2006年08月10日
◆ 外来語表記2
外来語の表記 の続き。
日本語では複数の子音が区別されていない、という見解がある。たとえば、「た行」では三つの子音(『t』『ch』『ts』)が同一行にある、と。
しかしこの認識は正しくない、と私は考える。理由は、下記。 ──
この認識(日本語では複数の子音が区別されていない、という認識)は、英語を「ご主人様」と見なす発想だろう。日本語で発音する限り、三つではなく一つである。いずれも「た」行の子音である。なぜなら、日本人がそう認識しているからだ。
それでも、英語をご主人様と見なすなら、これは三つになる。(上記の見解。)
ただし、英語でなく他の言語(たとえばフランス語や中国語や韓国語)をご主人様と見なすなら、別の区別になるだろう。
たとえば、「ん」は、「n」と「ng」みたいな区別が可能だ。「が」の子音には、鼻濁音とそうでないのとがある。母音にも、フランスふうに鼻濁音にして発音する人もいる。中国語ふうに四声で区別することも可能だ。
さらに言えば、英語をご主人様と見なすにしても、母音を英語ふうに多様に区別することもできる。「あ」には「ae」「∧」や「α」のような発音記号で示される音もあるし、「お」には「o」のほかに「c」を裏返したような発音記号の音もある。また、「i」と「i:」とでは異なる音であることにも注意しなくてはならない。「じ」の子音についでも同様。
これらの母音などを、「英語では異なる音だから日本語でも区別するべし」という英語至上主義で決めるなら、日本語を日本語として書くことは不可能となる。たぶん、ローマ字で書くしかあるまい。最終的には、日本語を英語の一部に取り込んで、英語の一方言と見なすような音韻体系にするしかあるまい。つまり、日本語を、英語に侵略させてしまい、本来の骨格を消滅させるわけだ。そのことによってようやく、日本語は英語の一部として、英語の発音体系に属するようになる。
(そうすれば、英語至上主義者は、満足するのだろう。小泉に似ていますね。プレスリーの真似をして喜ぶ宰相。米国人からは馬鹿にされる。プレスリーの子孫の女性は、小泉首相のパフォーマンスを見て、顔が引きつっていたそうだ。呆れるべきか笑うべきか称えるべきか、というところでしょうか。)
成り立ちから言うと、英語と言うのは、元来、ゲルマン系の言語の方言(ドイツ語系の方言)にすぎない。それにケルト語やロマンス語が流れ込んで変化していったものだ。地理的に言えば、欧州のはずれの島国の、そのまた一部のイングランド地方(ウェールズやスコットランドを除く)だけで使われてきた、ちっぽけな言語である。
ただし、イングランドの流刑者などが、北米大陸に進出して、インディアンを駆逐して侵略に成功し、大量の領土を奪うことに成功した。その結果として、世界的な支配権を確立しただけだ。
とすれば、「侵略者の言語に完全従属するべきだ」「自国の言語の体系を捨てるべきだ」と思うくらいなら、日本が世界征服をした方がマシだろう。そうすれば、日本語を世界中に押しつけることができる。
(でも、それを狙ったらしい戦前の日本は、どうなったかな?)
過去ログ
別に英語への劣等感・従属意識がなくとも、原音主義者(原語の音にカナ表記を近づけようとする人をこう呼びます)の人はいくらでもいると思いますよ。
実際、私がそうです。英語が日本語より優れているなどとは微塵も思いませんし、日本語で他言語の音を完全に再現できるとも思っていませんが、それでもある程度はカナを原音に近づけたいと考えています。
日本人に読みやすければそれでいい、といえばそれまでかもしれませんが、そうやってどんどん適当な「慣用」を許していくと、元がどんな音なのかさっぱり分からないということにもなるでしょう。『聖書』の人名などがそうですね。……まぁ、これは原語を脱格形にしてから更にカナで慣用読みしているからなのですが。
無論、やりすぎるのもどうかとは思います。Unicode にある「ヷ、ヸ、ヹ、ヺ (ウ以外のワ行+゛)」はその好例でしょう。
なお、細かい話ですが
〉 英語と言うのは、元来、ゲルマン系の言語の方言(ドイツ語系の方言)にすぎない。
別に「ゲルマン系言語の共通語・標準語(ドイツ語系の共通・標準語)」があるわけではないので、「ドイツ語系の方言」というのは不自然です。「ゲルマン語派の言語の一つ」くらいでしょう(正確には、「インド = ヨーロッパ語族ゲルマン語派西ゲルマン語群に属す言語の一つ」)。
↓ 参考までに、Wikipedia の外来語表記に関する方針 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%A4%96%E6%9D%A5%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E8%A8%98%E6%B3%95
基本的に、前のコメントで言いたいことは言ったので、簡潔に。
た行の五つの音を、母音を極力発音しないようにして実際に発声してみると、「た」「て」「と」は同じで、「ち」「つ」は舌の使い方が違うのがわかると思います。
少なくとも私は、英語至上主義からではなく、自分で発音してみて三種類になると判断した積りです。
「ん」にも一つの字で四種類の音があるし、言い始めるときりがないのは確かです。
ただ、た行、さ行の件は、五十音表に直交性がない、つまり分類の仕方として正しくないと考えたので取り上げました。
それに対し、「ん」や母音など、複数の音が同一の字に割り当てられているのは分類するかしないかの違いで、上記とは別の話なので、取り上げませんでした。
そのような次第です。
「ある程度」というのがどのくらいかが問題となります。
日本語の音韻体系の範囲内、というのであれば、問題ありません。日本語の一部としての外来語として扱われます。
日本語の音韻体系の範囲外、というのであれば、問題があります。それは日本語を歪めることであり、英語(など)を優先するためには日本語を崩壊させてしまえ、ということです。こういう「日本語破壊主義」のことを、「英語至上主義」と呼びました。
こういう人にとっては、日本語などはどうでもよくて、日本語はただの発音記号にすぎないのでしょう。だから平気で、日本語の音韻体系を崩すようなことを主張するのです。
ま、いくら主張しても、実現はできませんけどね。LとRの区別をせよ、と主張しても無理なのと同様。
──
> 自分で発音してみて三種類になる
これは英語を基本とした分類法にとらわれているからです。
そもそも「パターン認識とは何か?」ということを考えましょう。虹の無限の色を、七色に分類するように、人間の無限の母音を、数種類に分類します。その分類の仕方は、それぞれの言語の音韻体系ごとに異なります。五通りだったり、六通りだったり、七通りだったり。十通りだったり。……十通りの区別をすると、「五通りの音韻体系では、複数の母音を同一の音で表しているので不正確だ」と思い込みます。いわば、「藤色と紫を同じ言葉で分類するのは不正確だ」と思い込むように。
人間の発音する音は、元々は無限なのです。各個人ごとに異なるし、そのときそのときによっても異なります。ただし、パターン認識することによって、何種類かに分類します。その分類の仕方は、どう決まるか? 各言語に応じて、脳が形成されるときに決まります。
「自分で発音してみて三種類になる」というのは、英語ふうのパターン認識を取っているからそう感じるだけです。日本語の普通の人なら、「一種類の音だ」と感じるはずです。現実には「ち」「つ」などで異なる音となりますが、どれとどれが異なりどれとどれが同じになるかは、あくまで人間のパターン認識の仕方の問題です。音自体に根源的な区別があるわけではありません。
日本語でも「し」と「ひ」を区別しない人がいます。(一種の放言で。)……この場合、この人は頭が狂っていて正常な認識ができないのではなくて、双方を同じ音だとパターン認識しているだけのことです。その人の音韻体系では正常な認識をしているからこそ、「し」と「ひ」を区別しないのです。
パターン認識は、対象そのものの性質によって規定されるのではなく、認識する人間の脳によって(社会的には文化によって)規定されます。このことを、上記の虹の例を参考にして、よく考えてみてください。
普通の人は、「た」と「ち」(『t』と『ch』)を別の音と感じている筈です。何故なら、日本語に「ちゃ行」(という呼び方が正しいかどうかわかりませんが)が存在するからです。同様に、「さ」「し」(『s』『sh』)も分けられています。「しゃ行」があるのがその根拠です。
つまり、日本語では元々それらを区別していたのです。
それを前提として、「ち」は「ちゃ行い段」に、「し」は「しゃ行い段」に分類し直すべきだと考えているわけです。
残念ながら、伝統的には「つぁ行」は無いようですが、最近では外来語の表記に使われることがあるようですね。
>「た」と「ち」(『t』と『ch』)
>「さ」「し」(『s』『sh』)も分けられています。「しゃ行」があるのがその根拠です。
> つまり、日本語では元々それらを区別していたのです。
なるほど。もっともらしい。これが根拠でしたか。
ただし、「さ」と「しゃ」が区別されるからという理由で、(『s』『sh』)が区別できる、ということが成立するには、次のことが必要です。
「日本語は、子音と母音を分けて理解される」 …… (*)
残念ながら、この前提が成立しません。ゆえに、(『s』『sh』)(『t』と『ch』)の区別もまた成立しません。「さ」と「しゃ」が区別されるということと、(『s』『sh』)が区別できるということは、まったく別のことなのです。
なお、もし上の前提(*)が成立するなら、おっしゃるとおりになりますが。
結局、「あ」の段では「さ」と「しゃ」が区別されますが、「い」の段では「si」「shi」は区別されません。東北か九州の人が方言ふうの発音で、 si の音で発音しても、たいていの東京人は「shi」の発音の「し」と同一音として理解するはずです。
ここでは、日本語の音が「子音+母音」で「1音」というふうに理解されていることに注意してください。
──
si,shi および si:,shi: (: は長音記号)は、どちらも通常、区別はされません。よく聞けば区別されるでしょうが、それは英語風の発音になれている人だけであって、英語風の発音になれていない高齢者や田舎のおばちゃんなどには区別できません。
実際、 sea や seat を発音するとき、 si: や si:t というふうに発音しないで shi: や shi:t というふうに発音する人がとても多い。正しく発音できないというより、本人はそれで正しく発音しているつもりなのです。
( 同様に、 this, edge , zip の「ジ」を区別できる人もごく少数でしょう。)
> 「あ」の段では「さ」と「しゃ」が区別されますが、「い」の段では「si」「shi」は区別されません。
「さ」と「しゃ」は区別されますが、「し」(私の言い方では「しゃ行い段」の音『shi』)に対して「さ行い段」の音『si』は、区別されるされない以前にそもそも存在しません。だから、「すぃ」などという表記が必要になったのです。それが前述の「「し」は「しゃ行い段」に分類し直すべき」の理由です。
さて、そもそもこの話は、外来語をどのように表記するかという件でした。
最初のコメントに書いたように、大本の問題である表記の仕方については特に異論無しとしました。
が、そのときについでのように書いた五十音表の話がこれまで続いているわけです。
ここで、南堂さんの「日本語は、子音と母音を分けて理解される」という前提条件についてです。
一般に日本語では、子音(あれば)と母音を組にして扱います。分ける必要は通常ありません。
しかし、五十音表は、それらの文字を、行を同一子音で、段を同一母音で統一して並べたものです。
つまり、この表を論ずる(今まさにしていること)ときは、子音と母音を分割する見方が必要になります。
そのように見たとき、私は、前述のように「五十音表に直交性がない、つまり分類の仕方として正しくない」と考えたわけです。
理由は、これも前述のように「し」の子音は「さ行」の『s』ではなく「しゃ行」の『sh』だからです。他も同様。
つまり、子音と母音を分けて考える必要のある議論をしているから分けている。今の一連の話の中では、南堂さんの挙げた前提が成立しているのです。
管理人さんのおっしゃるように、日本語の音韻体系には齟齬はないですね。あ行〜わ行、および濁音・半濁音の各行が母音にしたがって五段に整理され(中には欠けているところもあるが)、拗音を含む各行が三段に整理されていて、音韻体系としてはすっきりしています。
音韻と具体的な音声に違いがあるのは当然ですし、これは日本語に限ったものではありません。それに表音文字は音韻を表記するためのものですから、具体的な音声の分類と矛盾するものであっても一向に構わないわけです。要は音韻体系と表音文字の表記のきまり(記法)とが矛盾していなければそれがもっとも理想的であって、日本語はその条件を満たしています。英語は音韻体系と表記法がすっきりと統一されていないので初学者が苦労します。
日本語を表記する公式の表音文字にはローマ字も含まれますが、日本語の音韻体系に矛盾することなく表記するには訓令式がもっとも合理的であり、ヘボン式は無用な混乱を招くだけです。
>つまり、この表を論ずる(今まさにしていること)ときは、子音と母音を分割する見方が必要になります。
この認識が根本的に狂っているようですね。
まず、「さ」行とは、何か? 私は、次のように考えます。
「日本語の『さしすせそ』のこと」
こう考えれば、普通に物事を解釈できます。
ところが、そちらのおっしゃるとおりにすると、
「日本語の『さ』行には、『い』の段が欠けていて、『さ*すせそ』となる。かわりに、『しゃ』行が転入する」
というふうになります。これでは規則性も何もあったもんではない。どうしてこのような異常なことが起こるのかを説明できません。
それよりは、次のように考えた方が好都合です。
「古代の si 音がいつのまにか、発音しやすい shi に変わった。なぜなら si と shi は区別されないから、 si を shi に置き換えても混乱がなかった。ほとんど自覚されないうちに、自然に発音がずれていった」
>「五十音表に直交性がない、つまり分類の仕方として正しくない」と考えたわけです。
> 理由は、これも前述のように「し」の子音は「さ行」の『s』ではなく「しゃ行」の『sh』だからです。他も同様。
これは本末転倒です。むしろ論理を逆にして、次のように考えるべきでしょう。
「五十音表には直交性がある、つまり、分類の仕方として正しい。もちろん、前述のように、「し」の子音としは、『s』と『sh』は区別されない。他も同様。」
そもそも、「し」の子音なんてものは、ないんですよ。そういう発想は、西洋風の(英語至上主義などの)発想です。日本語にあるのは「さしすせそ」であって、「sa,si-shi,su,se,so」ではありません。そういうふうにローマ字表記をするのは、本来の日本語の表記ではありません。分類としても間違っています。なぜなら、日本語では、子音を単独で発音しないからです。
(ついでに言えば、そのせいで、英語を子音単独で発音しない人が多い。「sa」を「さ」と発音してしまう人が多い。本当は「s,a」というふうに区別して発音するべきなのだが。……その意味で、「さ」を「sa」と書くのは不正確です。西洋の「sa」は1音ではなく、異なる2音の連続であるからです。)
改めて読み直したところ、シカゴ・ブルースさんのご趣旨に全面的に賛同します。
やはり、言葉について深く考える人は、誰もが同じ結論にたどり着くようですね。
(シカゴ・ブルースさんのサイトはざっと眺めました。)
格助詞「は」や「へ」は音韻 /wa/, /e/を持つ特殊例として理解すべきで、わ行の音韻 /wa/ やあ行の音韻 /e/ とは区別すべきだろうと思います。ですから、訓令式表記の "wa", "e" は不合理だと私は思っています。同様に格助詞「を」の音韻は /wo/ ですから訓令式の "o" は不合理でしょう。その点では、日本語IMEのローマ字入力の方が合理的です(音韻体系との齟齬がないので頭が混乱しない)。
> 「日本語の『さしすせそ』のこと」
この五音が何故一纏まりになったか。それらの共通点は何か。
> 古代の si 音がいつのまにか、発音しやすい shi に変わった
可能性として否定しません。
しかし、それの意味するところは、
「過去、五十音表には直交性があったが、音が変化したため、現在の発音ではそれが損なわれている」
ということになります。まあ、そんな過去に五十音表があったかという突っ込みはなしということで。
> 『い』の段が欠けていて〜規則性も何もあったもんではない
「さ行」のうち「い段」だけが変化したという規則性のないことが起きたなら、規則性のないものになってしまったのは当然のことでしょう。
で、現在の音で分類すると前述のようになる。
そういうことなのではないでしょうか。
この「現在の音で」というのが根本的に英語至上主義の発想なのです。
実際には「s,shi」の区別をするのは英語式の発想にすぎない。英語式に発想で区別すると、「s,shi」の区別ができる、というだけのことです。
英語式の発想によれば、「さ、し、す、せ、そ」の子音の発音は、「し」だけが「sh」で他がすべて同じ「s」だ、となります。しかし、日本語の発想によれば、すべては同一の子音です。また、科学的に分析するなら、「さ、し、す、せ、そ」の子音はすべて異なります。「し」と、「さ、す、せ、そ」の子音を比べると、後者は同一の子音をもつのではなくて、かなり似ている子音である、というに過ぎません。図で表示すると、次のようなものかな。
し せ、さ、そ、 す
─────────────────────── 座標軸
英語では、「さ、す、せ、そ」の子音を区別できないので、すべて同一の「s」で示します。しかし、これらの子音を区別する体系があれば、異なる子音で示すことも可能です。
たとえば、「す」の子音を β で示すなら、「sa,shi,βu,se,so」となります。また、「そ」の子音を ∫ で示すなら、「sa,shi,βu,se,∫o」となります。
「し」と、「さ、す、せ、そ」で子音を区別するのは、あくまで印欧語の区別の仕方に過ぎません。
だいたい、「発音が違うから異なる文字で」なんて言い出したら、英語のさまざまな母音のために、独自の記号が必要になります。そんなことはメチャクチャでしょう。
一般に、言語には、次の原則があります。
「発音は時代的にかなり変化するが、文字はほとんど変化しない」
(シカゴ・ブルースさんの話も参照。)
日本語では「さ」行の「さしすせそ」は古来、一つの行の一つの子音として認識されてきました。ただし、その現実の音は、時代的経過のなかで、発音しやすい音に変化してきました。
今、「し」の音を「shi」だから別の扱いをせよ、といいだしたら、将来、日本語の発音がちょっとズレたときに、文字遣いを変更しなくてはなりません。
しかし、日本語の文字は、発音記号ではないのです。言語としての文字なのです。言語としての文字は、発音がどう変化しようと、不変であるべきなのです。そのせいで、現実の発音と伝統的な文字とが、ズレてしまうことがあります。しかしそれは仕方のないことです。文字は発音記号ではないのですから。
外来語に独特の仮名遣いをせよ、と主張する人の多くは、「カタカナは英語を表記するための発音記号にすぎない」というふうに考えています。「英語がご主人様で、日本語はその下僕にすぎない」というふうに。
違います。カタカナは英語の発音記号ではない。日本語の文字なのです。日本の中では、日本語が英語に合わせて変化するべきなのではなく、英語が日本語に合わせて変化するべきなのです。
外来語とは、日本語の一部なのであって、英語の一部なのではありません。日本語は、英語圏の植民地として、なるべくご主人様の英語に似せるべきなのではありません。
逆に、英語は日本語圏に入ったなら、「郷には入らば郷に従え」で、日本語ふうの発音になるべきなのです。そういう変形がいやなら、英語はあくまで英語として話されるべきであって、日本語として話されるべきではないのです。
ともあれ、「英語が日本語としてきれいに話されるように、日本語そのものを変形してしまえ」というのでは、主客転倒でしょう。
比喩的に言えば、米国人が日本で住みやすくするように、日本の伝統的な生活様式をすべて西洋式に変更してしまうようなものです。強制的に。たとえば、畳や障子や襖の使用を一切禁止する、とか。日本人の肌の色が黄色なのが気に食わないので、全員に白いお化粧を強要する、とか。そうすれば米国人は日本に来ても違和感なく過ごすことができるでしょう。しかし、それを喜んで「日本が米国式になった」と喜ぶのは、植民地根性の下僕だけです。(ま、小泉みたいな人なら、そうしたがるでしょうけどね。プレスリーの真似をしたりして。本人は「米国式だぞ」と得意がっている。日本人らしさを捨てた恥知らず。)
まず、「さ行」「しゃ行」の区別は日本語で行われています(逆にそれ以上細かくは分類していません)。
そして、先に言われたように「し」が『si』から『shi』に変化したのなら、それは伝統的な日本語の範囲内でも区別されるような変化であると考えます。
> 「そ」の子音を ∫ で示すなら、
脇にそれますが、それは、発音記号の表記法とまるっきり違いますね。混乱の元だと思います。
> 「発音が違うから異なる文字で」なんて言い出したら、英語のさまざまな母音のために、独自の記号が必要になります。そんなことはメチャクチャでしょう。
そんなことは言ってませんよ。複数の音を一文字で表す「ん」のような文字も、分割しろとは言いませんでした(前述)。
子音、母音ともに日本語にあるものの範囲内で話を進めてきましたし、五十音表の件でも、表に現在存在する行、段だけに限ってきました。
唯一の例外は、「つぁ行」でしょうか。ただ、この行は今後必要になるかも知れません。例えば、「そんなやつぁ」とかいう言い方が標準的になって来たら。
「今、「し」の音を〜」からの二段落、これは確かにそうですね。音の(特に今後の)変化に関してはあまり考慮していませんでした。
音が変わる度に再構成するのは好ましくないと私も思います。
> 外来語に独特の仮名遣いをせよ、と主張する人の多くは、「カタカナは英語を表記するための発音記号にすぎない」というふうに考えています。
「ための」と言っているわけではなく、日本の文字を使って日本語にない音を表記するとき、少しでも原音に近い表記法はないかと考えているのではないでしょうか。個人的には、それはそれで一つの立場として、認められないでもありません。
まあ、南堂さんのような考え方もありかなとは思いますが、私としてはどちらでも良い。
私が気にするとすると、どうでもいいから表記を統一できないかな、という点ですね。
これは思想とか主義主張ではなく、便宜的な問題とでもいいましょうか。一例をあげると、ウェブで検索をするとき、これは「ブ」だろうか「ヴ」だろうかと悩むときがあります。勿論、他の(ネット以外の)場面でも問題になることがあるでしょう。
表記の揺れについては、goo が対策しています。たぶん、どっちも検索されるんじゃないかな。そのようなオプションがあるのかもしれない。詳細は調べていないので不明。
/s/ と /sh/ の音を区別するのがインド = ヨーロッパ語族の言語に限った話なのかどうかは知りませんが、今は日本語でも、五十音を【母音+子音】でとらえています。少なくとも音声学の範囲内ではそうです。
現代の言語学が欧米主導である影響なので、日本語的ではない日本語の捉え方かもしれませんが。
それから β (ベータ)ですが、これはドイツ語のエスツェットの代用でしょうか? だとしてもIPAにエスツェットはありませんが。
‐‐‐
>> 「発音が違うから異なる文字で」なんて言い出したら、英語のさまざまな母音のために、
>> 独自の記号が必要になります。そんなことはメチャクチャでしょう。
> そんなことは言ってませんよ。
「個人的には、このような姑息な手段ではなく、新しい文字を作ってしまえば良かったのではないかと思います。」
「ただ、長期的には、新しい文字の作成や五十音表の整理などがされるといいな、と思っています。」
というコメントは、どうなさるおつもりで?
そこまで深く考えたことはありませんでしたが、なるほどと思いました。
しかしながら、五十音表は、日本語を表現するには過不足ありませんが、外来語の表記を迫られた時、どうしようも無くなったはずです。
たとえば、partyを何とか近い表記にできないかと思い、「ぱーちー」でも「ぱーてー」でもあまりに遠すぎるため、やむなく、あらたに「ティ」という表記をつくりだした。
「フェ」とか「シェ」とか「トゥ」とかも同様でしょう。
これらは結局、「日本語に無い音」を無理矢理にでも表現するために、仕方なくつくられたものであるはずです。
よって、これらを元の五十音表に組み込もうとすると無理が出るのは当然ですし、やったところで無意味でしょう。
最初の議論「スィ」については、「これ以上、本来の日本語に無かった表記を追加すべきかどうか」という問題になると思います。
そして、私は、「もう必要ない。今あるものでも多すぎる」と考えです。
失礼しました。自分の言ったことなのにすっかり忘れてました。おわびします。
ただ、言い訳をさせていただけば、この引用部の文脈/理由で新しい文字を、と言ったわけではないということ、前のコメントをご覧下さればわかることと思います。
つまり、英語などの外から入ってくる音にいちいち文字を作れというのではなく、日本語を表す五十音表の抜けた部分(私の言い方では、「さ行い段」から「し」が抜けてしまったあとの『si』など)を補う、表の整理、補完をしたいという意味です。外来語の表記の話ではありますが、もともと日本語表記のあるべき音であるという主張です。
……「ヴ」の話を除けば。
これに関しては、私もきちんと頭が整理されていない状態で書いていたということですね。反省。
>これらを元の五十音表に組み込もうとすると無理が出るのは当然ですし、やったところで無意味でしょう。
無意味どころか有害です。
これに関して、水響さんに対するコメントを書き始めたのですが長くなってしまったので自分の掲示板に載せました。
『濫觴』掲示板 No.317投稿「外来語の原音重視表記」
http://otd12.jbbs.livedoor.jp/okr_ranshoubbs/bbs_plain
とても良い解説ですね。私の舌足らずなところを、専門的な知識でうまく説明してくれています。
関心のあるみなさんもご一読することをお勧めします。
どこに書こうかと悩んだのですが、発端、進展全てここであること、シカゴ・ブルースさん自身最初はここに書こうとされたことなどから、こちらにすることにしました。
場所をお借りすること、ご容赦願います。 > 南堂さん
と言っても、前のコメントの繰り返しもしくは書き直しになってしまいますが。
私の考えは、以下の通りです。
表記等の現状には違和感を持っており、長期的(百年〜数百年)には、文字の追加等含めて解決すべきであると希望します。
ただし、ここでの議論で気付かされたのですが、そのような時間が経ったらまた「現状」が変わってしまうでしょう。その度に文字やその分類体系を変更するのは好ましくありません。
そのため今は、結局は成り行きにまかせるしかないのではないかと考えています。
あと、念のため繰り返しますが、上記は外来語の表記のためではありません。発端は外来語の表記に関する意見へのコメントでしたが、純粋に日本語表記の整理に関するいわば傍論です。