2006年10月01日

◆ 代理出産&遺伝子

 タレントの向井亜紀が代理出産でもうけた子について、東京高等裁判所が「出生届を受理せよ」という判断を下した。

 これについて日本の医学界(の一人)は、「自分の遺伝子を残したがる親のエゴ」と批判した。(朝日・夕刊・2006-09-30 )
 しかし、「親は自分の遺伝子を残したがる」という主張は、科学における妄想であるにすぎない。(と私は思う。) ──
 
 近ごろはドーキンス説 (というトンデモ説) に、世間の一般が妙に染まってしまっている。そのせいで、「親が子を生むのは、親が遺伝子を残したいからだ」と主張する。
 しかしながら、この説は、どう考えても現実に合致しない。たいていの男は、妻以外の女が妊娠すると、青ざめて、「中絶してくれ」と頼む。「遺伝子を残せてよかった」と思う男は少ない。また、結婚している夫婦だって、「遺伝子を残したいから、子をたくさん産もう」と思う夫婦は、非常に非常に少ない。たいていの夫婦は、二人を望むし、せいぜい三人を望むぐらいだ。「一人で十分」とか「収入の制限で一人またはゼロ人」と思う夫婦も多い。
 要するに、「遺伝子をたくさん残したい」なんていう要求は、ほとんどない。では、何があるか? 
 それは、(遺伝子でなく)「自分の子を残したい」という要求だ。
 (なお、もう一つは、「エッチをしたい」という性的な要求だ。これは当り前。)

 向井亜紀本人は、「(自分の遺伝子と)夫の遺伝子を残したい」と述べている。しかしこれは、進化論に染まった勘違いである。また、「遺伝子を残したがるのはエゴだ」と批判する日本の医学界の主張も、同様の勘違いである。

 では、正しくは? 夫妻としては、遺伝子を残したいのではなく、単に自分の子を残したいのだ。それは、生物としては、ごく自然な感情である。
 たとえば、よその無縁な子を養子としてもらって育てるよりは、自分の実子を育てたい。誰だって、そう思うだろう。自分の子は、「自分の血が流れている」という表現で、「血のつながりがある」というふうに感じる。それはごく当たり前のことなのだ。
 なぜ? 自分の子は、いわば、自分の分身なのである。自分の子は、自分の遺伝子をもつから大切なのではなくて、自分の分身であるから大切なのだ。それがつまりは、「親は自分の子を大切に思う」ということだ。
 単に遺伝子を残したいのであれば、遺伝子を冷凍保存しておくだけでいい。その後、将来、医学の発達につれて、遺伝子を何度も純粋培養してくれるだろう。精子の複製をたくさん作ったり、卵子のたくさんをたくさん作ったりしてくれる。そうすれば、自分の遺伝子はどんどん増える。
 自分の子は、50%の遺伝子か保有していないが、精子または卵子のクローンならば、100%の遺伝子を保有する。だから、自分の子を生むよりは、自分の精子または卵子のクローンを残す方が、効率がいい。遺伝子を残すことが目的であれば、子供を生むよりは、遺伝子を冷凍保存するべきなのだ。
 しかしそれでは、遺伝子は残せても、自分の分身である子は残せない。それでは困る。ゆえに、単に遺伝子を残すことを望む人はほとんどいないだろう。

 人が子を生みたいと思うのは、遺伝子を残したいからではなく、自分の分身である子という個体を残したいからだ。また、その自分の分身というのは、自分の完全な分身であるクローンであればいいのではなく、自分と妻の半分ずつの分身としての子であるべきなのだ。
 要するに、人が望むのは、自分の分身そのものではなく、自分と妻の半分ずつの分身としてのもの、すなわち、「愛の結晶」なのである。
( ※ 念のために注釈しておくと、ここではまさしく精神的な愛が重要となる。愛のない夫婦には、子も必要ない。)
( ※ なお、「愛の結晶」は「性愛の結果」のことではない。勘違いしないように注意。一夜のエッチ行為が大切なのではなくて、夫婦に継続する精神的な愛が大切なのだ。)

 そして、ここではもちろん、「愛の結晶」は、二人の遺伝子を引き継ぐものでなくてはならない。どこかの馬の骨の遺伝子を引き継ぐものは、二人の「愛の結晶」ではない。そんなものを望む親はいるまい。

 結語。
 親が出産に際して望むことは、「遺伝子を残すこと」ではなく、「愛の結晶」としての生命を誕生させることだ。それこそが生物にとって大切なことなのだ。
 たいていの親は、自分の子が生まれたとき、すばらしい感動をもって喜ぶ。なぜそんなに喜ぶのか? 親となった経験のない独身者にはわかるまい。また、家庭のことをほったらかして、仕事ばかりしている学者馬鹿にもわかるまい。
 親がかくも喜ぶのは、遺伝子を残せたからではなくて、健全な家庭を築けるからなのだ。愛する妻がいて、愛する子がいる。そういう健全な家庭を築いて、健全な人生を歩む。……それが人としての幸福だ。
 ただし、コンピュータ・ゲームでピコピコやってばかりいる独身オタクや、家庭をほったらかしてコンピュータと向かいあって論文ばかり読んでいる学者(学問オタクというべきか)は、仮想の世界に生きているばかりなので、実体のある家庭生活をまともに営む能力が欠けている。生物として歪んでいる。……そういう歪んだ人間には、人としての幸福を理解できない。そのせいで、「遺伝子を残すため」なんていう馬鹿げた結論を出す。

 どこの阿呆が、「冷凍精子を残したい」と思って必死に働いたりするものか。いくら冷凍精子を残そうが、そんなものに愛情を感じる人はいない。しかし、自分の子が生まれ、自分の子がオギャーと泣いて、父や母を求めているとき、人はわが子をいとおしく思う。どこかの他人の子は、その親を求めているだろうが、わが子はまさしく自分たち夫婦を親として求めているのだ。そういうわが子を、どうしていとおしく思わないはずがあろう。
 「遺伝子を残すため」なんていう馬鹿げた結論を出す学者は、しょせんは、人間というものをまるきり理解していないのだ。人間性を喪失した馬鹿学者が、人間の生命について論じる、というわけだ。(生物学では)

 今回の話に戻ろう。
 代理出産を批判することはできる。ただし、代理出産を批判するために、「遺伝子を残すためという親のエゴ」なんていう理由で批判をする学者は、てんで見当違いの批判をしていることになる。
 向井夫妻は、遺伝子を残したいから、代理出産をしたのではない。二人の「愛の結晶」を残したいから、代理出産をしたのだ。
 代理出産の是非を論じるのはいいが、誤った論拠によって論じるべきではない。代理出産の是非は、社会的な問題ではあるが、科学的に正しい論拠を必要とする。

      【 追記 】
     上記の意図を誤読しないでほしい。
     本項は、「代理出産はOK」と肯定しているわけではない。
     代理出産の是非については何も述べていない。
     「間違った論拠で否定するのは駄目だ」
     と述べているだけだ。誤読して勘違いする人がいるので注意。


( ※ というわけで、本項の基本的態度は、前項に似ている。どんな結論を出すにせよ、正しい科学的論拠が必要である。正しい科学的論拠なしに、誤った科学的論拠に基づいて、何らかの結論を出すとしたら、その結論は、いわば砂上の空論にすぎない。)
( ※ このような勘違いに基づく結論は、科学の分野における「魔女狩り」とも言える。「魔女がいるぞ」という妄想に駆られて、特定の女性を処刑することがある。同様に、何らかの非科学的な妄想に駆られて、特定の思想を断罪することがある。いずれにせよ、非科学的な妄想に基づいて、社会が狂気的な行動を取る。……ゆえに、社会においては、正しい認識が必要なのである。妄想のかわりに。

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 【 参考 】
 以前の代理母(卵子は代理母のもの)のケースでは、代理母が親と認められた。(05年の最高裁判決。)
 一方、今回のケースでは、精子と卵子は向井夫妻のものであるから、生まれた子は血縁的に実子である。代理母は血縁的に関係がない。この点では、以前のケースとは異なる。

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  【 追記 】

 向井亜紀を批判する学者は、「自分の遺伝子を残そうとする親のエゴ」と言って批判する。だが、それを言うなら、向井亜紀に限らず、あらゆる親が「親のエゴ」で子を生むことになる。それがいけないのであれば、「すべての親は子を生むべからず」と述べて、出産を禁止するべきだろう。(というのは極論ふうだが。)

 実を言うと、こういう学者の主張の前提には、次の発想がある。
 「親は、自分のエゴゆえに、自分の遺伝子を残そうとする

 これはドーキンス説だ。そしてこれが学者たちの信じる誤解だ。

 実は、正しくは、こうだ。
 「親は、子への愛ゆえに、(個体としての)子を誕生させる

 遺伝子よりも個体が大事なのだ。それが真実である(はずだ)。

 では、こういう発想は、現代の進化論から出てくるか? いや、出てこない。現代の進化論は、遺伝子至上主義の発想を取るので、「遺伝子がすべてを決定する」と考える。そのせいで、個体を見落とす。あげく、「遺伝子と個体が絡み合う」という事実を見失う。

 実際には、この世界では、「遺伝子と個体が絡み合う」という形で、次の世代が誕生する。それはつまり、「性のある生物では、有性生殖(有糸分裂という形式の生殖)がなされる」ということだ。
 なのに今の進化論は、性のない生物を前提としながら、無性生殖(体細胞分裂という形の生殖)を前提とする。ここから、「生物は自分の遺伝子を増やそうとする」という発想が生じる。

 実際には、菌類のような下等生物を除けば、生物の本質は「有性生殖」にある。そこでは「性」や「愛」こそが生命の根源的な基盤となる。
 なのに今の生物学や進化論では、菌類のような下等生物を前提としているのだ。そして、暗黙裏・無意識裏に、生物の本質を「無性生殖」であると見なす。すると、「遺伝子を増やす」という「親のエゴ」こそが生命の根源的な基盤となる。

 生物学者が「親のエゴ」を主張するとき、彼らは生物の本質を「無性生殖」であると見なす。そこには根源的な誤解がある。
 なるほど、菌類のような下等生物は、試験管で扱いやすい。これらで成立する原理を、生命の基本的な原理と見なすことは、いかにも「科学的」である。しかし、そんなふうに「科学的」であることは、「人間性」を見失い、生命の本質からかえって遠ざかることになるのだ。

 科学的であるということは、試験管で物質を操作するということではない。目に見えるものの背後に隠れた真実を見抜くということだ。

 【 参考 】
 有性生殖について、本質的なことは、次のページを参照。
   クラス進化論のサイト
   進化論 Q&A 2 の後半

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 【 余談 】

 Q 男が妊娠させた女に、中絶させたがるのはなぜか? 

 A 主流派の説(ドーキンス説および現代の進化論学者の説)では、まったく説明がつかない。しかし、クラス進化論によれば、説明がつく。

 主流派の説では、実は、暗黙裏に前提されていることがある。それは「父親は子育ての義務を負わない」ということだ。仮にそれが事実であれば、父親は生みっぱなしにしてしまえばいいので、あちこちでどんどん浮気をすればいい。

 しかし現実には、まともな男なら、生みっぱなしにはしない。わが子のことを心配するし、面倒を見る。その分、自分が貧しくなる。だからこそ、その負担を免れるために、「中絶してくれ」と頼むわけだ。
 つまり、男が「中絶してくれ」と頼むのは、男に良心があるからだ。「将来生まれてきた子供をほったらかしにはしない」という良心が。
 しかしながら、現代の進化論学者には、その良心がない。「男は子供をどんどん残せばいいんだ。生みっぱなしにして、あとはほったらかせばいいんだ」と思い込む。

 では、なぜ、現代の進化論学者には、良心がないのか? 人でなしの、人間のクズばかりがそろっているからか? 実を言うと、彼らは、こう信じているのだ。
 「無性生殖の菌類は、体細胞分裂をしたあと、自力で成育する。父親を必要としない。ゆえに、人間の子供も、父親を必要としない」
 「子供が父親を必要としないのだから、父親には子育ての責任がない」

 彼らは、無性生殖を前提として物事を考える。「生物の原理はエゴである」と。それゆえ、「父親は子育ての義務を負わない」と考えるのだ。
 一方、クラス進化論では、有性生殖を前提として物事を考える。「生物の原理は性と愛である」と。それゆえ、「父親は子育ての義務を負う」と考えるのだ。

 こうして、クラス進化論では、「父親の義務」という概念から、「中絶をさせたがる」という概念が生じる。男が女に中絶をさせたがるのは、彼がとんでもない人でなしであるからではなくて、父親としての義務を感じているからなのだ。

 人でなしであるのは、女に中絶をさせたがる男より、むしろ、「生物はエゴゆえに、自分の遺伝子をたくさん残したがる」と信じている学者連中である。こういう連中は、「どんどんあちこちで女の畑に種をまけばいい、あとは野となれ山となれ、知ったこっちゃないよ」と考えている。父親としての義務をまったく感じていない。

 女に中絶をさせたがる男と、たいていの進化論学者と、どっちが人間のクズであるか、よく考えた方がいい。
posted by 管理人 at 01:24| Comment(0) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
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