2007年05月29日

◆ 場の量子論とは


 場の量子論とは何か? 簡単に説明しよう。

 ※ 本項の後半は、科学に対する態度の、教訓的な話。人生論ふう。 ──

 場の量子論についての詳しい話は、下記にある。
  → http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/trivial.htm
   (そのうちの、「場の量子論との関係」という項目。)


 そのうちの最初と最後を引用すると、次の二箇所。(二つの色枠:薄緑)

 《 最初の部分の引用 》

初歩的な説明

 まず、初歩的な説明をしよう。
 場の量子論は、通常の量子論とは、発想の枠組みが異なる。簡単に言えば、空間を量子化する。一方、通常の量子論は、エネルギーを量子化する。(おおざっぱな言い方だが。)

 量子力学の歴史を見ると、まずは「連続的なエネルギー」という概念があり、それが「とびとびの値をもつエネルギー」という概念に変わった。これが量子化に相当する。そして「とびとびの値をもつエネルギー」の具体的な形が、量子である。たとえば、光子、電子、中間子など。
 このような量子を描写するために、古典力学の方程式を適当な仕方で書き換えると、量子力学の方程式になる。これもまた「量子化」に相当する。
 
 この方法を、「空間」ないし「場」にも適用したのが、場の量子論だ。
 すなわち、「空間」ないし「場」も、とびとびの値をもつと見なして、古典力学の方程式を適当な仕方で書き換える。
 さらに、同様のことをもういっぺんやると、空間から「量子」(粒子)というものが出現する。……これは、何だか手品みたいな話だが、現実に合致する。というのは、「空間から対発生で粒子・反粒子が発生する」ということを結論できるからだ。
 こうして、量子力学では、二通りの枠組みがあることになる。



 《 最後の部分の引用 》

まとめ

 場の量子論というのは、基本的には、「空間の量子化」である。それでいろいろと有益な結論が得られる。だが、根源的な問題がある。
 真空とは何か? 何もない空間か? しかし、何もない空間をいくら量子化しても、何もないままだ。それではおかしい。
 空間というものを量子化できるとしたら、空間というものは「無」であってはならないはずだ。
 とすれば、真空は、「何もないように見えるがそこには何かがある」というふうに認識するべきだ。
 しかし、「真空には何かがある」というふうに考えるべきなのだが、その「何か」というのが、さっぱりわからない。となると、「何かがある」とは言えず、「何かがあるらしい」と言えるだけだ。
 要するに、現代の「場の量子論」は、何があるのかわからないまま、「何かがあるらしい」と信じて、数式をいじっているわけだ。

 ここでようやく、「超球理論」の意味がわかる。
 超球理論は、場の量子論が真空について「何かがあるらしい」と思っているところの、「何か」の正体を明かしている。── すなわち、「何かとは、超球ですよ」と。「それ(超球)は、目に見えないものであるが、確かに存在しているのだ」と。

 こうして、超球理論は、「場の量子論の根拠を与える」という形になる。





  【 余談 】
 以上のことから教訓とするべきことが二つある。人生論ふうの話だが。

 (1) 数式と本質
 理系の研究者は、「数式こそ大事だ」と思いがちだ。しかし、数式ばかりにとらわれて、物事の本質を見失うようでは、ダメである。真実を知るためには、物事の本質を見るべきだ。
 「場の量子論の数式でうまく説明できる」
 というふうに思うだけでなく、
 「その数式で意味しているものは何なのか?」
 というふうに本質を考えるべきだ。
 なぜか? 数式は大切ではないのか? 違う。次のことがある。
 「数式は思考の形式化である」
 「何らかの概念を得たあとで、それを明確化するために、数式化する」
 「数式よりも、それに先立つ概念の方が、本質的である」


 やたらと数式をいじくり回して、たまたまうまく行く数式を見つける、というやり方は、馬鹿げた発想である。パソコンの将棋ソフトみたいに一秒間に百万手を読むのならばともかく、人間は一秒間に百万通りの数式を産み出して検討するわけではないのだから、そんな行き当たりばったりの方針は馬鹿げている。むしろ、物事の本質を突くことで、正解にたどり着くべきだ。ただの数式よりも、数式の意味の方が大切だ。意味を知ることから、本当に正しい数式にたどりつける。

 (2) 真実はどこにあるか?
 通常の量子論と、場の量子論は、どちらも(完全な)真実ではない。では、(完全な)真実は、どこにあるか? 次のような発想がある。
   ・ 二つの説がどちらも一長一短ならば、真実はその中間にある。
   ・ 二つの説がどちらも一長一短ならば、真実は両者を足せば得られる。

 しかしながら、歴史的には、このような発想は常に間違っていた。かわりに、次の発想が正しかった。
   ・ 二つの説がどちらも一長一短ならば、真実はそれらとは別の第三のところにある。

 二種類の量子論がどちらも不十分であるときには、両者をうまく融合すればいいのではない。両者の真実をどちらも包み込むような、新らしい意外なものを導入すればいいのだ。また、そうするしか、解決の道はないのだ。
 ただし、そういうふうに見出された真実は、見出された時点では、あまりにも意外なので、すぐには賛同を得られない。進化論であれ、ビッグバンの理論であれ、まったく新しい学説が学界で広く受け入れれるには、かなり長い時間がかかった。

 [ 参考 ]
 関連する話題で、「科学的な態度」というテーマの話もある。
 → http://openblog.meblog.biz/article/74590.html
posted by 管理人 at 19:21| Comment(0) | 物理・天文 | 更新情報をチェックする
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