数学における証明とは何か? 「ある命題について、真または偽であるという結論を論理的に導き出すことだ」と思っている人が多いが、ちょっと違う。 ──
なぜちょっと違うかというと、「真でも偽でもない」という場合があるからだ。これは「真と偽の中間になる」ということ(シュレーディンガーの猫ふう)ではなくて、「非決定」つまり「独立」ということだ。
「独立」である場合には、その公理系からは決して導き出されない。そこで、第三の公理しだいとなる。その命題を成立させるような公理を導入することもできるし、その命題を成立させないような公理を導入することもできる。
一般に、数学の命題は、「真・偽・独立」のどれかになるはずだ。そのどれになるかを決定するのが「証明」だ。
「独立」を決定した証明の例としては、数学基礎論における「連続体仮説」や「選択公理」の独立性の証明がある。
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さて。こうして「真・偽・独立」の三つがあることが数学ではわかっている。そのどれかに決定することが重要だ。そのことは数学者の間では一般的に合意されている。
ただし、数学基礎論の世界だけは、別である。この世界(学界)では、次のような立場が普通だ。
「独立という結論を排除して、真または偽の領域をどんどん増やすべきだ。そのためには、公理の数をどんどん増やすべきだ。なるべく多くの公理を導入して、真または偽のどちらかに決着させることが、数学にとって実り豊かな結論をもたらす」
比喩でいうと、次のようなものだ。
「ユークリッド空間と非ユークリッド空間という二つの公理系があるが、どちらか一方に決めてしまえ。平行線公理の成立または不成立ということで、二つの空間のどちらかだけを認める。平行線公理を抜かした一般的な(弱い)数学空間というものは、邪魔だから排除してしまえ」
これは相当に乱暴な立場である。しかるに、数学基礎論の世界では、こういう乱暴な立場が強い。そのせいで、これに反する立場を取る理論(区体論)は、排除されてしまう。
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区体論の立場は、こうだ。
「数学は美しくあるべきだ」
その例として、「選択公理の位置づけ」がある。
「選択公理は不要だ。可算選択公理だけがあればいい。なぜなら、可算選択公理だけが美しく自然に導き出されるからだ。(可算を越えた)選択公理は、どちらかと言えば余計なものなので、ない方が好ましい。特別な場合には、あってもいいが、標準的な場合には、ない方がいいのだ。」
「選択公理は必要のないもの(余計なもの)ではあるが、かといって、選択公理の否定が必要であるわけでもない。選択公理も、その否定も、どちらもない方が好ましいのだ」
こういう結論が、区体論では生じる。
なお、現代の数学では、選択公理の位置づけははっきりしない。
「選択公理があると、数学が現実の世界には一致しない(齟齬する・食い違う)ようになるので、困ったことになる」
「選択公理がないと、重要な定理が証明できないので、とても困ったことになる」
「可算選択公理があると、すべてがうまく行くが、可算選択公理をうまく公理として導入できない」(可算だけに絞るのは不自然すぎるので公理としての資格がない。)
( 参考 → Wikipedia 「選択公理」 )
区体論では、可算選択公理が自然に導入されるので、そこでは、現代数学のすべてと等価な数学を構築できて、しかも、美しい理論ができる。……ただし、違うのは「美しさ」ないし「表現法」「発想法」だけであって、結果は実質的に等価である。
「美しい理論こそ真実だ」というのが区体論の立場だが、しかし、そういう発想は、現代の数学の世界では、なかなか認められないのである。「同じことを結論するのに何だって別の体系が必要なのだ? 面倒臭いだけだから、そんな余計なものは考慮するに値しない」と。
また、細かな点(表現・発想)では違いが出るが、その違いを見ると、「現代数学と違うから、それは虚偽だ、トンデモだ」というふうに批判する。
つまり、「同じならば不要、違うならば間違い」というふうに考えるだけで、「同じならば正しいし、違うならば不要でない」というふうには考えない。かくて異論を全面否定する。つまりは、異論であること自体が、気に食わないわけだ。
だから、前項のキャヴェンディシュも、変人科学者として扱われるわけだ。
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【 注記 】
区体論では、「可算選択公理」は、公理ではなくて定理である。それも、ほとんど証明を必要としない。「他の公理を見ると、その公理から自明」というような1行ぐらいだけで済む。
区体論では、「(一般)選択公理」は、公理の体系外である。それを導入する(導入した特別な公理系をつくる)ことも可能だが、特別な場合以外は、それを導入しない。ゆえに、区体論では、「(一般)選択公理」は成立しない。(ただし、その逆[選択公理の否定]が成立するわけでもない。)
【 追記 】
本項から、何がわかるか? こうだ。
実質的に等価な公理系が二つある。両者は実質的に同等の数学をもたらす。
ただし、一方は、納得の行く結論をもたらすのに、自然な方法だけで済むが、もう一方は、納得の行く結論をもたらすのに、自然な方法だけで済まずに不自然な操作を必要とする。前者は美しい単純な体系であり、後者はごちゃごちゃと入り組んだ複雑な体系である。
比喩的に言えば、前者は正方形を四つ組み合わせて大きな正方形を作るが、後者は複雑なジグソーパズルのような断片をたくさん組み合わせて大きな正方形を作る。
どうしてこういう違いが生じたか? 後者は歴史的に少しずつ建て増ししてきたからだ。最初は小さな断片がわかったのでそれを採用した。次にまた一つ、次にまた一つ、というふうに積み重ねてきた。最後のあたりで、うまくまとめようとして、いろいろと無理な形の断片を追加してきた。ただし、最後に、「選択公理」というピースをはめるところで、問題が生じた。このピースを追加すると、正方形にならずに、形が大きくなりすぎるのだ。かといって、このピースを追加しないと、形が小さくて不足する。ちょうどぴったりとなるための形(可算選択公理)はわかっているのだが、そのためのピースはこの体系には存在しない。仕方なく、「選択公理」というピースを加えてから、部分的にちょん切ることで、何とかうまくツジツマを合わせようとする。しかし、そのような手続き(ピースをちょん切ること)は、数学的な方法論としては不様すぎる。
一方、前者(区体論)は違う。後者(集合論)の結果を知って、最終的な正方形の形を知った。そして、その最終的な形を組み立てるために、ゼロからいっぺんに新たなピースを作り上げた。そのおかげで、ピースが余ることも不足することもなく、完璧な美しい体系ができた。
しかしながら、既存の数学者は、「百年間もこれに慣れてきたんだから今さら捨てることはできない」と言い張って、新しいものは拒絶するのである。……ま、その心情は、わかります。長年連れ添ってきた妻を捨てて、若い美人に走るのは、抵抗がありますからね。人情でしょう。
要するに、数学の世界を支配する根本は、数学的な厳密さではなくて、人情なのである。 (^^);
2006年09月03日
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