2007年02月17日

◆ 正字フォントを使うべきか?


 MSは正字を表示できる新フォントを公開した。(前項の通り。)
 では、この正字フォントを使うべきか? それとも今まで通り、略字フォントを使うべきか?
 世の中の流れは、正字フォントへの統一だろうが、一人一人のユーザーはどうするべきか? ──

 この問題があるのは、異を立てたい人が多いからだ。理屈としては、次の通り。
  ・ 「他人が正字フォントを使うからといって、自分がそうする必要はない」
  ・ 「いちいち正字フォントをインストールするのは面倒だ」
  ・ 「略字の方がパソコンでは文字が見やすいから、略字の方がいい」
 というような理屈だ。それはそれで、もっともである。というわけで、こういう疑問を持つ人々に対して、どうするべきかを説明する。

 なお、初めにお断りしておくが、これは他人への強要ではない。「自分はどうしたらいいだろうか?」と迷う人々に対して、考えがまとまるように、論点を整理して上げているだけだ。以下では、結論を示すが、納得できれば納得すればいいし、納得できなければ納得しなくていい。
 また、結論が出たからといって、それが実現できるとは限らない。XP SP1 などの環境では、うまくできないこともある。出来るかできないかは、また別の話だ。
 ともあれ、論点を整理する形で、「どうするべきか?」について解説する。

 (1) 個人の使用では勝手
 個人的に使用する範囲では、どっちでも勝手である。便益を考えながら、好き嫌いで決めていい。
 特に、画面表示だ。画面表示は、他人に見せるわけではなく自分が見るだけだから、どんなフォントだろうと、勝手にしていい。正字だろうが、略字だろうが、ケータイの極度に簡略された略字だろうが、好き勝手にすればいい。(なお、パソコンだって、とても小さな文字にすると、変な略字になってしまう。たとえば「襲 繁 書 構 邊」などだ。)
 とにかく、個人の使用の範囲内では、個人の自由が尊重される。比喩的に言えば、自宅では、どんな服装をしていようが勝手だ。女装でも、タイツでも、裸でも、好き勝手だ。

 (2) 公の場では統一
 個人でなく公の場ではどうか? 公共(パブリック)では、好き勝手な服装は傍迷惑だ。女装や裸なんて、とんでもない。同様に、文字もまた好き勝手な文字を使用されては、たまらない。各人が勝手な自己流の略字を使い始めたら、情報伝達が困難になる。
 当然、公の場では、言葉や文字は統一されているべきだ。社会全体が一定の文字を使うのであれば、自分もまた同様の文字を使うべきだ。さもないと、情報伝達が困難になるからだ。また、公の場というほどでなくても、他人との間でも、情報伝達については同じことが成立する。
 具体的に言おう。活字印刷やプリンタ印刷などの、紙の印刷物がある。また、PDFという電子印刷物もある。これらでは、字形情報が伝わる。ここでは、各人が同様の文字を使うのが当然だ。つまり、文字は統一されているのが当然だ。
 わかりやすく言おう。現代日本では、常用漢字は新字体を使うのが常識だ。なのに、会社のレポートなどで、誰かが勝手に旧字体を使い始めたら、他人が迷惑をする。また、旧字体ならまだしも、新字体と旧字体のチャンポンで使われたら、ひどく迷惑する。
 このように、文字というものは字体を含めて、各人が共通の規範に従うべきだ。さもないと、まともな情報伝達ができなくなる。(比喩的に言えば、全国会議で各人が勝手な方言を使い始めると、メチャクチャなことになる。一つ一つの家庭内では方言を使っても構わないが、それと全国会議とは事情が異なるのだ。)

 (3) 自己流の恥ずかしさ
 それでも、「他の人々がそうでも、自分だけは異を立てる」という生き方もあるだろう。それはそれで、一つの生き方だ。
 ただし、思想や生活観ならばそれでもいいが、言葉そのものが自己流を通すというのは、社会では通用しない。社会生活というものは、一人一人が自己のエゴを押さえることで成立する。自己のエゴを貫いて、大勢に迷惑をかける、というのでは愚かすぎる。
 それは、文明人の態度ではない。礼儀知らずであり、傍若無人であり、唯我独尊であり、犯罪的であり、また、文盲と同然である。要するに、野蛮人なのだ。
 そういうふうに自己流をつらぬくと、統一からはずれた言葉が排除されるのといっしょに、統一からはずれた人間もまた排除されてしまうだろう。エゴをつらぬく人間は、嫌われて、つまはじきにされる。
 比喩的に言おう。誰もが礼服を着ている葬式で、一人だけ崩れた赤い服装だと、みなが眉をひそめる。ここでは、服装そのものが不快なのではなく、公共心の欠落が不快なのだ。赤い服装がダメなのではなく、赤い服装を良くないと認識できない人間がダメなのだ。
 野蛮人に欠けているものは、服装のセンスではなくて、知的能力だ。すなわち、統一された環境を破壊する人は社会では受け入れられない、と認識する知的能力だ。これが欠けているのがダメなのだ。こういう野蛮人は、「赤い服装だってきれいじゃないか」というふうに、見当違いのことを主張する。服の良し悪しが問題になっているのではなく、統一性を破壊することが問題なのだ、と理解できない。あまりにも知能が低すぎる。
 略字派も同様である。社会全体が統一された環境のなかで、自己流を貫いて、社会に合わせることができない、ということが問題なのだ。ここでは、略字が便利かどうかは関係ない。略字の便利さを主張する略字派は、あまりにも知能が低すぎる。何が論点かを理解できていないのだ。
 文明人というものは、恥を知っている。葬式の場で赤い服を着るのは恥だ、とわきまえている。そういう恥を知らないで、「赤いのはきれいだよ」と言い張るのが、野蛮人だ。

 (4) 正字による統一
 では、統一とは、略字と正字のどちらへの統一か? 
 これについて、ひどい誤解がある。「略字での統一から、正字での統一へと、統一の種類が変わっただけだ」と。── これはとんでもない誤解だ。おそらく、本というものを読んだことがない人なのだろう。
 出版された本は、その大部分が、略字でなく正字を使う。そんなことは、本を読めば、一目瞭然だ。本を読めば、「嘲笑」や「鯖読み」という単語を読むたびに、そこに正字が使われていることがわかる。
 つまり、従来は、「出版物は正字、パソコンは略字」というふうに、二重標準(ダブルスタンダード)があった。同じ文字を表すにも、二種類の標準規格が併用されていた。これは、非常に具合が悪い。メートル法とヤードポンド法を併用するような不便さだ。パソコン以外では正字が使われるのに、パソコンだけは正字が使えない、という不便さだ。
 そこで、このような二重標準の混乱をなくそうとしたのが、今回の「字形の変更」の意図である。
 つまり、今回は、「混乱から統一へ」という措置があったことになる。決して「統一の種類が変わった」というわけではない。なるほど、パソコンだけを見れば、「統一の種類が変わった」というふうに見えるだろう。しかしそれは、パソコンしか見ていない人だからだ。本を読む人であれば、「従来は(二重標準の)混乱があった」と理解できるはずだ。

 (5) いつ変えるか?
 以上のことから、社会の大勢に合わせて、一人一人もまた正字フォント使うべきだ、とわかる。画面表示用のフォントはともかく、(字形つきで他人と情報交換する)印刷用のフォント[MS明朝]は正字フォントにする方がいい。── これが結論だ。 
 さて。残る問題は、「正字フォントに変えるとして、いつ変えるか?」ということだ。それに答えよう。
 結論から言えば、いつ変えようと、その人の勝手だ。今すぐ新フォントを入れようと、社会の大勢に遅れて、最後のころになって変えようと、どちらでもいい。
 ただし、どうせ変えるなら、早めに変えた方が有利だ、とは言える。流れに遅れるよりは、流れに先んじた方が、何かと便利だ。
 なお、これには、条件がある。「そのフォントが無料であれば」という条件だ。液晶テレビならば、十万円以上するので、急いで買い換える必要はない。「早めに変えた方が有利だ」とは言えない。むしろ、早めに買い換えた人は、損をする。2年前に液晶テレビを買った人は、かなりの高値を払って、品質は現在よりもずっと劣るものしか買えなかった。値段は重要である。
 しかしながら、新フォントは無料である。MSのフォントは無料でダウンロードできる。ならば、それを使うのが利口というものだろう。(ついでに言えば、千円ぐらいなら払ってもいいはずだ。1万円だと高すぎますけどね。)
 というわけで、タダで変えることができるのだから、さっさと変えた方が得である。逆に言えば、変えないと損をする。どうせ世の中は、略字から正字に変わっていく。現状では略字のパソコンの方が多いが、将来的には略字フォント派はどんどん減って絶滅同然になる。世の中の99%以上が正字フォントを使っている状況で、自分一人だけが略字フォントを使っていると、仲間はずれになる。簡単に言えば、「言葉の通じない野蛮人」と見なされる。あるいは、「いつまでも古いパソコンの誤字を使い続けるボケ老人」と見なされる。
 だから、いつまでも略字を続けるわけには行くまい。いつかは正字派に転換する必要がある。そして、どうせ転換するなら、それは早ければ早いほどいい。同じことをやるなら、人に遅れるよりは、人に先んじた方がいい。
 なお、あんまりグズグズしていると、年を取る。年を取ってからでは、方針を変えるのに難儀する。いや、もう、難儀しているのかも。……

 (6) 例外としてのフォント切り替え
 なお、例外的な場合がある。それは、人名・地名で、あえて略字を指定したい場合だ。その場合には、略字フォントを使えばいい。たとえば、普段はMSの正字フォント(MS明朝)を使うが、例外的に略字を使いたいときには、他社のフォント(JS明朝やDF平成明朝など)を使う。……こういうふうに、フォントによって、字体を使い分けることが可能だ。

 (7) 例外の無視
 とはいえ、このような使い分け(フォントによる切り替え)は、あまり必要ない。
 たとえば、人名を見よう。「辻」さんは、正字で二点しんにょうになるので、一点しんにょうの「辻」さんが困る、という説があるが、無視してよい。なぜなら、従来だって、二点しんにょうの「辻」さんは無視されてきたからだ。無視される相手が変わるだけだ。そのくらいは我慢してもらえばよい。
 また、地名も同様だ。「鯖江市」だって「葛飾区」だって、これまではずっと正字が使えないで、不便な状態だった。それでも、パソコンの状況をしのんできたのだ。とすれば、今後は略字の「葛城市」が不便をかこつとしても、しのんでもらうしかない。
 パソコンというものは、文字さえわかればいいのであって、細かな字形情報までは伝わらなくて構わない。たとえば「齋」や「邊」に多数の異体字があるとしても、その細かな字形情報を伝える必要はなく、どの正字に該当するかが伝わればいい。それだけだ。
 なお、どうしても細かな字形情報まで伝えたければ、画像を使うしかあるまい。そして、そのようなことは、通常は必要とはされないのだ。

 ──

 [ 付記 ]
 参考情報として、次のページがある。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20070206/260880/

 MSは Vista 用に、略字のフォントを提供しているが、それは不完全なものだ、という話。結論は、「Vista で略字フォントを入れても、XP の略字フォントと同じにはならないから、統一性は保てませんよ」ということ。そして、細かな違いを、あれこれと調べる。
 とはいえ、この話は、あまり有益ではない。
  ・ そもそも「略字に統一する」という発想がおかしい。(上記の解説より)
  ・ 略字を使うなら、MSではない他社製フォントを使うべきだ。(上記の (5) )

 とにかく、「どのようにして略字の状態を保つか」を考える必要はなく、「どのようにして正字に移行するか」を考えるだけでいい。そして、例外的に略字を使いたい場合には略字専用のフォントを使えばいい、とわかる。
 なお、この「フォントによる対応」というのは、ちょっと面倒な事情があるので、数日後にまた再論する。

 ──

  【 追記 】
 マイクロソフトが略字フォントを出したこと自体は良いことだったが、そのやりかたがまずかった。どうせ略字フォントを出すのならば、正字フォント随時切替が可能なように、別名のフォントにするべきだった。たとえば、「MS略字明朝」というようなフォント。
 このフォントを使うと、正字フォントのうち、字形の変更のあった文字(122字プラスα)だけが略字になる。例。「辻」が二点しんにょうから一点しんにょうになる。
 こうすれば、通常はMS明朝で正字を使えて、特別に略字にしたいときだけは「MS略字明朝」を使うことで略字の「辻」を使えるようになる。──こういうふうにするべきだった。
posted by 管理人 at 23:09| Comment(0) |  文字規格 | 更新情報をチェックする
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