2007年08月30日
◆ 本サイトの記述の仕方
本サイトの記述について、揚げ足取りをして喜ぶ人が多いので、解説しておこう。
※ 「自分は絶対的に正しい利口だ」と自惚れる愚かな人向けの話。
※ 「自分はミスをする」と自覚する聡明な人は読む必要がありません。 ──
ちょっと話は逸れるが……
犯罪小説を読んでいたら、「殺人鬼の心理の詳細」というのが延々と続いていて、辟易した。「人を残虐に殺して喜ぶ愉快犯」というのを取り上げて、その心理を微細に描写する。まったく、うんざりだ。読んでいる最中は、不快でたまらない。(金を払ってもったいないので、最後まで読み通したが。……ケチ根性。)
この小説がどうしてベストセラーになったのか、まったく不思議だったが、どうも、こういう心理を読んで、共感する人が多いのかもしれない……と思い至った。
実際、私のブログへのコメント(など)を見ると、「人を攻撃することで喜ぶ」というさもしい心根の人が非常に多い。ことさら揚げ足取りをして、攻撃をして、大喜びする。……まさしく、殺人鬼の心理と同じ。
ま、先の殺人鬼の小説を読むと、「この殺人鬼は生い立ちで非常に不幸だったので、精神がねじ曲がってしまったのだ」というふうに描写されている。ふうむ。そうすると、個人攻撃の汚いコメントを書く人も、「生い立ちにおいて非常に不幸だったので、精神がねじ曲がってしまったのだ」ということなのかもしれない。可哀想に。
──
ま、話が回り道になってしまったが、私の文章を読んでも正しく理解できない人があまりにも多いので、ちゃんと説明しておこう。
(1) 事実と意見
私のブログに書いてあることは、事実ではなくて、意見である。勘違いしないように。
よくある批判は、「どうしてそういうふうに断言できるのだ。証拠を見せよ」というものだが、何を勘違いしていることやら。
私のブログに書いてあることは、事実ではなくて、意見である。新聞記事ならば、事実報道において「断言できる証拠を示せ」という要求は成立する。しかし、意見の表明では、そんなことは必要ない。単に本人の確信があればいい。いや、そもそも、確信さえも必要はない。たとえば、
「月に兎はいるぞ」
と思う人がいたら、その人は勝手に、
「月に兎はいるぞ」
と主張していい。そのあとは、それを聞いた人が、信じるか信じないか、という問題だ。ここで、
「月に兎がいると思うのであれば、その証拠を示せ。さもなくば黙れ」
というのは、言論弾圧であり、思想の抑圧である。そんなことを言い出したら、あらゆる科学的仮説は弾圧される。アインシュタインもニュートンも、何一つ自説を展開できなくなる。なぜなら、仮説は、その時点ではまだ実証されていないからだ。
ゆえに、「断定できる証拠を示せ」などと述べるのは、科学を知らない科学音痴なのである。
ともあれ、本ブログは、意見を示す。だから、文中で「……だ」と書いたとしても、その全体の趣旨は、「……だと思う」ということだ。
これについて「断定の根拠を示せ」などと要求するのは、とんでもない読解ミスである。
なお、以上の説明は、専門家ならば「当り前じゃないか」と思うだろう。その通り。あらゆる専門雑誌の専門論文は、すべて、「私はこう思う」という個人的な見解であるにすぎないからだ。その後、学界全体で合意ができたら、その合意が、世間に広まり、一般書の形で紹介される。
しかしながら、一般書に紹介される前の、専門の学界の論文では、あらゆる見解はすべて「私はこう思う」という個人的な見解だ。そして、その見解の独自性が強ければ強いほど、「私はこう思う」という度合いが高まる。(逆に、その見解の凡庸さが強ければ強いほど、「私はこう思う」という度合いが低まる。)
とにかく、専門論文を読み慣れている人ならばわかることだが、「私はこう思う」というふうにいちいち書いてなくても、そんなことは暗黙裏に了承されている文章というのは、たくさんある。特に、独自性のある見解であればあるほど、そうだ。
世の中にある見解は、初心者向けに紹介する初歩解説だけじゃないのだ、ということを理解しよう。
(2) 誇張
それとは別に、「誇張をする」という問題もある。これは、次の形を取る。
・ 「9割は白だが、他は灰色や黒だ」を「白だ」と書く。
たとえば、
「人間の性染色体は XX または XY である」
と書く。このことは、科学的に言えば、絶対的な真実とは言えない。なぜなら、絶対的な真実は、次のことだからだ。
「人間の性染色体は XXX または XXY または XYY であることもある」
しかしまあ、本サイトでは、そういう例外的なことはいちいち解説せずに、単純に基本的な場合のみを書く。ここでいちいち例外的なことに言及しなかったからといって、さまざまな点で「例外はこれこれで」と書いていったら、キリがなくなる。なぜなら、説明されたその文章にも、例外が残るからだ。結局、専門の教科書一冊を書かない限り、十分に正確にはならない。……だからといって、話を単純化して書くことが駄目だ、ということにならないないはずだ。
こういう「単純化」の例がある。これは「誇張」の一種だ。こういうのは、文章の書き方の問題なのだから、いちいち揚げ足取りをしないで、普通に文章を読んでもらいたいものだ。
本サイトは決して、「専門雑誌に掲載された学術論文」なんかではない。厳密な正確さなど、もともと要求されていない。些末な正確さよりも、核心だけを単純に紹介することを目的としている。(枝葉末節はばっさり切り捨てる。)
本サイトを、学術論文のようなものだと思っている人は、文章読解力が根源的に狂っているから、認識態度を改めた方がいい。
ボルトの話では、こういう「曲解」という形の「読解ミス」が延々と続いたので、うんざりとしてしまった。飛行機の話もそう。進化論の話もそう。……いずれも、揚げ足取りをする連中が多すぎる。
結論。
本サイトの見解については、
・ 「……と思う」という表現が抜けている。
・ 「誇張」「単純化」がなされている。
という二点について、あらかじめ留意してほしい。当り前だが。
とはいえ、現実には、そのような当り前のことを理解していない人が多すぎる。そこで、以上に注記しておいた。
[ 付記 ]
さらに解説しておこう。
本サイトについて批判する人の多くは、何か、根本的に勘違いをしているようだ。本サイトを Wikipedia か何かの、「公的な情報を提供するサイト」だと思っているようだ。(たとえば、「ボルトについての正しい情報を提供する公的なサイト )
しかし、そういう発想は、「他人からタダで情報をもらおう」という、卑しい乞食根性に染まった人の発想だ。
はっきり言っておく。本サイトは、 Wikipedia か何かの、「公的な情報を提供するサイト」ではない。
本サイトは、あくまで個人のブログである。同じ著者の他のサイトも、個人のサイト(ホームページ)である。決して「公的機関のサイト」なんかではない。
したがって、ここにある記述は、すべて個人の見解であり、公的機関の見解ではない。多くのブログが著者の文責で個人的見解を示すように、本ブログも著者の文責で個人的見解を示す。本サイトを官報や教科書だと思わないでほしい。(当り前のことだが、この当り前のことを理解しない人が、あまりにも多すぎる。教科書のつもりで、ささいなミスを取り上げて大騒ぎする。)
本サイトの目的としては、特に、「学界で常識になっている標準的な意見を紹介する」ことを目的とはせずに、逆に、「学界で常識になっていない非標準的な意見を提出する」ことを目的とする。
この「非標準的」というのを、「先端的」「前衛的」「変人的」のうち、どういうふうに受け取るかは、読者に任される。「常識よりも進んでいるな」と思ってもいいし、「常識外だからトンデモだ」と拒絶してもいい。それは、その人の勝手だ。(たとえば、アインシュタインの相対論を見たときも、学界は二分された。「常識よりも進んでいるな」と思った人もいるし、「常識外だからトンデモだ」と思った人もいる。ダーウィンの進化論も同様。)
とにかく、本サイトの基本は、「学界の誰もが知っているようなことを初心者向けに解説する百科事典」ではなくて、「異端の説を提供する独自性の見解」である。
独自の説を見て、「標準でないから駄目だ」と批判するのは、根源的に認識が狂っている。ミカンを見て「リンゴではない」と批判するようなものだ。そういう人は、自分の認識のメガネが狂っていることを、まず自覚した方がいい。たいていは、言語力の不足が理由である。
(私のサイトで攻撃してくる人は、ひどい文章を書くことが多い。なるほど。書く力が最低だから、読む力も誤読だらけであるわけだ。……そこで、そういう人のために、どういうふうに誤読があるかを、本項では解説しているわけだ。)
[ 参考 ]
2ちゃんねる用語に「ネタにマジレス カコワルイ」というのがある。
それに似ているが、「議論に個人攻撃 カコワルイ」と述べておこう。議論に対しては、議論で反論するべし。著者への個人攻撃をするのは、カコワルイ。
そういうカコワルイことをする人は、「自分は頭がねじれています」と宣伝しているだけで、非常にみっともない。 …… (*)
なお、他人の意見を読んで、どうしても気に食わなければ、次のいずれかを取るべし。
・ 無視する
・ 自分も名前を出して、自分のサイトで正々堂々と反論する
・ (個人攻撃でなく)一般論の形で論じる。
たとえば、すぐ上の私の文章では、三番目の「一般論の形で論じる」を取っている。この (*) の箇所は、悪口になっているが、特定個人への悪口にはなっていない。読んだ読者も、「具体的にあの人のことを非難しているな」とは思わないだろう。あくまで一般論である。
これは、個人攻撃ではなくて、行動批判である。たとえば、Aさんがこのような行動をしていたとしても、Aさんがその行動をやめれば、もはや何も問題はない。なぜなら、Aさん個人を批判しているのではなく、行動を批判しているだけだからだ。
こういうやり方が、スマートな議論の仕方だ。これなら、書いた人が2ちゃんねらーみたいに下品に見えることもない。(意地悪な爺さんに見えることはあるが。)
──
最後に忠告を一言。
私への悪口とは限らないが、あちこちで個人攻撃をしている人がけっこういる。本当にみっともないので、やめた方がいいですね。カッコ悪すぎ。
どうせ悪口を言うなら、政府批判をするとか、学界批判をするとか、そういうのならカッコいい。
しかし、権力もない民間人をいじめるような悪口を書いたって、カッコ悪いだけだ。どうしても批判したければ、ちゃんと細かく議論で論じればいい。そういうふうに議論で論じないで、「こんなこともわからない馬鹿」と単純な悪口だけを書くのは、まともな議論もできないという自分の知性(ガキレベルの知性)をさらけ出すだけだ。
どうしても他人の悪口を言いたければ、「世間にはこれこれのことをする馬鹿たちがたくさんいる」というふうに、世間的な一般論を述べればいい。本項のように。それなら、個人攻撃でなく、時代批評になる。それなら、ガキレベルの悪口ではなく、文明批評になる。
逆に、特定個人の部分記述について「説明がいくらか不正確なところがある」というふうにギャーギャーと喚くのは、みっともないだけだ。自分が Wiki型でなく 2ch型であると告白しているだけだ。
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なお、本項の記述を読むと、「こいつは自己の誤りを認めないで、自己正当化をするばかりだな」と思う人もいるかもしれないが、それは誤解である。私としては、読者による指摘を歓迎する。その証拠に、コメント欄に記述できるようになっている。ご指摘があれば、記述してほしい。
ただし、ご指摘をどう記述するかが問題だ。それについては、下記を参照。
→ Wiki型と 2ch型
http://openblog.meblog.biz/article/105967.html
過去ログ
書いてる内容の過激さと隙の多さを考えると、いわゆる2chタイプの書き込みは驚くほど少ないと思います。
また、2chタイプの多いネット上で議論してても絶対分からない、「まとも」な議論やコミュニケーションのあり方を実に分かりやすく解説しているのがすばらしいですね。
ビジネスの世界では常識になりつつある、まともな議論の仕方を、日本人はあまりにも知らない。これが、大げさでなく、日本の国力を下げてる元凶ではないかと私は確信しつつあります。
ここ最近の議論・意見のあり方を題材にした一連の批判文章に心よりエールを送ります。
いつも楽しく読ませてもらっています。
高尚な毒のある文章を。
管理人さんはいつも毒は吐きながら、こういう反論はしないでね。とかこれはこうだから誤解しないでねと書いていますが、これって「ダチョウの押すなよ!絶対に押すなよ」ですよね。
こうして典型的な反論を呼び込んで、それを元に議論を深めることをしているのでは、と深読みしています。