朝日の略字(朝日文字)が廃止されることになった。1月15日以降、正字になるそうだ。
(朝日・朝刊・1面・告知 2007-01-09 ) ──
告知記事では、「国語審議会の方針に合わせて」と称しているが、これはもちろん嘘八百である。国語審議会の方針は七年ぐらい前なのだから、七年後に実施することの理由にはならない。
正しくは? もちろん、Windows Vista の規格に合わせてのことだ。見え見えですね。自社の方針を自社だけで決めることができず、国の方針で決めることもできず、マイクロソフトに決めてもらうわけだ。ただし、それでは格好が付かないから、「国語審議会の方針に合わせて」と見え見えの嘘をつくわけだ。
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なお、略字でなく正字に統一すること(略字を共存させないこと)の理由は、明らかだろう。使いもしない誤字のようなものがあると混乱するから、誤字のようなものはすべて標準の字体に統一するわけだ。当り前ですね。どんな規格だって、規格をまともに改定したならば、古いダメな規格(使わない規格)をそのまま残すことはせずに、廃止する。さもなくば、古いダメな規格を使う人がたくさん出てきて、現場が混乱するからだ。「古いダメな規格を使いたがる人も、少しはいるぞ」というような屁理屈は通用しない。
なお、どうしても略字を使いたい人は、自分が個人的に略字フォントで略字を表示・印刷すればいい。それだけのことだ。個人的に使うことまで禁止されるわけではない。大事なのは、標準規格が一つに統一されている(二重規格にならない)ということだ。
なお、常用漢字ならば、新字体と旧字体が並存するのは、問題ない。たとえば、「学」と「學」が並存するのは問題ない。どちらか一方を削除するわけには行かないからだ。しかしながら、いわゆる略字ならば、略字を削除しても「誤字をなくす」というのと同程度のことにすぎない。略字の使用用途は、人名漢字を除けば、ほとんどないからだ。
また、人名漢字のためであれば、たとえ略字を用いても、問題の解決にならない。なぜなら人名漢字は誤字だらけのようなものだから、いくら漢字を追加しても足りないからだ。「齋藤」の「齋」の異体字なんか、数え切れないぐらいにありそうだ。(書き間違えの異体字が多数あるので。)
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以上のことから、略字なんてものは文字コードから廃止した方がいい、とわかる。このようなことは、「文字講堂」にずっと前から記してある。この分野では標準的な文書となっている。
ただし、ネット内の情報(特に標準的な情報)を調べようともしない素人は、「文字規格において略字を残さない理由がわからない、わからない」とだけ喚く。
例。
「非互換になることと引き替えにしてまで例示字体を変更した。そこまでして、なぜ例示字体の変更は必要だったのだろう? これがいまだに私にはわからない。その疑問を詳しく言うと以下のようになる。
例示字体には例に示した以上の意味はない。包摂の範囲に印刷標準字体を含んでいるというだけで、なぜ例示字体が変更されなければならなかったのだろう? 」
http://internet.watch.impress.co.jp/www/column/ogata/sp30.htm
「わからない」ならば、ネットを調べればいいのだ。なのに、ネットを調べる気さえない。 Google の使い方もろくに知らないらしいが、こういうネット音痴の人間が、文字コードのことを語るわけだ。こういう無知な連中がけっこうはびこって、嘘情報を振りまいている。困ったものだ。「わからない、わからない」と、自分の無知を自慢しないでほしいものだ。
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なお、素人にわかりやすい文書としては、ネット上に次のものがある。
「略字 侃侃諤諤」
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/codeknkn.htm
「国語審議会の 表外漢字 試案」
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/codekoku.htm#genjis
特に本サイトで言うなら、次の箇所がある。
http://openblog.meblog.biz/article/1535.html
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【 結論 】
文字規格の関係者は、実装や整合性などについての理屈で、何だかんだと言っているが、利用者の立場からしてみれば、「全部、印刷標準字体で統一される」というのが、一番便利なのに決まっている。パソコンも、読売新聞も、朝日新聞も、書籍も、すべてが「印刷標準字体」で統一される。つまり、文字規格が統一される。……これが一番すっきりする。
2006年の時点では、略字と正字が混同している。(たとえば、朝日新聞とパソコンは略字。他は正字。)こういうふうに統一されていない状況は不適切であろう。
「不統一から統一へ」「混乱から秩序へ」というのが、根本的な狙いだ。「古い規格も残した方が規格としては整然とする」なんていうのは、利用者を無視した、規格屋の都合にすぎない。こういう規格屋の都合が、社会を悪化させる。
で、それに対して、孤軍奮闘したのが、私だ。だけど今になって、「南堂は偉そうに威張るな」という批判が来るんですよね。ま、出る杭は打たれるというか。・・・・
私としては、自分が威張りたいわけではなく、世の中の文字規格が統一されれば、それで十分です。ただし、「説明文書がない(だからわからない)」という嘘八百を書く人もいるので、「そんなことはないぞ。ちゃんと私のサイトに書いてあるぞ」と記しているわけだ。
2007年01月09日
過去ログ
http://d.hatena.ne.jp/NAOI/20070109/1168334642
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ゆっくりコメント入力しているあいだに入れ違いに管理人さんから補足的な返事がありましたね。
送信のまえに再確認せず失礼しました。
>英語でどう語るべきかということは、日本語の問題ではなく英語の問題なので、
>欧米人に向かって「こうせよ」と英語で書いてください。
>本欄で書くのはお門違い。
何やら逃げ腰モードにも読めますが,管理人さん自身が「私も気になったので、文句を言いたいな、と思っていた」ことですし,「馬鹿丸出し」「根本的に狂っている」というそれなりに強い評価に対してのコメントなので続けます。
そもそもこれは,(英語で)自分の名を“どう名乗るか”ということであって,欧米人に向かって「こうせよ」というようなことではありません。
人の名前をどう表すか,というのは使う言語だけの問題ではないので「欧米人に英語で書」けばすむことではないでしょう。
> 日本語には、欧米人の姓名をその順で示す風習がありますから、それに従っていい。
風習にも色々あって,改めるべき悪しき風習もあれば,そうでない風習もありますね。
どうすべきなのか,という話の中で「風習があるから」というのは思考停止につながりませんか?
例えば,エコキャップや病気休暇の話,あるいは文字規格の話など,そこで「そのような風習がある」を持ちだすのはまずいでしょう?
本質から外れていますが管理人さんが言い出したので一応お聞きします。
「欧米人の姓名をその順(名-姓)で示すこと」,これを日本語にはある「風習」とおっしゃるからには,そのような風習のない「欧米人の名をひっくりかえして(自国と同様に)姓-名順にする」国のほうが普通であるということでしょうか?