2007年03月14日

◆ いわゆる康熙字典体


 Vista で導入される正字の字体は、「いわゆる康熙字典体」である。これは、何か? 国語審議会では、こう述べる。
 「康煕字典を典拠として作られてきた明治以来の活字字体」
 これは、中国の康熙字典の字体ではなくて、日本の印刷用の活字字体である。これについて混乱している意見があるようなので、解説しておく。

 ( ※ 文字コードの話ではなく、漢字の話。) ──

 まず、康熙字典そのものは、次の画像がある。明朝体の木版であることがわかるだろう。
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/016/17100.html

 一方、「いわゆる康熙字典体」は、日本の明治以来の活字字体である。国語審議会の文章を詳しく引用すると、次の通り。
明治以来、活字字体として最も普通に用いられてきた印刷文字字体であって、かつ、現在においても常用漢字の字体に準じた略字体以上に頻度高く用いられている印刷文字字体」及び「明治以来、活字字体として、康煕字典における正字体と同程度か、それ以上に用いられてきた略字体や俗字体などで、現在も、康煕字典に掲げる字体そのものではないが、康煕字典を典拠として作られてきた明治以来の活字字体(以下「いわゆる康煕字典体」という。)につながるものである。
( → 国語審議会「表外字体案」 p.3 )
以上を踏まえて、次の問題を示す。

 (1) 康熙字典体との違い
 「いわゆる康熙字典体」は、康熙字典そのものの字体とは異なる。日本の印刷用活字の字体である。
 そもそも、国語審議会が標準を定めようとしたのは、日本の印刷用活字の字体に標準を定めようとしたからだ。で、日本の印刷用活字の字体を見ると、中国の康熙字典を基盤にしているとわかったが、必ずしも中国の康熙字典そのものとは言えず、部分的に日本では主流となっている異体字などもある。で、どちらを優先するかと言えば、昔の中国の例よりは、近代の日本の書籍の例を優先する、というのが、国語審議会の立場だ。……その趣旨が、「康熙字典体」ではなくて「いわゆる康熙字典体」という言葉に表れている。
 ただし、これを誤解する見解もある。次のように。
康熙字典では皇帝の名を避諱して闕画をする字もあるなど(玄など)、字形に疑問も見られ、それを訂正したものを「所謂康熙字典体」と呼ぶ。( Wikipedia 「康熙字典」 2007-01-29 版 )
これは、「いわゆる康熙字典体」ではなくて「所謂康熙字典体」というふうに表記しているが、「所謂」は「いわゆる」と読むから、同一視できそうだ。しかし、ここで示しているのは、中国の康熙字典の字体である。ちょっと修正したとはいえ、しょせんは康熙字典の字体である。いくらか抽象化されているとはいえ、しょせんは康熙字典の字体である。ゆえにこれは、「いわゆる康熙字典体」ではなく「康熙字典体」と呼ぶのが正しい。
( ※ なぜかというと、字体というものはもともと抽象化されているからだ。それに対して、現実の個々の康熙字典の文字があるが、それは、「字体」というよりは、文字そのものであり、「字形」と呼ばれる。なお、「グリフ」は「字形データ」のこと。)
 Wikipediaというのは、素人が執筆するせいか、至るところに間違いがある。上記も同様だろう。漢字のことには詳しいが文字コードのことは知らない人が執筆したらしく、日本の用語である「いわゆる康熙字典体」について中国風の解釈をしている。
 間違えている人も多いようなので、勘違いしないようにしよう。

 (2) 字体の揺れ
 「いわゆる康熙字典体」というのは、日本の明治時代の印刷用活字の慣用であるから、当然ながら、バラツキがある。これを「字体の揺れ」と表記しよう。
 この事実に対して、批判がある。
 「いわゆる康熙字典体というものは一通りに決まらない。字体の揺れがある。だから、こんなものはダメだ。一通りに決まらないようなものを提案する国語審議会の方針は、非厳密なので、けしからん」
 こういう発想は、いかにも素人っぽいものであり、多く見られる。
  ・ JCSの芝野委員長によるもの ( → 私の文書
  ・ http://internet.watch.impress.co.jp/www/column/ogata/special9.htm
  ・ http://www.fontworks.com/typography/zatsugaku/jiji_1999_085.html

 しかし、まともな専門家ならば、そういう単純な発想はしない。「一通りには決まらない」という事実を事実として見据えた上で、「だから調査して研究しよう」というふうに提案する。
  ・ http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/codeseij.txt  (揺れ・揺らぎ)
  ・ http://homepage3.nifty.com/shikeda/0003.txt
  ・ http://homepage3.nifty.com/shikeda/001021.html

 素人というのは、度しがたいものだ。たいては、勝手に「一通りに決まるべきだ」という妄想をつくりあげて、その妄想に合致しないからと言って、現実を否定しようとする。そのあげく、「自分好みでない現実を否定して、新たな理想的な現実を作ろう」という狂気的な発想をする。

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    ── 以下、感想。──

 こういう狂気的な発想をするのは、「理系バカ」の一種であろう。なるほど、理系の対象(自然科学の対象である自然)ならば、そこには統一された法則が成立するはずだ。万有引力であれ何であれ、一通りの法則の下で、真実は一通りに定まる。
 しかし、それを人間社会にまで持ち込もうというのは、狂気の沙汰である。人間というものは、一通りに決まるものではなく、多様性にこそ価値がある。あなたも私も、同じ人間ではなく、それぞれの個性があるからこそ価値がある。ここで「一通りに決めるべきだ」なんていう発想が出たら、人間性というものは消滅してしまう。(ロボット化だ。)
 社会で使われている印刷の文字には、字体の揺れがある。それは人間の多様性そのものに由来する。だとすれば、それをそのまま、受け入れればいい。ただし、そのなかで規範を作ることも大切だから、「こういう仕方で規範を作れ」という大本の方針を国語審議会は示した。とはいえ、現実は多様だから、大本の方針だけで万事が片付くわけではない。大本の方針より先の、細かな詳細は、専門家に委ねている。「文字の詳細については専門家がいるでしょうから、専門家が調査して研究してください」というふうに委ねている。それを受けて、専門家は、「じゃ、調査して研究しよう」というふうに受け入れる。
 ところが、理系バカの素人は、「大本だけあって詳細がないから、この方針はダメだ。全部細かく決めてくれなくちゃ、大本の方針を受け入れられない」と言い出す。
 馬鹿丸出し。何もかも決めてもらわなくちゃ、自分で行動できないのか。幼稚園児だって、「肉屋でお肉を買ってきて」と言われれば、自分で買物に行くことができる。途中で道に迷ったりすることもあるが、必死に努力して、何とか買物をしようとする。(「はじめておおつかい」という番組。幼稚園児の後ろでカメラマンがこっそり見守っているわけ。)……で、幼稚園児だって、細かなことを指示されなくたって、あとは自分で考えながら行動できる。ところが、バカな素人は、「何から何まで教わらなくちゃ、自分で行動できません」と言い出す。そのあげく、マイクロソフトや他の人々が努力して、自分で決めて行動しようとすると、「おれたちにはできないことをおまえがやるのはけしからん」と言い出して、他人の行動を邪魔しようとする。
 こういう人たち(たいていは略字維持派)は、「自分の頭で考える」ということができない。かわりに「自分の頭のなかの妄想」だけを信じる。「字形は一通りであるべきだ」という妄想を。
 現実には、パソコンのフォントの字形は、これまでもずっと「字体の揺れ」があった。たとえば、明朝体では「進」と「迸」のしんにょうは一点と二点で異なるが、マイクロソフトのHGS楷書体ではどちらも楷書体の「ろ」のようなしんにょうで、ともに一点である。また、「葉」のような文字の草かんむりは、明朝体では「‡」を横にした形(3画)だが、HGS楷書体では「+ +」(4画)である。……つまり、これまでもずっと、パソコン文字には「字体の揺れ」が(ある程度は)許容されてきた。これからだって、ある程度は許容されていい。たとえば、「食」へんの3画目の文字が、「|」であろうが「−」であろうが「 \ 」であろうが、許容されていい。
 こういう「字体の揺れ」は、ある程度は許容されていいのだ。そして、そういう「字体の揺れ」があるからといって、「正字というものは一通りに定まらないから、正字なんていうものは捨ててしまえ」というのは、暴論でしかないのだ。それはいわば、「音楽の演奏は一通りにならないから一通りに規格化せよ」という暴論であり、「人間は一通りにならないから、人間を抹殺してすべてロボット(またはクローン人間)にせよ」という暴論であり、「人間の思想は一通りにならないから独裁者の定める一通りだけに規格化せよ」という暴論である。
 こういう「理系バカ」ないし「規格化バカ」が、自分の妄想に合わせて、現実を変革しようとして、現実を否定する。……そして、それが、JIS委員会の伝統であった。JIS2000はこの方針のもとで、「あらゆる文字をなるべく略字化しよう」という方針を取った。こうして、「略字による統一」という新規格が、現実にJISの規格として定まった。

 そして、それに抵抗したのが私などの少数派の人々であった。それらの少数派の人々の意見がしだいにふくらんで、最後の段階でかろうじて、JIS2000という略字の規格は、「決定はするが実装はしない」ということに決まった。
 とはいえ、このことを恨んでいるのが、略字派だ。かくて、略字派の人々は、「おれたちの理想を破壊したにっくき野郎」とばかり、今でも南堂を批判し続けるのである。さらにまた、「正字に統一するのはけしからん」と、いまだに文句を言い続けるのである。

 [ 余談 ]
 ちょっと古い話だが、二カ月ほど前の新聞記事に、面白い話があった。「将来はロボットにも、人権のようなものが認められるだろう。ペットにも人権のようなもの(ペット権・犬権)が認められるように、ロボットにもロボット権が認められるだろう」と。
 話半分の与太としては面白いが、こんな与太をいちいち掲載する新聞もどうかしているね。そもそも、こんなことが現実化したら、江戸時代の「お犬様をいじめた人間は縛り首」というのよりも、もっとひどくなる。ロボットを壊しただけで、縛り首だ。たとえば、パソコンを落としてHDをこわしたら、「パソコン様をいじめた人間は縛り首」みたいになる。
 そもそも、「人権」というものがあるのは、人間が生命だからだ。生命は非可逆的だ。いったん死んだ人間は生き返らない。同じDNAから再生しても、同じ人間を再生したことにはならない。あなたを死なせたあとで、あなたのクローンが生まれても、あなたが生き返ったことにはならない。それが生命というものだ。一方、ロボットは、可逆的である。壊れたって、修理できる。電源を消して死んだあとでも、電源を入れれば生き返る。
 生命と機械の違いも区別できないような連中が、「ロボットにもロボット権が認められるだろう」などと、平気で言い出す。(出典は二カ月ぐらい前の新聞。ネット上には見出せない。見つけた人がいたら、コメント欄に書き込んでおいてください。)
 かと思えば、「ロボットはいっぱいメモリがあるから、たくさん記憶できていいなあ。自分も頭にたくさんメモリを詰め込みたい」なんて夢見る人まで出てくる。
 ともあれ、現代のIT社会では、「人間よりもコンピュータの方が頭がいい」なんて言い出すお馬鹿な連中が多すぎる。コンピュータを「考える機械」と言い出す連中まで出てくる。かと思えば、「女は子供を生む機械だ」と言い出す政治家も出てくる。……ま、後者が悪いというよりは、どっちもどっちであるが。
 現代というのは、おかしな時代である。機械はどんどん人間に近づいていくが、逆に、人間はどんどん機械に近づいていく。人間性の喪失。……こういう時代には、正気を保つのは、容易なことではない。その対策は……私のサイトの文章を読むことですね。ただし、読むだけなら、コンピュータでもできる。読んだあとで「自分で考えること」こそ、大切だ。
 なお、「何から何まで全部教えてもらわないと受け入れられない」というような人は、まずは「はじめてのおつかい」という番組を見て、幼稚園児に生き方を学びましょう。ちゃんと学ばないと、オタクになっちゃいますよ。
( よく考えてみると、略字主義者というのは、みんな文字オタクだな。)
posted by 管理人 at 19:28| Comment(1) |  文字規格 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いわゆる字体差というのは単にデザインが異なるだけ、
だから字形を統一しろなんて話はおかしい、というところは同意です。
個人的には異体字と呼ばれるものに同じコードを充ててほしいです。

えーと、Wikipediaの記事が間違っているというのでしたら
ここで間違いを指摘するのではなく直してあげてはいかがでしょうか。
そのほうが建設的ですよね、玄人さん。

感想。「理系バカ」と馬鹿の一つ覚えみたいに長々と吠えるのは
「文系バカ」なるものでしょうか。

余談。初めて聞くことが多数あり、大変勉強になりました。
ええ、オタクになるのは結構な話です。ニュートンとかね。
なにか功績を残したなどで有名な人は大抵オタクですよね。
Posted by 曖昧味噌 at 2007年03月26日 10:30
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