2007年03月05日

◆ 字体化けの問題

 前項(文字使用の指針3)では、「何をなすべきか」という話をした。本項では、「何をなしてはならないか」という話をする。
 字形の変更にともなって、「文字化けだ、文字化けだ」と大騒ぎする人もいるが、こういうことをなしてはならない。 ──

 [A]文字化け騒ぎ
 ネット上では、「文字化けだ」と大騒ぎしている人が多い。ブログ検索のサイトで、「文字化け JIS2004」で検索すると、たくさん見つかるだろう。フォントの違いで、略字と正字の双方が出ることで、「文字化けが起こる」というふうに、大騒ぎしているわけだ。
 しかし、これは文字化けではない。その理由は、前項からわかる。つまり、例の 122字は、字形ないし字体が異なるが、「どちらも同じ文字である」と見なすのが正しいのだ。

 [B]正しい認識
 正しい認識を示そう。要点だけなら、前項で示したとおりだが、大騒ぎしている人にもわかるように説明しよう。なぜそういうふうに大騒ぎしてはいけないのか、という形で示す。

 (1) 文字情報は伝わる
 そもそも、字体が変わっても、文字そのものの意味は何ら変わりはない。しんにょうの点が増えても、横線が少し傾いても、まったく別の字になるわけではなく、あくまで同じ字だ。両者が区別されるのは、細かい字体を気にする人名用途ぐらいだ。一般の場合には、まったく混乱は起こらない。たとえば、熟語が別の熟語になるわけではない。「一個」という熟語が「二個」という熟語に変わるわけではない。
 このような現象を「文字化け」と呼ぶ人は、頭がイカレているとしか思えない。むしろ「文字化けではない」とはっきり明示するべきだ。強いて言うなら「字体化け」かもしれない。いずれにせよ、文字化けではない。字形差・字体差はあるにしても、あくまで同じ文字のままなのだから。

 (2) 字体情報は元々ない
 では、「字体化け」と称するべきだろうか? そう称してもいいかもしれない。しかし、これも不正確だ。なぜなら、もともと「字体の指定」は意図されていなかったからだ。JIS X208 の規定では、「略字であること」は規定されておらず、「略字も正字もどちらも同じコードポイント」というふうに規定されていた。だったら、どっちみち許容されているわけだ。
 比喩的に言えば、文字の色だ。JIS では文字の色は指定されていない。ある人が赤い文字を意図していて、文字コードで送信すると、文字の色の情報は消えてしまう。それで、「色情報が消えた」と騒ぐのは、どうかしている。もともと文字コードには色の情報がないからだ。
 色の情報を伝えたければ、色の情報をつけて情報伝達すればいい。字体の情報を伝えたければ、字体の情報(フォント情報など)を情報伝達すればいい。(たとえば PDF )。
 結局、字体情報は元々ないのだから、字体情報が失われるということは原則的にありえない。(もともとゼロなのだから減りようがない。)……というわけで、「字体化けが起こる」ということもまた不正確である。

 (3) 例示字形の交替
 では、今回の現象は、文字化けでも字体化けでもないとしたら、何なのか? 「例示字形の変更」である。この「例示字形」というのは、「代表」という意味だ。
 たとえば、クラスの代表としての一人が出席する。これはなぜかというと、クラスの全員が出席するわけには行かないからだ。クラスの全員が出席すると、等の会議室に入りきれなくなる。そこで、クラスの代表の一人だけが出席して、全体の会議がなされる。ただし、代表はあくまで代表であって、クラスの全員そのものではない。代表がクラスの全員の食事を全部食べたりする権利はない。あくまで代表しているだけだ。
 字形の場合も同様だ。これまでは略字が代表していたが、これからは正字が代表する。公の場に出席する代表者が、略字さんから正字さんに交代した。ただし、略字さんが抹消されるわけではない。個人的な利用では、略字さんも堂々と生きていていい。ただし、公的な場に出席する人は、これからは正字さんになる。……それだけのことだ。

 (4) 標準と非標準
 では、なぜ、代表者(代表字形)が、略字から正字に交替したのか? その理由は、国語審議会の答申を見ればわかる。また、前出の 「字形の変更」の意味 を見てもわかる。ただし、改めて本項でも、簡単に説明しておこう。
 略字から正字に交替した理由。それは、正字の方が社会的に正当であるからだ。ここで「正当」というのは、「標準的」という意味だ。(正しいとか間違っているとか言う意味ではない。)
 具体的な例を挙げると、次のような例がある。
  ・ 葛飾区 (当社 葛飾区営業所)
  ・ 長瀞下り
  ・ 煎茶
  ・ 味噌
 これらは、(パソコン以外では)たいていのところで正字が使われているだろう。商品を見ても、パンフレットを見ても、たいてい正字が使われている。
 要するに、正字が標準であり、略字は非標準にすぎない。とすれば、代表字形が非標準から標準になるというのは、ごく当たり前のことだ。

 (5) 修正される
 では、非標準から標準に変わるということは、良いことなのか悪いことなのか?
 多くの人は「文字化けが起こるからダメだ」と主張する。しかし、前にも述べたとおり、文字化けなどは起こらない。字体化けも起こらない。では、何が起こるか? 単に「修正される」だけだ。
 そうだ。正当な字体に変わるということは、「変更される」ということではなく、「修正される」ということなのだ。(ソフトで言う「バクの修正」と同じ。間違いがなくなるだけ。)
 こういう変更がいけないのであれば、世の中にある「正誤訂正」は一切許されなくなる。そんな馬鹿なことはないだろう。
 では、「文字化け」と「修正」(正誤訂正)との違いは、何か? それは、「本来の意図通りになるか」ということだ。
 では、「本来の意図」とは、何か? ここで、次の二つに分裂する。
  ・ 書き手の意図
  ・ 社会の意図
 第一に、書き手の意図であれば、さまざまな書き手のそれぞれによって異なる。「榊」にしても、ある人は略字、ある人は正字。およそ収拾がつかない。どちらが正しいとも言えない。一般的には、人名については書き手の意図が優先されそうだが、それだって、正しいのは略字の場合と正字の場合の双方があって、どちらか一方だけが正しいとは言えない。
 第二に、社会の意図。これは、簡単だ。国語審議会がちゃんと調査をしている。すると、たいていは正字が優先されると判明している。例外的に、略字が優先される場合もあり、その場合には、「簡易慣用字体」という形で、その文字が残る。たとえば「兎」だ。(この文字はもともと対応する正字のコードポイントが別途用意されていたが。)
 とにかく、「葛飾区」「長瀞下り」「煎茶」「味噌」の例からもわかるとおり、社会的な普通の単語では、正字が正当(標準的)である。そして、代表が正当な字体に変更されるというのは、「間違いが修正される」ということであるにすぎない。
 地名で言えば、「葛飾」「長瀞」「祇園」「鯖江」などは、略字から正字になった。それは、本来の正しい字体に戻ったということであり、修正されたということだ。
 実を言えば、これまでの文字(略字)こそ、「文字化け」していたのである。本来の文字(意図する文字)である正字にならず、略字に文字化けしていた。「鯖江」も「長瀞」も、文字化けしていた。そして今回、その文字化けが直ったわけだ。
 なのに、文字化けが直ったとき、「文字化けが起こった」と騒ぐ人々がいる。こういう人は、頭がどうかしている。一種の狂人であろう。そして、狂人が病気を治されて正常人になると、「私は狂ってしまった」と叫ぶことになるのかもしれない。(???)

 まとめ。
 今回の変更は、「非標準」の略字から、「標準」の正字に変わった、ということだ。図示すれば、こうなる。
     非標準(略字) →  標準(正字)
 非標準から標準に字形が変わるということは、状況が正常化された、ということである。バグの修正と同じことで、間違ったものを正しいものへ修正することである。
 そして、正しいものになるということは、「化ける」ということではない。なのにこれを「文字化け」と呼んで、「化ける、化ける」と騒ぐのは、とんでもないことだ。むしろ、「文字化けなどはない」または「文字化けが直った」と明言するべきだ。
 愚かな人々は、自分で騒いで、世間を騒がせて、勝手に喜ぶ。そういうのは、狂人のやることだ。まともな人間は、何事であれ、「間違いの修正」や「事態の正常化」を見たら、「大変だ、大事件だ」などと騒ぐかわりに、「これは改善なのだ」と冷静に教えてあげればいい。下手に騒ぐのは、無知な素人に任せておけばいい。

 [ 付記 ](今後の推移)
 今後の推移がどうなるかを、見通しておこう。
 現時点では、「文字化けがある」とか「字体がどっちかわからない」とか、そういう騒ぎがある。だが、将来的には、正字に一本化されていくはずだ。(例の 122字〜168字については。)
 書籍では、すでに正字にほぼ一本化されている。一方、パソコンでは、現状では正字と略字が混在しているが、正字のフォントを使うことが普及するにつれて、正字がどんどん普及していくはずだ。……そして、これは、「略字を正字に置き換える」という形で、「字形の変更」があったからこそ、可能になったことなのだ。
 仮に、「字形の変更」がなかったなら、「フォントの置き換えで一挙に字体を変更する」ということはできなかっただろう。過去の略字の文書はみな略字のまま残されただろう。「葛飾」「長瀞」「祇園」「鯖江」なども、「煎茶」「味噌」なども、略字のまま残されただろう。あげく、そういう状況に正字が追加されて、略字と正字の混在状態が続いただろう。まったく困ったことになる。一つの文字に二つの字体が共存するので、人々は二つの字体を覚えることを強要されるし、見た目でも不統一がはなはだしい。ひどいものだ。
 しかるに現実には、そうはならない。「字形の変更」があったから、過去の文書もそろって、いっぺんに「正字」に置換される。仮に、正字に置換しないものぐさ野郎がいても、それで困るのは、そのものぐさ野郎だけだ。彼から受け取った文書は、まともな人間が自分のパソコンで読み取れば、自動的に正字で読み取れる。ものぐさ野郎がいくらものぐさをしていても、読み手がまともであれば、ちゃんと正字で読み取れる。
 いわば、自動的なバグ修正機能である。すばらしい! 超便利! 
 結局、これからどうなるかというと、ものぐさ野郎が個人的に困るだけであって、まともな人は誰もが便利になる。自分のパソコンでフォントを置き換えるだけで、すべては正常化される。これまでは汚らしい略字という変な誤字ばかりを読まされてきたが、これからはまさしくまともな文字を読み取れるようになるのだ。「波涛」→「波濤」とか、「胡錦涛」→「胡錦濤」というふうに、頭のなかでいちいち字形を変換する手間が省けるわけだ。
 
 ただし、それで困る人もいる。
 一つは、誤字に慣れて、誤字を正しい文字だと思い込んでしまった哀れな人たちだ。これはまあ、頭を作り替えてもらうしかないですね。「天動説を覚えたんだから、天動説を使え。地動説なんか使い慣れていないからダメだ」と主張する昔の人と同様で、時代錯誤なんだから、間違いは正してもらうしかない。(いやがるでしょうけどね。頭が固いから。)
 もう一つは、非標準の字形を人名に使いたい人だ。これはまあ、個人で対処してもらしかないですね。印刷するときに、お好みの字体を使うフォントを使えばいい。ただし、印刷はそうでも、文字コードで情報伝達するときには、正字を使うのが基本だ。たとえば、「渡邊」や「齋藤」と書くとき、本人の指定する字体がどのようなものであれ、パソコン上では正字(またはパソコン上の俗字)を使うべきだ。パソコンにない文字を使うことは、原理的にできるはずがない。で、できないからといって、「文字コードを変えてしまえ」というのは、とんでもないことだ。文字コードは、変な異体字を使う個人のためにあるのではなく、日本語の標準的な文書を使うためにある。ここを理解しないと、JIS2000 という空証文を制定した JIS委員みたいな頭になる。
( ※ 余談だが、人名の「中内功」を勝手に書き間違えたあげく、その書き間違えを他人に強要して、「功」を「エ刀」と書け、と主張するのは、あまりにも独裁的すぎる。そういう独裁的な人物が社長をやると、会社が倒産するだろう。話が逸れたが。)

 なお、異体字一般についてなら、別途、規格がある。文字コード以外の異体字を使う規格として、 OpenType などがある。それによって、字体を指定することが可能だ。DTP 業界では、そうすればいいだろう。また、Mac でも、そうすることは(ある程度は)可能だ。
 そこで、異体字をいろいろと指定して使いたい人には、「Mac を使え」と言っておこう。どうしても Windows にしたければ、高い金を払って、 OpenType のソフトを買えばいい。とにかく、お金で解決すればいい。お金がなければ、画像かフォント指定で済ませればいい。
 とにかく、字体の指定は、JIS (という文字コード)の役割ではない。したがって、字体が指定できないことに対して、「文字化けだ、文字化けだ」と騒ぐのは、「自分は文字コード音痴だ」と騒ぐのと同様である。そんなふうに騒ぐのは、素人と狂人に任せよう。

 [ 余談 ]
 「文字化け」ならぬ「字体化け」が起こるように見えることの根源は、「字体が指定されていない」ということにある。では、そのことは、困ったことなのか? いや、すばらしいことなのだ。
 通常、HTMLでは、字体が指定されない。だからこそ読み手は、自分の好きなフォントで文字を読み取れる。MSPゴシックだろうが、メイリオだろうが、自分の好きなフォントを使える。これはとてもすばらしいことだ。読み手の自由が尊重される。これらは字体というより書体だが、字体でも同様だ。略字を使いたい人は略字を使えばいいし、正字を使いたい人は正字を使えばいい。
 一般に、フォント情報や字体情報が過度に含まれると、かえって邪魔くさくなる。たとえば、HTML文書でメイリオをフォント指定する人がいるが、環境によってはひどく汚く見えてしまって大迷惑だ。(指定した本人は、自分が良ければそれでいいと思っているのだろうが。)
 同様に、名前の文字の指定で「中内功」や「渡邊」「齋藤」を勝手に自分の誤字に変えたりするのも大迷惑だ。自分の誤字を他人に強制しないでほしいものだ。「自分のこの字はこれだから、この文字を使え」と強制するのは、まっぴら御免だ。
 とにかく、文字にとって重要なのは、文字情報だけである。細かな差異にこだわった字体情報や字形情報なんて、面倒で邪魔なだけだ。文字の本質とは関係のないところで、線が長いとか突き出ているとか、余計なことにこだわらないでほしいものだ。
 文字にとって大切なのは、文字の本質だけだ。見かけの細部の差などは、どうでもいい。そんな差異にこだわって、「これが私の個性です」と主張するような人間は、よほど自分自身が空っぽなのだろう。
 「邊」という字において重要なのは、それが「邊」という字だということだけだ。その(正誤でなく)同一性を確保するためには、その字の細部までも重要になるだろう。書き方を間違えたら、正しく同一視されないかもしれない。だからといって、小さな字画の差で「私の邊は正字の邊とは違うんだ」と主張するようなことは、意味がない。「私の邊は正字の邊とは違うから、誤字なんです」というふうにすべてひっくるめて「誤字」として理解されるのならばわかるが、「私の邊は正字の邊とは違うから、私の邊が正しくて正字の邊が間違いだ」などと主張するのは、本末転倒だ。それは、「狂人が自分を正常と見なして、正常な人を狂っていると見なす」というのと、同様である。狂気的。

  【 参考情報 】
 ダイナフォントの FAQ
http://www.dynacw.co.jp/support/faq_dynafont/faq/vista.html
posted by 管理人 at 19:48 | Comment(0) |  文字規格 | 更新情報をチェックする
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