2007年08月31日

◆ つじつま主義

 私はかねて「物事の本質を突け」と主張してきた。その対極にあるものは、二通りある。
  ・ 枝葉末節主義 (どうでもいい細部にばかりこだわる)
  ・ つじつま主義 (つじつま合わせをする)
 この二つについて説明しよう。特に、後者が重要だ。 ──

 「本質を突け」「核心を突け」と言っても、簡単にはわからないだろう。そこで、それとは逆の主義を二つ示す。上記の二つだ。順に説明しよう。

 (1) 枝葉末節主義

 枝葉末節主義とは、(本質とは関係のない)細部にばかりこだわる主義だ。
 たとえば、「性染色体の役割は何か?」ということを考える。ここで、その問題を考えるために、「メスは XX で、オスは XY だ」と主張したとする。
 すると、とたんに、重箱の隅を突ついて、揚げ足取りをする人が出てくる。「性染色体が XXY や XYY の個体があることを忘れているぞ。不正確だ。間違いだ。インチキだ」と。あるいは、「 XX と XY だけがあって、 XXY や XYY がないということを実証せよ」と。
 まったく、イヤミですねえ。それで自分が利口であることを誇示したがっているわけだ。
 実は、そんな枝葉末節は、話の本題とは関係のないことだから、あえて排除しているのだが、そういうこともわからないで、細かな重箱の隅を突つこうとするわけだ。
 これが枝葉末節主義だ。こういうことをする連中は、「本題は何か」ということを見失っている。肝心のテーマを見失って、どうでもいい細部にばかりこだわっている。
 医者で言えば、「病気は治りました、患者は死にました」というようなものだ。細部の病巣ばかりをやっつければいいと思って、「患者を健康にする」という本質を忘れてしまうので、そういう結果になる。
 本サイトの例で言うと、次のような例がある。
  ・ ボルトのミスをなくすにはどうすればいいか? (本題)
    → 「ボルトの締め方の細かな記述が不十分だ」
    → 「ボルトの解説書としては不正確だ」
     (いずれも、趣旨を勘違いしての批判。)
  ・ 猛暑に対処するには、水を飲むことが重要だ。(本題)
    → 「水を飲みすぎて死んだ人がいるぞ」
     (ことさら例外的な特別な話題を持ち込む。)
  ・ 飛行機の座席では、足を動かして姿勢を変えるべし。(本題)
    → 「血栓ができることについての説明が不十分だ」
    → 「足を上げっぱなしではやはり問題が起こる」
     (別の話題を持ち込んだり、曲解をしたり。)

 以上のいずれにおいても共通するのは、「本題に対して真っ正面から否定することはなく、どうでもいいような話題を持ち込んで、けたぐりのようなことをして攻撃をしかける」ということだ。
 なさけないですねえ。まともに正面から論じないで、単に揚げ足取りをするだけ。(特に、進化論関係では、こういう批判が多い。進化論の研究者というのは、人間よりも一歩退化した存在なのかもしれない。……と書くと、またギャーギャー言うんだろうな。猿みたいな連中ばかりだから。猿はまともに反論しないで、ギャーギャーわめくだけ。)


 (2) つじつま主義

 つじつま主義というのは、物事の本質を突いて問題を解決するかわりに、つじつま合わせをすることで解決する主義だ。
 これは、一応ながらは解決するということで、「秀才の方法」と言える。凡人には何も解決ができないときに、とりあえず表面的には解決する方法を示すので、凡人は「おお、すごい」と感嘆する。
 しかし、それはあくまで、表面的な解決だ。一時しのぎの解決であり、表層の解決であり、本質の解決ではない。
 こういう解決は、ないよりはマシだが、最終的な真実とは違う。そのことを見抜くのが「本質主義」だ。
 以下では例を示そう。

 (a)CVCC
 ホンダの稀薄燃焼方式である CVCC という方式がある。排ガス規制が強化されたときに、いち早く排ガス規制のクリアを達成したことで、称賛された。(たぶんエンジン賞とか機械技術会賞とか、そんなものをもらったはずだ。)
 しかしながら、兼坂弘は、この方式を批判した。なぜか? たしかに排ガス規制(クリーン化)という目標は達成したが、エンジンとしての本質を見失ってしまったからだ。では、エンジンとしての本質とは? 「燃料を燃やして動力を得る」ということだ。CVCC は、この点では、まずかった。熱効率が劣る方式なのだ。(わかりやすく言えば、燃費が悪い。)
 実際の CVCC は、稀薄燃焼方式などを用いて、燃費はあまり悪くなかったが、それはパワーが著しく劣っていたからだ。結局、熱効率が悪いのは、どうしようもない。
 そして、それは、CVCC という方式そのものに由来する。この方式は、エンジンとしての本質を捨てて、単に「きれいな排ガス」ということだけを目的としていた。それでは「理想のエンジン」からは、ほど遠いのだ。
 「理想のエンジン」とは、「排ガスもきれいで、熱効率もいい」というものだ。しかるに CVCC は、「排ガスをきれいにするが、その代償として、熱効率は下がる」という方式だった。これは、エンジンの本道ではない。では、何かと言えば、「つじつま主義」だ。
 つじつま主義では、目先の課題をクリアすることだけが重視される。「排ガスをきれいにする」という課題だけが。そのせいで、エンジンの本質を忘れて、熱効率を下げてしまう。……つまり、本末転倒である。
 CVCC は、一時的には評価を得たが、現在ではまったく使われない。なぜなら現在では、「排ガスもきれいで、熱効率もいい」というものが主流だからだ。
 兼坂弘の教えは、(エンジン開発では)「つじつま主義を取るな」ということだ。

 (b)進化論
 進化論もまた、「つじつま主義」を取っている。
 彼らはまず、「進化」という事実を見る。これはいい。ただし、この事実を説明するために、「小進化の蓄積による大進化」というシナリオを立てて、これですべてを説明しようとする。その際、つじつま合わせをする。
 たとえば、「中間種の化石がない」という事実があるのに、その事実を見ないで、「たまたま化石が見つからなかったのだ」というふうに強弁する。つまり、「シナリオを立てたまま、つじつま合わせをして、現実を見ない」というふうにする。
 では、正しくは、どうあるべきか? つじつま合わせなんかをしなければいい。そのためには、変なシナリオをあっさり捨てればいい。では、どのシナリオを? それは、各人の自由だ。
 とはいえ、つじつま合わせなんかをしている限り、いつまでたっても、正しいシナリオを得ることはできまい。(古いものにこだわっている老人性の痴呆症のようなもの。)
 ※ この件、詳しくは次を参照。
http://openblog.meblog.biz/article/111837.html
http://openblog.meblog.biz/article/41997.html
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_05.htm#08

 (c)量子論
 量子論にも、つじつま合わせはある。
 まず、「量子は粒子としてふるまう」という原理を導入する。その上で、「粒子としての量子はどういうふうに観測されるか?」という問題を導入する。すると、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスが発生する。これを解決するには、コペンハーゲン解釈を取るのが妥当だと見なされる。すると、「観測が現実を決定する」という結論が得られる。
 しかし、「観測が現実を決定する」というのは、あまりにも変だ。人間が蓋を開けて猫を見るかどうかという観測行為が、猫の生死を決定するなんて、どう考えても変だ。
 ここで「変だ」と唱えたのが、この問題を提出したシュレーディンガーである。
 しかるに、「変ではない」と唱えたのが、大半の量子論学者だ。「いくら変に思えるとしても、それで説明するしかないのなら、それを信じるしかないのだ」というふうに。
 しかし、シュレーディンガーは、まったく納得しなかった。なぜか? 彼にとっては、多くの量子論学者の主張は、ただの「つじつま合わせ」にすぎない、と感じたからだ。
 では、なぜか? 彼には「物事の本質」を見抜こうとするセンスがあったからだ。そういうセンスがあれば、「観測が現実を決定する」というような説明は、あまりにも「つじつま合わせ」であって、受け入れがたい。
 同様のことは、アインシュタインもまた、感じていた。だからアインシュタインもまた、量子論を批判した。
 彼らの発想の根底にあったのは、何か? それは、こうだ。
 「物事の本質を突くべし。つじつま合わせをするべからず」
 「物事の本質を突いた理論は、真実をとらえて、美しい。物事の表層だけでつじつま合わせをした理論は、真実をとらえきれず、醜い」
 こういう美的センスがあった。彼らは、たとえ真実を見事に言い当てることはできなくとも、真実ではないエセ真実を見たときに「こいつは違う」と言い当てるセンスをもっていた。だからこそ、学界の大部分の人々が「量子力学は正しい」と主張しても、彼ら二人だけは「どこかがおかしい」と異を立てたのだ。全面否定をしたわけではないが、「どこかがおかしい」「本質を突いていない」と見抜いたのだ。

 なお、アインシュタインとシュレーディンガーの直感は正しい、というのが、私の主張だ。その理由もまた説明される。次のように。
 「量子論学者の論理はまったく間違っていないが、最初の前提が間違っている。それは、『量子は粒子である』という前提だ」
 現代の量子論では、『量子は粒子であるが、波の性質も兼ねる』という原理で説明される。しかしながら、このことは、ただの一度とて実験的に検証されていない。実験的に検証されたことは、次のいずれかだ。
  ・ 量子は、粒子の性質をもつ
  ・ 量子は、波の性質をもつ

 この二つのうち、どちらか一方だけが成立する。両方が同時に成立したということは、ただの一度とて実験的に検証されていない。にもかかわらず、そういうふうに「ありもしないこと」(正しいと実証されていないこと)を前提として、理論の全体が構築されている。
 以上が私の指摘だ。そして、その上で、私は次の解釈を出す。
 「量子は、粒子か波か、そのいずれかである。両方の性質をもつことはない」

 換言すれば、こうだ。
 「量子は、粒子と波との間で、姿を変える。あるときは粒子、あるときは波である。いずれか一方であり、双方ではない」
 そして、このことを、具体的に示したモデルが、「玉突きモデル」というモデルだ。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/billiard.htm

 ──

 まとめて言おう。
 現代の量子論は、奇妙な結論を出して、平気でいる。それは、「つじつま合わせ」をしているからだ。というのは、間違った前提の上に理論全体を構築しているからだ。
 こういうふうに「間違った前提の上に立つ」ということを見抜いて、理論全体の「いかがわしさ」を指摘したのが、シュレーディンガーやアインシュタインのような天才だ。
 ところが、つじつま合わせをする秀才たちは、天才の批判が理解できなかった。
 「実験的にこれでうまく行くから、これでいいんだ」
 「これで現実を説明できる(ことが多い)から、これでいいんだ」
 と主張するばかりだった。「何ができるか」ということだけを理解して、「何ができないか」ということを理解しなかった。自分たちの正しい点だけを理解して、自分たちの正しくない点を理解できなかった。
 シュレーディンガーやアインシュタインのような天才は、決して量子力学全体を否定したわけではない。そこにひそむいかがわしさを指摘して、修正を要求しただけだ。「あんたたちは本質を突いていない。本質を突いた形に書き直せ」というふうに。
 しかるに、つじつま合わせをする秀才たちは、耳を傾けなかった。「量子力学はこんなに正しい結論を示しているのだ。だから、正しいに決まっている。おれたちを間違いだと主張するあなたたちは、トンデモだ。時代遅れの爺さんたちだよ。さっさと引退しなさい」というふうに威張った。

 ついでだが、同様のことは、ボーイングの技術者たちも主張するだろう。
 「うちの飛行機は世界中でずっと無事故で飛んできたんだ。だから欠陥は皆無だ。99.999%の場合に真実であるのならば、100%真実であるに決まっている。ゆえに、われわれは正しい。完全無謬である。したがって、事故が起こったとしたら、われわれのせいではなくて、他人のせいだ」

 つじつま合わせをする連中というのは、世の中の大部分を占める。彼らは、自分の正当性ばかりを主張するから、自分の間違いに目を向けない。自分を批判する声を聞けば、「指摘してくれてありがとう」と感謝するかわりに、「おれたちを批判するおまえはトンデモだ」と攻撃する。
 世の中の大部分では、「つじつま主義」がまかり通っている。



 【 参考 】

 オマケで一つ。実用的な「役立つ方法」というのを教えよう。
 物事の本質を突く、という立場を取るとき、何が大事か? もちろん、「本質とは何か?」を考えることが大事だ。ただし、それは当り前。
 では、当り前のこと以外に、何があるか? 次の二つだ。
  ・ 理論が美しいか否かを考える。
  ・ 美しくない点を見出すために、異論を探る。

 一般に、人々は「正しいか否か」だけを考えるが、他に、「美しいか否か」をも考えるといい。「正しいか否か」を考えるだけでは見出せないことが、新たに見出せるようになる。……たとえば、特殊相対論を見たとき、「こんなのはトンデモだ」と嫌悪する人もいるが、「あまりにも美しいからこれは真実だ」と信じる人もいる。……こういうふうに、「美しいか否か」を考えることは、価値判断の際には役立つことが多い。

 逆に、「美しくないもの」を見出すためには、標準的見解に対する「異論」を採るといい。そのことで、標準的見解の醜さが見出されることがある。
 たとえば進化論で、人々が「ダーウィン説は正しい」と信じているときに、次のような異論が出る。
 「中間種の化石がまったく見出されないのはおかしい」
 「有利な突然変異というものは、確率的に、ほとんどありえない。突然変異のほぼすべては、不利もしくは中立な突然変異である。有利な突然変異による進化というのを考えると、確率的にはほぼゼロであり、進化というものは絶対にあり得ないことになる」
 こういう異論が出てくる。こういう異論に、耳を傾けるか、耳をふさぐかで、真実に近づくことの可否もまた決まる。

 《 例 》
 レーダー開発で異論を認めるか否か、という例がある。
 第二次大戦中に、日本軍はなぜレーダーを開発しなかったのか? 実はそもそも、「レーダーなんか開発したって無駄だ」というのが日本軍の方針だった。「レーダーを使えば自分の位置がバレてしまうから、そんなものを開発するだけ無駄である。開発者はトンデモだ」というふうに否定的な立場を取った。
 で、そのあげく、ミッドウェー海戦では、日本軍の行動のすべては敵のレーダーに筒抜けとなり、記録的な大敗を喫した。
 結局、異論に耳を傾けないと、こういうことになる。一部の開発者にでも開発させればいいものを、あえて異論を封じたあげく、このざまだ。
(ま、今の科学者も、同様ですがね。昔から人間は何も変わっていない。)

 《 結論 》
 要するに、自説の主張ばかりにこだわらず、他人の異論にも耳を傾けて、幅広い意見を受け入れることが大事だ、ということだ。
(なお、その逆の立場もある。「既存の説をよく知れ」という立場だ。たとえば、地動説を主張する人に対して、こう語る。「まず天動説を正しく理解せよ。教会の教義をすべて正しく理解せよ。教会の天動説もろくに知らないようなら、地動説を主張する資格がない」というような立場だ。高圧的だ。これは「異論に耳を傾ける」というのとは正反対の立場である。……現代でも、大多数の人々は、こういう態度を取る。専門家のほとんどはそうだ。)

(一例を挙げると、JISの規格委員会がそうだ。「パソコンの文字は、略字を基本にせよ。正字はパソコンの文字から排除せよ」という方針を立てた。そのあと、「これに異論があるなら、専門の規格票を読め」と言い張った。その規格票というのは、ネットでは公開されず、高額で販売した。つまり、高い金を払わない限り、反論を許さない、という立場。……これに異を唱えたのは、南堂久史と加藤弘一の二人ぐらいであろう。特に、真っ正面からこの方針[弾圧する方針]を批判したのは、南堂久史だけである。世間の大多数の人々は、この専門家の高圧的な言い分に、ひれ伏した。特に、文藝家協会は顕著で、「漢字を守れ」という声明を出したとは、「あとは野となれ山となれ」であった。「私は専門家じゃないからわかりません」と白旗を揚げた。かくて、JISの規格委員会の高圧的な態度は、ほとんど成功しかけた。……要するに、「文句があるならオレの本を隅から隅まで読んでからにしろ」というふうにすれば、あらゆる異論を封じることができることが多いのだ。独裁者の方法。……例。「ボーイング社の設計に欠陥があるというのなら、ボーイングの設計図をすべて隅から隅まで見てからにしろ。そうでなければ、設計を批判する資格はないぞ」)
posted by 管理人 at 23:07| Comment(5) | 科学トピック | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最近読んだ本に次のような記述がありました。

数学者フーリエは証明の厳密さにはとことん無関心で、彼の論文はいいかげんな証明しかなされていなかったそうです。なぜあれほどの成果を粗大な考え変えたから生むことができたか?ということに疑問をもつ人が多いそうです。

この本の著書はこれに対して、

「本当に有用な概念というのは、多くの場合極めて単純なであればこそ、広範囲にわたる応用が可能なのである。重箱のすみをつつくことを得意とする「緻密」な頭脳では、こういったことを見出すのかえって不得意であることのほうが多いだろう。」

と述べています。

このことは管理人さんが言っていることと近いように思えます。

つまり、管理人さんが言っている言葉の表層にとらわれず、何がいいたいかの本質を理解した上で、その点についての意見や反論を書いてほしいのではないでしょうか。

これだけの文章をこれだけの速度で書けば、最終的な文章にある程度の矛盾が内在するのはしかたないわけで、
そういった細かい矛盾は自分で補完して、管理人さんが真に何をいいたいかに耳を傾けるべきではないかと思います。
Posted by エカ at 2007年09月01日 15:32
エカさん、面白い話をありがとうございます。

 フーリエの話(彼の論文はいいかげんな証明しかなされていなかったこと)は、うなずけます。
 フーリエみたいな天才になると、どれが重要でどれが重要でないかが、一目でわかるのでしょう。
 あるいは、すでに自分でざっと研究していて、「これは重要でない問題だ」と判定済みのものについては、記述を省略するのでしょう。「放っておいても誰でも簡単に解決ができるはずだ」とすでに判明しているので、あえていちいち記述しないわけです。「細かいことを書くのは他人に任せる」という感じで。……そこで、証明の細かな点は大幅に省略して、肝心の点だけを示したのでしょう。

 ただし、凡人には、それが「いい加減」と見えます。凡人は「何から何まできちんと証明していないと駄目だ」と思いがちだからです。
 しかし、きちんと証明するということと、きちんと書くということとは、別のことです。証明の穴があってはいけないので、その意味では、証明はきちんとなすべきです。しかし、その穴が、誰でも簡単にふさげるような簡単な穴であるとわかっていれば、たくさんある穴をいちいちふさごうとはせずに、自分は大きな穴だけを解決しよう、とすることはあるでしょう。「細かなことまでいちいちやっていられるか」というわけ。
 ま、学界に提出して、「自分の業績を認めてもらう」ということが目的であれば、きちんと書くべきです。しかし、すでに学界の大御所となっていたりして、「もっと出世しよう」という出世欲がないのであれば、「細かいことは他人に任せて、自分は大問題だけに取り組む」という方針の方がいいでしょう。人間の寿命は限られているのですから、小さな問題に取り組んで時間を浪費するのは馬鹿らしい。
 とはいえ、凡人には、それがわからないものです。そこで、小さな穴を見つけて、「彼の理論には穴があるぞ!」と大騒ぎするわけです。

 私のブログの場合と、よく似ていますね。
Posted by 管理人 at 2007年09月02日 01:20
私はまだまだ浅学ですので、管理人さんが提案する様々な理論がどれほど適切であるかを自分で判断することはできません。

しかし、管理人さんの文章からたくさんのことを共感、学ぶことができ、管理人さんが真に何をいいたいのかということをより理解したいと思っております。
なによりも、管理人さんが真実に対して正面から取り組んで努力していることがひしひしと伝わってきます。

今後もこのブログを続けていき、少しでも真実に近づき、世の中に貢献することを願っています。
また、雑事に心を捕らわれぬよう願っています。
Posted by エカ at 2007年09月02日 11:18
「つじつま」からこちらへはいりました。
私は普通のおばさんですが、非常に納得のいく内容でした。
特に、物事の本質を突くという場面で「正しいか否か」だけでなく「美しいか否か」をも考えると逆に、「美しくないもの」を見出すためには、標準的見解に対する「異論」を採るといい。そのことで、標準的見解の醜さが見出されることがある。のくだりでは「うん・うん」と声をだしている自分がいました。「美しいか否か」の奥の深さをかみ締めながら自分に問うて生きたい。出会えて良かった!!ありがとうございました。
Posted by ななときらら at 2008年10月18日 10:53
ある現象を説明できる理論があって、その理論が予言する現象が実際に起こりえるなら、それに反する現象が確認されるまではその理論はより正しいと思います。
あと、主観によらない物事の判断を、主観的な要素に頼るのは危なっかしいので止めた方が良いです。直感的に予想するだけなら良いのですが。
Posted by Q at 2008年12月10日 10:17
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