2006年10月20日
◆ 人口学
人口学という学問があるそうだ。人口の動態を研究するという。
下記の紹介サイトがある。
http://phi.ypu.jp/demography/index.html
朝日新聞(夕刊・文化欄 2006-10-19 )によると、人口の変動の推計もするという。朝日の記事によると、次の趣旨がある。
「経済学では、予測はせいぜい十年だが、人口学では、予測は 30年ぐらいになる。両者はあまりうまく噛み合わない。」 ──
まず、上記の見解(学者の意見)を否定しておく。
(1)
経済学とは、予測をする学問ではない。経済の真実(経済構造)を知る学問である。「こうすればこうなる」という真実を知る学問であり、「このあとどうなるか?」を予測する学問ではない。
単純に言えば、経済学とは、占いではない。「このあと不況がどのくらい続くか」を予想する(占う)学問ではなくて、「このあと不況を続けないためにはどうすればいいか」を知る学問である。単純に言えば、「いつ穴に落ちるか」を予想する学問ではなく、「穴に落ちないためにはどうすればいいか」を知る学問である。予想なんてことは、占い師に任せておけばいい。経済学は、占いとは別だ。
したがって、「予想が十年」というようなことはない。予想そのものが経済学とは関係ない。予想をする経済学者はいるが、それは経済学者の個人的な予想であるに過ぎず、経済学そのものが予想をするわけではない。経済学の役割は、予想ではないのだ。
(2) 人口の予想
人口の予測は、30年ぐらいの範囲では、まったくわからないに決まっている。だいたい、3年後の予想すら、はずれてしまうのだ。(政府の人口予想を見ればわかる。)
明日のこともわからない人が、来年のことを予想すれば、鬼が笑うだろう。3年後の予想もはずれる人が、30年後の予想などしても、鬼が笑うだけだ。
(3) 人の意思
人口変動というのは、自然現象ではない。人間の意思でどうにでもなる現象だ。
たとえば、あなたが子を産むかどうかは、あなたの意思次第である。
あなたが結婚しているならば、夫婦で子を産むかどうかという意思で出産はかなり変動する。(望んだからと言って産まれるとは限らないが、望まなければ産まれないことが多い。)
また、あなたが結婚していないのであれば、恋やら不倫やら、あれこれの理由で子を産むこともできる。
とにかく、子を産むというのは、人間の行動であるから、人間の意思次第で、どうにでも変動する。
したがって、一人の人間について「子を産むかどうか予測する」なんていうのは、まったく無意味である。それは占いも同然だ。たとえば、山田太郎が独身であるとして、彼がいつ結婚するかを予想するのは、科学ではなくて、ただの占いであるにすぎない。(彼の意思でどうにでもなるからだ。)
同様に、特定個人でなくて集団についても、「日本人がどのくらい子を産むか」というのも、科学ではなくて、ただの占いであるにすぎない。(日本人全体のさまざまな意思でどうにでもなるからだ。)
(4) 経済と人口
人口の予想をするのであれば、非常に重要な要因として、経済状態の変動がある。
「景気がひどく悪化すると、結婚する資金や、子供を扶養する資金がなくなるので、出生率は下がる」
ということが明らかになっている。ここでは、出生率と経済状況とが、非常に強く関連する。つまり、出生率は、親の状況しだいなのだ。(ここでは、親の意思が大きく影響しており、親の意思の決定に、経済状況が大きく影響する。)
──
以上のことを踏まえた上で、私の見解を言おう。こうだ。
「人口学というのは、ただの占いと同じである」
なるほど、人口の数理的な統計というものはある。しかしそれは、ただの統計データである。学問でも何でもない、ただのデータにすぎない。
一方、人口の変動の推定(推測)というものは、ただのヤマカンであって、科学としては成立しない。なぜなら、「日本人がどうするか」というのは、日本人全体の意思の問題であるからだ。
・ ある状況では、「子を産みたい」という人が増えて、出生率が上がる。
・ ある状況では、「子を産みたい」という人が減って、出生率が下がる。
そのどちらになるかは、状況しだいである。その状況については、経済状況が大きく影響する。(他に、戦争とか、疫病とか、気象とか、いろいろと影響する要因がある。)
とはいえ、「子を産むか否か」というのは、基本的には、人間の意思で決まるものであるから、人間の意思次第で気まぐれに変動する。そういうものを予想するのは、科学ではない。
また、景気状況そのものも、為政者の意思次第でどうにでも変動する。為政者が「古典派の経済政策を取ろう」と決めれば、景気回復はいつまでもなされない。為政者が「南堂の言うとおりにしよう」と決めれば、景気回復はたちまち実現する。つまり、たった一人の気持ちしだいで、日本中の出産数は毎年何十万という量で大幅に変動する。ここでは、たった一人の意思が重要なのだ。
科学というものは、「人間の意思はどうなるか」ということを予想しない。「人間の意思はどうなるか」ということを予想するのは、科学ではなくて、占いである。
その意味で、「人口の予想をする」という人口学は、ただの占いにすぎない、と言っていいだろう。エセ科学である。
科学としての人口学を構築するのであれば、むしろ、次のようにするべきだ。
「若年層で、低所得者がこのくらい増えると、出生率はこのくらい下がる」
これなら、客観的データなので、科学になる。ただし、科学らしい科学ではなくて、ただの統計データであるにすぎない。生のデータであって、それ以上でもそれ以下でもない。
結論。
人口学というのは、ただの統計データをまとめる限りでは、いくらかの意義はある。統計屋としての意義だ。
しかしながら、因果関係も相関関係も無視して、結果だけの出生率の変動だけを推測しても、そんなのは、学問でも何でもなく、ただのヤマカンの占いにすぎない。そんなものを「学問」と称するのは、とんでもない。
現状の人口学とは、「エセ科学」であるにすぎない。
[ 付記 ]
ここでは、「人口学」という学問全体を否定している。
すると、こういう批判をする私に対して、「おまえはトンデモだ」という批判が来るはずだ。困ったことですね。
全員が嘘を信じているときには、真実を語る人はトンデモ扱いされる。── 他の分野と同様。
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【 注記 】 ( 2007-01-29 )
「人口学は学問ではない」と述べたが、これは、「自然科学ではない」という意味では成立するが、「社会科学ではない」とまでは言えないようだ。
つまり、そこに法則性などを見出すことは無理だが、ただの歴史研究のように考察対象とすることはできる。
歴史研究というものは、何らかの真実を見出すというよりは、単に事実を細かく調べて、事実関係を明らかにすることが目的だ。遠い過去の事実はもはやわかりにくくなっているから、何とかそれを調べ出したい、というわけだ。断片的な小さな知識を積み上げることで、過去の事実が判明する。たとえば、元号がどうつながってきたかとか、歴代の天皇がどういう順序で並んできたかとか。……そういう事実を調べるのが、歴史研究だ。
これは、もちろん自然科学ではないのだが、社会科学の一つではある。そういう意義はある。
で、人口学というのも、そのくらいの意味はあるだろう。というより、人口学は、歴史学の一分野だ、と見なしてもいいかもしれない。
歴史学の一分野としての人口学ならば、そこそこの意義はある。歴史の一部としての意義が。過去の自然現象の歴史を調べることが大事であるように、過去の人口の変動の歴史を調べることは重要だ。(統計的な重要性もあるが、かなり古い過去だと統計がないから、推測も必要となる。)
とはいえ、過去については社会科学としての意義はあるが、未来については「占い」程度の意味しかない。そういういかがわしさを、本項では指摘した。
ただし、その指摘が、いささか過剰であった嫌いはある。未来への予測がインチキ学問だ、というのはそのとおりなのだが、過去についての分析までがインチキ学問だ、ということにはならない。
結論。
人口学は、未来についての予測をする自然科学としては、インチキ学問である。しかし、過去についての分析をする社会科学としては、歴史学の一分野ぐらいの意義はある。
なお、人口の変動について法則性を見出そうとすることは、自然科学としての態度であるので、そんなことをするのはもちろんインチキ学問の態度である。過去から未来につながる法則性などはない。人口の変動は、自然現象ではなく、人間の現象であり、人間の意思しだいでどうにでも変わるものであるから、法則性などはないのだ。法則性のないところに法則性を仮定するのであれば、それはインチキ学問となる。
結局、人口学は、おのれの分をわきまえている限りはそこそこ有益なのだが、「おれ様は世界の人口の変動を理解する、全能の神である」というような傲慢な態度をとると、たちまちペテン師になるわけだ。
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※ 以下の 【 追記 】 があるが、このあとで上記の 【 注記 】を書き足したので、以下の文章は特に読まなくてもよい。内容は若干、不正確の嫌いがある。語るべきことは、すでに記してあるので、以下の文章は細かい事情を知りたい人だけが参考のために読めばよい。(特に読まなくてよい。)
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【 追記 】 ( 2006-11-17 )
舌足らずな点があったので補足しておく。(批判があったので。)
「人口予測なんて人口学のほんの一部分に過ぎない」という理由で、「そんなこと(一部)だけを批判して、人口学の全体を批判するのはおかしい」というわけだ。
これは、もっともである。また、私の書いた本文を読むと、そういうふうにも読み取れる。そこで、注釈をしておく。
第一に、未来の分(予測)については、前述の通り、科学的でない。(ただし、一般社会で役立つはずなのは、この「未来」の分だけである。)
第二に、過去の分(データ)については、前述の通り、ただの統計であるにすぎない。もちろん、学問ではない。
第三に、過去から未来へつなげるべき根幹(基本的な原理・法則性・メカニズム)がある。これが問題となる。おそらく、学者は、これをもって「人口学の本体」と位置づけているのだろう。
この分については、はっきりとは言及していなかったので、ここで言及しておく。
──
過去から未来へつなげるべき根幹(人口構造)というものは、あるか? 「ある」という前提のもとで、人口学は成立している。しかし、「そんなものはない」というのが、私の見解である。
では、なぜか? その理由は、本文に記してある。
要するに、こうだ。
自然現象ならば、何らかの法則性を見出して、何らかの構造を発見できるだろう。
しかし、人間の営みは、心理で変動するがゆえに、法則性も構造もないのである。
では、かわりに、何があるか? それは「人間社会」(の全体)という複雑なものだ。
この「人間社会」は、人口だけで独立的に変動するものではない。ここが決定的に重要だ。たとえば、戦争があれば人口は激減する。そして、戦争というものは、少数の人間の心理で左右される。たとえば、イラク戦争で人口が激減したのは、ブッシュ個人の「イラク攻撃」という心理一つで決まった。
同様に、1990年以降の出生率の低下は、歴代の政権の経済政策の失政によって起こった。仮に、たった一人の首相でも、まともな経済政策を取ったなら、景気は劇的に改善していたはずだし、それにともなって、出生率は劇的に向上していただろう。
ちなみに、私が首相になったら、首相就任の1年後に出生率を大幅に向上させることを確約しよう。(1年というのは、いわゆる十月十日の余裕を見たもの。)
具体的に言えば、就任後1年後の時点で、出生率を 3.0 ぐらいに増やす。その後は急激に低下して、3年後には 2.2 ぐらいになる。そのまま、2.0 ぐらいの値を中長期的に維持する。現在の 1.3 程度に比べれば、大幅な増加だ。
そして、そのことは、容易に可能なのである。つまり、首相の肝一つで、簡単に出生率を上げることができるのだ。(その実例は、北欧諸国などにも見られる。私が言うほど極端ではないが、政策しだいで出生率を十分に上げることは可能だ、ということははっきりしている。)
──
要するに、人口というものは、政府の政策しだいで、どうにでも変えられる。そのことが決定的に重要だ。
なのに、「法則性がある」などと主張するのは、政府の無為無策と現状維持を、単に肯定するだけのことだ。人間の意思次第で変えることのできるものを、「変えることのできないもの」と仮定しているだけだ。……こういう発想は、有害無益なのである。
比喩的に言おう。
道の先に穴がある。このまま直進すれば、穴に落ちる。ならば、進路を変えればいい。そして、変えることはできる。なぜなら、進路とは、人間の意思次第でどうにでもなるものだからだ。
なのに、ここで、「進路学者」というものが登場する。「人間の進路の法則性やメカニズムを研究し、いかにして進路を取るかを研究する」と言い出す。人間が「穴に落ちそうだから進路を変えるよ」と言うと、「それは現状のメカニズムを変更するということですね。ちょっと問題があります。システム研究が複雑になりすぎて、処理できません」と言い出す。
馬鹿馬鹿しい。
たった一人の人間の決断しだいで、正しい方向に進むことができるのであれば、「正しい方向に進め」と教えればいいのだ。それだけだ。
人口について大切なのは、「ああだこうだ」と現状を分析することではない。「こうすれば人口を増やすことができる」という正しい道を示すことだ。
そして、それは、「人口研究」という狭い象牙の塔に閉じこもっている限りは、決してできないのである。政治や経済や社会の全般に目を配り、その全般に影響を及ぼすことが大事だ。
人口学が、何らかの役に立つとしたら、「人口政策の決定のための下資料を提供すること」だけであろう。学問であることは、不要であり、かつ、有害である。あくまで下資料を提出することに徹底して、人口政策の決定のために奉仕することだけが、有意義だ。
繰り返す。人口学は、独立した学問たり得ない。なぜなら、人口そのものが、独立した事象ではないからだ。それは社会という複雑な事象のほんの一面にすぎない。
比喩的に言えば、人口学は、どこかの一人の人間の「体重学」というようなものである。なるほど、山田太郎という人の体重について調査して研究することは、可能だろう。しかし、そんなことをするよりは、山田太郎が運動をするとか飽食をするとか病気になるとか、そういう個別のことに目を向ける方がいい。病気で体重が減ったときには病気に目を向けるべきだし、飽食で体重が増えたときには飽食に目を向けるべきだ。そちらこそが本質だからだ。単に体重だけに目を向けて調べても、たいして意味はないし、むしろ、本質から目を逸らす効果があるだけで、有害だ。
ただし、「病気」や「飽食」という本質を知るために、一つのデータとして「体重」のデータを提供する(下資料だけを出す)のであれば、それは、資料提供者としての有益性はある。(学問としての有益性は皆無だが。)
この意味で、人口学は、学問ではないのである。
(比喩的に言えば、医者がいっぱいいるなかにまぎれこんだ、体重測定係の検査員みたいなものである。それなりに有益ではあるが、決して医者ではない。)
──
最後に一言。
なぜ私はこんなに人口学を非難するか? それは、「人口」という単一の指標ばかりに目をつけることで、物事の本質を隠してしまうからだ。
たとえば、癌の患者がいるとしよう。彼の体重はどんどん減っている。ここで、「体重学者」が出現して、「体重減少の法則性とメカニズムを考察しよう」なんて言い出したら、物事が錯綜するだけであり、肝心の患者が死んでしまう。
こういうときには、体重測定検査員は、単に「体重が減りました」というデータを示すだけでいい。そして、物事の根源である癌という病気については、癌を治す医者が担当すればいい。ここで、「体重学者」が出てくるのは、有害無益である。
現在の日本の人口の低迷の主因は、景気の低迷である。これが本質だ。いわば「癌」だ。この癌を治すことこそが、核心なのである。そして、「景気の低迷を解決するには、こうすればいい」という治療法を提出することこそが大事なのである。
なのに、人口学者が出てきて、「人口減少の法則性とメカニズム」なんて言い出したら、政府の経済無策を隠蔽するだけだ。そういう弊害があるのだ。
現在の人口学者は、いわば、「社会のダニ」である。人口が低迷しているのであれば、何としても人口の低迷を解決しなくてはならない。なのに、「人口の低迷」を食い物にして、自分が給料をちょうだいする。こういう連中は、さっさと消滅した方が、よほどマシである。
( ※ ただし、下資料の提出をするだけにして、「学問だ」という顔をしないのであれば、体重検査員と同様に、有益である。)
【 補足 】
人口学の位置づけは、心理学の位置づけに近い。
心理学の扱う人間心理は、学問の対象とはならない。なぜなら、あまりにも複雑すぎて、法則性がほとんど皆無だからだ。何らかの法則性があるように見えても、例外が多すぎて、まったく見当がつかない。
また、仮に何らかの法則性が成立しても、そこから逸脱する例外が多すぎるから、やはり無意味なのだ。
こういうものを「学問」的に扱うことは、根本的に不適切なのだ。
たとえば、「男と女の交際の仕方を考えるときには、心理学的にこうすればいいな」なんて思うよりは、プレイボーイの経験則の方がよほど役に立つ。だったらプレイボーイやジゴロが心理学の教授になって良さそうなものだ。また、客に商品を売るときに心理に詳しいのは、詐欺師だから、詐欺師が心理学の教授になって良さそうなものだ。
しかし、そういうことは、ありえまい。
一般に、プレイボーイの経験則と、詐欺師の経験則は、大幅に異なる。似ている点もあるが、相当に異なる。
また、プレイボーイの経験則と、プレイガールの経験則も、大幅に異なる。
こういうふうに、人間心理というものは、分野ごとにまったく異なる原理が成立するから、「人間心理一般」というものの原理を研究しようとしても、無意味なのだ。
何か役立つものがあるとしたら、心理学ではなく、「経験則」であろう。
心理学というものは学問とならない。なぜならさまざまな心理というのは、単独の事象ではなく、複雑にからみあった人間性の一面にすぎないからだ。
人口学もまた同様。これは学問とならない。なぜならさまざまな人口現象というのは、単独の事象ではなく、複雑にからみあった社会全体の一面にすぎないからだ。
ただし、「心理学者」というものが存在して給料をもらえるように、「人口学者」というものが存在して給料をもらうことはできる。どっちにしろ、たいして役に立たないものを「研究」(?)することで、給料をもらえる。その点、お気楽な人は、このような分野で給料をもらうといいだろう。
彼らの美点は、ブッシュのように、人を殺すことはない、ということだ。毒にも薬にもならないから、どんな害悪を及ぼすこともない。とんでもない嘘八百を語っても、誰も信じないだろうし、影響力はないだろうから、ちっとも問題はないのだ。
(ただし、冒頭の朝日新聞のように、馬鹿な人が人口学を信じると、社会が混迷する、という弊害が生じる。そこで、本項で、その弊害をなくそうとしているわけだ。)
過去ログ

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061020AT3S2001720102006.html
と学会のトンデモ本(等)紹介はあくまでエンターティメントであって、普通に読んで笑えるものでなければなりません。だから専門家が専門分野で「トンデモ」という言葉を使ったらそれは逃げであるし、その尻馬に乗る人も同じです。
トンデモを笑うためにはきちんと読んで(例えば南堂さんの10MG超のテキストを。と学会のメンバーは本でそのくらいのことはやってます。)、それぞれについて論破し、笑うポイントを示さないといけません。そのオタクの読書量と作家の文章力があるから「トンデモ本の世界」は面白いのであり、何の労力も費やさず見慣れない意見を「ドンデモだ」と指さしてあちら側に立ったつもりになろうとしてもそれは甘いというものです。
そんな甘い柔な饅頭のような礫を投げつけられる事にいちいち反応する必要はないではありませんか?まあうっとおしいとは思いますが。
(読者も私の無駄な下らない釈明を読まないで済みそうだし。……)