2007年01月07日
◆ バーチャル愛
お正月には、みなさん、どう過ごしましたか? 実家に帰省して、親戚や友人などの多くの人と会った人も多いでしょう。恋人や妻と仲良く過ごした人も多いでしょう。一方、一人で侘びしくゲーム機の萌えキャラと過ごして、「ゲームの萌えキャラって、実物の女よりもかわいいなあ」とニタニタしながらボタンを押していた人もいるでしょう。
私自身は、萌えキャラというのが嫌いなのだが、どうして嫌いなのか、はっきりとわかった。 ──
「ゲームの萌えキャラって、実物の女よりもかわいいなあ」
と思う人が多いのは、わかる。萌えキャラは確かにかわいいと思う。しかし、かわいいから、かえってイヤなのだ。かわいければかわいいほど、イヤになる。
では、なぜ? ──そこのところがちょっと説明しがたかった。だけど、ようやくわかった。
バーチャルな世界で過ごしているだけだと、バーチャルな快感を味わうだけだから、萌えキャラの良さしかわからない。しかし、リアルな世界で過ごして、リアルな女性と付き合うと、バーチャルな世界に何が欠けているかがわかる。
リアルな女性は、たしかに萌えキャラみたいに(外観上では)かわいくはない。だけど、実際には、その仕草やほほえみや微妙な表情の変化のせいで、すごくかわいくなる。こちらの語った言葉に対して はにかんだりするところは、すごくかわいい。顔がかわいいというより、態度がかわいい。それは圧倒的な価値をもつものだ。なぜなら、その態度は、自分(私)だけに向けられたものだから。
リアルな女性との関係は、一対一の関係だ。相手がこちらを無視して「ふん」と言うのも、相手がこちらの言葉に真っ赤になって はにかんだりするのも、一対一の関係だ。そこにあるのは、こちらだけに向けられた感情だ。
一方、画面に現れる萌えキャラの態度は、プログラムされたものであって、無数の大衆に向けられたものだ。それは、こちらだけに向けられたものではない。
自分だけに向けられた感情は無限の価値があるが、無数の大衆に向けられた感情は一文の価値もない。現実の女性がこちらににっこりと笑えば、すばらしい価値があるが、萌えキャラが画面からにっこりと笑っても、何の価値もない。
バーチャルな存在とリアルな存在との決定的な違いは、容姿ではなく、存在性そのものでもない。こちらに向けられた感情(つまり愛)が、バーチャルであるかリアルであるか、という違いだ。
萌えキャラが向けてくれる愛は、バーチャルな愛である。それは空っぽな愛だ。電源を入れれば入るが、電源を切れば消えてしまう。電源を入れ直すと、メモリーから復活することもある。そんな愛は、あまりにも虚しい。
現実の女性が向けてくれる愛は、リアルな愛である。それはこの世界で自分だけに向けられたものであり、この世界でたった一つのものだ。「世界でたった一つの花」という歌をもじれば、オンリー・ワンだ。だからその愛が、深い愛ではなくてただの友情程度の愛であったとしても、その愛は限りなく貴重だ。
萌えキャラが「好きよ」と言ってくれると、ちょっとは面白いかもしれないが、面白いだけで、別に、ありがたくも何ともない。だが、現実の女性が小さな親切を示してくれれば、とてもありがたい。
バーチャルな萌えキャラが詰まらないのは、存在がバーチャルであるからではなく、愛がバーチャルであるからだ。バーチャルな愛は、もらうと、そのときは何となく嬉しくなるかもしれないが、それが実は空っぽだと気がついたとき、この上なく虚しくなる。萌えキャラがかわいければかわいいほど、それから与えられるバーチャルな愛を虚しく感じる。
比喩的に言おう。お金をもらえるとして、リアルな百円玉をもらえば、少しは嬉しい。しかしバーチャルな百円玉や偽札をもらっても嬉しくない。まして、百万円をもらったあとで、その百万円がすべて偽札だと判明したら、すごく虚しくなる。もらった偽札が多ければ多いほど、虚しくなる。どうせ空っぽなものをもらうとすれば、額面が大きければ大きいほど虚しくなる。──それと同じなのが、萌えキャラだ。
バーチャル・リアリティというものを、多くの人は信用しすぎている。何だかんだ言っても、それは偽物であるのだから、それを見ている人はだまされているわけだ。合意した上で、喜んでだまされているわけだ。ただ、だまされていることを理解していればいいのだが、バーチャルとリアルの区別がつかなくなると、バーチャルな愛をリアルな愛だと勘違いしてしまう。そのせいで、バーチャルな愛が本当は空っぽだということに気がつかなくなってしまう。
バーチャル・リアリティがいくらリアルっぽく作られていても、しょせん、バーチャルな愛は空っぽな愛である。そんなものに喜んでいることは、だまされて喜んでいることだ。
そして、人が真実に気づくには、真実に触れればいい。生身の存在と交渉すればいい。喜んだり、悲しんだり、涙を流したりして、この世界に生きている充実を感じればいい。……それは決してパソコンのなかには見出せないものだ。
[ 付記 ]
よく聞く話に、「現実のリアルな女性と付き合うのは難しい」というのがある。それへの解決法を示そう。
そもそも、リアルなかわいい女の子と付き合おうとするから、難しいのだ。まずはそのへんの中年のおばさんとでもおしゃべりをするといい。おばさんたちはおしゃべり好きだから、喜んで付き合ってくれる。「このへんのゴミ回収日はどうですか?」というようなことでも話しているうちに、リアルな世界と交渉することができるようになるだろう。
おばさんが面倒なら、とりあえず、コンビニのお姉ちゃんと話してください。
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【 追記 】
そもそも、萌えキャラとは何か? その意味は、普通の漫画キャラとの比較からわかる。
たとえば、「めぞん一刻」という漫画では、主人公(五代)と、ヒロイン(音無響子・管理人さん)がいる。このヒロインは魅力的だが、このヒロインを愛するのは主人公であって、漫画の読者ではない。読者はあくまで傍観者として眺めているだけだ。「音無響子ってかわいいな」と思うことはあっても、読者が現実に引かれるのは、音無響子ではなくて、キャンディーズの蘭ちゃんであったりする。漫画世界と現実世界とは分離している。
ところが稀に、漫画世界にのめりこんで、音無響子そのものに恋をする男が現れる。音無響子のフィギュアを買い集めて、着せ替えたりして喜ぶ。……これはキモイ。こういうキモイのは、オタクであるが、萌えマニアと同じである。
こういう萌えマニアは、本来ならば例外的な存在だが、現代では、非常に多くを占めるようになってきている。そして、こういう萌えマニアに好かれるように設定された登場人物が、萌えキャラだ。(漫画にとっては本末転倒的な存在だ。漫画世界とは別の世界のために存在する登場人物。)
ここでは、萌えマニアとは、バーチャルとリアルとの見境が付かなくなった人のことだ。まともな人間なら、両者を区別する。音無響子は、いわば、美人の記号(シンボル)であって、生身の人間ではないから、恋の対象にはならない。なのに、そういう美人の記号(シンボル)に対して、生身の人間に恋するように、本気で恋をする。たとえば、「本物の女の子よりもかわいいなあ」などと、比較にならない比較をする。
比喩的に言うと、「実物のカローラよりも、フェラーリの写真の方が、カッコいい。だから実物のカローラを運転するのをやめて、フェラーリの写真を所有する」というようなものだ。実物のカローラは運転するためにあるのであって、眺めるためにあるのではない。なのに、そのことが理解できなくなって、写真と実物を同一次元で比較したりする。フェラーリの写真は人を乗せることができない、という肝心のことを見失っている。
「めぞん一刻」を見ておもしろがる読者は、そこにおいてバーチャルな恋を眺めておもしろがるが、別に、自分が本気で音無響子に恋をするわけじゃない。他人の恋を眺めて、おもしろがるだけだ。しかるに萌えオタクは、自分が登場人物と同一次元にいるつもりになって、本気で萌えキャラに恋をする。こういう人々は、バーチャルと現実の区別がつかなくなっている。
「バーチャル・リアリティ」などという言葉が氾濫するなかで、「現実そっくりの架空世界を構築する」などと称して、喜んでいる人が多い。しかし実際には、人々が精神的におかしくなって、バーチャルと現実との見境がつかなくなって来つつあるのだ。そのせいで、萌えキャラを記号(シンボル)のように眺めるのではなくて、現実の女性と同一レベルで並べるようになる。
現代とは、バーチャルとリアルとが混同されつつある時代である。そして、それは、バーチャルとリアルとが本当に混じりつつあるからではなくて、人間の認識が錯乱しつつあるからだ。
簡単に言えば、現代は、誰もが発狂しかけている時代である。狂気の時代。……そのなかで正気を保つのは、容易ではないようだ。
( ※ オタクの悪口を言っているわけではないので、念のため。オタクはやたらと被害妄想が多すぎるので困るが。……では、何の悪口を言っているのかと言えば、時代の悪口を言っている。オタクは、悪人ではなくて、哀れむべき被害者です。自動車で轢かれた被害者と同様。悪いのは加害者の方です。当然、被害者を詰っているわけではありません。)
過去ログ
今更認める訳にはいかないので積極的に騙さ
れる人達なのです。あえていえば立場の弱い
手下、犯人にも軽んじられる共犯者。
あと、キャンディーズの蘭ちゃんという例えが
凄すぎです。もうちょっと最近の人だとイイナ。
そして、これらの指摘は届きません。
なぜなら現実を直視しても、限りなく底辺の
グズ男扱いされるだけだからです。
そして実際にその扱いが相応なのがイタい所。
矮小な根性と低脳さと男として最低の実力。
なのに無限大のプライドが収まっている存在、
それがオタクだからです。
世の中、全力で挑んだとしてもあるテストでは
赤点になっちゃう人がどうしても一定数存在
するのです。世の中の男の中で下から三分の一、
それがオタク。頑張っても下から三分の一。
だからもうそっとしておく以外にはない。
という訳で、南堂さんは構造だけ解き明かして
無駄な事は言わない方が賢い行動ですよ。
気がつく人はそれだけで分かって立ち直るし、
そうでない人は逆恨みするだけですから。
そのつもりなんですよね。本項は、オタクでない人に向けて構造を解き明かしているのであって、オタクに向けて書いているわけではありません。このブログはオタク向けじゃないんですから。
本項の最後にも書いてあるとおりです。とにかく、オタクは読者対象に入っていません。悪口を言っているわけでもありません。
>あと、キャンディーズの蘭ちゃんという例えが
凄すぎです。もうちょっと最近の人だとイイナ。
私もそう思ったんですけど、音無響子と同じ時代で適切な人が思い浮かばなかったんですよね。真、今の時代だと、長澤まさみかなあ、と思ったことはあるけれど、あんまりオタク向けじゃないし。オタク向けだと、小倉優子でしょうか。あんまりインパクトがないですね。
オタクに好まれそうな適切な人が思い浮かんだから、ここに書いてみてください。
──
本日8日の朝日新聞朝刊1面に、オタクの話が大々的に出ています。「生身の女性は自分の言うことをすべて聞いてくれるわけじゃないから、生身の女性と結婚するのはイヤだ」と言っている。
私は別に批判はしませんよ。可哀想だなあ、と思うだけで。
ま、オタク予備軍のためには、警告するが。
どちらかというと、親に向けて、「自分の子供をオタクにしないように注意しましょう」という喚起。下手をすると、兄が妹を殺すことになるかもしれないし。
めぞんは1980年10月連載開始(87年連載終了)の80年代の漫画、キャンディーズは78年4月解散の70年代アイドルです。
同じ時代というのはちょっと抵抗があります。
同じ時代と言えるのは、同年デビューの松田聖子とかの世代になるようです(参考:wikipedia 女性アイドル)。
あれこれ考えると、森高千里かな。……なんだか脱線気味。
結局1対他で話していると、1対1で話しているような、はっきりと話が進展している実感が無いので、疲れてしまうんですよね…
特にここ最近は、大して掘り下げて調べもせず、話の背景すら考えずにレスをしてしまう人がどんどん増えているので、話をぶれないように進めるだけで疲れてしまう始末で…
原稿料等発生していない所で、特定のテーマについて掘り下げ意見交換をしているページもずいぶん減ってきましたよね。みなさんお疲れ気味なんですかね。
ただ、不特定多数の人に意見が晒されるのは、現実世界ではおよそ知りえないような角度からの意見や、遠慮の無い意見が聞けるので、メリットも大きいんですよね…
色々意見が合ったり違ったりもしますが、こうして情報発信していただけるサイトは貴重ですので、現実の便利さ(笑)に負けずに復帰してください。
電車男の影響で、なんちゃってオタクが増えてますが
本物のオタクは見た目の可愛さだけのキャラを愛しません。
オタクそれぞれに、それぞれのストーリーや思い入れが
あって、初めてその美少女キャラを愛するのです。
もっと、勉強すべきですね。
現実の女では、心が満たされないし、二次元の女の子がいい。
実用的とか、何をいってるんですか?
愛だの何だかんだ言って、下らんアイドルや車が出てくる時点で
ブログ主自体が、愛を物やいい加減にしか考えてない。
糞女が増えてるから、オタクが増える。 以上