市場原理の発想と、自然淘汰の発想は、とても良く似ている。事実上、同じだと言える。
「生物または経済という競争の場で、優者が残り、劣者が消える。このことで、全体が向上する」
しかし、この発想では説明できないこと(矛盾すること)がたくさんある。 ──
面白い話が紹介されていた。(朝日・朝刊・大きなコラム 2006-10-03 )
いじめを解決するには、どうすればいいか? 「一人一人が思いやりの心を持てばいい」という発想がある。「美しい日本」という主張をするどこかの首相も賛成しそうだ。あくまで「一人一人で決めよ」という発想だ。
しかし、この発想では、解決できない。思いやりのある誰かが、「いじめをやめよう」と唱えると、その人もまた、いじめの対象となる。これでは、言い出しっぺが損をする。
──
ここから、次のことがわかる。
全員が間違った状況にあるときには、間違ったことを唱える方が、自分にとって利益になる。一人だけ正しいことをすれば、かえって損をする。
そして、このことは、不況という経済状態でも当てはまる。以下、詳しく述べよう。
第一に、個人の場合。
誰か一人が過剰消費すれば、低所得のまま過剰消費するので、破産する。
しかし全員が過剰消費すれば、消費が増えて経済が拡大するので、全員が豊かになる。
つまり、一人だけ正しいことをすれば失敗するが、全員が正しいことをすれば成功する。
第二に、企業の場合。
どこか一社が剰投資・過剰賃上げすれば、売上げ減少のまま過剰投資・過剰賃上げするので、破産する。
しかし全社が過剰投資・過剰賃上げすれば、投資と消費が増えて経済が拡大するので、全社が豊かになる。
つまり、一社だけ正しいことをすれば失敗するが、全員が正しいことをすれば成功する。
この二つの問題は、先の「いじめ」の場合と同様だ。一人だけが「いじめをやめよう」と言えば失敗するが、ほぼ全員が「いじめをやめよう」と言えば成功する。
以上のことから、何がわかるか?
「一人一人の行動に任せればいい」「放置で最適化する」
という発想では駄目だ、ということだ。
もともとの状況が正しければ、そのなかで正しい状況を取ればいい。
しかし、もともとの状況が正しくないときには、状況そのものを正しい方向に向ける必要がある。そのためには、一人一人の自発的な行動に任せるだけでは駄目で、全員一致の共同行動が必要となる。
──
先の「いじめ」の問題は、「社会的ジレンマ」という話題で、山岸俊男という人が研究している。新聞記事によると、文部科学省の先端研究事業にも指定されたようだ。
彼の研究そのものは、非常に正しい方向を向いている。ただし、彼の研究は、南堂の研究を、はるかに水で薄めたものにすぎない。
正しくは、泉の波立ち(小泉の波立ち)で何度も述べたように、「マクロ的な発想」の必要なのだ。ミクロ的な競争主義に替えて、マクロ的な「全体の視点」を取ることが大切なのだ。
そうすれば、経済においては、「マクロ経済学」の形で理解できるし、生物学においては「クラス進化論」の形で理解できる。
結局、経済学でも、生物学でも、社会心理学でも、同じように、新たな発想で物事を理解できる。それは、「個々のものの自由競争」という発想から、「全体における最適制御」という発想に転じることだ。
比喩的に言えば、サッカーのチームを最強にするためには、個人がバラバラに勝手なことをすればいいのか、チームの戦術で最適なことをすればいいのか、ということだ。
前者の発想に従えば、各人がそろって「おれが点を取るぞ」と思って、全員がFWとなってゴールに集中するので、あっさり負けそうだ。
後者の発想に従えば、各人は統制されたアイデアのもとで、ボールをいったん遠ざけてからゴールに向ける、というふうにトリックを尽くすことで、相手を錯乱させて、勝利しそうだ。
最短距離をめざすと失敗し、急がば回れというふうにすると成功する。……そして、これは、多くのことに当てはまる。
今の学界は、経済学でも、生物学でも、社会心理学でも、「個々のものの最適化」という発想ばかりにとらわれている。そのせいで、「全体の最適化」という発想が欠落している。そのせいで、真実に到達できない。
山岸俊男の発想は、この難点を解決しようとする、社会心理学の分野における研究だ。ただし、残念ながら、彼の研究は社会心理学だけに留まっている。経済学や生物学(進化論)にも共通する原理がある、と見抜けない。つまり、核心を見抜けない。そのせいで、核心を知らないまま、うわべだけを撫でさすっている。……とはいえ、それで政府から研究助成金をもらえるのだから、社会心理学者というのは楽な商売だ。 (^^);
ま、あなたが社会心理学者だったら、南堂の説をコピーして発表するといいだろう。すると、「山岸俊男をはるかにしのぐ画期的な大成果」と称賛されて、政府から研究助成金をもらえるだろう。
社会心理学というのもまた、経済学や生物学と同じく、偉そうなことをいっていれば金が儲かる商売なのだ。真実よりも、真実のフリをしたことを、偉そうに唱えればいいのだ。
(ただし、あんまり独創的すぎると、理解してもらえない可能性が高い。世間に合わせて、そこそこ理解してもらえるように、水で薄めた方がいいだろう。それが出世のコツ。)
※ 念のために言うと、「山岸俊男の説が間違っている」と述べているわけではない。
彼の言っていることは正しい。ただし、核心を見抜いていないので、隔靴掻痒なのである。いくら読んでも、「なるほど」と意外感に打たれて、それでおしまい。つまりは、真実となる基本原理を、見抜いていないのだ。真実を知った、という解決感がない。そこに彼の限界がある。(間違いがあるのではなくて、限界があるわけ。……ただし、出世には有利。)
※ なぜ「隔靴掻痒」というふうに述べるかというと、一番肝心の「ミクロ/マクロ」という経済学の原理に言及していないからだ。本当は日本経済全体を動かすほどの巨大な問題なのに、そのうちのごく一部分である「いじめ」のような小さな問題だけに着目して、それで満足してしまっている。いわば、巨大な氷山の一部を削って、「おいしいカキ氷だなあ」と見なすようなもの。物事の本質を見落としている。あまりにも近視眼的。……ま、何も見えない盲目の人よりはマシだが、あまりにもみみっちい。
【 参考 】
特に、生物学(進化論)において、この問題を論じた文書を新たに公開した。
→ ドーキンス説の問題
2006年10月03日
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