2007年01月20日

◆ 略字の理由


 朝日略字が廃止されたことについて、朝日新聞に弁解のような特集記事が出た。83JISで略字を導入した人物(略字の張本人)と、国語審議会の人とで、対談させる記事。(朝日・朝刊・特集 2007-01-19
 この記事について論評しよう。

    ( ※ 正誤訂正: 新聞記事の日付を修正しました。) ──

 この記事の狙いは何か? 今回の略字廃止と、以前の略字導入を、どちらもいっしょに正当化したい、というのが朝日の狙いだ。(そうは書いていないが、それが見え見えである。二人が論じてうまくまとまれば、自然にそうなるはずだ、という自社弁護。JISの略字を弁護することで、自社の略字を弁護したい、というわけ。)
 しかしながらこの狙いは、自社の都合のための弁明であるにすぎない。不二家の賞味期限切れのシュークリームを自社弁護するのと同様だ。そのインチキの化けの皮を剥がすことにしよう。それが本項の目的だ。

 ──

 (1) 今回の略字廃止
 今回の略字廃止について正当化したい、というのが朝日の狙いだ。しかし、そのことは、まったくできていない。この件は、何度も述べたとおり。
 要するに、「国語審議会が決めたから」というのは、理屈にならない。七年も前のことだからだ。
 より肝心なのは、「略字ではダメだ」「字形の変更をする」という直接の理由が、何も書いていないことだ。「国語審議会が……」という他人任せ。ここでは、次の二点が欠落している。
  ・ どうして国語審議会がそう決めたのか
  ・ 文字コードではなぜ略字を廃止したのか(字形の変更をしたのか)

 このうち、後者については、文字コードのない朝日略字は関係ない。だが、前者については、朝日略字も関係がある。ちゃんと理屈を述べるべきなのだが、理屈を述べていない。(JISの委員会も述べていないが。)

 (2) 以前の略字導入
 この (2) が本項の眼目である。(1) の方は何度も述べたからだ。
 さて。今回の記事を見ると、以前の略字導入についての説明が(一応)ある。それによると、略字を導入した理由は、「当時の電子機器(ワープロ専用機やパソコンやプリンタ)が24ドットだったから」ということだ。
 24ドットだと、画数の多い文字は字画がつぶれて判読できない。そこで字画の少ない略字にして、画数の多い文字もすべて表現できるようにした……というわけだ。
 なるほど、もっともらしい理由である。
 で、この理由に基づいて、記事では「字体の簡略化も仕方なかった」という感想を出したり、「(これほど電子機器が発達するとは)予想できなかった。見通しのずれが問題を複雑にしましたね」という感想を出したりする。
 かくて、「当時の技術水準では、略字の導入は仕方なかったのだ」というふうに読者を信じ込ませる。
 しかしながら、この説明は、嘘八百である。朝日の記事はとんでもない嘘八百記事だ。

 ──

 この記事のどこがどう嘘であるのか、以下では論じよう。

 (i)24ドット
 記事によれば、「24ドットでは表現できない文字があるから略字を導入した」という意味の言葉がある。しかし、これは嘘だ。
 実を言えば、24ドットもあれば、画数の多い文字も十分に表現できる。たとえば、画数の多い文字で言うと、「齶 龕 龜」がある。これを表現すると、
    16ドット ……  齶 龕 龜
    24ドット ……   龕 龜
 となる。いずれも十分に文字を判読できる。
 そもそも、文字の表現では、字画を完全に正確に表現する必要はなく、(字画のつぶれはあるとしても)文字の判別ができればいい。その文字が何という文字であるか判読できればいいのだ。それには、16ドットもあれば通常は十分で、画数の多い文字でも 24ドットあれば十分だ。

 しかも、である。そのことは、私がここで指摘するまでもない。略字を導入した張本人(つまり 24ドットではダメと主張した張本人)もまた、私に指摘されるまでもなく、理解していた。だからこそ、本当に画数の多い文字では、略字を導入しなかったのだ。
 たとえば、上の「齶 龕 龜」という文字は、略字ではない。他も同様だ。つまり、画数の多い第二水準の文字はすべて略字でない
 その一方で、画数の少ない第一水準の文字はすべて略字である

 要するに、こうだ。
 画数の少ない第一水準が略字で、画数の多い第二水準が略字にならない。
 第二水準では24ドットでもちゃんと正字なっている。

 とすれば、「画数の多い文字は 24ドットで表現できないから略字にしました」というのは、嘘八百なのである。最初から最後まで、完全に嘘八百だ。

 (ii)見通し違い
 記事では「見通しのずれがあった」というふうに記して、見通し違いを略字導入の理由に挙げている。
 しかし、そんな見通しもできないような愚かな人間が、JISを決めたのだろうか? この人物はそれほどにも愚かなのだろうか?
 このころの事情はどうかというと、技術は急激に進歩していた。パソコンは8ビットから16ビットへ短期間で進歩したし、プリンタやワープロ専用機は短期間で16ドットから24ドットに進歩した。そういう急激な電子機器の進歩は、当時、大いに話題になっていた。
 「値段は高いが、あればほしいなあ」という声は、研究者の間ではさんざん話題になっていた。と同時に、価格の急激な低下もあったので、「今は乗用車みたいな値段だが、電卓と同じで急激に価格が下がるだろう」という見通しもあった。
 なのに、JISの規格を決める人物だけが、特別に愚かだった、ということがあるのだろうか? 
 さらに言おう。83JISでは、78JISから83JISへの変更があった。このとき、「正字から略字へ」という変更もあった。では、このとき、なぜ正字から略字へという変更があったのか? パソコンの機器は、24ドットから16ドットへと解像度が低下したのだろうか? 違う。83JISを導入した時期では、すでに 24ドットから 32ドットを経て、48ドットの時代になっていた。アウトラインフォントの導入もあった。 まだプリンタは 24ドット程度だったが、32ドットや 48ドットのプリンタの開発は急ピッチだった。( → 参考サイト ) 略字の導入の必要はまったくなかった。にもかかわらず、「正字から略字へ」という変更があった。

 というわけで、(i),(ii)からわかるように、ドット数の制限も、見通し違いも、どちらも理由になならい。これらを理由として略字の導入を正当化しようとする記事は、嘘八百なのだ。
 こうして、朝日の記事が嘘八百であることは論証された。

 ※ 注記
 いわゆる「パソコン略字」は、78JISの時点では存在せず、83JISで導入された。78JISの時点では16ドットや24ドットで正字が表現できていたのに、83JISでは 32ドット以上に向かいつつある時代に略字が導入された。……こういう変更は、「解像度の不足」では説明ができない。

 ※ 注記
 「24ドットの規格」というのは、83JISとは別にある「JIS C 6234」の規格である。引用すると、“ JIS C 6234は、JIS X 0208の83年改正と同時に施行された「ドットプリンタ用24ドット字形」”とある。( → ほら貝
 朝日の新聞記事では、二つの規格を混同しているようだ。

 ──

 朝日の記事は嘘八百だ。では、真実は何か? それを教えよう。
 本当は、略字にせざるを得なかったから略字にしたのではない。規格の制定者が、個人的に略字が大好きだったから、自分の大好きなものを規格にした、というだけのことだ。
 たとえば、モーニング娘。という集団がある。このなかで、「高橋愛が好きだ」「道重さゆみが好きだ」というような好みがいろいろとある。そういう好みのなかで、自分の好みのものを選んで、「こいつを取る」と決めることもあるだろう。……ま、それが個人の趣味ならば、誰にも迷惑がかからない。だが、それを万人に強いる国家規格とすると、とんでもないことになる。……そういうことをやらかしたのが、この規格決定者である。

 ──

 この規格決定者は、次の性質を帯びている。

 (a)権力があった
 (b)規格決定を一人で行なった
 (c)略字が大好きだった

 この三点を説明しよう。

 (a)
 この人物に「権力があった」ことは、規格決定権を実際に得た、ということからわかる。
 この人物は、当時では「国立国語研究所日本語部長」という肩書きにあった。
 また、現在では、日本語学会会長である。(上記の朝日の記事による。)

 (b)
 この人物が「規格決定を一人で行なった」ということは、次の典拠がある。
 83年改正の実務を、事実上、一人でおこなったといわれる国立国語研究所日本語部長(当時)の野村雅昭氏・・・・
( → ほら貝
 (c)
 この人物が「略字が大好きだった」ということは、次の典拠がある。
 野村氏はこうも主張しています。
 当用漢字表による漢字制限が失策だったとするひとは、すくなくない。その論拠は、漢字使用を一定範囲にとどめようとしながら、それに成功しなかったということにつきる。しかし、そのような批判は、当用漢字表の理念を一面からしかみていない、ものいいである。なぜならば、当用漢字表は、漢字制限をめざしてはいたが、徹底した制限そのものではなく、そのための第一歩だったということを、批判者たちはみのがしている。……
 漢字制限の推進者たちに、過失があったとすれば、それは制限をもっと効果的におこなうための努力をおこたったことにある。
( → ほら貝

 以上の(a)(b)(c)をまとめると、こうわかる。── JISで略字を導入したのは、当時の技術水準からやむなく略字を導入せざるを得なかったのではない。本当は、略字が大好きで、正字が大嫌いだったから、自分の好みを押し通しただけだ。本来ならば、自分の好みを押し通すというようなことは、とうていやってはならないことだ。規格の制定の権限を握ったならば、多くの人々の意見を聞いて、標準的な意見に従って規格を定めるべきだ。しかしこの人は、独裁者的な体質があったので、規格決定の権限を握ると、「これ幸い」とばかり、徹底的に規格を自分好みに歪めようとしたのだ。
 人間というものは、強大な権力を握ると、その権力を自分好みに操作したいという誘惑に駆られる。「あれをこうしようと、これをそうしようと、おれ様の勝手だ」となれば、好き勝手をしたがる。他人の意見には耳も傾けずに、自分好みを押し通したくなる。
 これは、独裁者的とも言えるが、オタク趣味だとも言える。「萌えオタク」ではなく、「文字オタク」であるが、元祖オタクと言うべきかもしれない。こういうオタクの人間が、好き勝手をやらかして、「おれ様の大好きな略字で世間を塗りたくろう」としたわけだ。
 それが真相である。(朝日の記事はそれを隠蔽している。)

 ────────

 [ 余談 ]
 実を言うと、JISの委員会(の一部)は、以後脈々と、そのオタク趣味に染まり続けてきた。JIS 2000 の委員会の委員長(SK氏)もそうだったし、最近の JIS の委員会の委員(YK氏)もそうだ。
 で、こういう連中のうちの特に攻撃的な人が、アンチ略字の南堂を攻撃してくるわけだ。「南堂は偉そうなことを言うな」というふうに。

 ただし、ここで一言述べておこう。
 「南堂は偉そうなことを言うな」と語る資格がある人がいるとしたら、それは、「字形の変更」を唱えた人(かつ南堂以外の人)である。そんな人はいるのだろうか? 
 もちろん、いるわけがない。(実際、当時、「字形の変更」を唱えたのは、私だけだ。)
 なお、百歩譲って、そういう人物がいたとしよう。仮にそういう人物がいたとすれば、その人は「自分が字形の変更を唱えた」と語る資格はある。ただし、語る資格があるがゆえに、その人こそ非難されるべきだ。なぜなら、語るべきことを語っていないからだ。「これこれの理由で字形の変更をしました」と語っていないからだ。その責任は非常に多大だ。世紀の大悪党として非難されるべきだろう。
 とはいえ、そんな人は、いるわけがない。そもそも、いるとしたら、「これは私の主張です」と大々的に宣伝して、出世のために役立てるはずだからだ。たとえば、自分の業績リストに記したあげく、助教授から教授になれるかもしれない。
 実際には、そんな人は、いない。いるのは、(自分の業績リストに記したりしない)無欲な私だけだ。
 私としては、自分にとっては一円の利益にもならないのだが、これまで社会のために貢献してきた。そして、実際に得られた報酬は、一円どころか、マイナスである。すなわち、ものすごく非難される。「南堂というやつは・・・」というふうに、ものすごい悪口を言われる。
 社会のために貢献した私は、損をするだけだ。その一方で、社会にさんざん迷惑をかけた人は、国語学界の会長になったり、JISの委員会の委員長や委員になったりして、国からあれやこれやとお金をもらえる。
 社会にプラスの貢献をなした人はマイナスの報酬を受け取り、社会に多大な害悪をもたらした人はプラスの報酬を受け取る。それがこの世の現実である。
 とすれば、損するばかりの私は、「馬鹿だね」と呆れられるかもしれない。ま、そう言われれば、その通り。私はたしかに馬鹿であろう。一円ももらえず、罵倒と非難だけをもらう。社会は多くの便益を得て、私自身は多大な攻撃だけを得る。
 ま、キリストみたいなものかも。そのうち十字架で、(はりつけ)にされそうだ。……とはいえ、 Ctrl + Vはりつけにされるよりはマシかも。
posted by 管理人 at 22:25| Comment(0) |  文字規格 | 更新情報をチェックする
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