しい結果が得られたことになる。この結果は、誰がどこでやっても同じになるはずだ。
ところが、シュレーディンガーの猫では、これらの結果は一致するとは限らない。なぜなら、観測者ごとに、個別の事情があるからだ。
特に問題なのは、「いつ現実が決定したか」という問題だ。
・ 観測者1は「私が観測したことで現実が決定した」と述べる。
・ 観測者2は「私が観測したことで現実が決定した」と述べる。
・ 観測者3は「私が観測したことで現実が決定した」と述べる。
‥‥‥‥‥‥
こうなると、事実はいつ決定したのか、判明しない。そこで、
「最初に観測した人が決定したのだ」
という主張が出るだろう。しかし、最初に観測した人が、正しく観測できたとは限らない。彼はそのとき、くしゃみをしていて、よく見えなかったかもしれない。ぼんやりしていて、見ても何も考えなかったかもしれない。というわけで、「いつ」という時点が決まらない。また、「誰が決定したか」も決まらない。
要するに、「いつ、どこで、誰が、どう」ということが、まったくわからないのだ。いつ、どこで、誰が、どう決定したのか、さっぱりわからない。
特に問題なのは「何を」がわからない、ということだ。というのは、観測者ごとに、結論が異なることがあるからだ。次のように。
・ ある人は、眠っている猫を見て「死んでいる」と誤認したかもしれない。
・ ある人は、死んでいる猫を見て「眠っている」と誤認したかもしれない。
・ ある人は、「生死はわからない」と判定を迷ったかもしれない。
このように、「いつ、どこで、誰が、どう」ということが、まったくわからない。そして、それは、次のことを意味する。
「コペンハーゲン解釈は、科学的な理論ではない」(科学ではない)
なぜか? 科学というものは、「仮説と演繹」という立場を取るからだ。次のように。
「まず、仮説を提出する。その仮説から演繹された結果を、現実と照合する。それらの演繹結果が現実と合致すれば真実と見なされ、現実と合致しなければ虚偽と見なされる。一致・不一致が判明していない間は、真偽不明と見なされる」
あらゆる科学理論は、この立場を取る。たとえば、「天動説」「地動説」のような理論がある。理論上ではどちらの仮説も成立するが、火星の奇妙な動きは天動説で説明すると非常に複雑な(奇妙な)仮説を必要とする。それゆえ、オッカムの剃刀という原理によって、「真実の度合いが低い」と判定される。こうして「地動説」が真実の座を獲得する。
一方、コペンハーゲン解釈はどうか? 「いつ、どこで、誰が、どう」ということが、まったく決まらない。複数の人がそれぞれ勝手に「いつ、どこで、誰が、どう」を主張して、どれが「観測」であるのか決まらない。つまり、「観測」という用語の意味が、あまりにも主観的すぎて、客観性をもたない。これでは客観性があるという科学の位置を占めることができない。(そもそも「意識」すら関係するから、眠っていた人は「観測はしていなかったから事象は決まらない」と主張するかもしれない。こうなると根源的に狂ってしまう。)
結局、コペンハーゲン解釈においては、「観測」というものが客観的に決まらない。「観測」といものが主観的に多義多様になる。こうなると、これはもはや「科学」ではない。むしろ一種の「印象」にすぎない。そして、印象によって物事を語るのは、「科学」というよりは「文学」なのである。
例。
「このバラは何と美しい赤さを帯びていることか。それは生命の意欲を示す」
「このバラの紫がかった赤さは神秘的で恐ろしい悪を意味している」
こういうふうに各人が勝手に主観的な主張をする。それと同様なのが、コペンハーゲン解釈だ。各人が勝手に「観測」という言葉の意味を決めてしまい、その言葉が(いつどこで……という)何を意味するかが一意的に決まらない。言葉の意味が文学的になってしまっている。
──
まとめ。
観測というものは、主観的である。主観的なものには、主観性ゆえの揺らぎがある。とすれば、そこには客観的な一致は成立しない。もちろん、実験的に検証することなどはできない。なぜなら、それは、「人がどう思うか」ということの実験だからだ。
事実の実験ならば可能だが、「人がどう思うか」ということの実験はできない。仮にやるとしたら、心理についての実験であって、事実についての実験ではない。
シュレーディンガーの猫の実験は、「観測者はどう思うか」という心理学の実験にはなるが、「事実はどうであるか」という物理学の実験にはならない。
つまり、シュレーディンガーの猫の実験は、物理学の実験ではないのだ。こんなものに依拠して、理論を構築するとしたら、その理論は、もはや科学ではない。なぜなら、近代の科学主義を否定しているからだ。科学というよりは、オカルトに近い。
とにかく、シュレーディンガーの猫において、「観測が現実を決定する」などと主張する説は、学説としては破綻している。
ただし、人々がそれを信じているのは、「見て見ぬフリ」をしているだけだからだ。
[ 付記1 ]
では、正しくは? ごく単純に、確率的に解釈すればいい。つまり、
「たくさんの実験をすれば、そのたくさんの実験では、確率的な結果が得られる」
「ただ一回の実験では、何も言えない」
これは、確率では、当然のことだ。すべては確率的に理解するべきであって、「観測が現実を決定する」というようなオカルト的なことを主張するべきではないのだ。
今の物理学は、オカルトと科学とを混同しており、科学としては破綻している。
[ 付記2 ]
より本質的には、どう言えるか? 物事の核心を示せば、次のようになる。
「量子とは何か?」
という問題が根本にある。コペンハーゲン解釈(など)では、「量子は粒子だ」と考える。正確には、「波の性質を帯びることもあるが、基本的には粒子である」と考える。だから、「量子を観測する」というのは、「粒子を観測する」ということだ。その場合、観測以前も、量子は粒子であったことになる。
一方、超球理論では、そうではない。「量子は粒子と波とで相互転換する」と考える。その場合、次のようになる。
・ 観測したときには、量子は粒子である。
・ 観測以前には、量子は粒子であることも波であることもある。
ここで、次のことは別々である。
・ 量子が観測者に観測されること (未観測 → 観測)
・ 量子が波から粒子に転換すること (波 → 粒子)
この違いは重要だ。
「波 → 粒子」という転換があると、「観測不可能」な状態から「観測可能」な状態へと転じる。図式的に示すと、こうだ。
< 波 > → < 粒子 >
観測不可能 観測可能
ただ、観測可能な状態に転じたからといって、まさしく観測されるとは限らない。まさしく観測されるためには、観測者の個人的な状況が影響する。観測者次第である。それはあまりにも主観的なことだ。
そして、量子論が数式で示すのは、「波 → 粒子」という転換だけであって、「未観測 → 観測」という転換ではないのだ。
にもかかわらず、この両者を混同しているのが、コペンハーゲン解釈である。
では、なぜ、コペンハーゲン解釈は、この両者を混同しているか? それは、コペンハーゲン解釈には、そもそも「波 → 粒子」という転換がある、という発想がないからだ。
コペンハーゲン解釈では、「量子は常に粒子」という発想がある。だから、「波 → 粒子」という転換を表現できない。(語彙の不足する言語のようなものである。「青」と「黄」はあっても、「緑」がないから、「緑」を表現できない。)
そこで、この語彙不足の発想法に従って、「波 → 粒子」という転換を表現しようとすると、正確な表現方法がないから、かわりに、「未観測 → 観測」という転換として表現する。
そのせいで、「観測が現実を決定する」という、奇妙な結論が出るのだ。(いわば、「緑」という語彙がないときに、緑を「青」と呼び、そのせいでおかしな結論が出るようなもの。)
まとめて言うと、次の通り。
語彙不足の言語では、「緑」を表現できないので、「青」とか「黄」とか、別の用語で表現するしかない。しかし、それは、概念不足による不正確な認識である。
同様に、概念不足の物理理論では、「波 → 粒子」という転換を表現できないから、かわりに、「未観測 → 観測」という転換として表現してしまう。
すなわち、
“「波 → 粒子」という転換があったから、猫が死んだ。”
または、
“「観測不可能な状態 → 観測可能な状態」という転換があったから、猫が死んだ。”
と表現するべきところを、
“「未観測 → 観測」という転換があったから、猫が死んだ。”
と表現してしまう。しかしそれは、語彙不足による不正確な表現であり、つまりは、概念不足による不正確な認識である。
一般に、不正確な認識を取ると、それで済むこともあるが、それでは済まないこともある。信号ぐらいならば「青」と呼ぼうが「緑」と呼ぼうがどっちでもいいが、両者をはっきり区別する必要が出る場合もある。にもかかわらず、「粗い認識の仕方でもいい」というふうに強弁すると、おかしな結論が出る。
結局、観測問題とは、「波 → 粒子」という転換を認識しない、という粗い認識ゆえに生じたパラドックスなのである。それは、不正確な認識から生まれたものであるから、かわりに正確な認識をすることにより解決する。(科学の歴史では常に、「不正確な認識から正確な認識へ」、すなわち、「近似的な認識から精密な認識へ」という流れがあった。)
なお、原理的に言えば、もともと「波」であるものを「粒子」だと勘違いしていれば、そのあとで変な結論が出るのは、当然なのだ。「偽」を前提とすれば、ムチャクチャな結論が生じるのは当り前だ。
[ 付記3 ] ( 2009-01-04 ) 【 重要 】
コペンハーゲン解釈が駄目なわけの核心は、次の点にある。
「波動関数が収縮する、と考える」
では、正しくは? 次のことだ。
「波動関数は収縮しない」
これを換言すれば、次のことと等価である。
「波動関数は(存在の)確率を示す」
一般に、確率というものは、決定はしないで、確率的なバラツキのみを示す。特定の一回について「こうだ」と決定はしないで、多数回における事象発生の割合を示すだけだ。……たとえば、コインの裏表ならば、特定の一回については裏表を決定せず、多数回について「裏表が 50%・50% だ」というふうに示すだけだ。
ここでは、裏または表が出たときに、確率関数が 50% から 0% または 100% に収縮したわけではない。事象が裏または表に決定されたとしても、確率関数は最後まで 50% のままである。現実がどうであれ、理論の値は変動しない。(この点、勘違いしないこと。)
波動関数もまたそうだ。波動関数は確率を示すのだから、最後まで一定の値を取る。それは理論としての値だ。一方、理論の値とは別に、現実の値も決まる。
決定以前は理論値がある。その値は、50% のような値だ。決定以後は、現実の値は 0% または 100% になるが、理論値の方はずっと 50% のままだ。……ここでは、理論値そのものが 50% から 0% または 100% に収縮したわけではない。なのに、そういう勘違いをしているのが、コペンハーゲン解釈だ。
(詳しくは: → 波動関数の収束 )
[ 付記4 ] ( 2009-01-04 )
Wikipedia の「コペンハーゲン解釈」には、次の記述がある。(現時点で)
(粒子は)空間的に広がりを持つ(あるいは、かつて広がりを持っていた)ことも示している。そして、いつどのようにして広がりを失ったかについては分からない。これは、間違いではないが、記述としては不十分である。なぜなら、最も肝心な次の一点が記述されていないからだ。
「量子は粒子として空間的に広がりを持つ」
しかしながら、この言葉の意味するところは、はなはだ曖昧である。
・ 粒子として無数に存在する。(粒子数が無限になる)
・ 粒子は1個だが、それぞれが稀薄化する。(幽霊? 不自然。)
・ 粒子が仮想的に微小化する。(微分的な断片化。モデルが不明。)
このうち、初めの二つは駄目だ。
1番目は、「エネルギーが無限になる」という矛盾が生じるので、駄目。
2番目は、「存在の稀薄化」が非科学。
3番目は、理屈としては成立するが、モデルが不明。……ここで、「仮想的に微小化されたものは、波だ」と解釈すれば、問題はなくなる。ただし、そうすると、物事の発想が根本から崩壊する。なぜならもはや「量子は粒子だ」という最初の前提が成立しなくなるからだ。
そこで、最初の前提から考え直して、新たに構築したモデルが、「超球理論」である。
要するに、Wikipedia みたいに、単に「空間的に広がりをもつ」という述語表現を取るだけではダメなのだ。「何が」という主語表現が必要である。そして、その主語は、「量子は」というだけでは曖昧すぎて用をなさない。粒子であるか否かを明示する必要がある。そして、「粒子では矛盾するから、粒子ではない」と明言する必要がある。
Wikipedia は、その一番肝心のところを記述していない。現代量子論の問題点をあえて回避して、わかりやすいところだけ書いているにすぎない。(肝心の論点を書かずに、お茶を濁しているわけ。一番知りたいところを書かないで、うまく言い逃れをしているわけ。)…… Wikipedia なんて、初歩的知識を知る以上には、あまり役立たないようだ。ま、悪くはないのだが、あまり期待はしない方がいい。
【 参考 】
詳しい説明は、下記を参照。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (表紙)
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja0.htm (猫の生死)
後者のページの話をちょっと変えて書くと、次のことがある。
「シュレーディンガーの猫」の実験システムで、猫のかわりに人間を置くと、どうなるか」
具体的に言おう。人間・殺システムを用意した、物理学者がいた。これを「シュレーディンガーの人間」と呼ぼう。その後、刑事が来て、部屋を覗くと、被害者の死亡が確認された。
しかし、物理科学者は主張した。「刑事が観測したから、被害者が死んだのだ。それまでは被害者の生死は決定していなかった。また、生死が決定した時点では、私にはアリバイがあるから、私は殺していない。殺人者は、刑事である。彼を殺人罪で逮捕せよ」
日本の警察はその弁明を聞いて、「もっともだ」と思った。以後、殺人事件では、殺人犯ではなく第一発見者が逮捕されて死刑になることになった。
──
別の話。
「シュレーディンガーの猫」の実験では、「猫の生死は観測の瞬間に決定し、それまでは生死が未定であった」と物理学者が主張した。
しかし、検死官が反論した。「この猫は死後 30分である。ゆえに、30分前に死亡した。そのことが医学的に判明する」
これを聞いた物理学者は、「おまえはトンデモだ、トンデモだ」と大合唱した。そしてまた、既存の死刑囚もまた、「法医学はトンデモだ」と大合唱した。そのせいで、既存の死刑囚は、全員が釈放された。
なぜなら、「法医学の判定は無効である。殺人犯が殺人をなしたときは、被害者はまだ生死不明だった。被害者の死を決定したのは、殺人犯ではなく第一発見者だ」という裁定がなされたからだ。
( ※ 余談。すると、墓場の死者たちも、「おれたちはまだ生きているんじゃないか?」と考え出した。そのせいで、墓場の死体たちが生き返って、ゾンビになって、世界を歩き回った。「おれたちはまだ死んでいない。そのことが物理学者によって証明されたのだ!」と言いながら。……ただし、誰かがゾンビを観測した瞬間に、ゾンビはいっせいに死んでしまった。)
※ 上の話は気違いじみたメチャクチャな見解だと思えますが、
これを「トンデモだ」と批判すると、その人が非難されます。
なぜなら今の物理学はオカルト主義だからです。
【 追記 】 (猫の死亡時刻)
「猫の死亡時刻はいつか?」
という問題もある。具体的には、次の通り。
観測者が観測したのは、5分前。
そのあと、機器を点検して、機器のデータを得たのが、0分前(現在)。
すると、死亡時刻については、次の結果が得られた。
・ 検死官が推定した死亡時刻 …… 30分前〜40分前
・ 粒子検出器に検出された時刻 …… 33分09秒前
・ ・ガス発生器が作動した時刻 …… 33分08秒前
・ 猫の心臓波形が停止した時刻 …… 33分05秒前
・ VTR画像で、猫が倒れた時刻 …… 33分02秒前
これらのすべてを勘案して、「猫の死亡時刻は 33分前」という結論が出された。上記の5通りの死亡推定時刻を見た誰もが、その結論に納得した。
しかしながら物理学者だけは反対した。
「観測者が観測した時点は、5分前である。この時点で、猫は死んだのだ。それまでの間(33分前〜5分前の間)、猫は死んでいなかったのだ」
他の人々は尋ねた。「猫は生きていたというのですか?」
物理学者は答えた。「猫は生きていて、かつ、死んでいたのだ。その間は、猫の状態は生と死の重ね合わせ状態だったのだ。だから、観測するまでは、猫は死んでいなかった」
それを聞いた人々は、うんざりして、物理学者に尋ねた。「あなたは今、あなたを観測していませんね? するとあなたは生死が不明であるわけですかね。あなたは生きているんですか、死んでいるんですか?」
物理学者は考えた。「さて。オレは生きているんだろうか、死んでいるんだろうか? To be, or not to be. That is the question. To die, to sleep. 」
こうして物理学者はみな文学者になった。
さて。あなたは、猫が死んだのは、何分前だと思いますか?
もし「33分前」と答えたら、あなたは量子力学者として失格です。「5分前」と答えた人だけが、量子力学を理解したことにになります。それ以外の人々は、「トンデモだ」と呼ばれて、馬鹿にされます。
たとえ猫の心臓がストップしても、観測がなされるまでは猫は死んではいないのです。(ゾンビ猫?)
本項では、間違いを示した。では、真実は?
それについては、後日、別のページで解説した。 【 重要 】
→ 「コペンハーゲン解釈とは」
http://openblog.meblog.biz/article/117039.html
→ 「観測とは」
http://openblog.meblog.biz/article/1369317.html
→ 「粒子の出現」
http://openblog.meblog.biz/article/1379265.html
なお、コペンハーゲン解釈の問題については、次の項目も参照。
→ 「シュレーディンガーの猫」と重ね合わせ
http://openblog.meblog.biz/article/118114.html

「生きていて、死んでいる」というのは、「重ね合わせ」のことです。これは、コペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈に共通します。普通の量子論のすべてに共通します。(量子を粒子と見なす立場のすべて。)
詳しい話は、あちこちを読んで調べてください。ここでは書き切れません。
──
【 追記 】を加筆しました。
タイムスタンプは下記 ↓
観測前の猫は「生きているか、死んでいるかのどちらかである」というのは、通常は確率解釈と言われています。(コペンハーゲン解釈)
後者が確率解釈(コペンハーゲン解釈)であるのに対して、前者もコペンハーゲン解釈だとすることはできません。
前者は多世界解釈(エヴェレット解釈)となります。
シュレディンガーの猫に関しては、このような解釈が一般的と言っていいと思います。もちろん完全決着した問題ではないので、他の解釈もあるでしょう。
学者は5分前の観測によって「33分前に死んだと言う事実」が確定されたと考えます。
それを学者は「5分前に死んだ」と誤解していると言うのはやりすぎな気がしますよ。
「確定」という言葉に注意してください。死の事実が確定していない限りは、まだ死んだと決まっていないわけですから、死んでいるとは見なされません。
enda さんはたぶん「確定」という言葉を「判明」という言葉で解釈しているのでしょう。
“ 5分前の観測によって「33分前に死んだと言う事実」が判明した”
というふうに。しかし、確定と判明は違います。この件は、下記を参照。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/observe.htm
「判明」という語で検索してください。文書全体がこの問題を扱っていますが。
──
量子力学で考えるからわかりにくくなるだけです。回転するコインの裏表で考えれば、簡単にわかるはずです。裏表が確定した瞬間は、観測した5分前ではなく、コインが倒れた33分前です。
33分前に、コインが倒れたことが検出されます。
5分前に、箱を開けて、裏表が観測されます。
裏表が判明するのは5分前ですが、裏表が確定したのは33分前です。33分前から5分前までの間は、「どちらかに確定したことはわかっているが、どちらであるかはまだ判明していない状況」です。
この「確定」という言葉を、(判明でなく)字義通りに「確定」という意味で解釈するとしたら、次のようになります。
33分前から5分前までは、生死が確定していなかった。5分前の観測により、33分前の生死が確定した。つまり、5分前の出来事が33分前の出来事に影響した。
これは「未来が過去に影響して、未来が過去を決定する」という思想です。これは物理学ではなくて、SFの世界の話です。タイムマシンみたいなもの。
仮にこんなことが成立するのであれば、未来の誰かが何かをすることによって、現在のあなたの生死が決定してしまうことになります。
追記でVTR画像とかコインの例とか、検知器を持ち出してしまっているけど、その時点で実験成り立ってないのでは?
あと、
>仮にこんなことが成立するのであれば、未来の誰かが何かをすることによって、現在のあなたの生死が決定してしまうことになります。
って言ってますが、未来って言葉をなんとなく使ってませんか?現在と過去を比較することはできますが、未来と現在を比較するのは非科学的だと思います。
シュレディンガーの人間みたいな装置に自分がかかった時点で自分の生死は死んでいる可能性と生きている可能性に分岐して、自分の意識がどちらの可能性にのっかるかはあとで観測する観測者が見る現実(未来)とは関係ないのでは?
(2) 同じ人が、他のサイトの無断転写(コピペ)をしていたので、書き込み禁止にしました。無断転載は、著作権法違反に当たります。犯罪行為。
※ どうせなら、単にリンク先を示せば十分。
本題と別として扱っているようなので受け入れるとすると以下のようになるのでは?
・5分前の「猫に対する観測」によって「猫が死亡していること」が確定した。
・0分前の「機器に対する観測」によって「猫の死亡時刻が33分前であること」が確定した。
つまり、
5分前までは「生死が確定していない状態」、
5分前から0分前までは「死亡が確定しているが、死亡時刻が確定していない状態」、
0分前からは「33分前に死亡したことが確定している状態」
ということになります。
ちなみに、もし死亡時刻を計測するための機器が設置されなかった場合、
必ず死亡時刻はあるはずなのに、猫がいつ死んだかは観測されませんからいつまでたっても確定しません。
箱を閉じた時点から箱を開けた時点までの間で確率分布を持つ重ね合わせの状態が未来永劫続きます。
猫の死体を調べることで確率分布が変わるかもしれませんけどね。
このこともオカルトですかね?
もしこれがオカルトでないなら、必ず生きているか死んでいるはずなのに、
それぞれに確率分布を持つ重ね合わせの状態になってしまうこともオカルトではないのではないかと思うのですが…。