2006年07月20日

◆ 進化の番組

 NHKスペシャルで、「恐竜 VS ほ乳類 1億5千万年の戦い」という番組があった。(7月16〜17日。2回連続)

http://www.nhk.or.jp/special/onair/060716.html ──

 この番組は、きれいな CG などもあって、なかなか興味深い話もあったが、基本的には、これは最初から最後まで、誤解だらけの間違い番組だ、と言えるだろう。
 ま、「見解の違い」ということで許容されるのかもしれないが、まともな頭で考えればデタラメなことばかりだ。以下で、専門的観点から、間違いを指摘する。

 (1) 競争
 「哺乳類は恐竜と競争ながら進化した。恐竜との競争とのおかげで哺乳類はかくも進化した」
 というのが、番組全体の趣旨だ。
 この趣旨の前提となるのは、「競争が進化をもたらす」という原理だ。しかし、この原理が、根源的におかしい。これはあくまで一つの学説であって、実証されたわけでも何でもない。むしろ、これとは逆の原理が、あれこれと実証されている。(化石的事実などから。)
 成立しそうもない原理(仮説)を大前提としているせいで、番組全体の趣旨がおかしくなってしまっている。

 特に問題な点を示そう。上記の原理(仮説)にこだわるあまり、「哺乳類は恐竜と競争していた」というのが、番組の趣旨だ。しかし、これは、まったく成立しない。なぜなら、番組中でも繰り返し述べていたとおり、恐竜と哺乳類は原則として別々の領域に暮らしていたからだ。前者は昼、後者は夜。両者の生活圏は、重ならない。
 昼間に行動する恐竜は、昼間は穴や物陰で眠っている哺乳類を攻撃しない。
 夜間に行動する哺乳類は、巨大な恐竜を攻撃する手段をもたない。
 わかりやすく言おう。現在の海には、鯨もサメもマグロもイワシもエイもヒトデもミジンコもいるが、別に、競争しているわけではない。
 要するに、「進化があったのは、たがいに競争していたからだ」と思い込むのは、とんだ勘違いだ。思い込みゆえの勘違い。

 (2) 小競り合い
 番組で、「昼の領域に進出した哺乳類が、羽毛恐竜の餌食になった」という例が示されていた。
 なるほど、そういうことはありうる。だが、それはあくまで、前線としての境界領域に限られたことだ。つまり、あくまで例外的なことだ。
 境界領域にあいては、例外的なことが起こることはある。昼間の領域に進出しかけた哺乳類が、恐竜と小競り合いをすることはある。しかしそれは、領域の境界における小競り合いだ。恐竜全体と哺乳類全体の競争ではなくて、境界領域だけにおける小競り合いにすぎない。小さな一部分のことであって、全体のことではない。
 比喩的に言おう。ソ連と米国は境界領域で小競り合いをすることはあっても、同じ領域で全面戦争をしたことはない。それと同様だ。恐竜と哺乳類が境界領域で小競り合いをしたとしても、同じ領域で競争したことにはならない。両者は競争関係にはなく、棲み分けをしていたのだ。……ゆえに、番組全体の趣旨は、間違っている。
 この番組の言うことは、比喩的には、こうだ。
 「ベトナムで米国の手先とソ連の手先が戦った。これは米国とソ連が全面的に大戦争を行なったということである。この大戦争のおかげで、米国は圧倒的に進化することができたのだ」
 馬鹿げた話だ。境界領域における小競り合いは、全面戦争ではない。また、全面戦争が進化をもたらす、ということもない。

 (3) 進化と競争
 上記のような発想が起こるのは、「競争が進化をもたらす」という勝手な思い込みに毒された結果である。しかし、「競争が進化をもたらす」というのは、まったく事実に反する。
 恐竜と哺乳類は、境界領域でなら、競争があっただろう。とすれば、境界領域では、どちらも急速に進化していいはずだ。しかし、現実には、そうならなかった。むしろ、逆だった。
 哺乳類は、恐竜の天下にあって、強い淘汰圧にさらされていた。日中の領域に進出しようとした種は、ことごとく恐竜の餌食になった。こういう強い淘汰圧にさらされているときには、競争は激しいが、それゆえ、進化は少なかった。
 ところが、その後、恐竜が絶滅した。そのとたん、哺乳類は「適応放散」という形で、急激に進化した。競争があったときではなく、競争がなかったときに、進化は起こる。── このことは、進化の基本原理だ。あらゆる進化の歴史に共通することだ。たとえば、魚類から両生類への進化は、競争が最も激しいところでなされたのではなく、競争が最も弱いところ(水辺)でなされたのだ。
 番組は進化の原理を根源的に間違ってとらえている。

 (4) 聴覚
 番組では、「哺乳類は、夜行性になったおかげで聴覚器官が発達したから、脳が進化した」というふうに述べている。
 しかしこれは、ありえない。
 まず、この発想の原理となるのは、「環境が進化をもたらす」ということだ。この原理に基づいて、「夜間領域に入ったから、その領域に適して進化した」というわけだ。
 しかし、「環境に適応する形でうまく進化が起こる」というのは、ラマルキズムである。非科学の極み。
 たとえば、人間が水に入ったからといって、人間が半魚人になるわけがない。つまり、「環境が進化をもたらす」ということは、ありえない。「半魚人は水中で暮らしやすい」ということはできるが、「人間が新しい環境に入ったから新しい環境に適応する形で進化する」ということはありえない。
 「哺乳類は、夜行性になったおかげで聴覚器官が発達した」ということは、ありえない。まして、「夜行性になったおかげで脳が発達した」ということも、ありえない。では、正しくは? 「脳の発達があったから、夜行性になり得た」ということだ。
 詳しい理由は省略するが、これが正解だ。「脳の発達」が先にある。「どこかの領域に進出すれば、ちょうどうまく脳が発達する」なんて思うのは、ご都合主義にすぎない。それが証拠に、夜行性のフクロウや洞穴のコウモリは、聴覚が発達しても、ちっとも脳が発達しない。
 番組の意見は、科学性を欠いた、ご都合主義の強弁にすぎない。

 (5) 羽毛恐竜
 番組では、「ティラノサウルスと羽毛恐竜の歯の化石がそっくりだ。ゆえにほぼ同種の生物だ」と述べている。これには異論がない。ただし、そのあとで、番組はこう推論する。
 「ティラノサウルスは、子供時代には、羽毛を生やしていたのだろう」
 こういうことは、進化の理屈からして、ありえない。羽毛と固い角質層は、遺伝子的には同部位である。この選択は、二者択一だ。羽毛ならば羽毛、角質層ならば角質層。遺伝子はどちらか一方だけを選択する。
 比喩的に言おう。鳥の翼と、動物の前脚は、遺伝子的には相同である。この選択は、どちらか一方だけだ。「子供のときには翼で、大人になったら前脚になる」ということはありえない。「子供のときには前脚で、大人になったら翼になる」ということもありえない。二者択一なのだ。── というわけで、
 「ティラノサウルスは、子供時代には、羽毛を生やしていたのだろう」
 という仮説は、まったく成立するはずがない。では、正しくは? 
 「ティラノサウルスと羽毛恐竜は、同じ仲間ではあるが、共通の祖先から分かれた別の種にすぎない」
 ということだけだ。さらに強く言うなら、こうだ。
 「羽毛の有無というのは、同じ恐竜の仲間でも有無の差があるほどであって、進化の面では大した違いではない。」
 通常、羽毛の有無というのは、鳥類への進化の過程を大幅に進む大々的な進化だと見なされる。しかし、そんなことはないのだ。羽毛の有無というのは、角質層の遺伝子の種類がちょっと変わったとかいうぐらいのことであって、大々的な進化でも何でもない。
 比喩的に言うと、人間と猿を比べたとき、人間は猿の仲間で唯一、無毛である。つまり、「無毛の猿」( naked ape :邦訳で「裸の猿」)である。では、無毛であることは、人間を特徴づける、大々的な進化であったか? 「しかり」とたいていの進化論者は答える。しかし私は、「ノー」と答える。「そんなのは発毛の遺伝子がちょっと違っただけのことだ。人間にだって毛深い人はたくさんいるが、だからといって猿に戻ってしまったわけではない。毛の有無なんて、大した問題ではない」
 要するに、「羽毛恐竜に羽毛があるというのは、決定的に重要な事柄ではない」ということだ。それだけのことだ。もちろん、「ティラノサウルスは鳥類の仲間だ」というふうな形で、大騒ぎをすることもないのだ。
 なるほど、ティラノサウルスと鳥類には、近縁性がある。しかしその近縁性は、羽毛には何ら関係がなく、歯の骨などを見てこそ、重要性がわかるのだ。羽毛なんて、どうでもいいのだ。

 (6) 親子連携
 番組では、「ティラノサウルスは、親子で連携して狩りをする(子が追い込んで親が噛みつく)」という仮説を紹介していた。CGつき。
 「身軽な子供が、草食恐竜を追いつめたあと、重たい親のティラノサウルスが待ちかまえていて、草食恐竜に噛みついて、倒したのだろう。つまり、親と子との連携で、狩りをしていたのだろう」
 これは荒唐無稽と言うしかない。個体間の連携で狩りをするなんて、人間さえ言葉なしには容易にはできないことだ。
 なるほど、ライオンならば、似たことはやるが、あくまで同じ草原にいる個体同士で、勝手に個別行動を取っているだけだ。「あいつがあそこで待ち伏せするなら、おれはこっちで待ち伏せする方が得だな」と思って、個体の判断で、別のところに待ち構えているだけだ。別に、個体同士で意思を通じて連携しているわけではない。
 番組では、親と子とが作戦を練って、連携の狩りをしている、というふうになっている。ティラノサウルスは人間並みの知恵を持っていた、というわけだ。馬鹿馬鹿しくて、話にならない。
 この時代の恐竜は、恒温性がなく、変温性だった。とすれば、脳の発達は、鳥類以下であり、亀やワニ並みであった、と推定できる。その程度の脳の持主である恐竜が、人間並みの知能をもつはずがない。
 番組は、映画のジュラシックパークの見過ぎで、恐竜をゴジラのように知的な存在だと思い込みすぎている。「爬虫類の恐竜は鳥類よりもはるかに脳が発達していなかった」という事実を忘れている。


 まとめ。
 番組では、さまざまな間違いを犯している。そして、その根源にあるのは、「進化とは何か」ということについての誤解だ。
 「進化とは環境に適応して肉体器官が変形することだ」
 これが番組の基本的な発想だ。しかしこの発想は、根源的に間違っている。「環境への適応」というのを金科玉条のように思い込んでいる。
 そういうのが進化であるならば、現在の環境における各生物は、もっとも進化した生物だ。たとえば、人間は水中で暮らせないが、魚類やサンショウウオやプランクトンは水中で暮らせる。これらの生物は、その環境に応じて最適化している。とすれば、最も進化した生物だ、ということになる。では、人間が水中に入ってサンショウウオになることは、進化だろうか? 
 また、何らかの陸上生物が水中に入って鯨になることが進化であるとしたら、陸上生物のまま残っているライオンや猫は進化していないのだろうか? 
 いずれも、違う。環境への適応は、「進化の種類が違う」というだけのことであって、「進化の程度を高める」ということにはならないのだ。
 はっきり言えば、環境への適応と、進化の程度とは、何の関係もない。進化の程度を縦で示して、進化の種類を横で示すツリー図を書くならば、環境への適応は、横方向(進化の種類)に影響するだけであって、縦方向(進化の程度)には影響しない。
 なのに、番組は、「環境が進化をもたらす」と主張している。ここに根源的な勘違いがある。
 
 では、番組はなぜ、そういう馬鹿げた勘違いをしたのか? 実は、根源的には、次の発想がある。
 「生物の目的は、子孫を増やすことである」
 これが根源的に間違っている。仮にこれが正しいのであれば、人間や猿なんていうのは個体数の少ない低度な種であり、逆に、コウモリやネズミは個体数が圧倒的に多い高度な種である、というふうになる。さらには、昆虫や魚類はもっと個体数が多いし、プランクトン類はもっと多いし、菌類やウィルスはもっと個体数が多い。
 要するに、子孫を増やすのが目的であれば、人間はコウモリやネズミを経て、プランクトンになり、さらには菌類やウィルスになってしまえばいいのだ。

 現代の進化論は、生物の目的を、根源的に間違えて理解している。そのせいで、「人間がプランクトンになることが進化なのだ」というふうな結論を出す論理を取ってしまう。
 根源が間違いであれば、その上に構築された理論はすべて砂上の楼閣となるのだ。

( ※ じゃ、「本当の根源は何か?」という質問には、ここでは答えません。他人の欠点を指摘するのは短い文書で済むが、正しい真実を示すには短い文書では足りない。ここにはとうてい、書き切れません。断片的に書くこともできません。大きな体系の一部だけを切り取っても、真実とはならないので。)

 参考情報:
 クラス進化論
 http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/index.htm
posted by 管理人 at 20:59 | Comment(7) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
常々思うのですが、日本語の「進化」という言葉が誤解を誘導しがちですね。【進】という字には何かしらポジティブなイメージがつきまといます。実際には進化には高-低、善-悪といった価値的なベクトルは無いと思うのですが。あるのは「変化」だけですね。英語の「evolve」は「変転する」というような語源だと思うのですが。
もちろん、進化にはある種の「方向性」はあると思いますが。(原型となる種のゲノム[の/に/から]遺伝子が[変化する/付け加わる/失われる]というような意味で。)
Posted by 猪口雅彦 at 2006年07月20日 22:36
いや、実は、ポジティブな方向性があるんですよ。それが何であるかを知ることが、進化の本質を知ることになります。

理系用語で言えば、「エントロピーの減少」というような方向性です。それは「生物」という存在の本質とも関係します。

「エントロピーの減少」をともなわないただの「変化」は、進化の本質ではない、というのが私の見解です。また、「エントロピーの減少」をともなわないどころか、「エントロピーの増加」をともなうような方向の「環境への適応」というものを、私は「進化」でなく「退化」と見なします。

 ネット社会に適応するためにどんどん白痴化していく、なんていうのは、私は「すばらしい」とは思いませんね。

 本項での眼目は、「自由放任と自然淘汰で進化が起こる」という俗説の否定。それによって「環境への適応」が起こることはあるが、そういう変化を「進化」とは認めない。

 人々が白痴化していくときには、一人だけでも頑張って、白痴化を免れたいものです。
Posted by 管理人 at 2006年07月20日 23:15
なるほど。エントロピーの減少の方向性が進化の本質であるという表現は納得できます。より多くの自由エネルギーの獲得の方向性とも言えましょうか。
しかし、その進化の方向性は“予め決まった”必然なのでしょうか。そのように変化なし得たものが残った結果なのでしょうか。そのように変化したものが必然的に残った(残りやすかった)と言えば同じことかもしれませんが。
漠然と感じていたことを改めて落ち着いて考えてみるのも良いものです。
Posted by 猪口雅彦 at 2006年07月20日 23:33
全恐竜が温血だったと考えてるのはロバート・バッカー他少数ですが、その他の学者も小型獣脚類は温血であった可能性が高く、大型は慣性恒温性という形で体温を保っていたのではないかと考えてます。
また現生の爬虫類はみな横から手足が出ますが
恐竜は下から出る、羽毛が生えている、二心房二心室式の心臓等、爬虫類ではなくむしろ鳥類に近い生き物ではないかと言われてます。
Posted by 久保田透 at 2006年07月21日 19:32
私も、この番組は楽しく見ました。
 それだけです、この手の物は
楽しければそれだけで良いと思います。
真実である必要はありません。
実際に見たわけでないからこそ想像が
膨らんでいくんでしょう。
Posted by mugu at 2006年07月23日 13:53
muguさんへ
NHKの番組が放送した進化論のほかにもいろいろな説があることを知っている知能レベルの高い人は、番組の内容に突っ込みを入れながら楽しむことができると思います。

しかし、世の中にはテレビ番組の内容をそのまま鵜呑みにしてしまう人もいる(こちらのほうが多数を占めているかも?)わけで、番組の内容に間違いがある、他にもこんな説があると指摘することも知識人には必要なことではないでしょうか?

知識人の知的誠実さについては私のつたない文章よりも
http://tod.cocolog-nifty.com/diary/cat5821112/index.html
を読んで頂ければより深く理解出ると思います。
Posted by TRIPLE at 2006年07月23日 22:27
初めまして&コメント失礼します。
管理人さんが提示されたクラス進化論はとても面白いですね。
ネオダーウィニズムの破綻点や進化の不連続など,なるほどと思うことばかりです。
私は素人なので詳細な議論はとてもできませんが,ポスト進化理論としてみると,池田清彦さんの「構造主義進化論」と共通する点が多いように感じました。
Posted by 良寛 at 2006年08月22日 13:10
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