2006年11月07日
◆ 敬語の五分類(旧稿)
本項の内容は古いので、全面的に書き改めました。
新しい説明は、下記にあります。
→ 敬語「伺う/参る」
( ※ 古い旧稿は一応、下記に残してあります。 ↓ ) ──
《 以下は、かつて記述したものですが、内容が古くて不正確なので、「全削除」の扱いとします。参考のためにここに残しておきますが、原則として、読む必要はありません。ただの残骸です。 》
敬語の「伺う/参る」を「謙譲語/丁重語」に分類する、という分類法が提案されている。(決定前の提案段階)
→ http://www.asahi.com/national/update/1024/TKY200610230418.html?ref=rss
これに対して、「区別しにくい」という批判もある。
→ 朝日・社説 10月30日
しかし国語学者の間では、このような区別(3分類を5分類に区別する仕方が主流だという。)
→ Wikipedia
この問題を、どう理解するべきか?
──
まず、問題点を整理するには、次のサイトの解説がわかりやすい。
→ http://home.alc.co.jp/db/owa/jpn_npa?stage=2&sn=30
一部引用すると、次の通り。
次のような場面では、「伺う」を用いることが難しいように思われます。
・ 天気もいいし、散歩にでも参りましょう。
・ 連休を利用して仙台に参りました。
「参る」と違って、「伺う」は「行く」先に敬意を払うべき相手がいなければ用いることができません。言い換えると、「参る」は聞き手に対する配慮から自らの行為をへりくだるものであるのに対して、「伺う」は行為の相手に対する配慮から自らの行為をへりくだるものであるという違いがあります。
これらの表現では、「参る」は謙譲の意はなくて丁重の意だけがある。そこで、「これを「謙譲語」と呼ぶのはおかしい」というふうに判断して、「参る」を「伺う」とは別の語に分類しているわけだ。
では、このような分類法は、妥当であるか?
──
上記の質問に答えよう。
仮に、このような「参る」を「謙譲語」とは別に「丁重語」の範疇に入れるのであれば、「参る」には「謙譲」の意がないことになる。Wikipedia の解説に従うなら、「話題中の動作の受け手が話題中の動作の主体よりも上位であることを表す語」ではないことになる。とすれば、これを、相手の行動に対して用いてもいいことになる。次のように。
「よろしければ来週、拙宅に参っていただけないでしょうか?」
つまり、「参る」という言葉には「丁重」の意だけがあって「謙譲」の意がないのであれば、尊敬するべき対象に対して「参る」という言葉を使っていいことになる。たとえば、「あなたが参る」というふうに。もちろん、これは、間違いだ。
( ※ 正しくは? 次のように言わなくてはならない。
「よろしければ来週、拙宅に来ていただけないでしょうか?」
「よろしければ来週、拙宅にいらっしゃってくださるといいのですが」)
──
では、以上のことから、どう結論できるか? こうだ。
“「参る」という言葉は、「謙譲」の意で用いられることもあり、「丁重」の意で用いられることもある。一方、「伺う」という言葉は、「謙譲」の意で用いられるだけで、「丁重」の意で用いられることはない。”
対比的に書くと、こうだ。
謙譲 |丁重
参る| ○ | ○
伺う| ○ | ×
「丁重」の有無だけを見ると、「参る/伺う」には、「丁重」の有無がある。そこで、「丁重」のある「参る」を「丁重語」というふうに分類した。しかし、そういうふうに分類すると、「参る」に「謙譲」の意があることが見失われてしまう。
──
では、以上の問題は、根源的にはどこから生じたか?
それは、「分類」というものに対する無理解から生じた誤認である。
5分類の発想では、次のように考える。
“「参る/伺う」は、別のグループに分けられるから、別の分類項目に分けるべきだ。”
しかし、この発想に従うなら、次のような結論が出てしまう。
“「哺乳類/類人猿」は、別のグループに分けられるから、別の分類項目に分けるべきだ。”
しかし、このような分類は成立しない。正しくは、「哺乳類」の下位に「類人猿」という小項目がある。
「参る/伺う」も同様である。この両者は、「謙譲語」という分類にまとめられるのが妥当である。その意味で、3分類が正しく、5分類は妥当でない。ただし、3分類にいったん分けたあとで、3分類の内部のうちの「参る」について、「丁重語」の用法を追加的に認めることもできる。
この場合、「丁重語」である「参る」は、「謙譲語」という性質が失われてしまうわけではない。つまり、「参る」も「伺う」も、どちらも「謙譲語」という性質をもつ。(3分類。)
ただし、「参る」の方には、「謙譲語」という性質のほかに、「丁重語」という性質が追加されることもある。一方、「伺う」の方には、「謙譲語」という性質のだけがあり、「丁重語」という性質が追加されることはない。
要するに、基本は「謙譲語」であり、オマケふうの用法として「丁重語」の用法が追加されるか否か、という点だけが異なる。
したがって、相手の「来る」という行動に「参る」という言葉を使うことはできない。「丁重」のニュアンスを含めることはできても、「謙譲」の意がもともとあるからだ。
結局、「謙譲語」と「丁重語」は、対置される分類ではない。兄弟のように並ぶ分類ではない。「謙譲語」という大枠があり、そのなかで、「丁重語」としての用法の有無があるだけだ。
「参る」 = 「謙譲語」+「丁重語」
「伺う」 = 「謙譲語」のみ
つまり、対置される分類ではないものを、無理に対置させてさせてしまったことに、混乱の原因がある。国語学者が分類というものを理解していないことが根源だ。
分類というものは、同じランクのもので区別しなくてはならない。上位ランクのものは上位ランク同士で。下位ランクのものは下位ランク同士で。……なのに、上位ランクと下位ランクを並べて対置させると、おかしな分類となる。それがつまりは、冒頭の分類だ。ここでは、「謙譲語」という上位ランクと、「丁重語」という下位ランクとを、並べて分類してしまうので、おかしな分類となる。
まとめ。
「参る/伺う」を区別して5分類にするのは、分類の設定ミスである。分類の上位と下位という概念(大分類と小分類という概念)を理解しない、阿呆の考えた、分類項目の設定ミス。「哺乳類」と「類人猿」を並べるのと同様。正しくは、「大分類のなかに小分類がある」と理解することだ。
【 教訓 】
二つのものが別々に分類されるからといって、別々の項目に分けて分類すればいい、と思うのは、勘違いである。
たとえば、牛と馬は別々に分類されるが、だからといって、「哺乳類」と「馬類」とに区別すればいい、ということにはならない。区別するのであれば、「偶蹄類」と「奇蹄類」というふうに、同ランクのもので区別するべきだ。
逆に言えば、「哺乳類」と「馬類」は、同ランクではないのだから、こういう区別の仕方をしても、これは分類にはなっていない。なるほど、牛は「哺乳類」に分類されるし、馬は「馬科」に分類される。だからといって、「牛と馬は違う」という理由で、「哺乳類」と「馬類」とを並べて類別するのは、分類にはなっていないのだ。
こういうエセ分類をするエセ科学は、けっこうある。引っかからないようにしよう。
解説。
最初の問題に戻って言えば、3分類よりも5分類の方が正しい、と思うのは勘違いだ。3分類が基本としてあり、そのなかで、小分類を立てることができる。
とはいえ、その小分類は、あまりにも小さな分類であって、ほとんど無視してもいい。それは文法学者の知りたがる「重箱の隅」みたいな差にすぎない。彼らは普段、「重箱の隅」みたいな差に着目して、タコツボ的な論文ばかり書いているから、「重箱の隅」がこの世の一大事だと錯覚してしまうのである。
「う〜ん。おれって、違いのわかる男。おれって頭いいなあ」
と思いたがって、小さな差にばかり着目しているから、肝心のことを見失う。本末転倒。
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【 追記 】
上記の説明では舌足らずだったので、解説を加える。まず、先の引用を再度掲げる。
「参る」と違って、「伺う」は「行く」先に敬意を払うべき相手がいなければ用いることができません。言い換えると、「参る」は聞き手に対する配慮から自らの行為をへりくだるものであるのに対して、「伺う」は行為の相手に対する配慮から自らの行為をへりくだるものであるという違いがあります。
このような分類は、古典語の敬語を現代語に適用したものらしいが、どうも見当違いだと思える。
上記の説では、「伺う」は「行為の相手」だけに敬意を払うのだから、「聞き手」には敬意を払っていないことになる。これはおかしい。「あなたのところにお伺いします」という文では、「聞き手」に敬意を払っているからだ。
かといって、「聞き手」にも敬意を払っていると見なして、「伺うは謙譲語だ」というふうに説明すると、その「謙譲語」という分類のレベルは、「参る」のレベルよりも一段上となる。
要するに、「謙譲語」という大分類のなかに、「丁重語」という小分類があるのならばいい。だが、「謙譲語」という大分類のなかに、「丁重語」と「非丁重語」の二つがあると区別して、「参る」を「非丁重語」というふうに見なすべきではない。
「参る」が「丁重語」に分類されないとしたら、「非丁重語」であるからではなく、ただの「謙譲語」であるからにすぎない。ここでは、「行為の相手に対する配慮がない」というような条件は付かないはずだ。
比喩的に言うと、「参る」は「人間」であり、「丁重語」は「男」である。「人間」は「男」に分類されることはないが、だからといって「人間」を「非男」に分類するべきではない。「人間」と「男」とは、分類レベルが異なるものだ。
「参る」と「伺う」も同様。この両者は、同レベルの分類項目に分けられるのではない。何でもかんでも二分類すればいいというのは、とんでもない間違いだ。── それが本項の言いたいこと。
もっとうまい例でいうと、「日本人/東京都民」という分類が該当する。「日本人は東京都民だとは言えないから、東京都民でないものを日本人に分類する」というのは、おかしいでしょう。「日本人/東京都民」というのは、同レベルの分類になっていないのだ。
「参る」は「謙譲語」ではあるが、「丁重語」でないこと(行為対象者への敬意が欠けていること)は要件とされていないのだから、これを「丁重語」と並ぶ別の分類項目に収めるのはおかしい。
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【 追記2 】
この問題の核心は、「大分類と小分類のどちらが核心を突いているか」ということだ。
たとえば、「日本人」という大分類のなかに、「青森県民、岩手県民、……」などの小分類がある。そのどちらを重視するか? 二通りある。
・ 「日本人」を先に取り、そのなかで「××県民」を見る。
・ 「××県民」を先に取り、その集合体として「日本人」を定義する。
後者のようにした場合、「××県民」に該当しないものが出てくる。転居ばかりしているような人だ。こういう人は、どの県民にも該当しないので、「日本人」ではなくなってしまう。
(これはあながち冗談ではない。たとえばジプシーだ。「欧州の各国人」のどれにも該当しないので、「各国の集合体」として定義された欧州の枠からは、はみ出てしまう。だからジプシーは迫害された。)
理系の分野なら、たとえば素粒子は、必ずどれかの小分類に分類されるので、細かく分類するほど正確になる。
しかし、社会的な分野では、細かな小分類には分類しきれないような分野がある。ここでは、細かく分類すればいいのではなく、どの分類が本質を突いているかが重要だ。
日本人の分類であれば、日本人は「県民の集合体」として定義されているのではなく、「日本で生まれて暮らして日本語を話す」という属性が決定的に重要だ。「××県民」よりも、「日本人」が本質的なのだ。(廃藩置県のあとでは)
ゆえに、先に「日本人」を取り、そのあとで「××県民」を見ればいい。「××県民」であることがわからないからといって、「日本人」ではないとは言えない。
たとえば、有名タレントのA子が、どの県の出身かわからないからといって、日本人ではない、ということにはならない。「××県民」よりも、「日本人」が本質的なのだ。「日本人」という分類こそを重視するべきなのだ。「日本人」という分類を、さらに細かく分類できるからといって、細かく分類することが正確な認識になる、というわけではない。
敬語も同様だ。
「丁重語/非丁重語」(伺う/参る)という小分類が先にあって、その集合体として「謙譲語」という大分類が定義されるのではない。「謙譲語」という大分類が先にあって、そのなかで、見方によっては、「丁重語/非丁重語」(伺う/参る)という小分類を見ることができる(かもしれない)、というだけのことだ。「丁重語/非丁重語」という区別などは、してもしなくてもいい。そんな区別をすることよりも、「参る」という言葉が謙譲語であることを認識することが先決だ。
ゆえに、三分類が分類としては本質的だ。そのなかで、追加的に「丁重語」というものを見たければ見てもいい、というだけのことだ。
文法学者にとっては、小分類した方が分類しやすいから、文法学者にとっては便利だろう。しかし、一般の人は、細かく分類することが大事なのではなく、敬語を使うことが大事だ。その際には、分類の核心だけが重要だ。
言葉の分類は、分類すること自体が目的なのではなく、言葉を正しく使うことが目的だ。とすれば、どの分類の仕方が核心を突いているかが、重要なのだ。
ゆえに、敬語の分類は、三分類をするのが正しい。「五分類のどれかに決めてからでなくては、敬語を使えない」というのでは、本末転倒だ。そういう本末転倒は、分類することだけで飯を食えるような(ごくつぶしの)文法学者だけに任せておけばいい。まともな人間は、小分類なんかに血道を上げるべきではなく、本質的な分類だけをしておけばいいのだ。
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[ 余談 ]
駅のホームでは「電車が参ります」という表示が出ることがあるが、これもおかしい。
電車は言葉を話せないのだから、電車が「私は参ります」というふうに語ることはできないはずだ。単に「丁重」の意を示すだけならば、「電車が来ます」だけで十分だ。電車がへりくだって「参ります」と言うなんて、気持ち悪い。人工頭脳をもつロボットじゃあるまいし。
オマケで言えば、切符の自動改札の出口で「ご利用ありがとうございます」と表示するのは、やめてほしいですね。無理やり読ませているわけで、余計な負担になる。単に「 ○ 」という表示を示すだけにしてほしい。あるいは、緑の ■ だけを表示していればいい。問題があるときにだけ表示をすればいいのであって、普段は何も表示しないのが最大のサービスだ。
無用なサービスの押しつけは、かえって迷惑だ。そういうことを理解してほしいですね。
【 関連する話題 】
→ 姓名のローマ字表記
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/codehoso.htm
過去ログ
とおっしゃり、その後も「参る」を丁寧語と何度も書いておられることから考えると、報道を理解せずに、批判されているような印象を覚えます。
今度の分類案は
尊敬語
美化語
丁寧語
謙譲語1(謙譲語)
謙譲語2(丁重語)
という分類です。
学者も「参る」を謙譲語ということは認めて、謙譲語の中を分類するということを想定しているんです。
謙譲語を1と2に分けているだけの話です。丁重語という名称への批判も考慮に入れた慎重な表記です。
丁重語という名称を批判してらっしゃるならともかく、相手の主張を理解せずに
>分類の上位と下位という概念(大分類と小分類という概念)を理解しない、阿呆の考えた、分類項目の設定ミス。
などと批判するのは、ピントがズレているように思います。
「丁寧語」という用語ミスを「丁重語」に書き改めました。
戦国時代は裏切りの時代であり、武士が武士を裏切り、
武士が農民を裏切り、農民が武士を裏切った。
誰が敵か味方か分からず、裏切りの時代に「階級も敬語も存在」
しなかった。
世の中が統一され「士農工商」の階級と給料制度ができて
初めて敬語が存在する価値が出来てきた。
現在は年功序列、終身雇用が崩壊している。
昨日の上司が今日の部下になったり、
ベンチャー企業は30代の社長が50代の平社員を使う。
会社では賢い上司はタメ言葉で、部下の様子をうかがい
そうでない上司は敬語を使うと喜ぶ。
また近づきたくない相手には敬語を使うと便利である。
また、明治、大正の敬語が今に残ってる訳でもない。
言葉は生きている。死語があり、新語、造語がある。
官僚が古い時代を懐かしんで、国民に敬語を押しつけている。
については、最近、アクセスが増えているので、注記しておきます。
この問題について説明するには、本項に書いてあることは、不十分です。
本項は、問題点の一部を指摘しただけであり、正解や核心は示していません。
正解や核心については、4月の上旬か中旬に改めて書きます。
そのころまたご覧ください。
( ※ 現時点では、草稿だけができており、文章はまだできていません。
ここではとりあえず、予告だけしておきます。
ただし、非常に重要なことを書くので、是非ご覧ください。)
この場合、「『伺う』という行為の相手」と「聞き手」が同じなので、
おかしくはありません。
鈴木さんに向かって「田中さんのお宅に伺う。」と発言した場合、
聞き手の鈴木さんへの敬意は含まれません。
「伺う」先である田中さんへの敬意のみです。
聞き手の鈴木さんへの敬意は、
「田中さんのお宅に伺います。」と、丁寧語で表現します。
丁寧語は、話し手(書き手)が聞き手(読み手)に対して
敬意を表現するものでもあるためです。