しかし私は、これは素人が容易に善悪を判断するべき問題ではない、と考える。 ──
批判の一つとして、朝日の社説( 2006-11-05 )を示そう。
ほかの人の体内でもしっかり働く腎臓なら、そもそも取り出す必要はないはずだ。患者は、取られる必要のない腎臓を失ったことになる。ここには明らかに論理ミスがある。「白であれば駄目、黒であれば駄目、ゆえにどちらでも駄目」という論法だ。しかしながら現実には「灰色」という場合もある。
もし、切除しなければならないほど重い病気の腎臓なら、移植はできないはずだ。
確かに、「健康」でも「重い病気」でも、腎移植をするべきではない。しかし、「危険性があるだけ」という中間的な場合もある。たとえば、「再発の危険性のある癌」だ。
これを元の患者に戻すべきか? それとも捨てるべきか? それとも他者に移植するべきか? ……こういうのは、医学上の高度な専門的な問題であって、素人が容易に口を出すべきではない、と思う。
ただし、最低限の指針は、必要だ。たとえば、こうだ。
・ 状況を患者双方に詳しく説明した上で、合意を得る。
・ やっていることを公開する。
・ 臓器を剔出する医師と、臓器を移植する医師とは、別人であること。
(利害関係をなくす。功名心に駆られないようにする。)
今回の場合は、いずれの条件も満たされている。その意味で、素人が口を出すべき問題ではない、と思う。学界内で、学術上の方法として、良し悪しを論議すればいいだけだ。賛否両論で論議すればいい。特に社会が大々的に批判するようなことではあるまい。
なお、次のことは必要ない、と思える。
・ 学界内で合意を得ること
今回は、このことが問題となっているようだ。記事にも「専門家は、医学的に疑問が大きい手術だと指摘している。」というふうに書いており、学界内の合意がないことが示されている。
しかし、学界内の合意を優先するのであれば、異端の意見は封殺される。同時に、最先端の領域を開拓することは不可能となる。
たとえば、今回の意思は、学界の異端児として知られている。南堂みたいに、トンデモ扱いされている、とさえ言える。しかし、である。脳死腎移植は、この医師が先頭に立って開拓したらしい。(朝日の別の記事による。)
とすれば、学界内の合意を優先するのであれば、脳死腎移植はいけないということになるはずだ。(現時点ではなく過去の時点において。)
ゆえに、「この医師のような異端のやり方は駄目だ」という主張からは、「日本における脳死腎移植(およびその他の移植)をすべてやめよ」という結論が出る。しかし、それでいいのか?
どんな分野であれ、最初の開拓者は、非難されるものだ。最も目立つのは、日本で心臓移植を初めてやった事件だ。あのとき、日本中で、大々的な非難が巻き起こった。イラク人質事件のときと同じように、日本中が狂ったように大騒ぎをした。今となっては、臓器移植なんて、別にどうということもない出来事だが、当時は人殺しをしたかのような(またはフランケンシュタインを作ったかのような)大問題として扱われたのだ。
この事件(最初の心臓移植)については、Wikipedia を参照。たしかに、この手術には、いろいろと不手際があったようだ。
とはいえ、不手際があったとしても、「生体解剖だ」とか「殺人だ」とか騒ぐのは、いくら何でも行き過ぎだろう。医者がそんなに悪質なことをするはずがない。何らかの疑義や不手際があったとしても、そんなことは[数多くある]医者の不手際の一つとして、いちいち騒ぐようなことではないと思える。なのに、世間が過剰に騒いだのは、ほとんど「魔女狩り」に近い。
今回も同様だろう。要するに、臓器移植という問題になると、世間はろくに知識もないまま、やたらと頭に血をのぼらせて、大騒ぎをするのである。
ふだんは「ドナーが足りないからドナーの登録をしよう」などとキャンペーンを張っているくせに、臓器移植でちょっとした問題が起こると、専門知識がないことも忘れて、大騒ぎをする。無知なまま。
結論としては、こうだ。
「こういう問題は、学術的に論じるだけでいい。生体実験だの臓器売買だの、学術とは関係のない倫理・犯罪などの問題として扱うべきではない。門外漢の素人が自分の感情で口を出すべきではない。あくまで学者の専門的な論議に任せるべきだ。学術的な論議こそが重要である」
( ※ 個人感情をまじえて言えば、「トンデモだ」というふうに大騒ぎするよりは、「冷静に学術的に論議しなさい」ということ。)
──
なお、実施するか否かは、次のように結論したい。
「実験的・先駆的に実施する際には、公開と、インフォームドコンセント(事前承諾)の原則のもとで、関係者の合意を得ればいい」
ここでは、単に「剔出した臓器はすべて捨てれば問題はなくなる」ということでは済まない、と私は考える。
また、「ガイドラインが決まっていないから絶対にやってはいけない」というふうに非難するべきでもない、と思う。ガイドラインがないのであれば、ガイドラインを早急に作成すればいい。
とにかく、「公認されていないから駄目だ」というふうにすると、科学の進歩が止まってしまう。今回の事件は、学界の遅れや沈黙体質が問題となっている、というふうに言えるかもしれない。
ついでだが、私としては、先走って移植手術をした医師を「立派だ」と擁護しているわけではないし、「どんどんやれ」とけしかけているわけでもない。「駄目だ駄目だと騒ぐな」とは言っているが、「よしよし」と言っているわけでもない。
要は「ちゃんと論議しなさい」ということ。また、「論議するなら、感情的にならずに学術的に論議しなさい」ということ。
個人的感情を交えていえば、「主流派ばかりが偉そうな顔をするな」ということ。「異端の立場についても、それなりに検討するべきだ」ということ。必ずしも是認する必要はないが、検討ぐらいはした方がいいでしょう。頭ごなしに否定するよりは。
──────
より根源的に考えよう。今回の騒動は、本当は、ただの医学の問題ではない。より根源的な問題がある。
実は、世間にある態度は、こうだ。
「自分はドナーになって臓器を提供したくないが、他人がドナーになってくれるならその臓器をもらいたい」
二重基準。これがすべての根源である。
換言すれば、こうも言える。
「自分が金持ちになったら国に金を納付したくないが、自分が貧乏のときには国から金をもらいたい。社会保障制度は、自分金持ちのときにはない方がいいが、自分が貧乏人のときにはある方がいい。金を払うのはいやだが、金をもらうのはいい。」
二重基準。これも臓器の場合と同様。(与えるのはいやだが、受け取るのはいい。)
この問題を根本から解決するには、次の方針が適切だと思える。
「臓器移植に『賛成するか/反対するか』の意思を、各人ごとに登録させる。」
「賛成論者は、他人の臓器を受け取れるが、自分も臓器を提供することがある。反対論者は、自分の臓器を提供しないが、他人の臓器を受け取る権利もない」
つまり、賛成なら賛成、反対なら反対。そのどちらかを選ばせる。しかるに現状では、「受け取るときは賛成、与えるときは反対」である。
二重基準。これが今回のヒステリックな騒動の根源だ。
──
ひょっこりひょうたん島の歌。
「グッバイ グッバイ グッドバイバイ ひとのものはおれのもの おれのものもおれのもの だからせかいはおれのもの なんでもかんでもおれのもの」
そこでもう少し現実的に考えてみると,管理人さんはともかく世の多くのひとは「状況によって考えは変わる」ということに思い至るかと思います。
ひとの気持ちはえてして変わるもので,ましてや自分自身が実際に臓器移植に関わるなどという時には,意思がグラつき変わることは大いにあり得ます。
そう考えると,あらかじめ登録しておいた意思よりも,移植を検討するその時点その状況での意思を重視すべきでしょう。
その場合は例えば(思いつきの単純な例ですが),過去に臓器を他に提供したひとは臓器の提供を受けられる,臓器の提供を受けたひとは今後臓器を提供する,といった(どう変わるか分からない意思ではなく)実態によるルールがいいのかなと思います。
>「臓器移植に『賛成するか/反対するか』の
>意思を、各人ごとに登録させる。」
>「賛成論者は、他人さの臓器を受け取れるが、
>自分も臓器を提供することがある。反対論者
>は、自分の臓器を提供しないが、
>他人の臓器を受け取る権利もない」
賛成です。(臓器提供意思カードですよね)
意志はあらかじめはっきりしておくべきと
考えます。
人工透析対象患者は増え続けています。
現在23万人、しかも5年生存率は、40%程度と
云われています。
60%の人が5年以内になくなられているのです。
切実な問題のはずです。
医学上の高度な専門的な問題であることが
すごく気にかかります。
医師は、患者自身ではないことが、ほとんど
でしょう。
その為に、議論が遅々として進まないなどと
いうことにならないように、切に願います。
30年以上生きられることも忘れないで貰いたいです。今透析に入られる方は確かにお年寄りの方が多いことは確かでありそれだけを見れば普通に生きても寿命の短さはあると思います。20,30代がそうであればそれはアメリカ並であり、透析で生きることを前提とせず、移植を前提としデーターではないかと思ってしまいます。日本で移植が出来ない以上透析で生きることを考えなくてはならないのも事実です。大変失礼しました。
医者はうまいことしか言わないようですが、人工透析の現実は非常に厳しいものであるようです。人間の作った人工臓器(みたいなもの)が、神の作った臓器に匹敵する、というのは思い上がりも甚だしいようです。
ないよりはマシ、という程度に思っていた方がいいかもしれません。
※ なお、私は医者ではないし、出典は漫画なので、あまり信用しないでください。あくまで参考意見の一つ。
こちらに医師と思われる方の踏み込んだエントリが
ありますね。
以下、部分引用。
──
《 「病気腎移植禁止は生存権侵害」、腎臓病患者ら国提訴へ 》
治療のために摘出した腎臓を別の腎臓病患者に移植する「病気腎移植」を厚生労働省が原則禁止としたのは患者の生存権侵害にあたるなどとして、愛媛県内などの腎臓病患者らが4日、国を相手取り、損害賠償と病気腎移植の容認などを求める訴訟を松山地裁に起こすと発表した。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20081005-OYT8T00215.htm
厚生労働省が病気腎移植を原則禁止したため、希望する医療を受ける権利を奪われ、憲法が保障する生存権と幸福追求権を侵害されたと主張。慰謝料を求める。
「修復腎(病気腎)移植は米国や豪州では日常的に実施されている医療行為。一刻も早く認めて欲しい」と訴えた。
病気腎移植を全面的に否定する見解を出した日本移植学会の幹部らについても「誤った判断を導いた」として別の訴訟を起こす方針。
厚労省は同年7月、臨床研究以外の病気腎移植を禁止し、保険診療の適用外としている。
http://www.asahi.com/national/update/1004/OSK200810040088.html
「結果として万波及びその関係者は自ら病気腎移植の道を険しくしてしまった」
「万波の問題によって生じた病気腎移植自体への抵抗感が、その発展を阻害する可能性が危惧される」
というふうに、万波医師のせいにしている。しかし、その結果とは何かと言えば、万波医師の行動ではなくて、世間や学界などにいる人々の行動である。
つまり、人々が自分の意思で決めた自分の行動について、「あいつがやらせたから、あいつが悪いんだ」と責任転嫁しているわけだ。
「万波医師のせいで人々の判断が歪んでしまった」
ということは言えるかもしれない。しかし、そこから得られる結論は、「われわれは間違った判断をした」という自己反省であるはずだ。「あいつのせいだ」という他人への責任転嫁であってはならないはずだ。
なのに、Wikipedia の記事は、そういうことをやらかしている。
( ※ 現時点の記事で。将来的には書き直されるかもしれない。)
私自身は、脳死したあとの身体をどう使われようが、家族の納得のもとに、人の役に立てれば良いと思うのですが、臓器移植には反対の立場です。といっても、いざ自分が臓器移植が必要な立場に立たされた場合に、その考えを維持できるのかどうか100%の自信はありません。
生物としての性を持つ人間が、あまりにも大きな力を持ちすぎ、すばらしいことだと手放しで喜べない、恐ろしさを感じない訳には行きません。
私としては、反対者の余地も残しておきたいですね。「自分は、与えないし、もらわない」という立場。それはそれでいいと思います。
> いざ自分が臓器移植が必要な立場に立たされた場合に、その考えを維持できるのかどうか100%の自信はありません。
私の案なら、別に、自信があってもなくても構いませんよ。「臓器移植が必要な立場に立たされ」たとしても、臓器移植を受ける権利はもともとありません。望もうが望むまいが、臓器移植を受ける権利はありません。「与えない」と決めた時点で、そう決まっています。今さら過去に戻ることはできません。何も悩む必要はありません。ただ死ぬだけです。安らかに死にましょう。
> 恐ろしさを感じない訳には行きません。
それだったら、輸血もやめるべきだと思いますよ。エホバの証人という宗派がそうです。輸血拒否をして、手術不可能にして、自分の子供を死なせることがしばしばあります。
昔は輸血なんて「悪魔の仕業」と思われていたようですし。
そう言えば、漢方療法も、素人から見れば、いかがわしく見えるでしょうね。呪術師みたいで。
ま、素人というものは、医者の仕事に恐ろしさを感じるものです。たとえ注射でさえ。 (^^);
そうなれば、この問題は解決するのだが、さて、どうなることやら。
──
臓器移植というのは、ちょっと問題があるように思えるのだが、それというのも、次の二点による。
「人間というものは誰もが病気になる」
「それでも人間は長生きしたい」
この両者は矛盾する。その矛盾を解決するのが医学であり、その一部に臓器移植が含まれる。
臓器移植を拒む立場はわかるが、その場合は、「長生きしたい」という望みを捨てるべきだ。現代ではメタボや糖尿病はざらである。酒飲みならばなおさらだ。
人間というものは、業のようなものがある。きれいごとでは片付かない困難がそこにある。
一般的に言えば、次の二つの立場に別れる。
・ きれいごとの理想重視。(人命無視)
・ 現実主義。 (おれの命が一番大事)
政党ごとに、きれいに分かれそうですね。 (^^);
注射でさえも恐ろしいし、輸血というものにもある種のいかがわしさを感じるというのは、正にご明察です。
いずれにしても、個人的な心情にしかすぎないので、ここに書き込むに値するような内容ではありませんでした。大変失礼いたしました。
http://www.cnn.co.jp/science/CNN201002050010.html
仮に私が脳死と判定されて移植のために臓器摘出されるとして,そのときに意識があるかもしれない,というのはゾッとしますね。
臓器移植はするのもされるのもイヤだなぁという認識を補強するニュースでした。
腎臓移植や肝臓移植をキーワードに調べていたところ、こちらのサイトへたどり着きました。
助かる命がそこにあるのなら、少しでもお役に立ちたいと臓器移植に関していろんなサイトを閲覧しています。
少しでも多くの人たちを助けたいと考え、微力ながらも行動しています。
こちらのサイトは参考になり大変助かりました。
ありがとうございました。