読者からの質問。
【 質問 】
責任者、といふなら当事者であることを期待されても仕方がないと思ひます。
誰に提案し、どのやうな経過をたどつてさうなつたかを書き忘れた以上、当事者ではないくせに、といふ中傷に対して文句を言へないのではありませんか(他のページに書いてあるのかもしれませんが、これだけ読めばいいとあつたので調べてゐません)。
なるほど。たしかに、そういう一面はあります。ITmedia の記事が「JIS委員の南堂氏」というふうに誤解したのは、素人向けには、私の記述がまずかった(不足した)せいもあるでしょう。しかしまあ、私のことを「JIS委員」と思うという発想が、最初からまったくなかったので、そのような記述はしませんでした。
たとえば、民主党の岡田が自民党員ではないというのは衆知なので、彼はいちいち「私は自民党員ではない」と断らずに、自民党批判をします。「岡田は自民党批判をするのは、当事者だという振りをして、けしからん。自民党批判をするなら、自民党員ではないと明示するべきだ。明示しないで批判をするのは、許されん」という非難が出るとは、誰も思ってもいないでしょう。
また、そもそも、私が当事者であろうがなかろうが(あるいはJIS委員であろうがなかろうが)、世間にとってはどうでもいいことでしょう。記事を書く人には「身元を確認する」という程度のことは必要でしょうが、他の人には私の身元などどうでもいいことです。それを知りたければ、別の話題で述べればいいのであって、漢字とは何の関係もありません。(悪口を言うためなら別ですが。)
「誰に提案し、どのやうな経過をたどつてさうなつたか」
この件は、2005年08月16日の記述で、すでに記述済みです。一方、非難は、それよりもずっと後です。ゆえに、非難の時点では、「すでに公開済み」の話題です。
さらにまた、この件で非難したのは、「何も知らない素人」ではなくて、「すべてを知っているJIS委員」です。私が公開するまでもなく、すべてを知っていたはずです。
「素人が何も知らなかったから誤解して非難した」のではなく、「専門家(略字派)が、すべてを知っているくせに、あえて事実を曲解して、悪口を言った」だけです。
ご質問は、二つの点で正しくありません。
「非難したのは、すべてを知っている専門家であった」
「仮に、素人(ITmediaなど)がそれを知らなかったとしても、
単に誤解するだけであり、非難する必要などはなかった」
たしかに、「素人が読み違えた」ことには、私の記述不足があったかもしれません。しかし、記述不足があったことと、非難中傷することとは、何の関係もないでしょう。
さらに言えば、ご質問は、根本的な誤読をしています。
「提案者」というのを、「規格に影響した人間」という意味では、私は当事者です。というか、最大の核心の人物です。
ただし、「提案者」というのを、「JISの委員会で提案した人物」という意味でなら、私は当事者ではありません。なぜなら、そういう当事者は、もともと存在しないからです。
そもそも非難者は、「字形の変更を決定したのは2004JIS委員会だ」という誤解の上で発言しています。しかし実際には、「字形の変更を決定したのは、(2004JIS委員会が発足する以前の)工業技術院だ」となります。例の非難は、誤解の上に成立した非難であり、非難の根拠そのものが根本的に狂っています。なぜなら、「当事者」というのを、「JIS委員会の当事者」というふうに限定した意味で使っているからです。
「字形の変更の決定に関与した」という意味でなら、当事者は、私であって、JIS委員ではありません。JIS委員会は、「字形の変更」が決まったあとで、その細部を詰めただけです。私がJIS委員会を「当事者××するな」と非難するならわかりますが、JIS委員会が私を「当事者××するな」と非難するのは本末転倒でしょう。
こういう本末転倒が起こるのは、「字形の変更を決定したのはJIS委員会だ」というふうに、当のJIS委員が勘違いしているからです。
どうせ非難をするのであれば、字形の変更の提案者について、「南堂ではない」ということの論拠を示すために、次のいずれかの形にするべきです。
「その提案者は、×山×郎(具体名)である」
「その提案者は、多くの人である。あるときその発想が、同時に多数の頭に生じた」
「その提案者は、一人もいない。工業技術院の役人が勝手に決めただけだ」
仮に、1番目または2番目ならば、その人が説明文書を公開できたはずです。しかし、そんな人( or 人々)は、どこにもいません。3番目ならば、誰も理由を示せず、理由もなしにただの思いつきで、字形の変更がなされた、ということになります。これはいわば、「メチャクチャ政府の暴走」という説です。
どうも、世間の人々は、このように思い込んでいるフシがあります。「愚かな政府がわけもわからずに暴走した」というふうに。しかし、本当にそうか? そのことを解説したのが、私の説明文書です。
なお、「愚かな政府がわけもわからずに暴走した」というのが正しければ、私に対して「当事者ヅラをしている」という非難は、成立しません。たとえば、政府または犯罪者が、国民の文化財産を破壊したとき、私が「自分も共犯だよ」と告白したとしたら、世間は何と言うか。「立派なことをやったと当事者ヅラをするな」と非難するか。まさか。逆でしょう。「お前も共犯者か」と呆れて、「よく自首したな」と評価するでしょう。
ともあれ、上の三つの候補を上げました。南堂の意見を非難をするなら、その三つの根拠のどれかを上げて、正々堂々と意見を非難すればいいのです。肩書きの有無を論じるなんて、論争とは全然別の話題での、ただの「足元すくい」にしかなっていません。
正式の試合での勝負に負けた人ほど、不正な手段で「足元すくい」をやるものです。
<おまけ>
世間の人々は、話の正当性よりも、話の当人の肩書きばかりを気にする。……こういう例は、よくあります。
たとえば、上からお達しを受けた下級公務員が、「これはおれ様が決めたのだ。下々のものは、おれ様の命令に従え。おれ様に従わないやつは、やっつけてやるぞ」と威張り散らす。……よくある話。
ついでに言えば、こういう連中が威張り散らしたとき、「親方日の丸」の旗に「へへっ」と頭を下げる人も、たくさんいます。へいこら、へいこら。
「肩書きのあるお上には、へいこらへいこら。肩書きのない下々のものには、非難を浴びせる」
これが、おおかたの日本人の体質です。
こういう人々にとって、議論や論理が正しいかどうかなど、どうでもいいことです。漢字がどうのこうのという話の内容は、どうでもいい。大事なのはただ一つ、肩書きだけである。肩書きさえあれば、すべては正しい。肩書きさえなければ、すべては間違い。肩書きだけで、正邪が決まる。……こういうわけで、肩書きの有無を通じて、南堂批判が起こるわけです。
p.s.
こういう連中が多いから、小泉は独裁体質でも、圧勝できるんでしょうね。
なお、選挙の結果、敗北した岡田は責任を取って、党首の座を辞任すると声明しました。2000JISの略字派は、敗北したあとでも 2004JIS委員会に居座って、あげく、自分が大反対した「字形の変更」について、「字形の変更はおれたちが決めたんだ、字形の変更はおれたちの成果だ」と主張して、手柄を横取りしたがります。……こういうのを、何というんでしょうねえ。当事……いえ、なんでもありません。
p.s.2
ついでですが、ITmedia が私の身元について誤報をしたことの責任は、
「南堂が肩書きを自分で記さなかったこと」
にあるのではなくて、
「どこにも記していない肩書きを、記者が勝手に想像して書いたこと」
にあります。曖昧なら曖昧で、せめて本人にメールで一言連絡すればよかったはず。
一つ、伺ひたいことができました。2004JISの改正では、改正の理由に、表外漢字字体表への適合とありましたが、それは、南堂さんのご発案によりお役所が動いた、或は動いて、表外漢字自体表の発表を切欠に改正したといふことでせうか。
ご面倒でせうが、もう一度ご返答いただけたらと存じます。
私が唱えたのは、「字形の変更は大丈夫」ということです。それまでは、「字形の変更は大トラブルを起こすから、字形の変更はやった方がいいとしても、やってはならない」というのが、常識でした。それに対して、「いや、大トラブルなんかないぞ」と主張したのが、私です。私が述べたのは、文字コードの技術的なことです。
「略字よりも正字を」というのは、基本的には、大多数の国民の願いであり、また、特に影響があったのは国語審議会です。
なお、この方面で私がやったことといえば、「略字侃侃諤諤」というページですが、これは、冗談が多すぎたため、学説というほどではありません。だいたい、「正字か略字か」というのは、好き嫌いの面が多いので、技術的な良し悪しの問題とは異なります。……この方面での私の影響力は、「略字侃侃諤諤」というページの分だけですから、1億分の1よりは多いとはいえ、あまり多くはありません。統計誤差の範囲内に入ります。つまり、無視していい、ということ。