そこで、トンデモとは何か、正しい定義を示す。
(かなり長い文章です。お暇なときにお読み下さい。)
(人が陥りやすい落とし穴についての警告があります。) ──
「トンデモ」という言葉は「と学会」が広めたもので、その定義によると、こうなる。
「トンデモ本」というのは、「著者が意図したものとは異なる視点から楽しめるもの」であり、「著者の大ボケや、無知、カン違い、妄想などにより、常識とはかけ離れたおかしな内容になってしまった本」である。
しかし、こんな定義は、「独りよがり」と呼ぶべきものにすぎない。こんな定義そのものが「トンデモ」と言える。おそらく、言葉の定義というものをできない、トンデモ連中が勝手に決めたものだろう。
そこで、正しい定義を示す。
「トンデモ」という言葉を正しく理解するには、普通の定義の場合と同様に、対極的な言葉と比較するといい。では、対極的な言葉とは? 「定説」である。
このことから、「トンデモ」という言葉は、次のように定義できそうだ。
「すでに定説があるのに、その定説に逆らう(矛盾する)もの」
ただし、これだけなら、「異端」と呼ぶ方がふさわしい。そこで、次のように定義するのがいいだろう。
「すでに定説があるのに、その定説に逆らい、かつ、根拠が不十分であるもの」 ……(*)
このことの結果として、次の事態が生じる。
「著者が意図したものとは異なる視点から楽しめるもの」となり、「著者の大ボケや、無知、カン違い、妄想などにより、定説とはかけ離れたおかしな内容になってしまった」もの。
これは、先の「トンデモ本」の定義にほぼ等しい。ただし、これをもって「トンデモ」の定義とするには、不足である。なぜなら、トンデモと呼ばれる珍説のうちには、ちっとも面白くないもの(難解すぎるもの)がたくさんあるからだ。……ここでは、「と学界」の定義が狂っているのである。もちろん、先の(*)の定義を使えば、こういう問題はない。
──
さて。以上の定義に基づいて、実際に使われる「トンデモ」という言葉の例を見よう。
すると、次のような新説に対して、「トンデモ」という評価が与えられることがある。
(1) 進化論における新説
(2) 量子力学(特にシュレーディンガーの猫)における新説
(3) 経済学における新説
(4) 集合論における新説
では、これらの新説は、本当に「トンデモ」と呼ぶことができるのか?
仮に「トンデモ」と呼ぶことができるのであれば、その分野にはすでに定説ができている必要がある。
定説とは、たとえば、「相対性理論」とか、「古典力学」とか、「地動説」とかだ。これなら、すでに「定説」となっている。まともな科学者なら、誰もこれらを疑いはしない。こういう定説に対して、批判する異端の説を出せば、それは「トンデモ」と見なされても仕方ない。
一方、最近では、宇宙論における「ビッグ・バン」という珍説があった。では、この珍説は、トンデモだったか? いや、トンデモではなかった。
なぜか? それは、もともと定説などはなかったからだ。宇宙の始原が何であるかについては、誰も何も知らなかった。そこで、「ビッグ・バン」という珍説が出たが、これはトンデモという扱いにはならなかった。なぜなら、定説がなかったからだ。定説がないところには、トンデモはありえないのだ。あらゆる新説はみな平等に「仮説」であるにすぎないのだ。
「定説のないところには、トンデモはなく、仮説だけがある」 …… (#)
これが常識だ。この常識を、まずはわきまえよう。
このあとで、各論に移ろう。
先の四つの分野(進化論・量子力学・経済学・集合論)では、いずれも「定説はない」とわかる。素人なら定説があると感じるかもしれないが、専門家ならば「定説がない」ということを誰もが知っている。(知らないのはモグリである。)
詳しくいうと、次の通り。
(1) 進化論
進化論には、定説はない。
小進化については定説があるが、大進化については定説はないのだ。
現状では、大進化についてはよくわかっていない。理論上では漸進的進化が起こるはずなのに、化石を見る限りは断続的進化となっている。
たとえば、人類の化石を見ると、この20万年間に、ほとんど変わっていない。旧人の化石も同様だ。なのに、旧人と新人との化石には、大きな跳躍がある。
仮に現状の進化論が正しいとすれば、旧人と新人とはなだらかにつながる必要がある。化石が百人分見つかったなら、旧人と新人との間にはなだらかな連続的分布が見つかるはずだ。なのに、実際には、「旧人」の化石は形態的には一箇所にまとまり、「新人」の化石は形態的には別の一箇所にまとまり、なめらかなつながりがない。かくて、理論が破綻する。
また、「突然変異による進化」が発生するには、突然変異がものすごく好都合な確率で発生する必要があるが、それもまた、ありえないので、数理的に論旨が破綻する。
要するに、誰もが納得できるような定説は、できていないのだ。少なくとも、小進化でなく大進化については。──なのに、利己的遺伝子を信じる人々は、ここを誤解している。「大進化についても定説がある」と勘違いしている。彼らは進化論の現状を、まったく理解していないのだ。自分が覚えた一つの理論だけを、馬鹿のひとつ覚えで信じているだけだ。学界には異論がたくさんある、ということをまったく理解できていない。
(「大進化には定説はない」ということは、進化論の研究者なら誰でも知っていることだし、入門書や百科事典にも書いてある。そういうイロハのイも知らない連中が、「大進化には定説がある」と信じたすえ、自分の信じる特定の学説を絶対視して、他の説のうちの一つを「トンデモだ」と批判するのだ。自分こそが「大進化に定説はない」という定説を否定するトンデモだとは気づかずに。)
(2) 量子力学(特にシュレーディンガーの猫)
量子力学<には、定説はない。
量子力学は、実験的には非常に多くの面で事実と合致しており、「間違っている」ということはありえない。しかしながら、はじっこの方で、「食い違い」ないし「ほつれ」のようなものができており、それをどうにも解決できずにいる。根源的な問題があるのだ。
それはちょうど、古典力学の限界に似ている。古典力学は、おおむね正しい理論ではあったが、ミクロの領域においては、理論と実験とが食い違った。その意味で、古典力学は、間違いではなかったが、限界があった。
量子力学も同様である。おおむね正しい理論ではあるのだが、学問領域のはじっこのあたりでは、どうにも解決できない問題が生じている。この部分では、定説がないのだ。
特に、「二つの状態が同時に生じている」という「重ね合わせ」の概念については、哲学的にも常識的にも、定説と呼べる解釈ができていない。数式では「確率的にこうなる」というふうには言えるが、解釈としては定説と呼べるものはできてない。
これは、よく知られているように、コペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈のことだ。この二つは対立しているが、どちらかが正しいとは言えず、どちらも間違っている可能性が十分にある。
また、「無限大の発散」という問題もある。「くりこみ」という解決策はあるが、これは難点を回避しただけに過ぎず、根源的な解決となっていない。他にも別の解釈がある。
どっちみち、学問領域のはじっこのあたりでは、「定説」と呼べるものはできていない。
(3) 経済学
経済学には、定説はない。
これは、よく知られているとおり、古典派とケインズ派の対立だ。現状では古典派が優勢だが、古典派の発想には「不均衡」という概念が欠落している、という決定的な難点がある。
「古典派とは違うならばトンデモだ」というような主張は成立しないのだ。
(4) 集合論
集合論には、定説はない。
これは、面倒な話だから、詳しくは説明しない。特に一つだけ示せば、「選択公理の位置づけがいまだはっきりしない」と言えることがある。
もう少し詳しく説明しよう。
集合論は、現代数学の基礎として受け入れられている。だが、そもそも、基礎理論というのは、ただの仮定にすぎない。公理系というのは、いずれも、ただの仮定なのだ。
だから、どれか一つの理論が「正しい」というようなことは、原理的にはありえない。数学的に言えるのは、次のことだけだ。
「ある公理系が正しいと仮定すれば、そこから演繹される結論も正しい」
「今の集合論が正しいと仮定すれば、そこから演繹される結論も正しい」
ここでは、集合論が(仮定なしで)正しいかどうかは、何もわからない。数学というのは、そういうものだ。「集合論は絶対的に正しい。それとは別の理論を出すのはトンデモだ」と主張する人がいるとしたら、その人は「数学とは何か」をさっぱりわかっていないのだ。
──
以上のことをまとめれば、先の (#) という結論と同じである。再掲しよう。
「定説のないところには、トンデモはなく、仮説だけがある」
この常識を、ちゃんとわきまえよう。
定説がない分野で、新説を見て、「これはトンデモだ」というふうに批判する人は、「定説があるのだ」と勝手に勘違いしていることになる。定説がないのに、「定説がある」と勘違いしていることになる。
だから、定説がない分野で、「こいつはトンデモだ」というふうに批判する人がいたら、実は、その人こそがトンデモなのである。(いや、「トンデモ」というよりは、ただの専門馬鹿という方が正確かも。)
──
「定説がない」ということを示すには、別の方法もある。それは、「さまざまな奇矯な説がすでにある」ということだ。たとえば次のような奇矯な説がある。
「量子の実験をするたびに、世界が複数に分岐する」(多世界解釈)
「猿が人間に進化したのは、猿が草原(サバンナ)に出て直立したからだ」(サバンナ説)
前者は、「たかが一つの実験装置の電源のON・OFFが、世界全体に影響する」という説だ。まったく、奇矯な説である。
後者は、ちょっともっともらしい。だが、仮にこの説が正しいとしたら、チンパンジーを草原に出したら、チンパンジーが人間になるはずだ。実際には、どうか? チンパンジーが草原に出た場合、直立したチンパンジーはオタオタしているので、ただちにライオンなどに食い殺される。人間に進化するどころか、ただちに絶滅する。一方、四つ足のチンパンジーは、(腕を前脚として使って)高速に駆けることができるので、ただちに森林に戻って、生存できる。……こうなるはずだ。もちろん、チンパンジーでなくて、別の類人猿でも同様だ。つまり、サバンナ説は成立しない。
要するに、多世界解釈であれ、サバンナ説であれ、定説のない領域では、トンデモふうの奇矯な説ばかりが存在する。それを勝手に正しいと思い込んでいる人が多い。
自分がトンデモを信じていると、まともな説を聞いてもトンデモだと思いがちだ。狂人は、正常な人間を見ると、「こいつは狂人だ」と思うものだ。狂人は、自分を狂人だとは意識できない。
現在の進化論や量子論は、「定説がない」という状況だ。この状況を認識できない人が、「定説はある」と思い込む。いわば、狂人が、自分を「正常だ」と思い込むように。
──
結語。
「定説のない未解決の領域で、仮説が出るたびに「トンデモだ」と騒ぐ人は、頭が硬直しているだけである。(老化現象と同じ。)
まともな学者は、次のように対応する。
「なるほど、そういう仮説が出ましたか。で、検証すると、この点ではこう評価でき、この点ではこう評価できます。ゆえに、この仮説には(肯定的/否定的)となります」
こういうのが、仮説に対する正常な対応である。
例。「カンブリア紀の進化の爆発は、『眼の誕生』によってもたらされた」
これは一つの仮説である。この仮説に対しては、肯定的に評価するにせよ、否定的に評価するにせよ、個別の論拠を吟味・検証して、評価すればよい。
こういうふうに、仮説に対しては、仮説として対応すればいいのだ。(定説のない分野では。)
[ 付記1 ]
私の唱えたものは、いずれも、仮説である。実際、それぞれ、理論としての名称がついている。次のように。
・ クラス進化論
・ 超球理論
・ 区体論
これらに対して、既存の説(従来の説)もある。たとえば進化論では、「ダーウィン説」や「利己的遺伝子説」がある。これらもまた一つの仮説である。量子論における「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」も同様で、やはり仮説である。
定説がないところでは、複数の仮説があり、たがいに対立する。Aという仮説と、Bという仮説は、たがいに対立する。
ここにおいて、「Aという仮説とBという仮説は矛盾する。ゆえにBはトンデモだ」と主張する人々が多い。こういう人々は、「仮説とは何か」ということを、まるきり理解できていないのだ。
こういう人々は、たいてい、既存の仮説を「真実だ」「定説だ」と思い込んでいる。その仮説がいまだに定説に昇格できない難点を理解できていない。仮説Aで説明できる部分だけを理解して、仮説Aで説明できない点を理解できていない。……要するに、ただの素人である。学問の最先端のこと(仮説をめぐって議論がなされていること)を、まるきり理解できていないのだ。
たとえば、ニュートンという科学雑誌では、「コペンハーゲン解釈ではこういうふうに説明できる」という初心者向けの解説だけがあって、「コペンハーゲン解釈ではこういう難点がある」という専門的な情報を示さない。ま、初心者向けなら、それでもいい。しかしながら、専門家がそれでは困ったことだ。
仮説Aが定説に昇格できないことには、何らかの理由がある。その理由は、仮説Aの難点だ。仮説Aを信じている人には、その難点は「自己の欠点」と思えるので、なるべく見たがらない。おのれの欠点を見たがらない人は、真実に目をつぶるゆえに、真実を見ることはできないのだ。
[ 付記2 ]
定説ではないものを定説だと思い込んでいる半可通は、けっこう多い。たとえば、
「利己的遺伝子説は、定説である」
「コペンハーゲン解釈は、定説である」
「(新)古典派経済学説は、定説である」
というふうに。これらの人は、学問の基礎をまったく理解していないようだ。たいていの入門書をひもといても、「これらの説は定説ではない」と書いてあるのだが。
これらの説は、定説ではなくて、いくつかある学説の一つである。そして、なぜ定説ではないかというと、「多数派を占めていないから」ではなくて、「多数派を占めてはいるのだが、問題を完全に解決していないから」なのだ。
・ 利己的遺伝子説を取っても、進化論にはまだ解決できない問題が残る。
・ コペンハーゲン解釈を取っても、量子論にはまだ解決できない問題が残る。
・ (新)古典派経済学説を取っても、経済学にはまだ解決できない問題が残る。
こういうふうに、解決されない問題が残る。それゆえ、これらの学説は、「定説」とはなっていないのだ。
こういうことを理解しない半可通が、「多数派を占めているから定説である」と思い込む。ま、素人ならば、多数派の意見だけ覚えていればいいのだが、専門家だったら、さまざまな学説が対立しているということぐらい、理解するべきだろう。
そして、そういうことも知らない半可通が、主流派とは異なる仮説を見ると、「トンデモだ」と頭に湯気を立てるのである。
では、なぜ? 彼らの頭には、一つの学説しか、入りきらないからである。もともと複数の学説が頭に入る人ならば、怒ったりはしないで、複数の学説を対比する。しかし、頭に一つの学説しか入らない人は、新たな学説が登場すると、既存の学説を捨てなくてはならない。それではもったいない。だから、怒り狂うのである。
( 要するに、怒るか怒らないかは、脳のキャパシティーの問題。)
[ 余談 ]
ここで、「トンデモだ」と騒ぐ人の共通点を探ると、次の「定理」(?)を示すことができる。》
《 トンチキの定理 》こういうこと(トンチンカンなこと)をやる人は、とても多い。
仮説Bを見て、気に食わないと感じたので、この仮説Bを否定しようとする人がいる。ただし、否定するときに、論理的に「この仮説Bは正しくない」というふうに否定できない。そこで、既存の仮説Aを導入して、次のように主張する。
「仮説Bは、仮説Aに反するので、正しくない」
「仮説Bの主張は、仮説Aの主張に含まれるので、独自ではない」
かくて、仮説Bは、仮説Aに反する点では「違うから正しくない」というふうに否定され、仮説Aに合致する点では「同じだから独自ではない」というふうに否定される。つまり、仮説Aに合致してもしなくても、否定される。
こうして、「仮説Bは正しくない」ということを、論理的に示すことなしに、文章だけで文学的に否定することができる。
ゆえに、既存の仮説Aに対する新たな仮説は、すべて正しくないのである。
(これを「トンチキの定理」という。)
一般に、既存の説との異同だけを比較して、「既存の仮説に反するからトンデモだ」と主張するのは、科学ではない。(論理的・科学的に論じないから。)
では、それは、科学でなければ、何なのか?
たぶん、文学だろう。自分の信じる説(既存の仮説)を、オリジナルのテキストと見なす。このオリジナルを神聖視したあげく、「オリジナルに反するものはまがい物だ」と批判する。ただの文章論。文学ですね。
やたらと「トンデモだ、トンデモだ」と文章レベルで騒ぐ人(トンチキ)は、文学者なのである。(ヘボな詩でも作るのが趣味なのだろう。)
[ 注釈 ]
「トンデモだ」と怒り狂う人は、なぜかくも間違えるのか? 彼らがよほどの馬鹿であるからなのか? そういう疑問もある。これについて考えると、裏事情がわかる。
実は、彼らは、馬鹿なのではない。よく見ると、彼らが「トンデモだ」というふうに批判するとき、「実は彼らは、批判するべき仮説を読んでいないせいで、誤解している」ということがわかる。
たとえば、「利己的遺伝子説を否定する」という言葉を聞くと、その一言半句を聞いてだけであって、当の仮説を読んでいないのだ。
なぜ読まないかというと、その一言半句を聞いて、自分を全否定されたつもりになるからだ。たちまち、頭に湯気を立てて、読みもしないまま、相手を「トンデモだ」と批判する。
実を言うと、「既存の仮説Aを否定する」というとき、「部分否定」があるだけであって、「全否定」があるわけではない。だが、曲解して、「全否定があった」と思い込んで、頭に湯気を立てる。
たとえば、「白ではない」と言われたら、その意図が「灰色である」ということだとしても、「黒だ」といわれたと勘違いして、「黒でないのに黒だと決めつけるとは、何事だ!」と怒り狂う。
結局、彼らは、相手の言い分を読まないまま、勝手に勘違いしているのである。誤読している、と言ってもいい。ただ、正確には、相手の言い分をまるきり聞いていないのである。だから、彼らの批判は、個別の論理の批判にはなっていない。たとえば、
「利己的遺伝子説を批判する」
という意見に対しては、その意見(仮説B)を個別に論証して否定するのではなく、
「利己的遺伝子説は正しい」
というふうに、自説(仮説A)を肯定をするだけだ。自分の信じる意見を言っているだけで、相手の意見をちっとも聞いていない。相手の意見を聞いて批判するのではなくて、「否定する」という言葉だけをとらえて、その言葉尻を批判する。
要するに、議論になっていないんですよね。ただの悪口。ガキの喧嘩と同じ。「おれの悪口を言ったな。そんなおまえは馬鹿だ、阿呆だ、トンデモだ」と言い返しているだけ。相手が実際には悪口を言ったのではなくても、勝手に悪口を言われたと思い込む。「彼は日本で一番の秀才ではありませんよ」というふうに部分否定しただけであっても、「彼は日本で一番の馬鹿ですよ」というふうに全否定されたと思い込む。そういう勘違いに基づいて、「自分は悪口を言われた」と思い込む。
一種の妄想ですね。妄想ゆえの錯誤。……これが真相。馬鹿だから間違えたんじゃなくて、おのれの妄想ゆえに間違えたわけ。
これが「トンチキの定理」の根源。
[ 補記 ]
以上の「トンデモの定義」からすると、私だってあまり偉そうなことは言えないかもしれない。私も他人に対して「トンデモ」というふうに言ったことはあるからだ。
とはいえ、私はどこかの無名の誰かを「トンデモ」と批判したことはなく、学界の主流派を「トンデモ」と批判しただけだ。
というわけで、ここでは「トンデモ」の本来の意義とは別の形で言っているわけだ。いわば政府を「反体制派」と呼ぶようなものだ。レトリックの一種。
けれど、主流派の人は、「自分は主流派で決して間違っていない」と信じているので、そういうふうに言われると、たちまち頭に湯気を上らせるのである。
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結論
さて。以上に長々と述べたことを通じて、結局、何が言いたいのか? 単に「トンチキたちは馬鹿だ」と悪口を言いたいのか? あるいは、自己弁護をしたいのか? 違う。次のことを言いたいのだ。
「思考停止になるな」
人々は、「仮説Bはトンデモだ」と批判するとき、思考停止状態になっている。
つまり、「仮説Bは正しいか否か」というふうに論理的に検証することをやめている。単に文字レベルで「トンデモか否か」だけを論じており、科学レベルで内容について「正しいか否か」を思考しなくなっている。
思考停止。ここでは、感情的になって悪口を言うことに熱中するあまり、思考が消えてしまっている。
たとえば、「クラス進化論」という仮説がある。これを「正しくない」というふうに批判したいのであれば、「クラス交差による大進化」という仮説を批判すればいい。「劣者連合によって優者が誕生することで大進化が起こる」ということを批判すればいい。
しかし、そういうふうに真っ正面から批判した人は、ただの一人もいない。批判する人は、全然関係のない重箱の隅について、揚げ足取りをしたがるだけだ。つまり、肝心の内容については何一つ論じずに、細かな字句レベルで論じているだけだ。
( ※ 比喩的に言うと、論文の審査の際に、内容を読まずに、スペルミスだけで決めようとするようなもの。スペルミスを一つか二つ発見して、鬼の首でも取ったように騒ぎ立てて、「この論文は間違っている」と大騒ぎしたがるわけだ。……そういう形で、他人の足を引っ張りたがる人は、どこの分野にもいる。)
たとえ話を言おう。
20世紀の冒頭に、ドイツの特許局の下級職員が、風変わりな物理理論を提出した。それは既存の仮説とは真っ向から対立する仮説だった。論文の提出を受けて、「これを査読してくれ」と物理学の教授が頼まれた。教授は二人いて、ともに査読した。
老いた教授は、ざっと読んだだけで、こう結論した。
「これはトンデモだ。なぜなら、既存の仮説に反するからだ。この馬鹿は既存の仮説をよく読まないで、勝手な説ばかりを主張している。既存の説とは矛盾だらけだ。呆れるね。まずは既存の仮説を読め。話はそれからだよ。また、一部の箇所は、既存の仮説と合致している。たとえば、速度が光速度よりもずっと遅いときには、ニュートン説と合致している。速度が光速度に近いときには、ローレンツ説と合致している。ゆえに、こいつの説には、独自性はない。結局、既存の仮説に合致していない点ではトンデモであり、既存の仮説に合致している点でもトンデモである。ゆえに、この仮説は、まったくのトンデモだ」
こうして、一部だけを読んで、「トンデモだ」と結論したので、ろくに読まないまま、論文を突き返した。「読むに値しない」というのが理由。
若い教授は、精読した上で、こう結論した。
「この仮説は、既存の仮説とはまったく異なる立場から、独自の演繹的な理論体系を立てている。これはこれで、一つの仮説である。既存の仮説と比べて、どちらが論理的に正しいということもない。どちらが正しいかは、論理によってではなく、実験によって決めるべきである」
結局、こうだ。
老いた教授は「これはトンデモだ」と決めつけたので、読まないで突き返した。若い教授は「これは仮説だ」と思ったので、読んでから判断した。
老いた教授は「既存の説の文章と比較するべし」と考え、文学的立場を取った。若い教授は「実験事実と比較するべし」と考えて、科学的立場を取った。
この二人の差は? それは、「思考停止になるかならないか」という違いだ。
それゆえ私は、警告を鳴らしたい。「思考停止になるな」と。思考停止は、思考の落とし穴にはまった状態だ。人はしばしば、その落とし穴に落ち込む。
その理由は、「自分は絶対に正しい」と信じ込んでいることだ。老いた教授は「自分は絶対に正しい」と信じ込んでいたが、若い教授は「自分は絶対に正しい」とは信じ込んでいなかった。
[ 注記 ]
ここで述べたことは、南堂に当てはまるだけではない。次の人にも当てはまる。
・ 中村修二(青色LED)
・ 江崎玲於奈(トンネル効果)
・ 西沢潤一(光ファイバー)
いずれも、日本ではトンデモ扱いされた。海外で認められたあと、後年にそれを逆輸入して、ようやく日本でも認められただけだ。それまではずっとトンデモ扱いだった。
また、産業界でも、CPUの発明という大発明がある。これも日本ではほとんどキワモノ扱いされたが、米国のインテル社が認めたので、ようやく日の目を見た。インテル社は大儲けをしたが、CPUの発明を無視した日本の企業は後塵を拝した。
こういうふうに、独自の説を「トンデモ」扱いして否定する、というのは、日本人に連綿として受け継がれてきた伝統なのである。ま、あなたの職場でも、そうでしょうね。
なお、以上は、
「出る杭は打たれる」
ということわざ通りである。これは、日本だけにあることわざだ。
米国なら? 「出る杭を引っ張れ」というふうになる。なぜ? 米国が善人だから? いや、「出る杭を引っ張れば、引っ張った人が儲かる」と思うからだ。お金が第一。
で、たとえ自分は無能でも、「出る杭を引っ張れば儲かる」となれば、出る杭をせっせとを引っ張るわけだ。(こっちの方が利口ですね。嫉妬心に駆られるより、自分の利益だけを考える方が、よほど利口である。)
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【 追記 】
簡単にまとめておこう。
「トンデモだ」というふうに批判すると、思考停止になる。なぜなら、「仮説を検証する」という作業をやめてしまうからだ。
たとえば、地動説であれ、相対論であれ、ビッグバン説であれ、その仮説が提示された時点において、次の二通りの対処がある。
・ 「仮説だ」と認めて、検証をする。
・ 「トンデモだ」と批判して、検証をしない。
前者の場合には、「仮説だ」と認めたあとで、検証する。検証の結果、肯定することもあるし、否定することもある。ともあれ、検証の時点では、判断を保留している。判断を保留したまま、思考をさらに続ける。
後者の場合には、検証する作業がないから、「トンデモだ」と批判した時点で、思考が停止してしまっている。
ある仮説に対して、「実験的に正しくない」というふうに否定するのは、別に問題ない。それは、検証であり、科学的な態度である。
ある仮説に対して、頭ごなしに「トンデモだ」というふうに否定するのは、問題がある。それは、検証ではないし、科学的な態度でもない。
ともあれ、「トンデモだ」と叫ぶと、「対象が仮説である」ということを見失う。「その仮説は事実と照らして妥当であるかどうか」ということを論じる以前に、仮説であることを拒否したがる。これは、対象を「足切りする」ということであるが、このとき、その対象が足切りされていると同時に、自分自身の思考もまた足切りされていることになる。これつまりは、「思考停止だ」
結局、「頭ごなしに決めつけるな」「思考停止になるな」というのが、本項で示そうとしたことだ。

http://openblog.meblog.biz/article/42835.html
でも、詳しく論じた。(補足的な話。)
左の橋には論理的な根拠を持つ仮説、右の橋には根拠が出鱈目なトンデモが存在します。
すべての仮説はこの直線上のどこかに存在します。
「相対論は間違っている論者は相対論の実験は一度っきりで
相対論の追試が今でも行われていると思ってない」と言ってますが
彼は実験の理論自体が同じだと同じ結果にしかならないと分からないのでしょうか?